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宮本章光/宮本陽の視点「開闢」And EM Official Blog

みやもとあきらのしてん AKIRA MIYAMOTO@And EM

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重すぎる「人の念」から離れるため

華麗に煌びやかに photo 宮本章光

これまで眠っていた感覚を取り戻してゆきますと、極端に「重すぎる」人の念を感じることがあります。
そこに周波数が同期する瞬間がはっきりと認識できます。


微妙にずれているのは幸いでしょう。
けれどバチっと合致してしまいますと、息苦しく圧倒されます。

その違和感が「どのような存在」なのか感じてみることも、時には必要でしょう。
特に強烈なものは自己顕示欲の類。ドヤドヤ...すげーやろ!の延長線上のエネルギー。
押しが強すぎて目を逸らす感覚。
似たようなものばかりがSNSには溢れているように見えます。

ここまで強くなくても、自分にとって悪影響が少ないと思われるものに意図的にアクセスしてみます。
自分がいま維持している波長と「異なる」ものに触れてみることで、その「差異」を感じるために。
すると、
そのズレ具合...とでもいうような「量」が見えてきます。

音楽に携わっている方々にはよく理解できるのではないでしょうか。
調律・チューニングの作業と似ています。
基準となる音(多くの場合A音)に「持ってゆくために」どれだけの操作で合わせるのか。
その「動かし具合」の物理量の感覚です。


この物理量と似たような、自分の波長と対象が持つ波長との「差異」を認識できれば、それがハーモニーを醸し出す可能性があるのかどうかを感じてみます。
音の場合には、絶対に合わせねばハーモニーは生まれませんが、心の波長の場合には、そのズレによって「現在地」を客観視するための材料となる場合も多いように思われます。


まったく同じ周波数でなければ...、と完全同期だけを追求していますと、いずれモノトーンだけしか手に入らなくなってしまいます。以前にも少し触れたように思います。
そのため、
「どの程度許容できるか」「ズレや不協和音が新たな表現となる可能性」について感じてみたいのだと。

こうした「差異」を感じる練習をしていますと、
もちろん上記のように突然クリエイティブな世界が見えることもありますが、それよりももっと大切なことに氣がつきます。
それは、
「完全にズレている波動」
「極端に違いが大きすぎ悪影響しか及ぼさない」
といったエネルギーに対して、瞬時に離れることがができるようになることです。


幼児が、熱い鍋に触れると火傷しそうになって瞬時に手を離す。この動作を獲得するのと同じでしょうか。
悪影響を受けることが確実なエネルギーに対しては、瞬時に感じ取って離れる。これ一択です。

触れ続けるとやけどします。モノによっては取り返しのつなかい大火傷になります。
同じように、この感覚が麻痺しているために、自らの心が「蝕まれて」いることさえも認識できず、負の波動に同化させられてゆきます。
この状態が、負のエネルギーに憑依されている状態。
本人は一切氣づかないのです。
氣がついたときには、もはや大火傷で生命に関わる。そんな状態と同じ例えです。


重すぎる人の念。
確かに存在します。単に周波数がズレているだけではなく、まさに悪意を持って放たれたものが。
こうしたものを「無きもの」として扱ってきたこれまでの世があります。
しかし、
それが結果として悪の病巣が全身に廻ってしまい、いずれ命を落とす例えのように、それを(悪意を持って故意に)狙ってきた存在があったことは、すでに隠しきれなくなってきました。


そして、ここでもう一段の成長が望まれます。
その悪意のエネルギーに「いつまでも自分から合わせ続けない」ことです。
けしからん!悪よ滅べ!こんなに悪いことしかなかったんだ!騙されてたんだ!
と、
そんなエネルギーを維持しているのは自分自身なのです。よって、自分の世界は永遠にけしからん!世から変わりません。


二元性・二極化の世を体験するのは、その対極にある波動を知るための教材でした。
と、ここまで学べたのなら、
この先には「自分はどちらを選びますか」というところが重要なのです。

重すぎる人の念。悪意のある念からは、離れるそれ一択しかありません。
--悪事を知ることで世の中変えるんだ!
--知らない人に伝えることが世の中を変える秘訣だ!
などと叫ぶのが、いかにビギナーすぎる行為だったことか、もう理解できたはずです。

であれば、
望ましい波長だけを選び、それを拡大・維持してゆくことを大切にしたい。

数日前にも記しました。
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詰まるところ、
お花畑...と、これまでは横目で蔑んで見下されてきたような、そんな心地よく暖かい氣持ち。そんな穏やかな心。
これを維持することが、最短で望む世を創り上げる方法だったのです。
人間の体をお借りしながら、心は猫として生きる道が最適解だったと頷きます。
-----
【「自分を忘れ去った」地球の大人たちへ】2025/05/20(Tue) [Link]


喫緊の課題は、
大火傷するような負のエネルギーに触れ続ける真似はせず、離れ、そしてその次に、望ましい波長を生み出し・維持することです。



【Scrapbox(Cocense)版】
https://scrapbox.io/akiramiyamoto/




会話するエネルギー

会話するエネルギー photo 宮本章光

異なる種類の樹々。
それぞれ、生まれた時期も異なるでしょうし、成長の度合いもさまざまです。

彼らは能動的に移動する能力を捨てた代わりに、人間には到底感じることができない二十種を超えるエネルギー波動によるコミュニケーションが可能だと言われます。


---単に向き合うように構図に入れただけやろ!
---広角で撮ればそういう感じに見えるもんや!

物理次元・物質社会で強烈に凝り固まり、心の触れ合う感覚を忘れ去った人間たち。
こうした発想でしかモノ・コトを感じることができない旧い時代の人間たち。


わたしたちが、この先に望む道では、
五感や六感どころではない、驚異的な種類に及ぶ数多くの会話の周波数に、僅かでも触れることができるよう「自分を磨き上げる」こと。

彼らの波動を伝えられるよう、この場にアーカイブし続けます。
ともに歩みを進められるよう、この場を通してシンクロ体験を積み重ねてゆきます。



【Scrapbox(Cocense)版では画像リストとしてご覧いただけます】
https://scrapbox.io/akiramiyamoto/

輪廻の感覚に触れてみる

輪廻の感覚を感じてみる photo 宮本章光

この地においては、すべての生命は永遠ではありません。
けれども、一つのサイクルを終えるとともに新たな実体へと生まれ変わるのでしょう。

輪廻転生の考え方。
物質至上、唯物主義のこれまでの発想では、この輪廻の考え方そのものが否定されてきました。
しかし、もはやその時代が終わったことが判ります。

森に息づく生命にフォーカスしてみます。
形を変え時代を変え、その生命は永遠に続く。と説かれた輪廻転生の思想とそのエネルギーに触れてみます。

ここに、その周波数に合致できる方々に、感じ取っていただけるものと思っています。



【Scrapbox(Cocense)版もどうぞご覧ください】
https://scrapbox.io/akiramiyamoto/


「自分を忘れ去った」地球の大人たちへ

朽ちた樹木から伝わるもの photo 宮本章光

自分探し。
そんな言葉が一時注目されたこともあったように思われます。

探しても見つからないでしょう。
自分は自分で、ここに存在しているのですから。
探さなければ見つからない。と思い込んでいる自分がそのように作り上げているだけだと氣がついてないわけです。
ここに固着していると、まるで絡まった糸のように、もう解くのは無理かもしれません。


そもそも「よい子ちゃん」で居ることを強制された時点で、そこに染まり切ってしまった自分に氣がついていない。
幼児期から小学生頃までの7〜10年間。
親の言う通りに、そして先生の言うとおりに「よい子ちゃん」として生きることを強制した教育という洗脳。

(わたしは一旦これをやって突き詰め、次に過ちに氣づき、そして再び失敗を繰り返したこと。この場でも数多く綴ってきました。)
【参考】[Link]「生後21,916日めに思う」2023/05/28(Sun)

それが正しいこと、それが良いこと。
そのように何の疑いもなく大人になり、そして年老いてさえ、いつまでも「よい子ちゃん」で居続ける。
人の目を氣にし、人の評価に腐心して生きる。
それが良いことだと、一生涯信じ続ける。
自分はこれほどまでによい子ちゃんなんだぞ!とアピールすることが美徳だと信じきっている哀れな姿。

この5年間で学んだはずです。
人の言う通り、人に合わせることで、生命まで失う人たちが身を持って教材のごとく示してくれたことを。


自分を探すとは。
こうした「よい子ちゃん」で居続けることに疲れてしまった、本当の自分:魂レベルからのアラートだと理解をする必要があります。
他方、
その道のビジネス戦略にハマってしまいますと、嫌なことはやらない・人のことは聞かない、自分勝手に生きることが正しいのだと「大きな勘違い」をしてしまう人も多数。
これまた、その道こそ真実だと信じきっている、教祖様を崇める宗教と同じ惨めな姿。


人は、何か分類をしてラベルを貼りたがります。
イイものワルもの。まさにこの最たるものでしょう。
光だ影だ、あちら側だからけしからん!悪よ滅べ!と、いつまでもやっている人たちが減らないのを見てもよく判ります。


