写真を刹那的な消費材にしてはならない

写真は、自らを表現する手段であったはず。どうやら今の時代は、この考え方が変わりつつあるようだ。
この写真のようなシチュエーションでは、丸いボックスの天面は窓からの外光が当たっているためにオーバー気味になり、ラックの奥の影は潰れがちになる。
1ショットの中で、飛ばさない・潰さない範囲(=カメラの持つダイナミックレンジ)は限られているため、その範囲内での調整にはなるものの、ハイライトを落とし、シャドウを上げることで柔かい印象にすることが可能になる。
このプロセスで階調を意識した調整を加えることで作品のイメージを作り出すことができる。
フィルム時代では、明暗差が強いイメージが欲しい場合、反対に柔らかく階調を維持したい場合、と、フィルムの銘柄を使い分けて撮影をしていた。
これは取りも直さず、撮影前(撮影時点)から最終アウトプットを意識して撮影することであり、現在のデジタル全盛時代においても留意しておきたい事項であるはずなのだが、こうした意識を持つことが無くなりつつあるように感じる。
「撮影は楽しく思いを込めて!後処理で何でもできるから。」的なメンタル面にしかフォーカスを当てないセミナーが流行る...。
果ては「一眼なんていらね。スマホで十分。あとはエフェクトで遊びましょ”」という時代...。
何も難しいことを微に入り細に入り考えろ、というのではない。楽しく撮影を楽しみましょ。
だが、文字を通して人に想いを伝えるには「てにをは」にこだわって考え抜くはずだ。また、人前で自分の考えを提案し説得するには、周到な準備をするもの。
自らの表現手段であるずの写真を、刹那的な消費材にしてしまう流れに大きな疑問を感じるのである。