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宮本章光/宮本陽の視点「開闢」And EM Official Blog

みやもとあきらのしてん AKIRA MIYAMOTO@And EM

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「寄って撮る」本当の意味

寄って撮る本当の意味を知っていますか?

「寄って撮りなさい...」
多くの方がそのように教わっていないだろうか?
人によっては、大きな間違いを生じることがある。

私は、同じ内容を伝え指導する場合には「寄って撮る」とは言わず、「四隅を見渡してから撮る」という言葉を使うようにしている。

本来、寄って撮るという言葉の中には「メインとなる被写体以外のものを極力減らす」という意味合いがある。
画面の大半の部分に余計なものが写り込んで、主たる被写体が真ん中にぽつんと小さく写ることを戒めたものであった。

先般、このブログの、「鼻デカ」料理は美味しそう?[ Link ]という記事で、その内容について触れている。

ある程度上達してくると、教科書通りのことをやっていては進歩がない。
ピアノのレッスンで、リズムが正確に取れない初期の頃には、メトロノームを作動させてその動きと音に正確に合わせるよう指導される。
しかし、である。
次のステップに進むと、音楽表現としてはリズムの「ゆれ」や「ため」など、見かけ上ではリズムを規則正しく機械的に刻むこととは正反対の表現が求められる。
ステップアップして表現の世界に入ると、教科書通りやっていたのでは決して教科書を超えることはできないのである。

同じように、基本は寄って撮る!...と、いつまでも唱えているだけでは決して進歩しない。
むしろ、寄って撮るためには広角側を使うことになり、結果として広角域のレンズ特性である強調感(鼻デカ犬風)ばかりが「ハナに付く」!ことになる。

ズームレンズの焦点域、それぞれにどんな特性があるのか?
それを知った上で表現の世界に入る必要がある。
にもかかわらず、万年「基本は寄る...」ばかりで撮影している人が多いのではないか。
更には、先の記事にも書いたが、TVの画面に映し出される映像は「鼻デカ風」ばかりで、ますます嫌気がさす。
モノの形状をキッチリ映すという意識が欠けているように思えてならない。

「寄って撮る」本当の意味は、主題と背景のバランス、それぞれの役割をキッチリと認識すること!であって、最も簡単にその効果を実現するために「寄って撮る」という言葉で表現され指導されていたはずである。
教室や個人レッスンの生徒さんも、この話しをするたびに「目からウロコ」と、口をそろえる。

「鼻デカ風」の絵はアートとしては良いのだろうが、TV画面の中ではもう満腹だ。
「寄って撮らない!」ことで、このシクラメンの存在が際立つし、背景とのカラーバランスも謳うことができる。
少なくとも私の教室にいらっしゃる方には、モノの形状についての意識を持っていただくようにしている。

「何を使うか」ではなくて

道具は使いこなすためにある

大切なことは...
「何を使うか」ではなくて
「どのように使うか」だと思う。

道具は自分の手足となり、また時には声や文字に匹敵する力さえ発揮する。
携帯電話は、音声通話にとどまらずwebへの「どこでもドア!」であり、
コンデジは、写真撮影にとどまらず映像や音声記録の「アーカイブツール」となり、
手帳は、スケジュール管理にとどまらず「思考展開の場」となる。

コミュニケーションを図るには、より高機能を持った電話機でなくてはならない...?
写真を撮るなら一眼レフでなければならない...?
映像を録るなら高価なビデオカメラでなくてはならない...?
イメージを膨らませるには、大きな手帳でなくてはならない...?

形から入る方法も必要な場合があるが、目の前にある限られた道具を使って、いかに高度かつ高付加価値な仕事を遂行できるかが本当の実力なのではないかと思う。
当然、道具の違いによる歴然とした差があり、その道具でなくてはアウトプットできないものがあるのは事実だ。それが求められている場合に限ってはその考え方は必要だ。

○○でなければ、○○はできない。
ではなく、
○○だけれども、○○ができる。
と置き換える。

実際に、私はコンデジでも仕事をしている。
それは一眼レフには出来ない仕事でありそこに価値を創り出しているからこそ代価を得ることができる。
「形から入る」ことは一つの方法として有効だと思うが、「形から入る人」には違和感を感じる。