では、分類をやめてラベル貼りを止めれば、それで終了でしょうか?
ジャッジしない。それが正しい。と?
いえ、落とし穴はそんなに浅くないのです。もっと限りなく深く、一旦落ち込むとまさに底なしではないでしょうか。

この場で、ずっと継続してご縁を繋いでいただいている方にとっては、もはや耳タコでしょう。
この深い底なしの穴から這い上がり、V字回復するために必要なこと。

それは、
「自分で創ること」。
ここが抜け落ちたままです。


自分で創るとは、心からエネルギーを生み出すこと。
自分でフォーカスする周波数を厳選し責任を持つこと。
そのためには、
望ましいエネルギーを認識できることが大前提にあります。
よい子ちゃんでいることが完全に誤りであったと認識するレベルは、エントリーシート提出以前の朝飯前基本スキルでしょう。
そして、
そのためにはセンサーを磨き上げるプロセスが不可欠です。

磨き上げるには、ポリシングクロスでごしごしやるのと同じく、口にするもの二つ「言靈と食べ物」を劇的に変更して磨き上げねばなりません。
このプロセスなしにピカピカに光輝くことはあり得ません。当然時間もかかります。
過去の記事でも、嫌というほど綴ってきました。
いつまでも青牙イヤフォンを耳に挿し、スマホ片手にジャンクフードを口に放り込むような生き方を続けている限り、この初等プログラムを終えることは決して叶いません。

また、不要なゴミを一切合切捨て去る必要があります。
それは物理的にモノを捨てるという意味ではありません。断捨離したから大丈夫、と思う氣持ちがそもそも誤っていることに氣がつかないのです。
心のゴミを捨てる。
ここが理解できなければ、もう先に進めません。


ここまで聞くと、キミは奇妙な宗教に犯されたアタマの狂った奴だ。
と感じることが大半であると思われ、それは、そう感じる心を維持している自分自身の未熟さを認識していない状態。
そんな低レベルで、くだらない洗脳に侵されていたんだな、と、自分の心を俯瞰できない時点で、同じくここで終了。先に進むことは不可能です。
すでに数多く語られているとおり、石ころからやり直してくだされば。どうぞお元氣で。


これらをすべてクリアしてきますと、明快に感覚が復活してきます。感じられるようになります。
自分を探す必要などまったくなくなります。
同時に、
唯物主義、物理物質次元的な、モノ至上の世の中が崩壊している状況が手に取るように理解できます。
この点だけは聖書の通りでしょうか。
大淫婦バビロンが滅ぶ、とは、まさにこの貨幣経済・資本主義社会の崩壊を示していることに異論はないでしょう。

この時点で宗教洗脳を卒業できない層は、
エゼキエル戦争が起き、続いて再臨、あるいは携挙、それに大患難時代が「発生しなけばならない」と、やってしまうのです。

それは、そう信じきっている人々の心が生み出すエネルギーが集合体になって、わたしたち自身が生み出すことに氣がついていません。
同じく、彼らもここで足踏み状態、一切この先に進むことができません。
聖書とは、その昔、この地に降り立った高次他星系存在が、二千年ののちに「地球人が自分たちの集合意識によって道を作り替える」ことができるんだ、と知るための教材として遺してくれたのかもしれません。
ですから、預言の通りになると思っている限りその通りになりますし、そうではない未来を自分で創ろうではないか!と一念発起する人たちが増えると現実が異なるタイムラインに変更できるんだと。自分たちが自分で創り上げることを学ぶための教科書だったのではないのかなと。
そう感じています。

7月大災害がやってくる...云々も同じ。
そう思う心が束ねられて、わたしたち自身がそれを現実にしてしまうのです。

甚大な災害はもうこの国においては発生しなくなっています。
それは、そういった負の力にフォーカスしない「どうでもいい・眼中にない」そういったポヨンな人たちのエネルギーが、それらを無いものとして上書きしてくれていること。何度も綴ってきました。
それなのに、
自己顕示欲・自己承認欲求のまま、話題性があるから、と、いつまでもその負のエネルギーを焚き続ける愚を繰り返す。
彼らも、この段階で終了。この先一切進むことができません。
アミの小説のように、山に逃げた人たちが救われない(自分たちだけが良ければそれでいいという感覚)のと同じです。ここに氣がついていないので終了です。


テストは永遠に続きます。
疲れてしまいました。でも取り組む以外に道がありません。
もういい、やめてほしい。
しかしそう思っていると卒業できないぞ。という教えもあります。けれどまたまた、これが教祖様の洗脳だと判ります。

もういい、と思うのはその時の感覚であって、それをストレートに正直に感じればいい。
これをやめるように、臭いものにフタをする癖が、結局自分を感じ取れなくしている、自分自身が掘った落とし穴。
そこに自分で落ちて苦しむのですから、これを観察している他星系の存在はため息も出ないでしょう。


いまどのような感情であるのか。
いまどのようなエネルギーにフォーカスしているのか。
これを正直に感じること。
ここまで長い旅を続け、ようやく辿りついた人たちが取り組むファーストステップでしょう。

ここにフタをしない。
けれど、それを長くキープしない。
続いて、望ましいものを生み出してゆく。

そんなこと分かりきってんだよ。そんな単純じゃないから苦しんでんだよ。
などと叫ぶ声が聞こえます。
しかし、それとて、自分が「ホラーハウス地球」をもっともっと楽しむために、勝手に生み出しているクセだったと氣づく必要があります。


詰まるところ、
お花畑...と、これまでは横目で蔑んで見下されてきたような、そんな心地よく暖かい氣持ち。そんな穏やかな心。
これを維持することが、最短で望む世を創り上げる方法だったのです。
人間の体をお借りしながら、心は猫として生きる道が最適解だったと頷きます。


あらためて極々ビギナーレベルからの道筋をトレースし、復習記事としてみました。
一人でも多くの方々がここに到達し、この先の世をともに創り上げる仲間として歩んでいただけますように。

「自分を忘れ去った」地球の大人たちへ。





森の息吹を取り込む・不協和音が新たな響きに

呼吸を整え森の息吹を取り込む photo 宮本章光

人混みで、不要な波動やノイズにまみれてしまいますと、自らの波動が乱れます。
頭痛や体調不良に陥ります。

異なる周波数は不協和音でしかなく、そこにシンクロは実現せずごちゃ混ぜのゴミ箱の様相を呈します。
すべては固有の周波数を持ったエネルギーだと体感する瞬間でもあります。

しかしながら、不協和音を新たな芸術の手法とする表現があるように、異なる周波数を取り入れてみる試みは無駄にはならないでしょう。
新たな感覚として受け入れてみますと、そこに味があるかどうか、瞬時に「何らかの感触」が得られるはずです。

他方、まったく味がない。そういった感触となるケースもあります。
これは、何の感触も感じない状態。
まさに、束ねることによって新しいエネルギーが生み出される可能性がゼロに近いのだと、こちらも瞬時に理解できるはずです。


いま、感覚的なもの、これこそが所謂精神性の拡大だとされていますが、こうした感触に対して多くの人たちが理解を示しつつあります。
これまでの世では、こうした感覚について話しますと、途端におかしな輩、狂ったアタマの奴、などとされてきました。
わたしの同世代は、そうした人たちが多かったように思われます。
けれども、唯物主義、物質一辺倒の世が終わりを迎えるとともに、こうした感覚の世界が飛躍的に拡大しています。


ここで氣がつくこと。
それは、
単に「異なる周波数だからNG」という単純な分類ではなく、上記のように不協和音であっても新たな芸術となり得るように、異なる周波数が「束ねられて美しく新たな響き」となる事例もあることです。

森に入りますと、さまざまな存在が独自の波長でエネルギーを放出している様子を感じられます。
不思議なことに、それぞれが異なる周波数なのにも関わらず、見事に響き合っている状態が伝わってくるのです。
なるほど、
不協和音は、受け入れられないノイズである場合と、新しい響きとして創り出される場合と、両方存在するのだなと。


人混みに紛れてしまいますと、この「受け入れられないノイズ」に苛まれます。
ものの数十秒で頭痛がやってきて体調不良を感じることさえあります。
しかし、
森には、異なる周波数が「新しい芸術を生み出す」ように、大きな可能性を齎すことを体感します。

フォーカスすべきは後者。
物質次元的な、そして二元的な、単に線引きだけしてOK・NGと分類するのではなく、新たな可能性を探るべく森の息吹に触れる必要があることを感じます。
そしてその体験こそ、この先の世に必要な感覚であることも。




ともに生きる世へ向かう感謝の心

ともに生きる姿 photo 宮本章光

崖と山道を隔てる朽ち果てた木。
そこに息づく数多くの生命存在。


多くの人たちは、目もくれず黙って通り過ぎて行きます。
手元のヤマレコやYAMAPアプリに注視するばかりで、先を急ぎ時間に支配されている姿がアリアリと伝わってきます。
規定ルートをトレースすれば、過去最長だとか過去最短時間、だとかSNSにあげて悦に入る。

