先に上がった人は多くを語らず

喧しい・煩い、そんな自己顕示欲の塊と化した「言葉」はノイズにしかならず。
こうした世界が実現しつつあるように感じます。
階段は、自分自身が上へと登ってから初めて「下が見える」という事実。
上がる前には、その先:上は、決して見えることがないという仕組み。
だからこそ、
「それ以前の自分が歩んできた道・階段」を眺めたならば、その段階の学びの道を歩む人たちへ暖かい波動を送り続けます。
まして「自分はこんなに上に上がっているんだぞ」的なアピールや、「ほら私の言う通りでしょ。ずっと前から言ってんだから。」的な発言は、恥ずかしさ以外の何ものでもないでしょう。
わたしは、社会人となった時点で、最初に感じた大きな違和感がここにありました。
「アピールすることこそ実力である」
「声を大にして語るのはひとつのスキル」
そして、
「経験・勘・度胸」が社会人として一人前になるための資質だと叩き込まれたのでした。
今にして思えば恥ずかしさの極みです。
馬鹿馬鹿しい。
いえ、
これまでの社会では「そうだった」のですから、あながち間違いではなかったのでしょう。
それに「勘」をその中に含めていたのは、ある意味では先見の明があったとも捉えられます。
でも、それはもう昔の話。
これからの世では、そんなチープなアピールなど必要ではないはずです。
同じ波長・同じ周波数は見事に合致し響き合います。
やかましい、自己顕示欲まる出しのデカイ声など、自身が陳腐なレベルだとさらけ出しているようなもの。
静かに「響き合う感覚」。
その感覚こそが、これから必要とされているもの。
その感覚こそが、心の中で「次の世を創造する」ための根源になる力であること。
先に上がったからこそ、上がった人は多くを語る必要がありません。
先に上がったからこそ、さらに・もっともっと上の存在に意識が及びます。
俺が俺が!...な、発言は不要であるとともに、ノイズにしかならない時代を迎えました。
「おとな」は、黙って「こども」を見守ります。
但し、物理次元地球の歩き方を逸脱することはできませんが。

わたしが感じた心、
「その一枚の中に込めた心」を受け止めていただける方々と、肩を張らず、ともに心から響き合える感動を共有してゆきたいと思っています。
それが、望ましい未来を創り上げる方法だと思うからです。
数を追い、人と比べる必要性。
それらを捨てたときに、初めて見えてくる風景を。
わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。
2023/11/04(Sat) 20:30:31 | New Age