「意識」に責任を持つ時代

意識に責任を持つ時代に入っています。
以前から何度も繰り返し綴ってきました。もう満腹かもしれません。
しかし、
いつまでたっても乗り越えられないハードルが「日本人特有の考え方」の中に根強く残る限り、終末・滅亡に向かうタイムラインから離脱できないことを痛感しています。
「わたしにはまだまだです」
「現時点ではまだまだ期が熟していない」
「まだそのタイミングには早すぎる」
これらの言葉、そしてこれらの意識に共通するもの。
それは、
「まだまだ」という言葉です。
日本語には絶対的にその言葉が示し、そして必ずシンクロする言霊(ことだま)の力があります。
たとえ、それを言葉として発しなくとも意識の中に考えとして描くだけで、その言葉の力が潜在的に作用し始める、と伝えられている通りです。
まだまだやり残していることがあるから世の中は変わらない。
確かにその通りだと感じます。
そして、日本人だけではなく世界規模でさまざまな考え方の人たちが存在する以上、平均点を狙うところに道を描かなくては、メリットよりもデメリットが超過し、良い方向に進めようとしているにも関わらず本末転倒、破壊の方向に進んでしまうリスクがある点、ここにも理解が必要だと判ります。
ですが、この場でずっとご縁のある方々、そしてもはや2年近くもこの狂った状況から「脱出するために学び続けて」来られた方々にとっては、その平均点を狙っている限り、平均点から永遠に脱出できないこと。ここを再度確認しなければなりません。
確かに、
この地は、二極化・両極の体験を積み学ぶ場だったとされています。ですが、もうそれは終わったのです。
その自覚をお持ちになっていますか。
わたしたちは、平均点を狙うのが役目ではないはずです。
日本語と日本の教育を受けてきた以上、まだまだ勉強が足りない。まだまだ時期尚早だ...。
そのように一歩下がって考えることが美徳とされ、また過剰な期待を持たないことでリスクヘッジとする考え方が体に染み付いて離れません。
少し離れた視点で俯瞰(ふかん)してみてください。
いま、転換点となる駅で列車が分割され、行き先が異なる編成がそれぞれ出発します。
一つの編成それは8両編成の電車で、Bの目的地に向かいます。
もう一つの編成それは客車だけの3両編成でしょうか、Aの目的地に向かいます。
わたしたちは、このAの目的地に向かうのだと意志表示しています。
3両編成の列車は非電化区間を走るので牽引する機関車が必要です。このたとえでは自走しない客車が3両編成。機関車が引っ張らなければ動かないのです。
わたしたち、そうです、この場で同期できるエネルギーを感じ、そして解釈できるわたしたちです。
わたしたちは、3両編成の客車に乗っているだけでは永遠に発車することができません。
わたしたちは、その前に連結されている「機関車」として駆動する役目があるはずなのです。そしてAの目的地に向かって電化されていない区間であっても力強く引っ張る、その役目を担うと決めたのではなかったでしょうか。
役目を担う、とは、すなわち「自分の意志」によって進むことではなかったでしょうか。
後の3両の客車で「そのうち期が熟したら」などと、Bの目的地に向かう乗客と同じ感覚で待っている限り、Aの目的地が自動的にBになってしまうのです。
これこそが、意識が現実を創る。ということではないのでしょうか。
意識に責任を持つ。とは、
救世主を待ち続けることではなく、また、情報を追い続けることでもなく、意志表示し決めたことに向かって自分から力を出し機関車として引っ張ることだと思うのです。
力を出すとは、まさに「意識をそこに合わせてゆく」ことだと思うのです。
物理的な行動に責任を持つ時代から、自分が抱く・描く「意識」に責任を持つ時代に入っています。
まだまだ...と言う限り、それは美徳でも何でもなく、責任を果たすことを放棄しているのではないかと感じます。
発車ベルはもう鳴り止んだにもかかわらず、機関車が引っ張らなければ決して発車することはできないのです。
意識に責任を。意識がこれから先の現実を創り出します。
併せて、常に強力な導きのエネルギーを送り続けていただく諸先輩方・高次存在への感謝の言葉も忘れぬように。
ありがとうございます。感謝しています。
2021/11/21(Sun) 20:39:37 | New Age