何のために山に入ったのでしょう。
アプリに踏破記録を残すため?そしてSNSで注目を集めるため。でしょうか。
ここでも、結局は自己顕示欲と自己承認欲求を満たすばかりで、自然の波動と共鳴しあう体験が二の次になっている様子が非常に残念です。
ええ、まだ都会のど真ん中で、体によくない食べ物・飲み物を口にしながらSNS/webに釘付けになっているよりは、何倍も望ましい行動には違いありませんが。


物質物理実体の賞味期限を終えれば、お土に還り、新たな仲間へその抜け殻を提供してゆく。
この輪廻。この循環。
遠大、且つ深淵な時の刻みがこの足元で繰り広げられていることに、あらためて感激と驚きを感じます。
そして、ここに感謝の念が湧き出します。


このところ山道で出会う・すれ違う方々。
このようなアプリに支配されてしまっている姿とともに、この場の空氣感や自然(じねん)の波動に共鳴してみよう、といった感覚を持つ人たちが急激に減少しているように見えます。

市街地至近の場所であっても、千メートル近い高さまで自分の足で登ることであり、その高さから街を眺めるだけでも別世界の感覚を得られます。同時にその体験ができるのは、お借りしている体があるから、という点にも礼を忘れず。
何より、
自然の波動は強力でありながら、大変暖かく広く穏やかな懐を提供してくれていることを実感し、ここにも感謝が溢れます。


貨幣経済は、わたしたちが「終わらせる」必要があります。
そして、そのために「行動する」必要があります。
他国の大統領が行うのではありません。くるくる詐欺をやっている人たちは、いつまでそのループにハマったままでいるのでしょうか。自分はくるくる詐欺ではない!と叫んでいる時点で、まさに「善の仮面を被った悪」に落ちぶれていることに氣がついていない末期的症状。
すべてはエネルギー波動なのです。フォーカスするもの・対象に合致したエネルギーが、この世では時差を経て顕現化してゆきます。
これが仕組みであり例外はありません。


終わらせる、とは、悪しき旧い波動にフォーカスせずに、自然(じねん)と調和し共生するエネルギーを生み出してゆくことで、その周波数のエネルギーを束ね拡大し、臨界点・閾値を超えることによって望ましい世を顕現化させてゆくこと。
同じく、
行動する、とは、デモに参加することでも悪よ滅べ!と叫び踊ることでもなく、心からこうした波動を生み出してゆくことです。
結果として、穏やかでありながら強力で望ましい波動が生み出され、そこに感謝が満ち溢れます。

これを「何もしていない!」と批判するのは、物理実体を使い走り回ることだけを行動だと解釈している証であり、その唯物主義的で未熟な狭い精神性では、この世を脱し新たな世に入ることなど叶うわけがありません。


まして、
貨幣資産をもっと多く手に入れて幸せになろう、などと毎日感謝感謝と念仏を唱えることではありませんし、そうして「フォーカスしている先」のエネルギーにシンクロしている自分自身が、結果として「いつまでも古き悪しきエネルギー」を増幅し続けてしまうのです。
これを善の仮面を被った悪、というのではないでしょうか。


ともに生きる生命存在と、
そこに共鳴できる体験と。
そして、湧き出す感謝の波動を大きく拡大してゆきます。
この先に望ましい道を切り拓くのは、この方法しかありません。




自分ができる「得意」を積み上げる

草木と昆虫と photo 宮本章光

イヤイヤ働く。
金のために。
生きるために。

そんな時代が終わろうとしています。

それなのに、その無理矢理に強制された仕組みに、あろうことか「自分からしがみつく」。
怖いから...。
生きてゆけないから...。

果たしてそうでしょうか。
自分がそのように考えるから、自分で生み出しているだけでしょう。
必ず他の道があるはずです。


恐怖に基づいた世の中、そこに依存しなければならない世でした。
故意に作り上げられた仕組みでした。

恐怖から逃れるために、その恐怖を「取り除く」「軽減する」役務を作り出し、そこにカネを生み出し、上へ上へと蓄積されてゆく仕組み。ピラミッド構造の最上部だけがその恩恵に預かる。
その一つ、好例としては、
何も無いところに恐怖の種となる病を生み出して、そこから逃れるために治療という名の行為と薬という名の石油由来・魔法の粉/液体を提供する。
そんな仕組み。

そのベースになる貨幣経済。
それがないと生きてゆけないと教育段階から洗脳し、実際にそうならざるを得ない世を作り出す。
そんな仕組み。
もういいでしょう。


アタマでは理解できたことかと思います。
でも、それを「終わらせる」のは、わたしたち自身だと理解できていません。
終わらせるとはどういう意味でしょうか。

どこかの大統領が世の中を変えてくれる。と、流れが変わるのを待ち続ける。わくわくして。でしょうか。
ええ、
確かに世の中を変える「きっかけ」は強力に生み出しています。否定できません。けれど、そのあとに「望む風景」は、自分で描き出さねば、決して生まれてきません。

ここが抜け落ちています。


廃墟になった建物を撤去して更地にしてくれるところまでのお役目はあるでしょう。
ぶっ壊し役だから...、などと語るのも間違っていません。いかにも評論家氣取りで。もうそんな役目も要りませんから。
でも、
更地になったところへ、どのような建物を建てますか?あるいは畑として耕しましょうか?
その青写真・ロードマップ、シナリオは自分で描かねば、誰も書いてくれません。

もう、崩壊する旧来の世が行き着く先は確定しているわけです。
そこにいつまでも浸っていても、一緒に滅亡するだけ。
判っているはずなのに、このタイムラインから脱出しようとしないのはどうしてですか?

脱出する=その先を自分で作り出す。
ではないのでしょうか。


では、くるくる詐欺をやる人が叫ぶように、明日から世の中がガラッと変わったとしましょう。
で、自分はどうやって生きてゆきますか。
途端に恥ずかしいだけの存在に落ちぶれてゆくのが目に見えていますでしょう。
会社のバッジは役に立ちません。会社の看板も歴史も何もありません。

あるのは「自分」ひとり、その存在だけです。
その日を見据えて、自分を磨き・高めてきた成果がここで花開きます。
会社に忠誠を誓い心身ともに捧げてこられたのでしょう。しかしそれは、会社社長になり貨幣資産を築いたまでは良かったでしょう。そういった旧いレイヤーがあった時代には。
けれど、もうそのタイムラインは終了したのではありませんか。
そして、
この先に歩むタイムラインにおいては、膨大な負の因果を重ねただけだったことに腰を抜かして立ち上がれなくなります。


何ができますか。
何を・誰に提供できますか。
あるいは、
ひたすら「猫として生きる(例えです)」ような道もアリでしょう。
穏やかに、一切の負の波動を生み出さないという時点で、現在のどの人間よりも優れているのは確かです。


会社に在籍している時点で、最も高いハードルがここにありました。
わたしの場合は、病床で一週間の空白と思考の時間を与えられたのが幸いでした。けれど、忙しい忙しい、と走り回るだけの人たちには難しいかもしれません。
逆に言えば、その程度の課題さえも乗り越えられないのなら、やはり、初等教育から最低でも25,800年サイクルはやり直し学び直しをするのが良いとも感じます。
それも無理なら、なるほど50億年間イノシシに糞尿を掛けていただいて岩石からやり直すのが必要なのだと頷けます。


自分は何ができますか。
自分は何を・誰に提供できますか。
単に、忙しい忙しいを口癖にして、そんな超ベーシック課題にさえ取り組もうとしない。
なるほど、身魂相応とはよく言ったものです。

自分にできることを、同じ波長で共鳴する人たち・仲間の生命とともに取り組んでゆく。
そうやって伸びてゆこうとする「氣概」そのものが、シンクロし束ねられて、新しいエネルギーとしてこの地を具現化してゆくのです。

繰り返します。
自分は何ができますか。
自分は何を・誰に提供できますか。

自分ができることを知り、それを積み上げるからこそ、その周波数のエネルギーが成就します。
ここにも因果の法則が成り立ちます。




犠牲を必要としない世を創り上げる

輝くラベンダーと photo 宮本章光

先を走る者を追い、追いつき、追い越し、そしてさらに引き離してゆく。

この文言だけを聞けば、ある意味では「耳触りが良い」のかもしれません。
ところが、このように言い換えてみるとどうでしょうか。
先に走っていた人を土足で踏み倒し、踏み台にし、その上に自分の地位を築き上げる。

すると途端に違和感に襲われます。
多くの人々が感じるのではないでしょうか。

こうした旧来のタイムラインが終焉を迎えました。


売上は高く大きく。
コストは低く。
費やす時間は短く。

この論法も終わりが近いことを感じます。
しかし、まだまだ多くの人々が、まるで神格化されたかのようなその論理を握りしめたままのように見えます。
古き悪しき仕組みを終わらせるのは、わたしたち自身なのですが、まだ氣づきませんか。


登り続ける、拡大し続ける。上昇し続ける。
これ自体は、成長の姿・雛形であって違和感は感じません。
しかし、
踏み台にしてその上で自分のステイタスを誇示する。ここに激しい違和感が生じていたことが判ります。
まさに、誰か・どこかに犠牲があり歪みを生じている状態。


