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宮本章光/宮本陽の視点「開闢」And EM Official Blog

みやもとあきらのしてん AKIRA MIYAMOTO@And EM

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礼を失すれば自らに舞い戻る

礼を失することなく photo 宮本章光

礼には礼をもって返すことにより、この地この世はうまく回っていく。
そういう仕組みゆえ。

--嫌なことはしなくてよい。
--嫌いな人と付き合う必要はない。
この教えは、自らの意志を明確にすることにより、ブレず・負のノイズに影響を受けず、この先に広がる世を歩むための導きとして語られています。当然その言葉に誤りなどありません。

しかしながら、秩序や礼節といった、心地よく人との接点を醸成してゆくためには、三次元的「取説」は必要かと思われます。
何より、物質次元に肉体をお借りし、その環境その二元性の地で学ぶためにここに存在しているわけですから。

このバランス感覚こそ、学ぶべき最重要、且つ最後の教材ではないのかと感じます。
特定界隈では、バランスなど不要、やりたいことだけやればいい。そんなビジネスが蔓延っている様子が見えますが、それも取り違え勘違いした人の弁に過ぎないことが判ります。

守るべきことは守り、その枠の中で自分らしさを伸ばせばよいのであって、無秩序に好き勝手をするとは、あまりにも幼稚な発想に過ぎず、目指すべき「精神性の拡大」と「魂レベルの向上」という目的とは正反対であることに氣がついてないように見えます。
メッキは瞬間に剥がれ落ち、仮面の中の素顔が一瞬で見破られる時代に入りました。

礼には礼をもって返す。
礼を失すれば自らに舞い戻る。
それこそが、因果応報の大いなる仕組み。

放ったエネルギーは、その性質のまま自らに舞い戻ります。





この年の春を過ごす

この年の春を過ごす photo 宮本章光

静かに。
穏やかに。
緩やかに。

この年の春を過ごします。
この年の氣を感じ受け取ります。

受け取った氣に、感謝の意を込めて返信します。
ここにエネルギーの循環が生まれることを感じながら。

今日は、天からは一切の語りが降りてきません。
静かに、穏やかに過ごす日。




会話とはエネルギーの交換

美しい存在に美しいと伝える photo 宮本章光

言葉を話さない存在と会話などできるはずがない。
と、旧い凝り固まった意識を乗り越える時期を迎えています。


隷属化を仕組んだ者による世で誤った教育を受けたため、そのように「自らの意識で現実を作ってしまう」だけだったのだと。
では、
自らの意識で、すべての生命・存在と会話ができるはずだ。との現実を創ってみてはいかがでしょう。

すると、
言葉ではなく、そこには判らないながらも、何かどことなく感じるものがあることに氣がつきます。
これこそが固有の生命ごとに存在するエネルギーだと。
言葉ではないために、何も明確な言語的な伝達はありません。けれど、感じることは可能でしょう。
初めは、なんとなく暖かい印象かもしれませんし、あるいは弱い風に触れる感触かもしれません。

幼少期にそうした感覚を持っていたことを思い出しませんか。
頬を撫でる風は、実際の空気の流れとしての風だったかもしれません。しかしそれが物質的観点からの実際の空気の流れであろうが、感覚の世界の流れであろうが、どちらでも関係がないことに理解が及びます。どちらでもいい。

このように何らかの感覚・感触を得ることそのものが、エネルギーの行き来が発生している状態だと判ります。
そして、
その行き来・交換という変化そのものが「会話」であったことも。
コミュニケーションは、言葉だけを使うのではなかったことに。
会話とは、まさしくエネルギーの交換であることに。





顔から滲み出る人柄とエネルギー

顔から滲み出る生命の波長 photo 宮本章光

顔を見れば判る。
顔は自分の履歴書。

顔については、このような言葉により数多く語られてきました。
この国の言葉には言霊が宿ります。
これから先の生き方を180度転換するには、口にするもの二つを劇的に変更する必要があります。
その一つ。「ことだま」。


顔とは、
その生命・その存在の性質や性格が表出している場所。
顔とは、
その存在が持つエネルギーの表現キャンバス。

だから顔を見れば、その存在の性質・性格が一目瞭然。

旧字体である「顏」は、
鉱物性顔料と流れる髪を表現した、まさに顔そのものを示していたと言われます。


多くの生命のみならず、わたしたち人間も例外なく、
言霊の媒体としての言葉を口から発し、
性格・性質を顔によって表現し、
エネルギー体そのものである自らの存在を掲出していることが判ります。


ある程度の年齢を過ぎれば、自分の顔に責任を持て。と、語られてきました。
正しい教えだと判ります。
けれど、そのためには時差があるこの地では、積み重ねた過去からの履歴が必要です。
一朝一夕には「顔」は作られないからです。

自分の顔にそれほどまでに自身があるのか。
と言われても困りますが、自信などありません。
大切なことは、このいまの瞬間を悔いなく精一杯生きることで、その履歴が刻まれてゆくという事実。


隷属化を仕組んだ者たちによる、くだらないエネルギーやノイズに触れ続け、体にダメージを与えることを意図して製造されたジャンクフードを口にしながら言霊を台無しにするような発言を繰り返す。
恥ずかしいと感じることさえできなくなった者は、やはり幼児教育から再度やりなおし、あるいは石ころからやり直しをする、との意味がよく判ります。

岩石で50億年を過ごし、やっと動物に踏んでもらって自分は石だったんだと氣づく、遠大な旅。
動物の糞をかけてもらって、やっと自分が石だったと目が覚める。
ここで「ああ、氣づかせてくれてありがとう、イノシシさん。」という境地に達するかどうか、その次元のプロセスからのやり直し。

