綺麗ごとだけではない負の因果

さまざまな存在。
多様な働き。
新たな創造。
みんな同じであるはずがありません。
それぞれを認め、
それぞれを尊重し、
すべてを受け入れます。
この多様性を体験するためにやってきたこの地・この世です。
それなのに、
「人と同じである」ことに喜びを見出すような洗脳に染まったまま悦に入る。
それなのに、
「人と同じだから」安心し、自らそれを選ぶ行動を取り続けコンフォートゾーンから出ようとしない。
学ぶためにこの地を選び、
学ぶためにこの世に降り立ちました。
この地の「開講時間・授業時間」が間も無く終了します。
誰しも、それを肌感覚で知っているはずです。
誰しも、それを潜在意識のレベルで感じているはずです。
それなのに、
「学ぼうとしない」選択をし続ける限り、再教育を受けるまでのこと。
それがご自身の選択と意志表示です。
しかし、それだけでは済まないことを再認識する必要があるでしょう。
一つの文明の崩壊と滅亡の時期を体験する。
この稀有なタイミングで「わたしは活躍を約束し必ず役立つ活動をします」「わたしは人のために役に立ちたい」と手を上げました。
あなたが手を上げて選ばれたことにより、この選抜メンバーに入れなかった他の100万人の魂にどうやってお詫びをしますか。
できることに目一杯取り組む。
それは、その人の魂レベルならデモに参加することかもしれません。
それは、その人の精神性レベルなら悪よ滅べと叫び踊ることかもしれません。
それ以上のものを理解できない以上は。
しかし、結果として、
負のエネルギーに油を注ぎ続けた因果は自分で背負うことになりましょう。
「知らなかった」「知らずに毒を人に注射した」のは、本当に知らなかったとしても、その行為に及んだ業界の人たちは、然るべき因果を解消せねばなりません。
とても難しい次元(レベル)の話には違いありません。
故意ではなくても、人をあやめた、あるいはそれに近い損害を与えたのは事実であり、相応の因果が生み出されたのは客観的事実であり揺るがない事実でしょう。
似ていませんか。
体験のため・学びのためとは言え、数限りなく仲間である生命を殺し続け、本来食するべきではない動物を口にし、感謝を忘れ続けた因果も、大枠では同じでしょう。
同じく、
この地この世に、学びのためとは言え、限りなく膨大な負荷・負担となる害を生み出し続けたことも。
間接的にでも、環境を破壊し尽くす文明において、生活をしている限り同じでしょう。
自分で生み出した因果は自分で解消する。それはこの体をお返ししたあとにも永遠に続くとされます。
この期末で、一旦クリアにする。と語られますが、それはこのあとに負の力を生み出さない宣誓と完全浄化が条件であるはずです。
学びは永遠だから...と、綺麗ごとのように片側だけの精神世界を語る特定界隈の人たち。
学びは永遠に続くんだから、もう嫌だとかもうたくさんだとか言うのはダメなんですよ。それでは永遠に卒業できませんよ。などと教える特定界隈のビジネス。
いつまでも「教祖様」に従う、それこそが自分軸が無い証明。
学びのために生み出した「負の因果」も、永遠に償い続けることを忘れてはなりません。
人と同じことをして安堵する行動そのものが、負のエネルギーを増大するように仕組まれたこの世の流れに迎合している時点で、激しく負の因果を積み続け罪を重ねていることを。
ここまで学んだのなら、
学んだ人は何をするのが正解でしょうか。
負の力を自分から生み出さない。仕組まれ故意に作られた負のトラップに合わせにゆかない。
そして、望ましい力を生み出してゆく。
お手本は足元にあるのではありませんか。
お土に還り、他の生命のために役に立つという永遠の螺旋がそこに。
自然とは「じねん」であり輪廻を繰り返しその永遠に途切れない糸を紡いでゆきます。
ともに生きる生命に意識を合わせて。
そのために手をあげてやってきたのですから。
そして、お借りしている「体」がある限り、その衣を最大限に活用し役目を全うするまでです。
2025/04/14(Mon) 12:18:11 | photo blog