この先には、誰かが踏み躙られる世が存続できないことは明らかです。
犠牲とは、その犠牲を上回るメリットがあるとして正当化されてきました。これまでの世では。
それが拡大一辺倒の仕組みを徹底するための言い訳であったからでしょう。極めて悪質です。
ええ、それを努力という言葉に置き換えて、努力をしなければ結果が出ない。と、教育段階から刷り込まれてきたのでした。

努力をするな、と言っているのではなく。
努力は必要でしょう。でも、犠牲という負のエネルギーに満ち、その犠牲が前提の上に築き上げられる成果は、そのエネルギーを必要とする者が正当化していただけでした。
そういう仕組みの世の中が「わざと・故意に」作り上げられていたからです。

そして、その仕組みが崩壊すれば、本来のポテンシャルを発揮できるフィールドが現実となってゆきます。
望ましく心地よい波動は、犠牲を前提にした努力が不要になります。
もちろん、その望ましい波動を拡大し上昇させるために「ポジティブな努力」は必要でしょう。これこそが「わくわく」の心持ち、と表現されているのではないでしょうか。

負の周波数に縛られたまま、まして隷属化ツールである貨幣経済の枠組みの中で、お金を手に入れるためにわくわくして...と、やっている馬鹿馬鹿しさと恥ずかしさが、ようやく理解されつつあることを感じます。
同様に、旧来の負の波動に満ちたまま、感謝・感謝と念仏を唱えるのも同じく。


ポジティブ方向のエネルギーとは、いずれも、耐えきれなくなって・堪らなくなって、抑えきれずに溢れ出すものだと思います。
それがホンモノだと判ります。
その周波数を体験したことがある以上、その悦びの感覚は理解できるはず。

心の底から溢れ出す感覚。
取り止めもなく湧き出す感覚。
これが、仕組まれ隷属化されてきた世の「対極・正反対」に位置するエネルギー。
これが、この先に維持すべきエネルギーかと思われます。

負の波動に憑依された犠牲を必要としない世を創り上げるために。





アンテナを張るのはwebじゃない

アマガエルに出会う川 photo 宮本章光

直前の記事
【和するこころが切り拓く未来】2025/05/13(Tue)[Link]
では、お声をお聞かせくださった一部の方がありました。ありがとうございます。


以前にも、そして何度も何度もこの言葉を記した記憶があります。

--アンテナを張る先はwebではない。
--フォーカスする先はSNSではない。
--フォローするのはインフルエンサーではない。

では、その対象は?

「自然」ではないでしょうか。
しぜんではなく「じねん」と読むのがこの国の言靈につながる秘訣だと感じます。
発音する音そのものもエネルギー波動であり、それを無意識のうちに活用できていたのがこの国の先人の智慧。

何もかも台無しにされ、潜在能力に蓋をするように仕向けられてきた、この国特有の戦後の歴史があります。
ここを知るにつれ、けしからん!支配者たる悪よ滅べ!と、いつまでも叫ぶのは恥ずかしいのではありませんか。
と言いますか、そのレベルから成長できていないことを自ら露呈しているだけでしょう。
まさに裸の王様。知らぬは本人ばかりなり。


自然には、数多くの生命・生き物が存在しています。
彼らの世界にはワルものは存在しません。いえ、逆に生存のために対処するという、最大にして唯一無二の課題があるはずです。
時には、そのハードルが高すぎて命を落とすかもしれません。
彼らはその課題を受け止め・受け入れ、過酷な状況での体験を得ます。

その生きざまを見て、わたしたち人間は何を思いますか。

死は怖い、死んだら終わりや。
それが支配者による刷り込み・洗脳であったことを、いつになれば学ぶのでしょうか。
あるいは、
禁断の果実を口にしたから、子孫・未来永劫「三罪」を償い続けなければならない。と、ビジネス材料にされている時点で洗脳も甚だしいのではありませんか。
預言は先駆者たる他星系からこの地にやってきた存在が残し、その内容も正しいに違いないと思われます。否定はいたしません。けれど、その記述・語りが、人を隷属化するための材料として本来の意義とは異なった使われ方をしている現実に対しても、いつになれば学びを得るのでしょう。


確かに、痛みという課題、身体的・物理的な感覚は耐え難いものがあります。
動物を含め、昆虫、魚にも痛みや恐怖の感覚がある、という研究結果も容易に見つけることができます。
しかし、
恐怖や負のエネルギーに憑依されるまま、そこから逃げるだけの人間は、大自然の中で生きる彼らの足元にも及びません。


自己顕示欲と自己承認欲求の塊と化したSNSのインフルエンサー、そしてそこに群がるアリのようにその教祖が発する発言に一喜一憂する人間の姿。
それは、彼らがもし認識できると仮定するならば、きっと、
直前記事の主役「石ころ・岩石」[Link]のように、
人間なんて大したことないな、なんて幼稚な存在なんだろう。と感じるに違いありません。

だから何?・それがどうしたんや!ではなく。

わたしたちは、学び・精神性を拡大・成長するために、この地の体験を重ねているわけで、この極めて重要なポイントを理解できているのなら、大切な教材はwebには存在していないことを知るべきでしょう。
当然、学問にも、そしてこの地の科学においても。
まして、
ワルものは、二元性・二極化の両端を知り、それを体験するためのお役目として存在しているのですから、そこに感謝を捧げるというその意味・本質を見極める必要があります。


まもなく訪れるとされる千年王国(一応但し書き:自ら再教育を意志表示した人にはやってきません当たり前です)、そのあとには、一旦隔離された「ワルもの」が、一千年間の時を経て再び開放される、とも記されているようです。
一千年間の桃源郷体験で、今ここ・この現時点に至るまでに長らく苦しみ・痛み、それによって学んだ大切な体験と感覚を鈍らせ、忘れ去ってはなりません。

現時点と同じ過ちをしないよう、一千年前から警告をしなければならないほど、地球人はおこちゃまではないはずです。
その1/10でしかない100年ごとに「騙され続ける姿」を見るにつけ、危うい感覚を感じるのは、わたしだけではないでしょう。
学びと成長のカギは、webにもSNSにも存在していませんし、もちろんオールドメディアやオールドインフルエンサーからも齎されることはありません。

難しい表現ではありますが、それは自分の心のセンサーでしか感じ取ることはできません。そして自らの心からしかその波動は生み出せません。
同時に、学ぶべき教材・教師は、自然(じねん)の中にしか存在していないことも。
日本人(にほんじん:にっぽんじんではありません)なら必ず理解できると信じて。





和するこころが切り拓く未来

岩石からやり直すのを望んだ人たち photo 宮本章光

映画館に映画を見に来て、
映画を観ていたことを忘れ、
騒ぎまくって周囲の人たちに大変な迷惑をかけます。

これ、いまの地球人ではないのかなと。

周囲の人たちも一緒に騒ぎ踊り叫ぶので、会館内が騒音にまみれ肝心のストーリーが聞こえません。
立って飛び跳ねて踊りまくるので、大切な映像がほとんど見えません。


突如として照明もスクリーンも一切の電気が消灯し、そしてこのような放送が聞こえてきます。

---「あなたがたは、自分がこの会館にやってきた目的を思い出せず、また思い出そうとする努力さえも放棄しました。」
---「よって、再度初等教育からやり直しをすることになります。」
---「多くのひとたちは石ころから50億年間、あるいは50万年、良ければ25,800年程度の人たちもあるでしょう。」
---「それは、誰かが強制するのではなく、あなたがた自身がそのように望んだからです。」

え?誰もそんなこと聞いてねえぜ。誰も望んでないやろ!
と、騒然とした客席で口々に叫ぶのでしょう。

そこへ追い討ちをかけてさらに大きな声が響きます。
---「聞いているか聞いていないかなど関係ありません。自分が選択したことを認識できていない時点で再教育が確定です。」
---「さらに、この地・この世で散々な負のエネルギーを蓄積した因果は、来世以降に償い解消してください。」
---「ご自身の選択だった、それが希望と意志表示したんだ、と理解できるまでは、永遠に繰り返すのです。」
---「以上。健闘を祈ります。」


次の瞬間、氣がつくと。
そこは、いままでと同じような大地があります。

やり直し・再教育の地で、過去をすべて忘れ去り石ころとしてあなたは存在しています。
人間として学ぶべき過程を活かせなかったのです。
動物に踏まれ、動物の排泄物を頭から「掛けていただいて」自分が岩石だったと氣がつきます。
では、
岩石から成長を果たし、植物や微生物になり、もっともっと精神性を磨くにはどうしたらよいのかを考えてゆきます。

--樹々のために盤石な土台を提供し支えとして役立つ道があることを知ります。
--植物とともに、微生物や昆虫、小動物が次の転生のためにお土に還ってから、次の物理実体を得るために土壌の段階から助ける役目を果たす道があることを知ります。

