自分で操作する楽しみを

先般、
「撮らされる」写真は卒業したい[ Link ]、をご覧いただいた、過去にご縁があった方からこのようなメッセージを。
「スマートフォンカメラはピントが合っているかどうか分りにくいと思います。それに画面もそのままでパソコンに転送してまで見ようという人は少ないでしょうから、ブレもピントも気にしない人が増えたんでしょうね。書かれていたように自分で何かやってみることが楽しいという気持ち、よくわかります。私も友人たちにその楽しさを話してみたいと思います。」(転載ご了解済み)
なんと嬉しい言葉でしょう。
今、街中で見かけるスマホカメラ撮影の人たちは、撮影はホントに一瞬。ピントを合わせる・構図を変える...なんて作業は一切していないように見受けられる。
その後、画面をツムツム...フィルター選び作業とSNS投稿...。
自分で何か操作をする、といった楽しみは「フィルター遊びと投稿」の時代になったのかもしれない。
もちろん、そうした撮影後の楽しみを堪能するのも良いと思う。
だが、撮影時点でカメラを操作する。というもっと直感的な部分にも楽しさは多い。
上記引用メッセージのように、スマホカメラは「差が見えにくい」といった理由もあるだろう。
スマホカメラもピント位置を決め長押し、続いて明るさを調整する。
川の流れが随分と違って見えてくる。
「撮らされる」写真は卒業したい

「ピントって何?カメラが自動で全部やってくれるでしょ?」
と、ある方のお話の中で。
はい、確かにスマートフォンカメラをはじめとして一眼レフに至るまで、自動でピントを合わせてくれる機能が搭載されています。
ある程度、写真やカメラに親しんだ人にとっては、ああ、これはオートフォーカスのことなんだね。と解釈する。
でも、スマホカメラ以外にカメラに縁がない...という人にとっては、「ピントを合わせるというプロセスそのものの意識がない」という驚愕の事実を知る。
言い換えるなら、「ピントを合わせる・露出を合わせる」といった撮影のプロセス自体についての意識をお持ちでない。
更には、構図を決める、自分で更にカッコいい構図にしてみる。といった意識そのものが存在していない...。
誰でもどこでも撮影できるようになり、急速に写真を撮る行為が拡大した。
撮影者は「カメラを被写体に向けてシャッターボタンをタップするだけ」で写真が撮れる。
写真趣味が広がるのは大いに歓迎すべきだし、もっともっと楽しみたい。
でも、構図を考えることをせず、明るさを調整することもなく、そしてピントの意識そのものがなく、ボタンを押すだけ...。
なるほど、これでは飽きるのも早いわけだ。
(今日はフィルターの話には触れないけれど...)
カメラに「撮らされる」写真だけしか知らないから、すぐに熱が冷めてしまう。
もっともっと奥深く、更に楽しみを味わえる部分が広がっていることを、どうすれは伝えられるのだろうか。
少し暗めに撮ってみる

師走目前。
雪だるまにも灯がともる。
まだ日中の明るい時間帯のためイルミネーションは引き立たないが、露出を若干絞ってみると雰囲気を感じることができるのではないだろうか。
スマホカメラは、多くの場合Auto露出が最適だと思われるが、マイナス方向へのシフトはプラス方向へのシフトよりはリスクが低いかもしれない。
狭小センサーであるが故に、プラス方向への露出補正はハイライトがいとも簡単に飛ぶため、飛ばした部分のデータが残せない。
しかし、マイナス方向への露出補正では、見た目に潰れたように見えても日中屋外の被写体であればある程度の階調を維持していることが多い。
スマホカメラも自分の意思で露出を変えてみる。
過剰な調整は「飛ぶ・潰れる」リスクがあることを知った上、自己責任で。
それでもデータを破壊するフィルターで遊ぶよりはマシかもしれない...。
シャッターボタンをタップするだけに飽きたら、次は明るさを自分の意思で決めてみる。
そんな楽しさを味わってみて欲しい。
撮影に対する感覚が麻痺していないだろうか

これいいな!と感じたタイミングで撮影ができる。
それがスマホカメラのいいところ。
その気軽さゆえに、撮影アクションそのものに対する感覚が鈍ってきてはいないだろうか。
いつでも、どこでも、誰でも、そして何に対してもカメラを向ける...。
更には、撮った写真をそのままwebに上げてしまう。
こうした行為そのものが、当たり前になり過ぎたかのかもしれない。
料理店ならば、オーナーに撮影許可を得るマナーは持ち合わせておきたいし、他人が構図内に入るならば、やはりここは撮影を諦める判断も必要になろう。
さすがに風景に対しては許諾を得る対象がないとは思うが、広告塔・看板など企業のロゴが入っていないか、構図の四隅まで見渡す余裕は欲しい。
四隅に意識が及べば、自ずと構図も洗練されてくる。
それが訴える力となり作品が語りはじめる。
撮影は神聖なる行為、などとは言わないが、自分が感じたものを残すための大切なアクションであるはずだ。