なんとなくいい・どことなくいい

こういった類の言葉「なんとなく」だとか「どことなく」。
あまり推奨されなかったと思うのです。これまでの社会では。
わたし自身、常にそうした感覚を抱くことがあっても、それを公に出すことを極力控えてきました。
言葉としても、ましてや行動においても。
しかしながら、その判断を下したが故に、3回ならぬ4回も失敗を繰り返し、壊滅的に体を壊すという愚を重ねてしまったこと。もう書くつもりはないのですが。
全ては、その「なんとなく」や「どことなく」という「その裏側にある違和感」に対して、もっと敏感になっておけば遠回りはしなかった。
そう、後になってから氣づくものだと分かります。
だから学びになるのだと。人は失敗をして学ぶのですね。
けれども、ここ、とりわけ大切です。
マーカー引いておくとともに、必ず実践するところでしょう。
「もう学び終えたならば」それらに感謝を伝える。
そして、
「もう学び終えたならば」それらから離れます。
(但し、捨て去る必要はないのですね。貴重な体験・貴重な学びでしたから。)
他方。
反対側に位置するエネルギー。
「なんとなくイイ」「どことなくイイ」。
この感覚を、もっともっと突き詰めて行きたい。そんな時代に入ったことを感じます。それは、多くの方々がそうした感覚の発言・発信をなさることで、伝わってきます。
楽しんで、日々過ごしていらっしゃることがよく判ります。
楽しんで、心穏やかに生活なさっていることがとてもよく伝わってきます。
この楽しい・嬉しい。そういった感覚のパワーは、そこに触れた人たちへ伝わるのですね。しかも瞬間に。
科学的に証明が必要だとか、何だ。どうだ。そういった煩いことは要らないと思うのです。
「なんとなくイイ。」
「どことなくイイ。」
この感覚。
もっともっと大切にしたいものです。
でも、そう感じられない時・そう感じられない瞬間には、無理に感じなくても良いのではないかな。とも。
無理にワクワクして、と、やっている人を見るにつけ、とても痛々しいエネルギーが伝わってきます。
そう、そのエネルギーも「なんとなく」「どことなく」です。
この、
論文のようにバシッと起承転結がなくとも伝わる感覚。
その、
化学式や幾何学の証明のように理詰めで説明ができなくても伝わる感覚。
これなのです。
「なんとなくイイ。」
「どことなくイイ。」
そんな感覚、五感を超えた「わたしたち本来の感性」として感じてゆきませんか。
大きな流れが来ていること。もう突き抜けていること。
感じていますでしょう。
恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝しています。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。