このようにしてわが身を捧げ多くの仲間に役に立つことで、ともに成長し精神性を高めることを学びます。
この物質・物理次元では、最高位とされる「人間」という立場になれば、肉体をお借りし、もっともっと数え切れないほどの役務が果たせるはずだ!
そう願い、その日を夢見て、お役に立つことだけを重ね50億年を過ごします。


ええ、あなたは岩石になる前には「人間」としてこの地で勉強させていただいていたのです。
それなのに...。
その稀有な機会を活かせなかったから、石ころからやり直しをしているのですよ。

どこからか聞こえた氣がします。でも空耳だろうと流してしまいます。


ある日、人間という存在が、激しく大地を痛めつけネガなエネルギーを撒き散らしている夢をみました。
彼らの姿は、石ころ存在にとって目指すべき、そして尊敬すべき立派な存在だと思っていたはずでした。
けれどその夢の中では、まったく反対の存在として見えました。

彼らの心に合わせようと試みました。
すると、
「戦争反対!」「悪よ滅べ!」そうやって叫び続けるばかり。あるいは「わくわくしてお金を手にいれましょう。幸せになりましょう。」そんな言葉に酔うばかり。
自分は良いことをやっていると思い込んでいるにすぎないことが判りました。
さらには、望ましいこと、暖かい波動に包んで多くの仲間と伸びてゆこう、と、そのように考えることは、いかにも狂っていると信じ込んでいることでした。
他方、
「心地よいことを思い描けばその通りの現実を創り出せる。」
そのような波動を維持している人間も居ることが見えました。

でも、彼らに共通すること。
それは、
「自分の望む世界を自分で創り出せることを本心からは信じていない」のでした。
そして、
「聖書という絶対的な記録が、間違いなく現実となるんだ、と信じ切っている」ことでした。


どちらも、石ころ存在にとっては目指すべきゴールだと思っていた人間という崇高な存在が、あまりにも幼稚であることに落胆したのです。

ある日、人間がその石ころ存在に声を掛けてきました。
風雪に耐え、立派な役目を果たしている岩石さん。ともに新しい地球を創り上げるお手伝いをしていただけませんか?
そのように人間が語ったように聞こえました。

え?人間がそんなことを言うはずがない。
石ころ存在は、何度もそこに合致した波動から受けとるエネルギーを繰り返し確認してみました。

ええ、間違いありませんよ。
あなたの波動は、わたしにも響き合うので理解できるのです。
そのように返ってきたのでした。


石ころ存在は、人間なんて大したことない存在だ、幼稚な存在にすぎないんだ。
そのように誤解してしまったことを後悔しました。そして即座に詫びました。

石ころさん、大切なことは、共に歩むことです。
この地に不要なもの、無用な存在は何ひとつとしてありません。
ともに物理次元を、より心地よく更に悦びに溢れる地にしてゆくには「和する心」が不可欠です。

和する、とは、
数千年間、間違った支配者層によって刷り込まれてきた貨幣経済の延長線上には決して存在できないエネルギーです。
心地よさを追い求めたり、暖かい心によって、多くの生命とともに生きる。
こうした感覚を持つことを「知らない人間」には理解が極めて難しいことも知っていただきたいのです。

そんな人間は狂っているだとか、頭がおかしいとか、すぐにそうやって自分を正当化し他人を排斥しようとします。
このように間違ったエネルギーを保持している人間たちが大多数である残念な状態であることも理解してください。
けれど、
彼らも、何度もやり直しをして、ついに人間の体をお借りするまで至ったのです。
だからこそ、その貴重な現在の姿に理解をしてあげてほしいとともに、ともに歩む必要性と重要性を暖かい波動によって彼らの心に伝えていただきたいのです。


石ころ存在は、その人間の語りに「どこか遠い昔に味わったような」懐かしさを感じていました。
そう、
石ころさん、あなたも、遠い昔にこの地で人間として存在していたのです。
あなたは、嘗ての人間としての転生でその環境を活かせなかったから、このように石ころからやり直しをしているのですよ。

自分を正当化し、他人を蔑み、でも「いかにも善人」のように振る舞い、裏側では心にもないことを抱き、そのエネルギーを撒き散らしていたのです。
もう大丈夫ですね。
今度は、心地よく穏やかなエネルギーを維持し、それを拡大してください。

和するとは、
単に言葉の上だけで、わくわく、だとか幸せになろう、だとか言うことではありません。
まして、うわべだけ「みんな一つだ」だとか「変化することは未熟だ」「おててつないでみんな一等賞」などと語ることでもありません。
すべての存在を認め、そしてニセモノの神を奉ることなく、本当の神たる大地とすべての仕組みそのものに感謝を捧げることです。


このエネルギー波動が飛躍的に拡大し閾値を超え、この地・この世の全存在とともに共鳴した瞬間にこの地はシフトします。一氣に・瞬間に。
それまでは、そのエネルギー波動を生み出す大元である「心」の使いこなしを、もっともっと習熟するべく学び続けることです。
和するこころが切り拓く未来は、一人ひとりが生み出す心地よさと穏やかな波動によって大きく変化することを知ってください。




自分からリバウンドしに行くのはなぜ?

金魚草に寄せて photo 宮本章光

満月の潮力の影響なのでしょうか。
自分から負のエネルギーに「わざと」合わせに行く人たちが目に入ります。

エンタメと十分に理解した上で、スリルを楽しむのもその人の自由に違いありません。
しかし、
そこで心に抱くエネルギーが、問答無用で幽界に生み出されていること。
ここを忘れてはならないように感じます。

生み出したものは、時差を経て必ずこの地に顕現化します。
耳タコを通り過ぎて、目を閉じてしまいたくなる言葉かもしれません。
それなのに、
いつまでも、その負のエネルギーを産み、焚き続けるのはどうしてなのでしょう?

災害に触れる論説しかり。
二極化・分断・対立のエネルギーしかり。
生み出した波動は決して消滅しません。


なるほど、企業在籍時代の感覚と酷似していることを思い出しています。
明け方までアルコール漬け。翌朝はホテル〇〇とさえ呼ばれた先輩社員宅から出社。
日中は目を開くことが不可能なほど激しい睡魔に襲われます。満足に業務はこなせません。
それなのに...。
再び、その夜も酔いに溺れざるを得ない環境が待っています。決して望んでいないにも関わらず。
事務書類は溜まる一方。黙って机の下に見えないように突っ込み、机の上は電話だけが置かれている(当時PCはまだ導入されていない昭和の時代)。

もう耐えられないほどの身体の不調と頭痛・吐き気。でも、向かい酒療法だとか威勢だけはいい。
そして、これが当たり前だとされる環境を耐え抜いた者だけが勝者となる。
臓器の一つやふたつ、痛めようが無くそうが、それが勲章。
これがサラリーマンレースや!と、タイヤのように硬く固まった上司の肩を翌日に揉まされる平社員の姿。

ええ、これを地で行くのがわたし自身でした。
亡くなった先輩社員も少なくない。そして40年間の年月を流して、いまは裕福。と胸を張る彼ら。


まさに同じ構図ではないかと。
頭では・口では、十分に理解しているのに、いつまでも負のエネルギーを焚き続ける。
いつまでも、この地を穏やかで明るく暖かい波動で見たそうとしない。

ま、人さまのことなので触れずに離れます。もういいでしょう。
ただ、こちらから負の波動は送りません。自分に繋がっているから。和する心を大切に。
わたしに不要な波動からは離れる。フォーカスを外す。それだけ。

この先、ともに歩む数えきれない多くの生命とともに、望む波動を生み出してまいります。
それが、この先の道を生み出すための、ただ一つの方法だからです。





美しくそして荘厳に

美しくそして荘厳に photo 宮本章光

舞台が大きく転換しています。
旧来のタイムラインから新しいタイムラインへと。

それぞれに意味があり、必要な体験を重ねました。
学んだことを次の舞台で活かしてゆきます。

変わらないことは美徳ではなく、一つの究極の姿・完成したものとしての価値を語っているのであって、変化を否定している限りは進歩が望めないこと。
ここを誤って理解しないことが必要ではないでしょうか。


変化は、学びと体験という必要なプロセスとして存在し、
変化は、結果として美しくそして荘厳にエネルギーの顕現化をこの物理次元に実体として残してゆきます。




二つと無い

唯一無二の時間 photo 宮本章光

歩みを止めてまでも、この瞬間に釘付けにされる印象的な眺め。
唯一無二の眺めは、絶景スポットに出向かなくても、足元に存在していることを知ります。


多くの場合、知名度の高い観光地や所謂絶景スポットとされる場所ほど、多数の人の波動により混沌とし「手垢にまみれた」ような濁った渦を巻いているように感じます。

神は足元に存在する。
なるほど、この国の先人から受け継いできた言霊の意味を知ることができます。

「二つと無い」その眺め・この瞬間の眺めは、出会う度ごとに強烈な力で惹きつけます。
その場の周波数に合致した瞬間に体験可能になること。

すべては、同じ波長のみが響き合う、と知る瞬間でもあります。




何を見、何を想う。

風雪に耐え抜いて地に還る photo 宮本章光

何を見、何を想う。
何にフォーカスし、何を生み出すのか。

意識は、対象の波動に瞬時にシンクロします。
意識は、対象が負の波動であっても望む望まないに関わらず瞬時に乗っ取られます。

想いは、描いた瞬間にエネルギーを生み出します。
想いは、抱いた瞬間に波動となります。

自分の思い描いたもの・コトが、エネルギーとなり時差を経てこの世に顕現化します。
何を見、何を想いますか。




貨幣経済の裏側に目が覚めた人が増えている

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経済社会という枠組みの中で拡大・上昇一辺倒の世の中は終わったこと、すでに明白かと思われます。