そのレベルではなく、現在・いま、ここで人間として体をお借りして生きてゆけること。
ここに感謝が湧き出るのです。
無理やりに・エセわくわくするなど一切必要ありません。
この瞬間瞬間を大切にすることで、この先に顔が形作られてゆきます。

顔から滲み出るのは人柄のみならず、その生命存在「そのものの姿」「そのもののエネルギー」であることに理解が及びます。





体調不良と生命としての振動周波数

美しく謳歌する生命たち photo 宮本章光

体調不良を訴える人たちが急増している様子を感じます。
それは、もしかすると「生命としての自分の周波数」に対して違和感を感じているのかもしれません。
(今日の記事では、4年前に自分から体に毒を取り込んだことによる不具合に関しては横に置き考慮せず進めます。)


---具合が悪いから医者へ。
---調子がよくないから病院へ。
などと安易に走ってしまう姿があります。人それぞれ、その人の自由です。
当然、放置して状況が悪化することもあるでしょうが、それはその人の選択なので誰も口を挟む余地はありません。

けれど、
「有料屠殺場」とさえ揶揄される現代の医療業界に、自分から飛び込んで、尚且つ少なくない費用を投じて、さらには石油利権の塊である魔法の粉(錠剤や液体もあるでしょう)を、何の疑いもなく自らの体に放り込む。

この数年の間に世の裏側で行われてきたことを、なぁ〜にも知らない。いえ、正確には「知ろうとしない」。
それもその人たちの選択なので、もはや触れる必要もなく放置するのみです。


ここで氣がつくこと。
それは、
自分の波動が落ちると不快感を感じるケースが極めて多いという事実。
反対に、その波動が上がれば心地よさと安堵感、満足感が高まるという体感。誰しも経験しているはずです。

まさに心のセンサーとともに、肉体の振動周波数に対しても、同じように極めてデリケートな波動の違いを感じ取るセンサーがあることが判ります。
ところが、
ここでまたまた大きな過ちを繰り返します。


わたしを狙ってネガティブ存在が攻撃しているんだ、などと。
はい、もちろんそれはあるかもしれません。いえ実際にあるでしょう。経験もあります。
でも、
この場合には、極端に強い負の念に囚われるので、逃げられない:まるで手足を含め五感すべてを塞がれたかのような苦しみがあります。
怨念といったような言葉で表現されるものでしょうか。詳しくないのでいい加減なことは言えませんが、生き霊ともされる「他の人・生命から放たれた負の念」は、初めに記した「周波数が異なることによる違和感」とは、まったく異なる感覚だということが理解できます。
同じ不快感・負のエネルギーであっても、まだマシな負なのか、極限まで真っ黒な負なのか。
例えるなら、それほどの差があることがわかります。


これらをごちゃ混ぜにして、よくない存在に狙われている・襲われている...等々、これはどうなのか、と感じる事例が意外と多いように見えます。
多くの場合、自らの波動が大きく下がっていることによる不快感に過ぎないケース。かもしれません。
もちろん、この地で体を持つ人間ですので、さまざまな要因で周波数が低下することなど日常茶飯事だと理解できていれば恐れることはないはず。

喜ぶべきことかもしれません。
そうした不快感を感じられるところにまで精神面の成長が実現したのだと。
寝食を惜しんで馬車馬のごとく走り続けることで、病床に伏すまでその違和感をスルーし続けた、あるいは感じられなかった時代がありました。
しかし、いまならば、激しく大きな違和感がシグナルを発し、緊急停止するであろうことが予想できるからです。


すべての生命そして物質さえも、固有の振動周波数により生存・存在している。
その周波数の乱れにより、病にもなり不具合も生じる。
逆に言えば、その周波数をうまく採り入れ活用するのなら、そうした災いとは無縁になるのだと。
その言葉の本質を知る時代に入りました。






「しっくりくる」を判断基準にする

2025年の春を迎える photo 宮本章光

例えるなら、
上着の肩幅が微妙に合わない。袖丈が短い。違和感を感じる。

この感覚と同じように「周波数/波長が異なる」エネルギーには、違和感を生じます。
音で言うところの不協和音。
(一応但し書きをするのなら、不協和音を意図的に採用しその違和感を表現の手段とする芸術的手法もありますが、周波数という物理指標・絶対値からの観点では、異なる周波数は決して響き合わないことは明白です。)

この世には、例えるなら不協和音が溢れかえっています。
それを体験するための地だから。
そして、それを生み出し、自ら享受しそのプロセスを学ぶための世だから。


いま、この異なる周波数ばかりを選択し、それに対して違和感しかない!とギャーギャー騒ぐ姿が目に余る状況です。
自分でそれを選択している限り、その現実がいつまでも続きます。

ここに氣がつくこと=この地での学びの主題である、と、この境地に達することが卒業証書授与の条件かと思われます。
そして、
卒業式のその日までに、この単位をすべて習得・履修済みでは「ない」人は、卒業ができません。留年・落第です。


今日3月24日、多くの実際の学校で卒業式が行われているようです。
同じように、このタイミングで、地球学校の「最終期生:もう後輩は存在しない」の卒業式を迎えようとしています。
そして、留年も落第も、この地では今後は存在できない、とされます。
この期に至るまでのロードマップは、もう何十年も前から示されていました。いえ、二千年前からでしょうか。
学校そのものが廃校確定であり、三次元物理実体のこの地は、これにて終了だと。

