因果律・それは「根性論」とは異なる

どことなく、なんとなく。それでいい。流れに任せて。
と語られますと、途端に「怠惰」に陥る。
過去に蓄積しすぎ首が回らなくなった因果を解消せねば。
と伝えられますと、それは根性論か。もう終わったやろ。と跳ね返る。
何を選択しようと、どの道を進もうと、自由に違いありません。
ただ、
誤った認識は、誤った結果を導くだけかもしれません。
ここは「物質次元・物理次元地球」であるが故でしょう。いつもの「物理次元地球の歩き方」からは逃れられないので。
もちろん、この先の展開を見極め、違うレイヤーに引越しするのは必須の行動には違いありません。
原因があるからこそ結果がある。
その原因が、激しく負の方向に偏り、膨大に溜まってしまった結果として、今の目の前の風景が生じている。
その原因と結果の大原則、大法則は、人の意識で変えることができないもの。
これだけは確かだと感じます。
ところが、それと同じ感覚かのごとく取り違えて、
世の中甘くない。苦あれば楽あり。苦労してこそ生きる価値がある。といつまでもやってしまう例えに結びつけてしまう。
それ自体は、ある観点からは間違っていませんし、学びのプロセスとしては有効でした。
ただ、
それは、学習済みなのでもうこれからは必要ありませんよ。というフィールドのお話ではないかと思われます。
それなのに、
因果の話しになると、同じ土俵で論議をしてしまう。
原因により生み出された結果なのだから、それはすべて受け止め受け入れなくは、ニュートラルに戻れないわけでして。
その苦しさを、苦あれば楽あり・根性論で乗り切るのか!ってな感覚で捉え、もう終わったんだから捨ててしまえばいい!
と、ごちゃ混ぜにして語ると大きな誤りをしてしまう可能性があるのではないかなと。
原因に対して結果がある。
それは物理法則に通づる大原則・摂理のお話。
片や、
成長過程で用いられた学習教材なのにもかかわらず、この大原則と同じものとして扱い、もう学習済みなんだから、そんな因果など関係ない。根性論はこれからの世界には要らねえんだ。
と、またまたやってしまうのです。
逆説的に聞こえるかもしれませんが、
必要以上に苦しむ必要などまったくないのであり、因果の大きさだけバランスする法則そのものが語られています。
言葉の上で何もかも混ぜこぜにして一緒にするところに理解の至らなさがあるかもしれませんね。というところでしょうか。
ということで、ここまで導き出されたのなら、きっぱりと離れます。
無限ループな負のサイクルに自分から捕まりにゆく必要などありませんので。
この波長に意識が合致している限り、どんどんその沼にハマって行きます。
逃げるが勝ち。
そんな言葉もこの国にはありがたく存在しています。
不要なエネルギーには触れない。
それが、いまの大混乱、大転換機には、ある種の処世術として身につけるべきスキルかもしれません。

わたしが感じた心、
「その一枚の中に込めた心」を受け止めていただける方々と、肩を張らず、ともに心から響き合える感動を共有してゆきたいと思っています。
それが、望ましい未来を創り上げる方法だと思うからです。
数を追い、人と比べる必要性。
それらを捨てたときに、初めて見えてくる風景を。
わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。
2023/10/14(Sat) 20:26:06 | photo blog