それは貨幣経済を正当化し、大多数臣民を隷属化するための隠された仕組みだったと確定してよい時期を迎えました。
そもそも、金利の考え方そのものが詐欺システムであったことは、もはやこの場で語る必要さえないでしょう。

「おとな銀行券」を発行する存在、そしてそれを貸し出す存在。
貸し出した者は、貸し出した総額に対し利子を要求します。それが当たり前だという発想自体が洗脳だったと理解できた人が増えているとは思われますが、過去数百年から千年間の強烈な刷り込みは、ここを恐怖という負のエネルギーに支配させてきました。
利子を余分に払うために馬車車のように死にものぐるいで働かなければならない。と。
そして、
それが当たり前だと心底思い込ませる世になっているため、自分で契約書に署名し捺印します。
結果、何の疑いものなく自分からそれを正当化してしまう。そんな世の中。
あろうことか、人生の成功者とは貨幣資産をどれだけ多く築き上げたか、それが経済を回す仕組みだ、と教育段階から深く深く刷り込んでゆきます。


冷静に考えれば小学生でも理解できます。
貸し出した者は、当たり前のように利子を要求しますが、その利子は「どこから湧いて」きますか?
その前に、
発行する存在が、利子に相当するだけの「おとな銀行券」を発行している前提がなければ、この地球上では、どこにもその紙切れは存在しません。

ここでピンとくるならばもう貨幣経済からの卒業が間近でしょう。
もしピンとこないならば、残念ながらトータル再教育プログラムご希望となりましょう。


ある人は、それは働いて働いて自分で手に入れるんだ!だから利子の分まで懸命に働いて獲得して返済するんだ。と語りました。
ええ、もっともらしい学校教育の模範回答的ではありますが、完全に論点がズレています。
この時点で、先述の恐怖に基づく負のエネルギーに乗っ取られています。

発行存在(中央銀行)が1,000枚の紙切れを印刷します。
貸し出し存在(市中金融機関)が1,000枚の紙切れを、さまざまなところに貸し出します。
2枚づつ500人に対して貸出した、としましょう。
ここまでは、数字の上では真っ当かと。

しかし、では500人の人たちは利子に相当する紙切れは、返済する2枚以外にどこから手に入れますか。

発行存在が、この地球上に1,000枚しか発行していないのです。
働いて手に入れる...にしても、その働いた代価としての一人あたり2枚の紙切れ以上のものが、この地に存在していません。
もちろん回り回って企業や個人、と広く拡散していたとしても。です。

ここに詐欺たる回答があります。
発行存在は、無限に印刷機を回して紙切れを世の中に増やすのです。そうでなければ利子としてのおとな銀行券としては返済できません。

ある人はここで再び反論なさいました。
無限に発行できないように法が整備されている。それが世の中を安定させているんだ。と。
それ以外にも、もっともっと多くの法や規制が敷かれていることを知らんのか!とも。

ですが、発行存在と貸し出し存在がグルで、この大枠を牛耳っていたとしたら?との質問には、
「世の中は性悪説では生きてゆけない」そんなことを考えるヒマがあれば、一円でも売上げをあげてこい!となります。
これ、
第一のバブル期・昭和から平成にかけて、わたしが商社に在籍していた時の、ある酒席での実際の会話です。


わたしは、この性悪説を例え話しとして机上にあげました。ですので自分自身が「たとえ話」以上のものとは認識していませんでした。
まして、学生時代の専攻は会計学に財務諸表論。卒論は企業財務諸表の分析を行い考察をするなどといった取り組みを行なってきた人間です。
けれど、
2020年の大混乱によって、その性悪説が仮の話しではなく真実だと確信することになります。
当時のアーカイブは、過去記事としてすべて残してあります。恥ずかしい無知な論説も多々ありますが。

そしていま、この世の経済社会が崩壊目前の危機に直面し、初めてこの裏の仕組みに氣づいた人たちも多いでしょう。
その仕組みをより強固にするために、故意に戦争を仕掛けてきた歴史、そして利権にまみれたカネの裏側の仕組みまでも。
残念なことに、いまだここに至らない人たちも存在します。
けれど、それは彼らの選択なので離れるのみ。

みんなで仲良く、だとか、みんなひとつだから。だとか。
それを「悪平等」と言うのです。

同じ周波数で響き合うもののみが、この先、本当に手を取り合って世を創り上げてゆきます。
そのためには、悪しき仕組みを正しく理解し、それを正しく終了(崩壊)させる必要があります。
ここを勘違いなさいませんよう。

ゴチャ混ぜで異なる周波数が混沌としている状態は、単にノイズが盛大に響いているだけ。そこからは新たな創造は生まれず、崩壊と滅亡に至ること。
これを実地に目の前で体験しているのですから。

同じ波長だけが、美しく響きます。
誤った悪しき刷り込みから脱する勇気を忘れずに。
ようやく時期到来。まもなくその変化を具現化する閾値を超えることでしょう。




呼吸が足りていないかもしれない

山で出会う photo 宮本章光

語り尽くされた感があります。
深呼吸をして。と。
数多くの場面で伝えられてきました。

呼吸が浅く、足りていないかもしれない。
それを補うために深呼吸するんだ、と、語られます。

でもその前に。
わたしには、その間にある呼吸が存在しているように感じます。
深呼吸ではなく、でも呼吸に意図的に意識を合わせている状態です。


呼吸に意識をしていない状態から、意識している状態へ。
それだけ。
思いっきり深呼吸するのではなく、単にいま、呼吸をしています・という動作にフォーカスするだけ。
これだけで随分と感覚が変わります。


屋外へ出て太陽を浴びながら、街の音に耳を傾けます。そして呼吸にフォーカス。
それは何も大自然の中ではなくてもよいかもしれません。
ですが、
そこには多くの人が存在するため、必ず他人の波動を受けます。

挨拶だけで済ませればよいものを、暑いや寒いや、晴れてるや雨が続くや。余計な言葉が付いてくる。
それが会話だ、コミュニケーションだ。というのは理解しています。
しかし、いまそれが必要ですか。

その場の空気感を味わっている他人のフィールドに、土足で割り込むのは避けたい行動と感じることが多々。
余計なエネルギーで乱されてしまう相手の立場を理解できない人たちが多数存在するのが難点。
黙って相手の立場を理解できない人たちとは、この先はご一緒したくありません。

街はそのような場所だから仕方ない。
それも理解できています。
結局、山に入るしかないのか。と諦めるのも一つの必要な体験だったのでしょう。


いま、感じてみたいのは、
呼吸が足りてないかもしれないこと。そして、呼吸する動作に単に意識を持ってゆくだけの切り替え。
深呼吸しなければならない、と、強迫観念にも近いような義務感に囚われることなく。
何でもwebに情報が存在する時代です。けれども、情報価値としては意味のないような、ほんのわずか、ほんの少しの変化を自分で意識することを楽しみたいものだと感じます。


静かに。
穏やかに。
空気感を感じられるだけで、周波数が瞬時に切り替わることを体験してみます。
その手段としての呼吸という動作へのフォーカスを。

ただし逆の立場なら、少なくとも泥に汚れた靴で人の心に踏み込むような真似はしないことです。





幸せとはそのように感じる心の状態をいう

おおつるぼ(シラー・ぺルビアナ)に合わせる photo 宮本章光

おおつるぼ(シラー・ぺルビアナ)と呼ばれる種類のようです。
忙しく通り過ぎてしまえば決して注目されることのない道路脇に、ひっそりと。
そして、必ず昆虫たちと戯れる姿がそこにあります。


連休。そこに続く連休明けの勤務日を迎えようとしています。

人が作ったカレンダーに合わせ行動し、人混みにまみれ疲れ果て、人が作った会社で、人が作った仕事を繰り返す。
持って帰って取り組むはずだった業務課題は、一度も目を通すことなく翌日のデスクで再び対応を迫られる。

それを仕事と呼ぶのだそう。
それがご自身の選択ですか。
わたし自身もそんな生活を繰り返していた時期があります。
けれど何の役にも立ちませんでした。
強いて言うのなら、月次の給与を手に入れるため。そして、これは自分の人生をかけて取り組むことでは「ない」と確固たる認識を得るためのプロセスでした。


昭和と平成の大半を、そのように追われ続け、やがて病床に向かう。
わたしは、その瞬間から続く後の道を「乗り換える」ことが叶いましたが、そのまま「耐え抜いて・我慢して」生きてきた彼らは、今や軒並み大企業役員・傍系企業の社長職に名を連ねます。

