愛だ!光だ!と叫んだ行く末

この地では、物ごとは「両方・両極ともに」存在していること。
片方だけに偏っていては成立しない場所であること。もう十分理解して満腹であったはずなのですが。
その、何と言いましょうか。
片方だけにフォーカスするのは、「何もかも全部学び終え過去に溜め込んだマイナスポイントも全部浄化したあと」に、自分がこの先に「望むものに集中してゆく」という、その選択の方法とそれまでのプロセスについて語られています。
膨大なマイナスポイントが解消しない限りは、「引き寄せ」は叶わず・実現せず。いつまでも苦しみ・痛み続ける。
という因果の大原則・法則に理解が届いていない。
物理次元地球の歩きかたの大原則を無視して、心の世界の真似ごとに躍起になっても、何も変化せず。
という肝心要の部分が抜け落ちている。
本当によく見えるようになってきました。
いえ、自分も僅か3,4年ほど前まで同じことをやっていたので、恥ずかしさは半端なく隠れ場所を掘りたいところではあります。
すべては愛!すべては光!
と叫び続けているのも、肩幅がまったく合わない上着を着用しているかのごとく激しい違和感を感じます。
愛には「プラスもマイナスも」存在しているはずでしょう。
光にも「正方向へも負の方向へも」波動があるはずなのです。
よく言われる言葉。
「善の善・善の悪」
「悪の善・悪の悪」
これらはすべてセットであることを、本心から理解し体得したいのです。
美しいことや綺麗なことだけに意識を合わせるのは誤りではないはずです。
しかし、
では、例えば平和を祈る、というその意識の「対象となる裏側」には「争いと奪い合い・戦争」という貨幣経済と欲望の行き着く先のエネルギーがあることまで意識が及んでいるでしょうか。
これらはともにバランスしなければ存在し得ない。
平和を・平和を!
と、やればやるほど「その対極にある負の波動を生み出してしまう」ことに氣がついていないようにも見えます。
意識するもの。そしてそれとペアであるものが生み出される、その仕組みに。
美しいものを美しいと語る。
これもまったく間違いではなく誤りでもありません。
しかし、
では、愛は美しい!だから美しいものだけを!とやってしまいますと「負の愛」があることが抜け落ちてしまいます。
学びのためには、あえて「可愛い子には旅をさせる」ではありませんが、苦労する姿を「見守る」ことこそが、愛の姿でもあるはず。
苦しい体験をすることでしか理解し得ない。それを体験するために生きている。
これを、楽しいことしか存在しませんよ。美しいことだけを考えて生み出しましょう。
とやっていると、ここには一切の成長が期待できないことに理解が及んでいるでしょうか。
意識するもの。そしてそれとセットであるものが生み出される、その仕組みを。
両方をともに等しく大切にする。尊重する。
だから、片方だけにフォーカスして叫ぶのではなく、すべてを体験し尽くして苦しんだからこそ知ることができた、幸せのステージにまで登りきってから。
あるいは、すべての負の因果を綺麗さっぱりと解消してから、やっと、そのあとに望むエネルギーに合わせてゆきたたいものです。
そのように感じる日々です。
このような意識を文字に落とし込むのも、霊的な世界からの「導き」があるからこそだと感じています。
ここに、再度の感謝が溢れ出すのです。

わたしが感じた心、
「その一枚の中に込めた心」を受け止めていただける方々と、肩を張らず、ともに心から響き合える感動を共有してゆきたいと思っています。
それが、望ましい未来を創り上げる方法だと思うからです。
数を追い、人と比べる必要性。
それらを捨てたときに、初めて見えてくる風景を。
わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。
2023/10/03(Tue) 21:02:44 | New Age