形を持ったものは必ずお土に還る

自分の選択は自由です。
何を望もうと、何を選ぼうと、それが自由意思。
他方、
この世あの世に普遍的に存在する大法則・標準仕様といった仕組みがあります。
これを摂理と呼び、個々人の自由意思に関係なく永遠に維持されます。
物質・物理次元において「形を持ったもの」は、その物質物理実体は時間の経過とともに必ず消滅すると。
形をとった存在は、一つ残らず「お土に還る」のが標準仕様だということ。
よく語られる、過去に文明など絶対に存在していなかった、といった論説をみますと、
「物的証拠が残っていないから」という観点をその根拠に置いているものがあります。
この仕様を考慮するに、物質次元では物理実体はいずれ必ず消滅するのですから「残っていない=お土に還った」といった可能性を証明できず、それが過去に存在していないという否定材料になり得ないことが判ります。
いまここで原点に立ち返ってよく考えること。
それは、
お土に還った後も「永遠に続く成長のための学びがあること」ではないでしょうか。
大法則・摂理に反し、
「死んだら終わりや。何をやろうと自分の勝手や。」と、この地・今生でさらなる負の因果を重ね続ける。
「知れよ・学べよ」と叫ぶ割には、物理実体=体を痛めつけるばかりの食と言葉を口にし吐き続ける。
蓄積しどうにもならなくなった過去を浄化する稀有な機会(期間)であるにもかかわらず、負の要因をさらに積み重ねるばかり。
こうして山積みにした課題は、
部長席の未処理案件ボックスに眠る書類と同じく、いずれ必ず対応すべき時期が訪れます。
書類は「否決」の印鑑ひとつで無かったことにできても、自分の成長のための学校の教科書は消滅しないわけで。
人生という括りで見れば、それはこの体をお返しした後で、同じ「初歩の初歩」たる教材を永遠にやり直ししなければならない。ということに他なりません。
ところが、
次の機会にも物理実体を貸し出しされるかどうかは大変難しい、と語られます。
せっかく与えられた機会、そしてその貴重な実体を痛めつけるばかりだったのなら、誰も次はもう貸出したい、とは思わないのは当然のことでしょう。
恥ずかしくない生き方。
お土に還る瞬間に、後悔せず、迷惑をかけず、誇りを持って感謝が述べられるように。
日々精一杯生きる、とは、
与えられた環境と条件を最大限に活かし大切に使い、そこに感謝を忘れず、自分の役目を果たすことだと判ります。
ご自身の役目とは何でしょうか。
(わたしは、日々、こうした語りを目に見えない存在から受け取っていることを感じています。)
2024/07/23(Tue) 10:54:08 | New Age