自分らしさの表現と「自動」や「標準」で満足する世界の関係

「自動」や「標準」で満足する。
良いことだと思うし、誰も否定できない。自分自身が満足している限りは。
また、
現在スマホカメラが作り出す絵は、自動処理の部分で著しい進歩を遂げ、
「撮影者が意図しなくとも望ましい結果となるよう自動的に処理してから保存」
されている点で、画像データを記録する、といったカメラの機能を超えた自動画像処理マシンとしても機能していることはあまり語られない。
かくして、スマホのほうが一眼レフよりも綺麗に撮れる。
という言葉が生まれてくる。
だが、
自動や標準で満足している限り、絶対に「それ以上」の領域に入ることはできない。
なぜなら、
自動処理や標準設定が作り出す部分とは別のところに、自分らしさや表現したい意図を込めることによって、その意図が見る人に伝わるから。
一つの例えとして、
大量生産のお弁当が悪い、とは言わないけれど、
その「標準」をターゲットにした味付けや食材・料理方法は、あくまでも「標準」であって、自分好みの味や、盛り付け、それに食する時間帯、その環境など、自分らしさを盛り込んで食事を楽しむ要素は他にもいくらでもある。
自分らしさの表現、
とは、自動処理を超えたところに見出す、自分自身の感覚や感性と、その「大きな変化ではなくとも」コンテンツ提供者の意図を感じ取る、受け手側の感性との波長がマッチした時に生まれるものではないだろうか。
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2020/02/08(Sat) 11:07:47 | photo blog