よってここで消滅するわけです。
それは、過去にも5回も6回も、水に流して完全に白紙に戻してきたのです。
その水とは、ポールシフトによる大津波だったとされます。

それなのに、7月になれば何が起きる、どうなる...と、いつまでもその種のエネルギーにフォーカスを合わせ続ける。
その状態。その心の感覚。その肌感覚。
違和感がありますでしょう?感じませんか。
肩幅が合わない感覚。袖丈が短くて氣持ち悪いでしょう。

その違和感がある状態こそ、自分が望まないエネルギーだと知る必要があります。
他方、
そのエネルギーにフォーカスし続けることで、自分はこんなに情報を持ってんだぜ!ドャ!すげーやろ、インフルエンサーの威力を思い知れ!フォロワー7桁超え〜!
だとかやっている人には、違和感は皆無かもしれません。
あるいは、違和感を感じるセンサーが腐りきっているのでシグナルを受け取れないのでしょう。

ええ、大変失礼ながら彼らは別の学校での再教育プログラム確定かと感じます。
それらは、もはや旧いレイヤーのエネルギーゆえ、崩壊・消滅が確定しているわけです。
沈みゆく泥舟の船頭をやっている限り、ともに沈むことは確定と。
ですので、
それを望まないのであれば、「このような違和感を感じない」ものを選択してゆく必要があります。


違和感のないもの。
それは、しっくりくるもの。コト・モノです。

肩幅がビシッと合い、袖丈ばっちり。ここには違和感はなく「心地よさ」のみがあります。
この先に望ましい風景と、望ましい道を創り出してゆくためには、「しっくりくる」感覚を忘れてはならないと思います。
それが、自分の選択。
それが、仕組みだから。

「しっくりくる」を判断基準にする時代の幕開けです。





平五郎へ詣る

平五郎稲荷へ詣る photo 宮本章光

そこには神は居ませんが。
呼ばれたように感じたもので。

その後、なんとなく感じるエネルギーはフェードアウトしてゆきます。
視覚ではなく。
触覚でも聴覚でもなく。
唯一、
嗅覚に近い感覚かもしれません。

見るのではなく、感じる。
そういう時代に入り、その感覚を取り戻しつつある世に生きていることを実感します。




もう道は分離したのです

夕日に輝く水仙 photo 宮本章光

---わからない人には、わかるように伝える。
---知らない人には、先に知った人が教えてあげる。

はい、間違いではありませんでした。
これまでの世では。
ですが、その延長線上の思考をキープする限り、自分自身がそのタイムラインから「脱することができない」と氣づいていない人が多数。


思考が顕現化・具現化する。
この重大なファクターそのものを、本質から理解できていないのですから、先に頭をさげて失礼を詫びた上で記すなら、
「もはや別の世界・別の次元の人々」でしかありません。
この先、ともに未来を切り拓く人たちではありません。

自分はどこを目指すのか。
自分はどこにゆくのか。
それは、自分が創り出すのです。
この世で死んだら終わりではありません。


デモに参加しなければ世の中変わらない!
そう豪語するのは、その人が「そう信じ切っている」から、ご自身でその現実を作り続ける。
じゃ、何もせずにぼーっとしてれば世の中変わるんかい!
そう攻撃的に返答するのは、その人が「そう信じて疑わない」から、ご自分でその現実を永遠に創造し続ける。
結果として、状況はさらに悪化の一途を辿る無限ネガループに落ち込みます。
分離・対立の負の力を欲する勢力が仕組んだワナに、まんまとハマり続けます。いつまでも。ワナだとさえ氣づかずに。


これは仕組みなのです。
これは大原則であって、誰が何と言おうとも決して変わらない仕組み。大法則。
この仕組みそのものと、生み出したエネルギーに対し結果を顕現化する力そのものが神なのですから。
ああ言えばこう言う、
今度は、キミの頭のほうが狂っているだとかスピってるだとか。

結局は、自分がもっとも正しく最も優れている。という大前提を崩そうとせず、我の塊のまま成長を拒否しているという客観的視点がゼロだと氣がつかない状態を示しています。
ですから、
このコア部分を理解できるまでは、永久に学び直しだと伝えられているわけで。
永遠に。です。

言葉が悪く申し訳ないのですが、理解できない人には何を伝えても理解できません。
それは、その段階に達する「時期」の違いだという客観事象に過ぎず、その人の優劣を語っているのではないことも「理解できない」。
いずれ氣づく時が必ずやって来ます。ご自身にその意志があれば、という条件つきですが。
それは、
50億年後かもしれませんし、25,800年一サイクルかもしれません。


腹立たしい。
そう感じるのは、自分が否定されたと思っているからでしょう。
そうではなくて、視点・観点がまったく異なっていることに氣づかなければ事態は打開できないのです。
つまるところ、
これまでの洗脳され隷属化された世を「基盤」に、世の中を変えよう。とする限り、その成長は著しく遅延することが明白です。
(成長しない、と言っているのではありません。激しく遅れますよ、ということです。
それまでは繰り返し他の地・他の星で再教育を受け続け、短くても数万年単位だと伝えられている通りです。
また、せっかく人間という立場とともに学びの機会を与えていただいておきながら、それを有効活用できなかった「因果」は、来世以降に償いが必要であることも忘れずに。)
しかし、
この先の世に求められる「学び方」「成長の仕方」次の世のスタンダード/デフォルトメソッドを選択し採り入れてゆく限りは、飛躍的にそのプロセスが加速することが約束されているわけです。


