氣とはこういう感覚だと

2025年の幕が上がり5日、新しい氣を導き入れていらっしゃることでしょう。
いまだに「氣」なんて馬鹿馬鹿しい。そんなものあるわけないやろ!
と話す人たちはもう完全に分岐したので眼中にありません。この先には異なる周波数は響き合いませんので、それぞれに相応しい場所で生きてゆくことになります。
他方、
でもやっぱり「氣」なんて、何やら得体が知れずよくわからないし感じられない。
そういう方々へ。
感覚とは一つではないことを学習してみられてはいかがでしょう。
---明るい風景・暗い風景
---暖かい印象・寒い印象
一枚の写真からでも、こうした感覚が受け取れるものと思います。
これはこれで一つの「唯物主義的」とでもいう感覚であって間違いでも誤りでもないと思うのです。
これらとは別に、さらに別の感覚があることを知ります。
---心地よい風景・あまり心地よくない風景
---割と好印象の風景・どちらかといえば好きではない風景
こうした感覚を大切に。
それって好き嫌いではないのか?という声が聞こえます。
ええ、それでよいのでは?何か問題がありますか?好き嫌いも一つの感覚ですので。
明るいか暗いか。
暖かいか寒いか。
そうではない、まさしく別のレイヤーに流れるエネルギー。
好き嫌いでもよいですし、心地よいか心地よくないか。でもよいのではないでしょうか。
なんとなく。
この言葉がぴったりでしょう。
なんとなく...好きかも。
なんとなく...いい感じ。
これでいいのだ。と。(バカボンのパパは先駆者だったのですね)
もちろん、その逆もあります。
物理次元・物質次元を越えると、そこにはエネルギー存在のみしか無いとされ、感覚・感触を物質的存在のように受け止める。そんな世界かと思われます。
はい、なんとなく。そんな氣がします。
感覚・感触について練習するまでもなく、夢の世界がまさにこれに相当すること。誰しも疑いがないはずです。
それでよいのではないでしょうか。
なんとなく感じる。なんとなく心地よい。
この感覚を大切にする。
それこそが「選択」だと。
これこそが「意志表示」であり自らの心が増幅することを「許可」した「エネルギー」。
まさに「天地開闢(かいびゃく)」の瞬間を迎えようとしています。
ともに歩みたく思います。
ありがとうございます。
「負の力への耐性」を磨き上げた結果が出る

正念場。
この国の貴重な言霊です。
これまでの10年間・12年間、あるいは5年間。
大きく進歩進化したものと感じています。自分自身を含め相当数の人々の精神性拡大が叶いつつある様子が判ります。
この正月三が日、エネルギーは大きく変化しています。予想された通りです。
他方、
---某国大統領が変われば必ず世の中が良くなる。
---わくわくして大金が手に入るのを待ちましょう。
---楽しいことだけを考えてイヤなものは見て見ぬふり毎日楽しく生きましょう。
と、
心と体の浄化を怠ってきた人たちには、ついに「乗り越えられない年」に入ったことを感じます。
あるいは、
壺(霊感)商法と同じくモノ依存やカネの呪縛から離れられないのも、そして宗教洗脳から脱出するのを自ら拒むのさえも。
「耐性」という言葉があります。
物理物性試験などのフィールドで目にするので、いかにも物質次元的ではあります。
けれど、負荷を「心」に対して課し磨き上げてきた方々には、大きな安心感とともに絶大なる防護壁として負のエネルギーに対する盾となるはずです。
心の耐性を高めるために、負の力を受け止め・受け入れ、悪は仕組みであることを理解し、その体験をさせていただけたことに対し感謝に至るというプロセスをひたすら繰り返し、その高揚感と恍惚感にさえ達する体験を積んできたならば。
何があっても怖くない。
死に対する考え方さえも大きく転換し、永遠の魂を磨き続けることこそが目的であると理解したのならば。
加えて、
精神面だけではなく、本来の物質的な片側のエレメントである「お借りしている肉体」のメンテも怠らず、口にするものを徹底的に吟味し変えてきたのなら。
目の前に繰り広げられる終末期の出来事など取るに足りないもの。
そう感じられるはずです。
いつまでも繰り返す「プロレス試合」は、この地においては永遠に終わりませんし消えることもありません。
なぜなら、それが「正副」「善悪」のセットだから。もはや多言は不要でしょう。
見続けるのはそれが望みなのですね。
負の側面にフォーカスし続け自ら波動を落とし、他方わくわくして...臭いものに蓋をするだけ。
それがご自身の選択であるなら、そして意志表示であるのなら。
新年を迎え、心新たに何を見つめましょうか。何を描きましょうか。
新たな歳とともに、本当の本当に最後の試験となる答案用紙に正対する正念場を迎えました。
天地開闢はどのような様子なのか

「開闢(かいびゃく)」と大々的に掲げたから、というわけではありませんが。
洋の東西を問わず、天地開闢の瞬間その様子はさまざまに語られてきました。
そして、何が正しく何が真実か。といった論議が繰り返されてきました。
けれども、
その論議そのものが意味を為さないフェーズへ入ったことを感じます。
もちろん、何か一つの事象が「真実」なのかもしれません。
ところが、その特定の事象を、心から信用する人々が多いほど、そのように形作られてゆきます。
集合意識・集合無意識という、ようやく語る人が増えてきたその夥しい「顕現化」のパワーが、現実という名の目の前の風景を創り上げることに。
この施設・建物はいまはどうなっているだろうか?
そのように思えばこそ、そのエネルギーにより物質化・顕現化がより強固にしてゆく方向に作用します。
そして、
その波長が「現地へ飛び」その姿を見せてくれる。
これは夢物語でもおとぎ話でも何でもなく、そういう法則、そういう仕組みだと。
このようにしてエネルギーは時空を越える。
そんな体験を重ねる人々が増えるに従い、それが顕現化・現実となってゆきます。
影響力のあるメディアでもインフルエンサーでもなく、どれだけの人たちが「その波長を維持・支持」するか。
この巨大な力を逆手に取った隷属化の世は終わりを迎えます。
そして、わたしたちの生み出したエネルギーがこの地を造り替えます。
天地創造・天地開闢の瞬間は、わたしたち自身が生み出すのです。
道に沿って流れる氣

まるで体の経絡:ツボを流れるエネルギーのように。
道には氣が走ることを知ります。
当然、目には見えません。
もちろん、触れることもできません。
けれども、
そこを歩めば感じる、何らかの力。
ここではカラスの歓迎を受けました。
穏やかに静かに鳴き声をかけてきます。
それは拒絶する感覚ではなく、正反対のおとなしい語りにも似た声として。
流れる力は、その行き先・到着地点に繋がり、歩む人々を導きます。
すでに、こうした感覚を語る時代に突入していることを感じます。