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宮本章光/宮本陽の視点「開闢」And EM Official Blog

みやもとあきらのしてん AKIRA MIYAMOTO@And EM

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最も大切なこと

仕事をする上で最も大切なことは金銭決済に関すること

それは「信頼」「信用」という言葉。

仕事の内容如何に関わらず、決済関連が甘いところはこの信用が根底から崩れる。
それ故、決済に関わる部分には細心の注意を払い取り組まなくてはならない。

過去の商社勤務時代には手形集金の業務もあった。
鞄に入れると置き忘れのリスクがあるから上着の内ポケットに入れ、且つ夏場であっても上着は決して脱がない...。
移動が電車なら、その車中では絶対に居眠りはしない...。
スケジュール調整がつく限り、一旦事務所に戻って入金処理を済ませる...。
などの、自分だけの規範を決めて行動していたことがある。

今、クライアントとの決済は銀行振込みや現金になったが、前払いで現金をいただいたり、納品が終わっていなくても先に振込みをいただいたりするケースが増えている。
支払う側は、一日でも遅く、そして一円でも少なくしたいものであるにも関わらず、いただく側にとっては、これほど有難くまた誇らしいことは無い。

どれだけ優れた技術を持っていても、
どれだけ大きな規模であっても、
また、どれだけ知名度が高い企業であっても、
決済に関する事柄が曖昧なところは、この「信用」の二文字が欠如していると判断される。

3月31日。
このあたりの桜はまだ三分咲きだが、満開はもう目前。
信頼と信用を誇りに春を迎えたい。

教えて教えて!

IMG_7977.jpg

webが発達しネットには膨大な数の情報が溢れている。
今、必要なのは「情報の取捨選択」のチカラというのも頷ける。

ここで間違うと「何でも人に聞けばよい...」となってしまう。
webには、便利な情報共有・質問回答の場がいくらでもある。
しかも「質問に答えたくて仕方ない人たち」も溢れている。

そして、そうした場所で入手した情報と同じことをやれば、同じ結果が出る。
と勘違いする人が出てくる。

同じ機器で、同じ設定で、撮影すると同じイメージに...?
同じソフトウエアで、同じ処理をすると同じ仕上がりに...?
...なる訳がない。
そして、教えて教えて...の繰り返しに陥る。

確かに「自分でwebに投稿し、自分で試している」ので「自分で努力している」には違いない。
でも、チカラを注ぐ先が間違っていないだろうか。

今、見事にこの悪循環から脱却しようとしている人が居る。
もがき苦しみ、辛い状態が目に浮かぶ。

階段を一段上がるためには、大きな踏ん張りが必要だ。
階段は突然一段階上がる訳で、足腰にチカラを入れて全体重を持ち上げなくてはならない。
階段を上がる幼児は、これを体で覚える。
幼児は、階段の最上段に居る母親を目指し渾身の力をふりしぼって登り続ける。

ヒントはこの幼児の姿にあるように思う。
階段の先に見える母親と自分の距離を具体的に認識できれば、上がらなければならない階段の数とそれに費やすであろう時間、そして、そのために必要な体力や資本、といったスケジュールとリソースが見えてくる。

チカラを注ぐべきは、こうした目標設定スケジューリングと実現のための具体的アクションであるはず。
見えないwebの先に居る、どれだけ多くの人に「教えて教えて!」と聞いたか?ではなく。
また、どれだけ「実例を真似したか」の回数でもない。

階段の段数を見極めることから全ての進歩がスタートする。

何が足りず何が多いのか

画像処理には計画性が必要

画像処理万能...。
全てを画像処理による後処理に頼る傾向がますます高まっているようだ。

画像データは、触れば触るほど収拾がつかなくなり、劣化の一途を辿る。
それは、処理を始める時点で方向性が見えていないことが大きな理由ではないだろうか。

「何が不足していて、何が余分なのか」という部分。
色調しかり。明るさしかり...。

なんとなく暗かったから明るくしてみた。
なんとなく色が違ったから触ってみた。

これを繰り返していては、バランスを崩すばかり。
小手先の改造を重ねて本来のバランスが崩壊してしまったクルマと似ている。
どこかを触ると、どこかが狂う。
結局、もう1台新車を購入するのと同じか、極端な場合にはそれ以上の費用をつぎ込むことになる。

写真はCO2も排出しないしNOxとも縁がない。
だが、撮影時点で解決できることも後処理に委ねすぎているので、撮影時の感性がドンドン鈍化する。

これを、機材に対してもやってしまう人が居る。
ストラップに凝ってみた...。程度ならまだやさしい。
そのうち異なるマウントを使うことに優越感を感じたり、ファームウェアに手を入れる禁断の果実を味わう...。
後から手を加えることばかりに注意が行ってしまっている。

それは悪いことだとは言わない。自己責任である限り他人には関係がない。
しかし、カメラは「写真を撮るためのツール」であるはず。どうも「写真そのもの」が何処かに消えうせているように感じる。
もっと表現や感性の世界を語る人が増えることを願いたい。

浅すぎる被写界深度

浅すぎる被写界深度は逆効果

二つ前の記事【ボケ過ぎた写真になる?】[ Link ]でも触れたが、大口径単焦点レンズを開放、または開放近くで使った表現をする人が増えている。

フォーカスポイントと、そうでない部分との大きな対比を語る手法であるが、最もセンスが問われるのは、どこにフォーカスポイントを持ってくるのか?というところ。

特に、コンデジから一眼レフ、そして汎用ズームから単焦点...という一連の流れを経験してきた人にとっては、とにかく大きくボケることが楽しい。(はずだ。)
それはとても大切な体験であり、行き着いた「大口径単焦点」の世界ならでは。であろう。

しかし、何も考えずに撮ると、ただボケた部分が広いだけの説得力に欠ける写真になってしまう。
ボケ部分が大きいことで、そうではないフォーカスが来ている部分をより強くアピールするわけだから、肝心のフォーカスポイントとなった部分に「意味」が無ければならないはず。


テーブルに運ばれた料理を、「何も考えずに」中央のAFポイントであわせただけの写真。
何も考えていない。というとウソになるが、しかしながらボケ部分とフォーカス部分の対比という観点では、何も考えていない一枚である。

単にボケ部分が広いだけの説得力に欠ける写真...。
になっていることが判るだろうか。
「単」の使いこなしが難しいといわれるのは、こうした部分を言うのだと思う。

また、映像制作の道具としてデジ一眼を使う人たち(私自身も使用しているが)も増えている。センサーサイズが極めて大きいことから、盛大なボケを利用した表現をすることが可能になる。
しかしながら、上記の「ボケとフォーカスポイントの対比に意味を持たせる」ような活用、という観点からは程遠い映像が多いように感じる。

彼らは、いつも「スチルと違って時間軸で語るもっと高度な世界だ」と豪語するが、その世界に上記のような通常では得にくい大きなボケによる対比という手法を加えた。
しかし、単なる目新しさだけに終わって、対比の本質を追及しきれていないように思えてならない。
果ては、「所詮、写真を撮る道具だから、やっぱりおもちゃなんだよね〜。」
で終わってしまう。
問題が数多くあるのは判るが、ビデオ用に設計されていないのだから当然である。
だからこそ、その「対比」という部分に撮影・制作者の感性を盛り込まなければならないはずなのに...。

肝心の表現の本質を追及しないまま、おもちゃ扱いする人たちには、この道具は永遠に使いこなせないように思う。
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