それは何なのか。
喉から手が出るほど欲しいかもしれません。
わたしも「最終寝坊助組」でギリギリセーフだったと感じています。

この国においては、
口にするもの「二つ」。この場では、これでもか!と数多く綴ってきました。
徹底的に・劇的に変えてゆけば、結果は自動的についてきます。
人体実験した者が語っています。


すでに道は分離した後です。
目の前には残像があるだけ、と語られています。
異なる道を歩む「選択と意志表示」している人は、大変残念で申し訳ありませんが、もう接点を見出すことは不可能です。
世の中には、言い切る=100パーセントの物ごとなど存在しない!と、会社員時代に説教されたことを思い出します。
ですが、それこそが洗脳でした。

異なる周波数は、絶対に「響きあう」ことがありません。
不協和音。
不協和音にこそ新たな芸術的価値を見出すんだ。現代音楽を知らんのか!と叫ぶのは、それこそ論点のすり替えであって、新たな価値があるかどうか、正しいか正しくないかを論じているわけではありません。

決して揺るがない物理法則。
異なる周波数は決して響き合うことはありません。
異なる周波数でスマホが通信できることは絶対にありません。

いま、ここまで理解が至ったのであれば、これまでのさまざまなご縁と接点に感謝を申し上げ、離れます。
もう道は分岐・分離した後です。





この先どんどん良くなる・間違いなく

飯舘はやま湖の早春 photo 宮本章光

混乱の世の中。
欺瞞に満ちた風景。
心を引き締め、足をしっかり地につけて。

そういった言葉が溢れかえっています。
この先、もっともっと悪くなる。さらに苦しみが増してくる。と。
まだまだ激しくなるから頑張れ、と。


果たしてそうでしょうか。
視程の利かない、暗雲立ち込める向こう側に「新しい風景・新しい世の中」を感じませんか。
目に見えないかもしれません。
けれど、その暖かく大きく力強い力に満ちた「氣」を。

見えないものを見る。
それはナンセンスだとされてきました。
それは思い過ごしに過ぎないと教育されてきました。

しかし、見えなければ感じればよいのだと。
もう氣がついたはずです。


まだまだ激しく・苦しくなるから頑張れ。
と語るのは、
一見、善行をアピールしてはいるものの、しかしながら反対方向に波動を拡大しているだけかもしれません。
まさに、本人は知らず知らずのうちに「善の仮面を被った悪」に成り下がっている可能性が大であることに氣がつかないのではないかと。

真っ暗闇の向こう側には、確かに「心地よさと力強さ」をともに備えた新しい波が存在しています。
感じます。
そしていずれ近いうちに、それは目に見えるようになるはずです。

この先にはもっともっとよくなる。
間違いなく。
それは、おまじないでも何でもなく、そう思い描き出すからこそ、この地に顕現化してゆきます。





好きと嫌いと

リスと過ごす photo 宮本章光

好き嫌いはダメだ。
そう教育されてきました。

でも、
その「両方を体験」するからこそ、どちらの「味」も知ることができる。
この本質を忘れないよう。
そのための教室、そのためのこの世。
無理矢理、心を偽ることこそ、負の方向に向いていることを知るべし。

やかましい人は嫌い。
それでいい。

ただ、
そのエネルギーをキープし続けない。
そして、何を望み、自分はどこに行く意志表示をするのか。
ここを明確にすればいい。

それだけ。





吹かれるままに

菜の花畑で出会う photo 宮本章光

強風に身を委ね。

目と耳をいたわる

目と耳を労る

視覚は最大の情報入力手段だとされます。

人間の場合には8割を超え、そしてその次に影響が大きいのは聴覚だと。
しかも、これらは相互作用により感情を「衝き動かす」ために、さらに多大な影響を受けていること(ほぼ乗っ取られているレベル)、体感と経験から十分に理解できるものと思われます。


何を見るのか。
何に意識を合わせるのか。

その場の空氣感を感じようとしてみるならば、周囲に響く音までも美しく共鳴します。
そよ風に揺れる樹々のさま、小鳥のさえずり。


視覚と聴覚を占有される、隷属化と洗脳目的のオールドメディアから離れたあとは、同じくSNSからも距離を取り離れます。
それは、
わたしたちが維持するエネルギー体としての波動を著しく乱すから。
結局は、言論統制があろうが無かろうが、種々メディアから離れられない時点で、立派に洗脳され囚われていること。まさに中毒症状かもしれません。
故意に仕組まれ、意図的に意識を占有する情報など無くても生きてゆけます。
いえ、むしろそれが健全で本来の姿ではないかと。
自分は情報に撹乱されるようなビギナーではない、と宣う人ほど、結果として乗っ取られていることに氣づきません。

こうして、何が必要か不要か。
何を正しいと認識するか、あるいはそうでないか。
こうした体験によって、ここ・この世が玉石混交の状況における学びの地だったことに理解が及びます。
そのための学校・地球だと認識できていれば、何も叫び騒ぐ必要など一切不要であり、百害あって一利なしだと判るはずです。
フォーカスすべきは、
より一層の成長には何が必要か。どうすれば更なる拡大が叶うのかを意識し、それを実践することでしょう。


心地よい周波数を維持すれば、
心地よい現実が顕現化してゆきます。
これ以上に何を語る必要がありましょうか。

わたしたちは、自らの心によって自らの道・現実を創造する能力を持っています。
いえ、それが本来の姿であったこと。
ここまで思い出せたのなら、ノイズから離れ、心地よい周波数に合わせてゆきます。

