見て見ぬふりをするのではなくて

人工的に作りだされ自在に方向制御される渦を巻く気象状態。
それを「見て見ぬふり」をせよ、というのではないのです。
備えは万全に。
それも必要なアクションでしょう。少なくとも、この地が物理・物質次元である限りは。
ところが、
公共交通機関の計画運休に関する情報を漁り、それをいち早く自分のアカウントでSNSに流す、あるいはコメントや考察をつけてドヤ、と。
そして人の注目を浴びることを目的に、自己顕示欲を満たす。情報は鮮度が命。自分が一番。と悦に入る。
あるいは、
気象衛星画像を漁り、重箱の隅を突いて「これは悪の仕業だ」「こんなに綻び風も吹かんわ」「陰謀論でも何でもなかったやろ」と叫び踊る。
そして人の注意を引き、自己承認欲求を満たす。自分はここまで知り尽くしてるんだぞ。と、同じくSNSで胸を張る。
こうした行動が、負のエネルギーにシンクロし「結果として甚大な被害を生み出す元」を自分が作り、そこに燃料を注ぎ続けているのではありませんか。ということを伝えたく思っています。
先日の記事で例えたところの、自分で自分の指を切り落とすまで「愚を重ね続けて」いることに氣がつかない地球人。
御神木に参ります。雨が降り出す前に。
参道では、何度も「今日参る意図は?」とカラスに訊かれ、しっかり挨拶を忘れずに返答します。
境内では、虹色に輝き目の覚めるような青色の尾を持つトカゲがお出まし。こちらの足元に寄り付きます。
その美しく輝く姿に、美しい姿を見せてくれた感謝の意を捧げ、拝殿に参ります。
宗教は必要ありません。ここを勘違いすることのありませんよう。
森羅万象、すべての存在に感謝を捧げるための媒体。そしてこの地を守り育てていただける存在への御礼をする場所。
御神木の放つエネルギーを浴び、その波長に合わせてゆきます。
そこには、何ら強烈な感覚の力があるわけではなく、ひたすら「静かで心地よい」穏やかな感触の空間があります。
氣とは、アニメのように歯を食いしばってガァー、と投げ飛ばすような緊張感とは異なるはずです。
大変に穏やかで静かです。
何者にも変え難い「静けさ」こそが、暖かく穏やかな風景を創り上げる、そのエネルギーに響き合う感覚なのだと理解しています。
見て見ぬふりをするのではなく、
自分が何を生み出し、何を創り上げることで貢献できるのかを考えます。
それが行動する、ということではないでしょうか。
2024/08/28(Wed) 16:22:40 | New Age