いまこの瞬間を心地よく過ごすために

今この瞬間を心地よく過ごしたい。
そのために、もっともっと、心の状態と体の感覚を受信するセンサー感度をあげてゆきます。
喜びも苦しみも、どちらもセットで体験できる稀有な環境に、自ら希望してやってきたわたしたちです。
感情がどちらか片側にシフトしているのであれば、その状況を認識し、それを楽しみたいものです。
苦労は買ってでもせよ。と語られてきました。
さまざまな体験を積むからこそ、その対極にある感情・感覚が磨かれる。
これは間違いではないでしょう。
困難を避けて通る。問題やハードルに取り組まずに逃げてしまう。
こうした行動は、貴重な体験をせぬまま通り過ぎることにより、学びを得られない、という意味で伝えられてきたのだと思います。
ですが、繰り返し述べられているように、
すでに数多く学び終え、糧として得られたのであれば、それをしっかりと心に刻み込んだあと、大切な体験をさせてくれてありがとう。と感謝を伝え、そこから離れればよいのだと。
不快なら、不快であるその状態を俯瞰し認識できればよい。
疲れたのなら、疲れの原因から離れ体を休める行動をとればよい。
要は、
「現在地を正確に認識する」ことが求められているのでしょう。
大切な借り物のこの体。
クルマなら、ちょっと異音が聞こえただけで非常に氣がかりで、隅から隅まで点検するでしょう。
それなのに、自らの体に対しては「向かい酒療法だ!度胸で乗り切れ!」的な、もはや古すぎる精神論を語り続け、マイナスポイントたる負の因果を重ねるばかり。
はい、
そうした「自分の体の取説」は持っていないことに加え、学校でも誰からも習ったことがないため無理もありません。
疲れたよ。不快だぞ。腹立たしい。
それなら、その状態を俯瞰する。その感覚を認識する。
その時点で、
次の向きは「左斜め10時の方向…」と、自動的に解決の道が見えてきます。
この段階で、
無理にポジティブにならなければならない。だとか、無理にワクワクしなければならない。
といったように、その瞬間の感覚をねじ曲げる必要はどこにもないはず。
力技で「…ねばならない」と、肩を張り詰めて構えてしまうことこそ、心にも体にも無理が発生する原因になるのではないかなと。
俯瞰し、その瞬間の大枠を認識し、状況を眺める。
無理をしない、とは、感情をねじ曲げる行為を「しない」ことだったのではないでしょうか。
この瞬間を心穏やかに、心地よく過ごしたい。
そのためには、
「状況認識センサー」をさらに磨く必要があるように感じます。
そして、
借り物の体の使い方という教科書がどこにも存在していないのですから、自分から「自分の取説」をアーカイブしてゆきたいものです。
恵まれています。
満ち足りています。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。
2023/03/08(Wed) 21:55:24 | New Age