何を見ていますか。
何を聴いていますか。
目と耳を労れば、その先の現実が変化してゆきます。





それを表現というのでは

それを表現という photo 宮本章光

自分にできること。
自分ができること。

叫ぶこと?でしょうか。
隊列に加わって行進すること?
語ること?でしょうか。
あるいは、書き綴ることでしょうか。

言論統制が現実になった、この国は狂ってる!
と叫ぶことが役目でしょうか。

それは、その周波数を維持する人たちが作り出した現実という名の結晶物、マトリックスに表出した物質次元。
時間差を経て、想念・思念が顕現化するのです。
自分で作ったのだから文句は言えないでしょう。いつになれば大人へと成長できるのでしょうか。
その周波数を維持する限り、永遠にその現実を作り続けます。ご自身が、です。
因果応報。
しかも、同一の周波数はシンクロし共振する物理法則まで。
それが仕組み。

で、キミもこの国の人間やろがぁ!
と返す人は、もうこの場でご縁のある方々の中には存在しないはずです。
この国の人間かどうか。
その観点は、この先に創り上げる自分が望み選ぶ道と、何ら関連はありません。
国民・所属という旧いレイヤーの隷属化の枠組みでしかありません。
自分でその牢屋の中に居続ける必要などまったくありません。ここはVRゲームセンターだと理解したのではなかったのですか。


ひとそれぞれ、一人づつのオーダーメイドな近未来。
これを「自分自身で創り出せる」のです。いつになれば学び体得するのでしょう。

ここまで精神性を拡大し、学び、辿り着いたのであれば、
何も憂う必要などまったくありませんし、もっと言えば、そんなプラットフォームに頼らずとも自己表現は如何様にも可能でしょう。
近視眼的な視野しか持たず、負のエネルギーをいつまでも焚き続けるのは幼稚性丸出しだ、と知ることです。

こうして「望ましい・願う」道を創り出すエネルギーを維持し拡大する。
これこそを「表現」と言うのではないでしょうか。

美しく表現する仲間の姿を見て、恥ずかしいと思いませんか。





よくよく考えて

山で出会う photo 宮本章光

---〇〇のせい。
---XXが原因。
---◇◇が諸悪の根源。

そうでしょうか。
それは、あなたの作り出したものではないでしょうか。
それは、あなたの因果応報。この地に顕現化したあなたの作品。

声を荒げて叫ぶ前に。
よく考えて。
自分の道は自分で創り上げるのだということを。

但し、時間差・タイムラグがあります。
そして、氣がついた人から、この地この世の呪縛から逃れてゆきます。
なぜなら、
自分の道は自分で生み出すことが可能だから。

いつまでも英雄氣取りで叫び、沈みゆく泥舟に乗り続けていれば、正氣に戻った時にはもう手遅れ。
いやはや、すでに手遅れではありますが。
フォーカスを外してゆきます。離れてゆきます。

よく考えて。
よくよく考えて、心に抱き・描く周波数を選択して。






ニセモノを見極めるための世

飯舘の水仙と語らう photo 宮本章光

何が正しいか。
どれが誤りか。

その判断は、人それぞれ。
そして、その違いを論議し成長する。
そのための地。そのためのこの世の教材。

ところが、その違いを「対立へ仕立て上げる」のがこの地を征服したい支配者層の目論見。
成長のための材料、学びのための二極化世界なのですから、それを否定していては成長は叶いません。
けれど、氣づかないように逆手に取られ、落とし穴に嵌められているわけ。


何でも「対立はダメ」だ。
と、その全否定か全肯定かの構図そのものが駄目なのであって、それぞれを尊重し離れればそれでよし。

忘れてはなりません、この大原則。
周波数が異なる存在は決して響き合わないのですから、違いを認めればそれで終了。
そして、必要ない周波数に無理をして合わせようとするのはこの先に望まない結果を生むことになる法則まで知ったのなら。

---無理にでも合わせようとするから成長するんだ...。
---みんなひとつなんだ。
---否定する二元性は幼稚な発想だ。スピっている奴ほど否定する。
だとか。

結局は「おてて繋いでみんな一等賞」に行きつくように仕組まれています。
なんともお見事にハメられていますよ。ということなのですが。

で、ここでわたしがこの構図に触れるのも、結局はその波動にシンクロするのでよくないとも言えます。理解できています。
ではどうして書くのか?です。

ニセモノを見極めるための、玉石混交な世であることを、うわべだけでしか理解しない人が多数存在し、見事に落とし穴にハマり続けているさまが見えるから。
ここまで書けば、腐り切ったセンサーが少しでも回復した人ならば、自己治癒能力や免疫の強化によって本来の姿を取り戻してゆくに違いありません。
指先の切り傷が時間をかけて治ってゆくように。

これでお役は終わり。だと感じています。
何より、この地でこの体を使わせていただける期限終了までが既に射程距離に入っている以上、いつまでも「そうだねそうだね、痛いね、辛いね、一緒に悲しみましょう。」そんな波動に合わせ、最下層から一緒に再度の学び直しする時間は、今生のわたしには残されていません。

ニセモノを見極め、個々人で魂を磨き・精神的成長を実現し続ける。
それこそが、この世で体をお借りして行うミッションですから。





この国には宝物が満ちている

咲き誇る山桜 photo 宮本章光

混乱期だからアンテナをしっかりと張り巡らせて...。
そんな言葉が目の前を流れて消えてゆきました。

どこだったか、誰だったか。もう判りません。
再度そこに行くことも無理でしょう。履歴も逐一削除していますし。
もう見たいとも感じません。


アンテナは、同じ周波数により振幅・共振することでそのエネルギーを受け取る装置でした。
その「張り巡らせた」アンテナは「どんな情報」を捉えるのでしょうか。

---混乱の波動。
---混沌とした崩壊が目前に迫る負のエネルギー。
そのエネルギーによって「共振・共鳴」した人は、何を生み出しますか。
そこで生み出されたものは、どこに具現化しますか。