彼らはそれを望んだから、望んだ通りに叶いました。
わたしは、それを望みませんでしたので、望まない通りに「いまこの時」を手に入れています。

どちらが良いかよくないか。
それは愚問でしょう。
それは必要のない質問です。
選択は誤りではなかったこと、ここに至って健康で、美しい生命存在とともに生きることができる。
選択は間違っていなかったことを、この期に及んで理解できる。


これを幸せと呼ぶのではありませんか。
幸せとは、わたしの立場においては貨幣資産を築き上げることではなく、美しい存在とともにこれから先に展開する新しい道を、共に切り拓くこと。その悦びを共有すること。

いずれの立場においても。
ですので、
我慢して・耐え抜いて、体を痛めつけ膨大な負の因果を溜め続け、引き換えに大企業のトップに名を連ねる、自分は裕福だと胸を張るのも、その一方の選択と希望が顕現化した証。


どちらも「望んだ通り」に結果を手にすることができます。それが仕組みだから。
ただひとつ異なることは、
「この先の世」では、どちらが求められているのでしょう?
これも愚問に違いありません。また、その答えはそれぞれの立場によって正反対かもしれません。


失われた平成30年間、その後半の20年と続く令和の数年で、何を蓄積し何を熟成してきましたか。
それが、この先の世で花開きます。
忙しく通り過ぎてしまえば、決して注目されることのない道路側に、ひっそりと花開く彼らの姿のように。

目立たず。けれども間違いなく自分らしく生きるその姿のように。
すべてにおいて満足感を感じられること、すなわち、それを幸せと呼ぶのではないでしょうか。
そして、
いまこの時に感じる、その心持ち・心に描くエネルギーが、時差を経てこの先の目の前の風景を形作ってゆきます。
これは大いなる仕組みなのです。





役目を終えた人の共通点・わたしたちの採るべき行動

森で出会う仲間たち photo 宮本章光

役目を終えた人たちがこの地の舞台を去ってゆきます。
これまでにも多くの、そしてこれからも多くの人々が。

もちろん、故人を偲ぶ想いは大切にしたいと感じますし、この部分は先人から大切に引き継いだこの国の宝でもあります。
ここで感じることは。
それは、
すでに舞台から去った人々に共通するものがあるように見えることです。

それは「待ち」「待ちの姿勢」。
このひとことに尽きるのではないでしょうか。


毎回毎回、望むエネルギーには「自分から合わせに行かなければ誰も与えてくれない」と、この場に書き綴り続けています。
黙って口を開けて待っていても親鳥のようにエサを運んできてくれないですよ、と。
昨日の記事
【氣とはエネルギーの波動そのもの・その本質】2025/05/03(Sat) [Link]
においても、かなり重めの内容を記しました。

何もエネルギーを感じないのは、自分からその周波数を探し、その望む波長に合わせにゆかないから。
能動的に動かないから。
これを行動というのではないかと思われることです。

行動とは、デモに参加したり、狂っている世をおかしいやろ!と叫ぶことだと勘違いしている人が多すぎるわけで。
スピってるヒマがあれば一円でも売り上げあげてこい!だとか、宇宙人だとか戯言を言うヒマがあれば勉強しなさい!だとか。
物理実体たる体を、レッドゾーン限界まで酷使することが美徳だと大きな間違いをします。
結果として、お借りしている体だという意識さえ理解しないまま、その超貴重な長期リース品を台無しにしてしまうのです。
原状回復・元の状態で返却できなかったのなら、相応の補償をしなければなりません。当たり前かと。

この失敗では、大切に扱うべき「借り物」という勉強が必要だったため、体を失って舞台を去ります。
去ったあと、学びの成果が出るかどうかは次の転生で試されます。
自分で自分に毒を盛って自ら失ってしまう人など、まさにいまその学びの真っ只中かと思われます。
わたしの場合は、舞台袖に引っ込んだ瞬間に天からのお達しがあったので助かった次第。


けれども、もっと別の学びが必要な事例も多いように見えます。
それは、上記の「望むもの・コトへは自分から合わせに行く」という至極単純な事項です。

--救世主が現れる。再臨は絶対に間違いない。だから信じて待ちましょう。という世界の人たち。
--某大統領が世の中を変えてくれる。わくわくして待ちましょう。という、この界隈の人たち。
前者は宗教。
後者はその道そのビジネス業界の人。


聖書は絶対だ。100パーセント間違いない。
確かにそうだったに違いありません。これまでは。です。
それは、100パーセント間違いない!と心から信じることで、その心が生み出すエネルギーが時差を経て現実になるのですから当然といえば当然です。
この仕組みを知りましょうね。というのが学習課題です。
書物の内容が正しいかそうでないか。そんなことは二の次であり、仕組みを学び・使いこなせるように自ら成長することが課題です。

よって、その通りになる確率は「極めて高い」でしょう。地球の3割以上の人間が、心底そのように思い込んでいる限り、そのエネルギーが顕現化します。
災害を生み出せなくなった、この国の素晴らしいエネルギーの変化が証明している通りです。
騒げば起きないなどと宣う都市伝説や、話題にすれば現実にならない量子論だとかではないのです。その負のエネルギー以上に「そんなもの眼中にない」人たちの心が上書きしてくれるおかげで、事なきを得ていることを知りましょう。ということです。


戻します。
待っている限り、何もかも一切が現実にはなりません。
なぜなら、待ち続ける波動を維持し続けているので、いつまでも待ち続けます。

大淫婦バビロンが崩壊する、それは経済社会が根こそぎ崩壊することだ。
あるいは、エゼキエル戦争が必ず起きる。そう書かれてあるのだから絶対間違いない。
はい、繰り返します。
そう思う人が膨大な数にのぼるため、その集合意識が現実化させる可能性は非常に高いと思われます。

でも、そうではない意識の集合化によって、過去100パーセントだった具現化が「変わってしまった」あるいは「わたしたちで変えられる」可能性を考える余裕を持ちたいわけです。
そう、
そんな大混乱は望まない。当事者として自分がその場に居合わせると辛いでしょう。これ以上に自分から苦しむ必要などありません。
すべてが自分だという意識が、そろそろ根付いてきたので理解は早いかと思われます。
だからもっと別の方法で経済崩壊させるプロセスが、すでに実行され決着済みかもしれません。
あるいは、物質次元的戦争ではない形で行われているのだろうなと、容易に想像できませんか。

学ぶべき課題は、ここにあったのではないでしょうか。
絶対間違いない。これまで100パーセント起きてきたんだ。だから間違いない。ですか。
しかしその過去事例・実績は、わたしたちの集合意識によって、いま・これから「書き換えることが可能」だと。

その大いなる仕組みを知った上で、
この先には、自分たちで望む世界を築き上げてゆこうではないですか。と学ぶための教材ではないのでしょうか。


結論を急ぎます。
---わくわくして世界が変わるのを待ちましょう。
いえ、それはもう過去になりました。終わったのです。だから舞台から引かれたのでしょう。
---預言は絶対間違いない。
でもそれは変更できるかもしれません。そういった意識の使いこなしを勉強しましょう。との機会を迎えたのです。

こうして、「待つ」だけの時代を超越してゆきます。
それは、望むエネルギーに自分から合わせなければ何も手に入らない。
目に見えないものを積極的に感じ取ろうとしてみる。といった事象だけではなく、ものごとすべてにおいて共通することだと知る必要があります。

いま、その学習教材に取り組んでいる最中だと、その立ち位置とロードマップ上の進捗状況を俯瞰する余裕を持つ。
そうすればこそ、その時になってはじめて、望ましいエネルギー・波動に合致し、シンクロし・響きあいます。

ここに膨大なシナジー効果と巨大なエネルギーの集合体が発生し、新しいタイムラインに移行可能となる。
特定界隈の教え・語りのように、勝手に高次元に行くのではありません。待ち続ける限りは、誰一人として高次元には行けないでしょう。
そもそも、行くのではありませんし、そう感じる意識状態に自らを高めることだと理解できていません。
幸せつかもう!と同じ構図です。幸せとは、そう感じる意識状態のこと。貨幣資産を築くことではありません。
これと同じです。


そのようにわたしは解釈しています。
そして、その時は近いように感じます。
その移行は瞬時に実現するに違いありません。周波数は瞬時に変わります。デジタル的にです。
ですから、それを携挙という言葉と表現によってこの地を訪れた先駆者が残したのでしょう?
ええ、間違いないことが証明されるはずです。

でも、受け身で待っていては決して何も起きません。自分から精神性を高め、磨き上げる取り組みが不可欠です。
これを身霊磨きというのではありませんか。
第三者たる存在:神、を信じるのではないのです。それは宗教たるビジネスだったのです。
信ずるのは自分自身。そして自分自身の生み出す力。
自分で道を切り拓く・自分で心から描き出すことで、道を創り上げる。

