考えていることが実現する次元での会話は

思っていること、考えていること。
それがそのまま実現する、そんなことが本当に起きるのだろうか。
そのように疑ってかかるから、いつまでも起きない。
いえ、必ずおもうままに起きるのだ。と意識すればそれが現実になる。
そんな社会がやってくる、と伝えられています。
いつまで夢物語に浸ってるんだか...と馬鹿にする人にとっては、それは永遠に夢物語にしかなりません。
そういうことなのです。
もう大丈夫でしょう。
考えること、意識していること。それを自分自身が創り出しています。
但し、何度も何度も書きましたが、必ずタイムラグがあるのです。
いま、そのタイムラグが短縮されてきています。もうすでに現時点でその体験が実現しているはずです。
これが、さらに短くなってゆく、と伝えらています。
いままでの世の中、特に日本と日本語の文化の中では、あえて逆の言葉に包んで語る、といったような「謙遜(けんそん)の美学」あるいは「謙譲語(けんじょうご)に示す敬意」などが存在していました。
贈り物を「つまらないものですが...」と差し出すのは、海外では理解されない表現方法だといわれました。つまらないものを相手に渡すなど、本来あってはならないはずだから。という解釈です。
ですが、この場でこの文章が読めて理解できる方々にとっては、その意味を何ら誤解することなく理解できるはずです。
それは、へりくだった言葉によって敬意を表現している、その部分に込められた意図が判るからでしょう。
この素晴らしい日本語の言葉と文字によって表現される言霊の持つ力は、うまく活用されその波動が共鳴する限りにおいては大変に強力なエネルギーを発揮します。
しかし、
その使い方を誤ると、ネガティブ方向に一氣に波動を下げてしまいます。
これから拡大し発展してゆく新しい地球、新しい世界では、この言霊の持つ威力を「意識」というエネルギーに託すことになる、とされています。まだ先のことかもしれませんが、究極の姿は、言葉ではなくテレパシーのように意識がそのまま意思疎通の手段になる、といいます。
すると、
言葉が示す意味がストレートに表現される(されてしまう)のでしょうか。非常に興味深いところです。
つまらないものですが...と差し出す贈り物が、本来は尊敬を表し、自らをへりくだった控えめな表現だったはずなのに、意識によるコミュニケーションが実現すると、つまらないものですが...と語った時点で、その贈り物はつまらないものに成り下がってしまう可能性があるのかもしれません。
いえ、どのような展開になるのかはまったく予想もできないのですが、理屈の上では。です。
似たような事例は日本語では特に多く、本来は敬意と謙譲の奥ゆかしさであったはずの文化は、過去のものになるのでしょうか。
さらに、同じく逆の言葉に包むことによってコミュニケーションをスムーズにする役目を果たしていた関西圏の言葉は、どのようになるのか想像がつきません。
「アホやから解らんわ。」というと、自分には少々難しいんですよね。という円滑な会話の手段だったその言葉が、「アホであり理解不能。」という明確な意志表示になるのか?あるいは現在の言葉のように、スムーズな会話の潤滑油として作用することになるのか?
(その微妙なニュアンスそのものさえも、意識として伝わることになるのだ、と勝手に予想していますが。)
これからの先の次元でのコミュニケーションがどのように進化するのか、興味は尽きません。
望ましい近未来を明確に描いていますと、このような一風変わったところにも関心が湧き出してきます。
ポジティブベクトルを維持し、今から楽しみを膨らませながら、ともに創造してゆきましょう。
【直前記事】
◆結果が出せないなら選別対象です
【前々記事】
◆自由には責任・行なった結果には因果応報
2021/04/24(Sat) 20:56:37 | New Age