こうして、結果として混乱や無秩序な負の波動がいつまでも作り出されます。
誰が燃料を焚べているのでしょうか。
誰がいつまでも続けているのでしょうか。

発言と行動でハッキリと見えるようになりました。
これを「善の仮面を被った悪」というのではないでしょうか。
本人はまったく「氣がつなかい」状態。
英雄氣取り。正しく正義感に満ちた行為だと信じて疑わないところに、落とし穴があるのではありませんか。


美しい存在・生命に美しいと伝える。
それは、フワって地に足がつかないダメな行動だ。とされてきました。
果たしてそうでしょうか。
それは仕組まれていたのではないでしょうか。
何もかもが正反対だったのではありませんか。

心から・本心から生み出す美しい波動は、美しい生命と共振し共鳴し、その大きく暖かく穏やかな力が、この地この世に顕現化してゆくのです。
それが大法則。
その仕組みと作用する力そのものが神であると。

この国には、先人が遺した宝物が満ちています。
ありがとうございます。





語らずとも

飯舘で出会う photo 宮本章光

何も話さなくとも。
どこへ移動しなくても。

語らずとも伝わるものは伝わる。
同じ周波数である限り。
この夥しい数の生命から放たれる波動を。

エネルギーのシンクロ。
波長の響き合い。
すべては周波数とその螺旋で成り立っていることを。




イヤイヤ働く世から脱するためには

菜の花畑と響き合う photo 宮本章光

仕方ないから働くのですか。
カネのために...。
いやいや働くのでしょうか。
生活のために...。

ええ、だから結果が出ないのではありませんか。
いや、過去最高の利益を叩き出してるぞ、我が社は!
それに、こんなに充実した生活を楽しみ贅沢もできる裕福な存在だぞ、私は!
と胸を張る人たち、一握り。
あぁ、ここにも裸の王様。恥ずかしげもなく。


それ、大多数の一般臣民を騙し、仕組まれた貨幣経済の詐欺システムによって巻き上げただけでしょう。
もはや多くのひとたちが、この裏側に隠された隷属化の仕組みに氣がついています。
教育から始まって、宗教、医療、メディア、果ては食するものにまで...もういいでしょ。沢山です。
あなたが誇らしげに胸元に掲げるバッジは、そのグローバリスト企業の証。氣がつかないのはご自身のみ。
誰も口にしないだけ。

この国のひとたちは、声を荒げて叫びません。(だからデモだとか負の感情を煽る行為そのものがカネ目当てのサクラだから離れなさい、と言うのです。)
ですが、心に抱く感情=エネルギーは痛いほど伝わります。
それがこの国の人たちが持つ「能力」なのですから。


いま、持って生まれ、育ち、熟成した能力を活かすタイミングを迎えています。
いやいや働くのなら辞めてしまえばいい。
体を失う一歩手間まで突き詰めたからできたのだと思います。わたしの場合には。幸いでした。

けれど、レッドゾーンまで振り切ってしまわなければ氣がつかないのです。
そして、氣がつかないまま体を失った人たちも多数。
ええ、またやり直しです。
どうしてお借りしている体を大切にできなかったのですか?と、幽界に入ってから問われ、あなたはどう答えますか。
神々(というエネルギー存在)や高等・高次存在にまで響きわたるその場で、カネのためだった。と発言するのですか?
未熟さ、恥ずかしさという感情さえもなくしてしまったのですね。
魂存在としての威厳と尊厳はないのですか。

その時に氣がつくのです。
体を失ってから...。
そして、今度こそは!と転生を繰り返しながら、いつまでたっても永遠に学ぼうとせず成長できず。
数千回だとか数万回と、これを繰り返しているのだといいます。
で、いまここ。
もうこの地・この世は、この先には同じ学校としては存在しませんよ。と、ロードマップが示されて久しいわけです。


仕方ないやろ。生活のためやろ。
と、負のエネルギーをいつまでも焚き続ける。
いい加減にお止めになってはいかがですか。

自分の道は、自分の心で描きだすもの。
それを知るためにこの地に生まれ、この地で学ぶ教材。


教科書の最終ページには、こう記されているはずです。
裏側の仕組みを知り、それを多くの人に伝えなさい。そうすることで集合意識が目の前の風景を変えてゆきます。
こうした仕組みを学ぶために、ここにやってきたのですよ。と。
しかし、
「本当に学ぶべき肝心かなめのポイントは」教材には「決して書かれていない」のです。
これは、まだ道半ば。
むしろ、これは落とし穴であって、この記述に従う限りは永遠に卒業が叶わない。そんなワナ。
白紙で何も記されていない、この先にこそ重要ポイントが隠されています。


そのように負の波動に自らがシンクロしている限り、負のエネルギーしか生み出せないことを。
これこそが、教科書には決して書かれることがない、自分で超えるべき課題でしょう。

卒業証書をいただくためには、
自らが望む道を、自らの心によって描き出し、それが時差を伴って生み出せる。というその仕組みを知ること。
そして、それを実践すること。
さらには、そのために存在する多くの生命と、その仕組みでありそこに力を生じる「神」の本質を知ること。
併せて、すべてに感謝を捧げるべく、自らの心の波動を高め維持しなさい。と。

