階段の上からは良く見える

--階段の上からは俯瞰でき全体像が掴める。
--階段の下からはその先が見極めにくい。
当たり前、と言ってしまえばそこまでなのですが、これ、エネルギーの流れとも関係していると言われます。
水の流れは高いところから低いところへ移動する、とされています。
水という流体が、高--->低 と流れる、あまりにも当たり前すぎるその現象が、極めて重要なことを教えてくれています。
この階段の「最も下の場所」から上を見上げてみても、その階段が何段あるのかよくわかりません。
しかし、
「最も上の場所」から見下ろしてみますと、そこに十数段のステップがあることが一瞬にして理解できます。
数を勘定しようと思えば一段づつ数えればよいですし、見た瞬間にその全体像を把握することができます。
全体像とともに個別の数量(この例では段数)も、上からはよく見える。
こういうことだと思うのです。
そして、
これは、次のように言い換えることもできるのではないでしょうか。
上は、エネルギー総量が高い(=情報量が多い)。
下は、エネルギー総量が低い(=情報量が少ない)。と。
上から見下ろす、上から見下す(みくだす)。
それは、このような別の言葉に置き換えることで、軽蔑したり差別している、とも解釈でき、あまり望ましい使い方ではない。と教えられてきました。
ですが、これも権力者による支配のための洗脳だったのかもしれません。
【上の方がエネルギーは多く高い状態にある。下はその逆である。】
これは単なる「絶対値」を示しているだけだったのではないのでしょうか。
それなのに、上から...という見方・考え方が、なんとなく「よくない」という刷り込みによって、下に存在することが望ましい、だとか、それが「嗜み(たしなみ)」だ。
といったような、美徳意識と混同して潜在意識に固着させられてきたのではないかと感じるのです。(個人的感覚)
そして、何もかも「下:エネルギーの低い状態」に、自分から閉じ込めてしまうような行動を取らせたのではないのかと。
この階段を上がった瞬間にそれを感じました。
下から上へ、上がるにつれてそこに存在するエネルギーが高まり、強まってくることを。
肌感覚で感じることができたわけです。
物理的にもそれは正しいとされていますでしょう?
位置エネルギーは、物理的に高い場所の方が大きいと。
上に上がるために、一歩づつ歩くというエネルギーを費やして上まで登ったのです。
キャタピラの物体を登らせるには、その動力源が必要でしょう。
あるいは、
もし仮に上から下に転げ落ちれば、その位置エネルギーは階段に衝突する打撃のエネルギーや打撃音・摩擦熱などに変換され放出されます。
(物理学そのものもウソだったのか...シリーズだと思いますけれども)
もう本当に何もかもが洗脳だったこと、満腹です。
---エネルギーは、上のほうが高い状態にある。---
当然、例外もあるでしょう。温度による物質の形状変化が考慮されていないだとか、密度による差はどうなっている、だとか。
さまざまな要因によって、それが一律同類にされることが誤りだという論説もあるでしょう。
ですが、そうやって重箱の隅を突いて例外をあげつらうのではなく、
単純に、
上から見たほうが概要は掴みやすい。
下から見上げても全体の様子は掴みにくい。
それをエネルギーの大きさとして感じることもできるのだという体験。少々難解かつ強引な分析かもしれません。
しかし、こうして体で感じることができるように変化してきたことは事実です。
センサーを磨いてください。
その感度をあげてください。
これからの世に必要なエネルギーを束ねるために。ご一緒しましょう。
この場でご縁のあります多くの皆さまとともに、常に強力な導きのエネルギーを送り続けていただく諸先輩方・高次存在への感謝の言葉を忘れぬように。
ありがとうございます。感謝しています。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。