それが仕組みだからです。





氣とはエネルギーの波動そのもの・その本質

暖かい日差しの中に photo 宮本章光

穏やかな光、暖かい日差し。
その場、その空間の雰囲気を。


「氣」とは、エネルギーそのもの。
感じられないのは、センサーが機能していない証。

生命・存在ごとに固有の周波数を持ち、その瞬間ごとに変化してゆきます。
人の心も同じ。
但し、同じ周波数でなければ共振できません。よって共鳴もしません。そのシンクロ体験としての悦びもありません。

意図的に「望む周波数へと」チューニングしなければ、希望するラジオ局は聞けないのと同じです。
希望するwebsiteへ行くには、URLを正確に入力しなければ絶対に展開しません。空白ひとつ、アンダーバーひとつ抜けても余計に入っても決して閲覧できません。


望む周波数は、教科書やガイドブックの中から選ぶのではありません。
そのように「口を開けて待っていれば与えられる」感覚から脱することが最初に必要でしょう。

自分で探すのです。自分で、望む周波数を探ります。
その昔、海外短波放送を専用のラジオで探した経験がありませんか。
確かに、ガイドブック的な「この国のこの局は12.115MHz」ですよ、といったような情報はありました。各局が公開していたからです。
けれども、サーチするうちに、とんでもなくローカルな局を見つけることがありました。
わたしは専用の巨大なアンテナを屋根上に上げることはできませんでしたから、あくまでも室内に色々と工夫をする程度でしたが、屋外に20m〜30m規模の傘の骨のような出立ちのアンテナを掲げているお宅では、きっとそうした超ローカルな放送もキャッチなさっていたのだろうと感じていました。

こうした電波。その特定周波数の電波を捉えるには、その周波数にチューニングしなければ絶対に聞くことができません。
何を当たり前なことを...。と感じられたのなら、すでにさまざまな周波数の「氣:エネルギー」を感じ・受け取ることができる方々だと思われます。
他方、
へぇそうかい。そんな目に見えないもの...どうでもええわ。と感じられる人たちは、物質次元・唯物主義のレイヤーから脱する意図をお持ちではないのだなと判ります。


ここに答えがあります。
最初に「頭で考える」。それがクセとして強烈に染み込んでいるのでしょう。
目に見えないもの・コトを最大級のプライオリティを持って感じてみようとする行動が取れるかどうか。

どうでもいい、大したことじゃない...。
そうやって「目に見えないもの・コト」の優先順位を下げるクセを続ける限り、唯物主義を貫き続け、それと異なるタイムラインを選択する意志はありません。と自ら宣言しています。
そりゃ感じられるわけがありません。当然でしょう。

似たような図式が目の前にあります。
この先、眠り続けることを選択した人たち。
それが彼らの選択なのですから覚醒などあり得ない。それが彼らの真実。再教育プログラムを自分で選んでいるのですから彼らの自由。50億年の石ころ人生をどうぞ。です。

この図式と同じでしょうか。いえ、この構造そのものかと。


目に見えないのです。エネルギーの波長は。
でも感じることはできます。
なんとなく...という感覚を感じない人は皆無でしょう。
ですから、その感覚がわずかでも感じられる限り、センサーは死んでいない。

でも、それを活かそうとなさらないわけですから、それもその人の自由。


昔の短波放送の例に置き換えるなら、
ガイドブックを探し回って、どれだけ多くの放送局のリストを手に入れるか。という道を追求する人。
他方、
可能な限り高感度の受信環境を作り、とんでもなく僅少な隙間から知られざるローカル局を自分で時間をかけて探す人。

どちらが正解とは言えません。
ただ、得られる満足感やその達成感には雲泥の差があることは否定できません。


DIYで室内にアンテナもどきを張り巡らせて、地球の裏側の個人局を見つけた喜びを知る人は「強い」はずです。
その巨大なエネルギーとしての悦び・恍惚感のようなものをすくなくとも一度は体験しているから。
芸術に触れることでも、その大きなエネルギーを体験できます。
その感動とその悦びを知ることで、周波数の高揚した状態を知っているからです。


小手先のその道のビジネスや、ニセモノに憑依された人が語るチャネリング情報が正しい(こともあるでしょうが)とは限りません。むしろ大きな誤りかもしれません。
いま風に言うのなら、 SNSインフルエンサーが正しいとは限らない。むしろ仕込みでしょう。言わずもがな。オールドメディア然り。
しかし、
自分の心を、自分から望む波長へと合わせてゆくその先に感じられるエネルギー。
それは絶対に間違いがありません。
なぜなら、
そのエネルギーに、自分から合わせにゆき、そこに合致したというシンクロ体験そのものだから。
そこに単なる共振から共鳴へと変化し、高揚感とともに得られる膨大なエネルギーのシナジー効果が生み出されているからです。


氣とはエネルギーの波動そのもの。
そして、それは特殊な能力などなくても必ず受信できるはずです。そのように能動的に動く限りは。

触覚である手から、触覚では「ない」氣を。
嗅覚である匂いから、嗅覚では「ない」氣を。
聴覚である音から、聴覚では「ない」氣を受け取るのです。
それは、
触れることはできませんが、感じられます。
匂いではありませんが、感じられます。
音ではありませんが、感じられます。

過去、それら感覚は第六感や七感と呼ばれていながら、隷属化の世が激化するうちに特殊能力とされて封印されてしまったのでしょう。
わたしは、
すでに備わっている「五感」の延長線上に、そのセンサーが「目に見えない形で」オプション機能としてアドオンされていると感じています。
感じたくない人は、感じなくていい。自由です。
ですが、この先には必要な能力となることは明らかでしょう。





昭和の「皐月」が戻ってきました

昭和の皐月が戻った photo 宮本章光

---5月なのに肌寒いわ。
---おかしな天氣やねぇ。
そのように口にする人々。

そう語るからそのようになる。
そう口にするから、さらにその現実を強固にする。自分自身で。
それだけのこと。


昭和の時代にあった5月の感覚を覚えていらっしゃる方も多いはずです。
当時の5月は、まだ肌寒い日も多かったのです。
そして、6月の「衣替え」でさえ、まだ半袖では冷やっとする日がありました。

まさに「麻痺してしまった感覚」に氣がつくよう、貴重な機会を体験させていただいているのではないでしょうか。
5月の声を聞き連休になれば、すでに公共交通機関は冷房ガンガン。室内も冷房を効かせ、冷たい飲み物...。
この国にあった美しい「四季」は、いつの間にか消滅し、夏と冬の「二季」に成り下がっていたこと。

だから、5月は暑くなくてはならない、といったように自らの感覚をすり替えられてしまったのではありませんか。
そして、それを自分自身が更にもっと強固に具現化し続ける。そんな愚を重ねる。


昔に戻ったんだな、この感覚は懐かしいね。と。
こうした感覚こそ、ずばり「肌」感覚でしょう。忘れてはならないと感じます。

おかしな気候、想定外の異常気象。などと煽り続けるオールドメディアに触れるだけでその周波数に合致してしまう。とはこのことを言っています。だから離れる。それが唯一無二の選択。SNSも同じ。


なぜ昔に戻ったような状態になったのでしょう?
それは、これまでは、温暖化詐欺で「無理やりに熱く」する必要があったからでしょう。故意に熱する人為的な操作がもはや行われなくなった証明ではないかと。
それと、あとは地球の地下の状況に変化があったのだろうと容易に予想できます。まさに床暖房(よくない意味で)の根源が終了したのでしょう。

ここまで、瞬間的に理解できるはずです。
もう陰謀説だ陰謀論だ、などとくだらない論議で負のエネルギーを自分から生み出す馬鹿げた行動は卒業できましたでしょうか。
すべてはその裏側で「カネ」にまみれた利権の世でした。それを知れば陰謀だとか馬鹿な発言はできなくなります。
こうして仕組まれ、対立し、負のエネルギーを欲しがる支配者層の思うツボだったのです。
この先、異なる行き先の人たちはもう離れたのですから、触れる必要は一切ありません。


昭和に戻ったように感じるこの氣候。
昭和の「皐月」を日々実感、懐かしく感じます。この少し冷える感覚。
崩壊する旧い文明と、負のエネルギーにより支配されていた世の中が消滅してゆきます。
そして、
さらに加速して、この国の古いき良き縄文文化あたりまで心の内側を取り戻してゆきます。

そのためには、
沈みゆく泥舟に乗り続ける必要はありません。その船で船頭をやって英雄気取りで叫び踊る必要などまったくありません。
いつまでやりますか。恥ずかしい裸の王様。


取り組むべきは、
この先に望む「穏やかで心地よい」世を、同じ波動を共有できる人々、多くの生命存在とともに創り上げてゆくこと。
その方法は、靈界そのものである「心」から、望ましいエネルギーを生み出すことによって。
それは、
わたしたちの存在自体が波動エネルギーであり、靈界にあることを知ればこそ、心に思い描くだけで顕現化可能になる(タイムラグの制限はこの地に体を持っている限り逃れられませんが)ことを体現する時代に入った証明でもあります。





Half minute Imaging:26

そろそろカエルが鳴き始めています。
自然は、いつもそのままで美しい。


【And EM Imaging】
Half minute Imaging [ Link ]




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