うわべだけ、感謝感謝。
表向きだけ、わくわく。
そんなニセモノの波動は「天からはすべてお見通し」なわけで、化けの皮は一瞬で剥がれ落ち見破られます。
ええ、留年確定でしょう。他星系の教室でもう一度幼児クラスから・一年生からどうぞ。です。


イヤイヤ働く世を変えるのは、すでに数百件もの改革を実現した某大統領ではありません。
自分で作る。自分で創り上げるのです。
その意味。その本質。
ようやく理解できた人が増えてきた感覚があります。
恥ずかしい人たちには、もう触れる必要がありません。離れる一択のみ。時間の無駄。
このお借りした体を使わせていただける時間には限りがあります。
違う道を歩む意志表示をしている人に合わせる必要などまったくありません。会話そのものが無用。

新たな世をともに描き出してゆきましょう。ともに歩みたく思います。
ありがとうございます。





なぜ・どうして?その答えは

輝きをもって photo 宮本章光

いつまでも寒いね〜。
あるいは、夏にはめちゃくちゃ暑いね〜。ですか。
大声で話す。
必要以上の大声を周囲に撒き散らす。迷惑千万。恥ずかしい自己顕示欲。

それは挨拶ことばだから。ですか。
でも、仕組みを理解したならば、そんな挨拶はしないでしょう。

言葉とは言霊としてのエネルギー存在そのものです。
自分の発するエネルギーが、この地に顕現化・具現化してゆきます。


いつまでも寒い寒いと語るご自分が、さらにもっと、いつまでも寒くし続けているのではありませんか。
どうしてこんな世の中なのか。
なぜこんな狂った世なのか。
それは、
自分が騙され続け、そして、いつまでもそこ(その周波数)にフォーカスし続ける自分が具現化しているだけ。

これが大いなる仕組み。
それを学ぶ場所。
学びのためには、玉石混交の環境でホンモノを見極める必要があるから。
ホンモノを見極められないのは、自らの精神的スキル不足。それが身魂相応とされます。

学び終えたら、その教材から離れます。
終えていない人たちは、肉体の死後、再度の教育を受ける他星系へ転送されるだけ、と語り尽くされてきたのです。

やかましいだけのオレがオレが...みてみて私よいこでしょ...な人、もう要りません。
これまでのご縁に感謝を捧げ。
さようなら。


この先に共存できる仲間とともに。
これから共創できる生命存在とともに。





滲み出る溢れ出す

Iitate2020_img_0274P.webp

顔に出る。
容姿に現れる。

滲み出る、
そして溢れ出す。


生命が持つ波動は、顔と容姿に表出してゆきます。
ただし、
それは過去に維持し続けた波動の過去因果、結晶物。

この先に目指す「顔と容姿」は、
いま、ここで何を思い描き、何にフォーカスしているのかにより大きく変化します。
その結果が、時差を経てこの地この世に顕現化してゆきます。

タイムラグを知り、タイムラグを活用し、なりたい姿、望ましい道を創り上げる。
ある意味においては、
負の方向に振れたネガ波動が瞬時に具現化しないよう、タイムラグによって「守られながら」負の波動を生み出し、負の結果を体験できる、とも。

表裏二面性と二極化の地。
貴重な体験ができる学びの地。
よって、両極の存在を認識し、負の力とその体感を得たなら、それでこの地の教材は卒業。
この先に、負の周波数を生み出し続ける愚を重ねず。
この先には、何に焦点を合わせ、どのような波動を維持するかにより、自分の道を自分で創り上げてゆきます。
当然、負の周波数に触れ・生み出し学んだこと・モノは、捨て去るのではなくその「味」を体験、心の糧としてゆきます。
これが学びだと。

滲み出る感性。
溢れ出す感謝の心を。
それは、ポジ・ネガともに。善と悪ともに。
それが大いなる仕組み。
その仕組みと作用する力こそが神であると。
この国の先人が遺した偉大な財産、言霊・心に感謝。




欠陥を体験するこの地だからこそ

春の訪れ photo 宮本章光

完全無欠。
本来わたしたちは完璧でした。
そう語る人たちが増えています。

ようやく氣がついたのだと思います。
けれども、欠陥や至らなさを体験するための地で学んでいるのですから、完全無欠だ・満ち足りている。と、目の前にある事象を含め自分の意識そのものを「偽って・見て見ぬふり」をする「ごっこ遊び」に興じるのは違和感が大きいように感じます。

間違いはないでしょう。
すべては溢れるほど与えられ、満ち足りています。
ところが、洗脳され隷属化され麻痺してしまっていた感覚を取り戻すとともに、自らの本来のポテンシャルに氣がつけば、それでこの地のゲームは終わり。
ここに異論はありません。


では、ゲームオーバーは誰が宣言するのでしょう。
ここが抜け落ちていないでしょうか。
誰かがやってくれる。救世主が現れる。わくわく待ちましょう。
それ自体にも異論はありません。

わたしたちの集合意識がそのように切望すればこそ、それが現実になるに違いありません。
わたしたち自身がそのタイムラインを創り出し、キリストの再臨と第一の復活が現実になるに違いありません。
世界中の人間がそのように意識をキープしている限りは、Bibleを読み解くまでもなく、それが顕現化するだろうこと、容易に想像できます。
心に抱きつづけるエネルギーが時差を経て現実となる仕組みは揺るぎないのですから。
きっと現実になるでしょう。正しいに違いありません。


でも、もう味わい尽くしましたでしょうか。
もう体験し学び尽くしましたでしょうか。
実力テストで満点が取れるだけの力(=精神性の向上と魂レベルの成熟)が身につきましたでしょうか。