大切なのは「何を使うか」ではなく「どう使うか」だ。

5D mark2 50mm f1.4 ISO400 絞り優先AE f2.0 -1.0EV

画角の感覚を身につけよう

APS-Cサイズで撮る画角を意識しよう:解禁日後のかにを撮る

かに解禁日を迎えて一週間。
初物をいただいた。

足が一本折れてしまったが、撮影操作そのものには影響はない。
今日のテーマは「画角」。

カメラ位置を基準として左右に広がる角度の大きさ(=画面に写る広さ:範囲)を示すので画面の角度という意味で使われる。

デジタル一眼レフが普及してくると、単焦点を入手される方も増えてくる。
教室でも、ボケや被写界深度の講義の後には、必ずと言ってよいほど単焦点を追加で入手されることが多い。
それは、美しい背景ボケを語るにはどうしても汎用ズームでは無理があるためだ。

ところが、入手し易い「50ミリf1.8」等の「50ミリレンズ」をAPS-Cサイズのカメラで使用すると、画角は75ミリだとか80ミリ相当になってしまう。
メーカーのカタログや取説にも焦点距離は1.5倍や1.6倍相当になる、と記載されている。

これはセンサーサイズが35mmフルサイズ(24x36mm)よりも小さいため、結果としてより長い焦点距離のレンズを付けたのと同じように「画角」が狭くなることによる。
「画角を体で覚える」という過去から重要視されてきたことが、間違った感覚で身に付いてしまうことになる。
50ミリレンズを付けているのに、実際は80ミリレンズの画角を見ているわけだ。

自動車運転免許を取るときに、時速40キロだとか50キロの感覚を身につける。と習った。終始速度計を見ていては、前方を見ることができず大変危険だからだ。

写真撮影では危険を伴うことは無いが、画角のイメージを自分なりに持つことはとても大切だ。
50ミリ単焦点が「標準レンズ」と呼ばれたのはもう過去のことで、既にその言葉を知らない方のほうが多い。
標準と呼ばれる理由は、広角的にも望遠的にも使え、絞りの特性を活かしながら、距離感を体で覚えることができるからに他ならない。

単に、絞りの値だけで背景ボケが決まるのではなく、被写体と背景の距離、被写体とカメラの距離によってその度合いが大きく違ってくる。
また、寄ることによる形状の強調感や、引く(離れる)ことによる望遠レンズ的圧縮感の感覚も体で覚えることができる。
その特性を学ぶのに最も適したレンズであったから「標準」と呼ばれた。

では、35ミリを付けていれば50ミリ(前後)になるので良いのか...?
確かに「見えている範囲という意味での画角」だけは近いものがある。
だがこれでは、35ミリの広角側のレンズ特性が大きく出てしまうため、印象はまったく別物になる。

今頃になって「感性を養う」現場で、APSセンサーサイズの弊害が出てきたのではないだろうか?
私自身もあまり意識をしていなかった。自分がAPS-Cサイズボディで撮影する場合には、フルサイズの画角の中央部分しか写っていない...という切り替えが無意識に行われていたのだと思う。

だが、初めて触れたデジタル一眼レフで、APS-Cサイズと50ミリレンズの組み合わせで単焦点の特性を学ぼうとしている方に、その深い部分の感覚を伝えようとすると「画角があまりにも狭い」ことに改めて気づいた。

5D mark2 85mm f1.8 ISO1250 絞り優先AE f1.8 -2/3EV

出会い

写真教室その出会いに感謝

ワンちゃんたちの視点はこのくらいの高さだと思う。
モノクロの世界だとも言われるが実際はどうなのだろうか?

被写界深度を極端に浅くして背景とメイン被写体との対比を語る...。
構図を考えて撮ってみる...。

反対側からの撮影がより印象的に見える光線状況だったが、イガイガがみえなくなるのでこの位置で。

そんな、屋外での撮影実習。
個人レッスンの方との貴重な時間の中で出会った風景。
カルチャーでの教室とはまた異なった独自のプログラムで進められるメリットは大きい。

写真に対して正面から向き合って取り組まれていた姿が印象的だ。
僅か6回の授業の中でも、楽しみから悩みへの変遷、そして土台を構築した後に見えてくる独自の世界...がある。

一旦教科書を卒業した後は、肩の力を抜いて楽しみながら撮影を続けていただきたい。
伝える立場の者として、なかなかお会いできない素晴らしい方との出会いがまた一つ刻まれた。
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