ここで胸を張って自分は学び終えた!と宣言できるでしょうか。
大切なポイントは、ここに隠れているように思えるのです。
少しでも「足りなかった部分」「学びが足りない部分」が、きっと残っているはずなのです。

世界規模の法が施行されるはずだ!大金が手に入る!わくわく!
って、それ、隷属化のために仕組まれてきた貨幣経済の枠組みに縛られたままでしょう?
ええ、もちろんそれは望むところです。否定しているものではありません。

けれど、もっと先を見据えて描き出さなければ、この強烈に固着したタイムラインを脱することは難しいのではありませんか。
もっと崇高で、多くの存在と共存できる世へと願う。
でも一歩づつ着実に。浮き足立たずに。ですか?はい、理解できています。
でも目標とゴール地点は、一歩づつでは足りないのです。いつまでも到達できないでしょう。


年間予算を策定したご経験がありますでしょう?営業職をいくつも経験した方ならお分かりのはず。
取り組むべき・策定すべき予算や目標値は、ちょっと赤子の手を捻る程度で手が届く範囲ではダメでした。
同じだと思うのです。

もっと大きくもっと壮大なスケールで、この地を卒業する。
そして、そこで初めて本来の能力を取り戻し生来の地(星)へ帰還する。
しかし、それとて、その「次」には、再び大きなミッションが控えていることでしょう。魂の学びと成長は永遠に続きます。

ですから。
欠陥を「片手に並走させながら・体験しながら(=この地はそういう場所)」、もう氣づいたよ、満点が取れるだけ学んだよ。と高らかに宣言する。
そういった両刀使いができてこそ、本当に卒業が叶うはずだと感じるのです。
まさに、これが「ゲームオーバー」を自ら宣言することではないかと思っています。





顔に出ているのは見えないエネルギー?

陽の光に輝く photo 宮本章光

昨日の記事、
【見た目で判断「できる」世の到来】2025/03/04(Tue) [ Link ]

にて触れていました、内面から生み出され表出する「その生命が保持しているエネルギー」について、あと少し掘り下げてみたいと考えています。

目に見えるか見えないか。
それは見えると思えば見えるのであって、見えないと思えば見えない。
それだけ。

見えないものは「見ようと試みてみる」能動的な動きが必要でしょう。
いつまでも叫び続ける人が後を絶たない「行動せよ」という言葉は、まさにここが語られているはずなのですが、体を使って走り回ることやデモに参加することだ、などと勘違いしている人は、その人自身が、自らそのタイムラインを生み出すので、もはや触れる必要がありません。その波動から離れる。その一択。


行動とは、意識的に自分からフォーカス先を選ぶことでもあるはず。
フォーカスしなければ、その対象・そのポイントには焦点が合わないわけで、周波数が合わなければ「そのエネルギー」にシンクロはできないわけです。
こういう至極当然の仕組みを「思い過ごし」だと刷り込んだ教育洗脳は強烈だったことがわかります。

で、顔に出るのはエネルギー。その存在の周波数の表示。
だと思われるものの、そこに「表出している」のは、過去の成果物。という部分。
意識せずに「単に目に見える」と言葉を置き換えてみると理解が早いのでしょうか。

単に見えている、とは、その周波数に合致せずシンクロが起きていないようにも思えるのですが、少なくとも、その対象の存在を認識している限りは、その時点ですでにフォーカスされているはずでしょう。
面倒なことが多いようです。この物理・物質次元の約束事は。
そして、
人間は、単独単一の意識(植物のように種族全体の集合意識とされるものとは違う)が極めて強力に認識されるため、すべてが自分の能動的な感覚で感じたもののように捉えてしまうところにそれらの課題があるように思われます。

行き着くところ、
目に見えていようが見えていまいが、どちらも自分の意識で感じた、と思ってしまう。
それが人間の特性・特質なのかもしれません。
であれば、
望ましいもの・期待するエネルギーを思い描けばそれでよい。となって、何ら答えを導き出せません。
何か論点のすり替えのように思えてなりません。しかし、それが本来の姿であり、脳内変換を繰り返す「ゲーム」をするために、ここに来ていたのですから、それで良いのでしょう。

そして結論。
だから、思い描くもの抱くものを「誤らない」限りは、望んだそのままの周波数、そしてそのフォーカス対象・事象が顕現化されてゆきますよ。
とやかましいほどに語られてきたことに氣がつきます。
それが選択であり、選択した周波数とはフォーカスした先のことであり、このようにして「自分の現実」は自分自身で創られていますよ。と、結局は振り出しに戻ります。永遠の無限ループはここにも見つかりました。


顔に出ているのは、その存在のエネルギーであることに間違いはないでしょう。
でも、顕現化したものは時差を経ていることを知るならば、この先に望むものだけを描けばよいこと。
それがさらにこの先に時差を持って現実化・物質化・結晶化すること。
この難しい部分を学ぶための対象であり教材だったに違いないと感じます。






見た目で判断「できる」世の到来

そこにある波動 photo 宮本章光

見た目で人を判断してはなりません。
と、そのように教えられてきました。

間違いではありませんでした。
これまでの世においては。


しかしいま、すでに「見た目」だけで、ほぼ大きな誤りをせず判断できる世になったように感じます。
いえ、もっと適切な言葉にするならば、
「見た目で十分に」その存在の持つエネルギー波動が伝わる世の中が、ついに訪れたのだと。

あらゆる生命存在。
それは植物も動物も、そして一人残らず人間さえも。

見た目は、その生命が維持しているエネルギーそのもの。
見た目とは、その生命が放つ波動そのもの。
よって、
見た目が「そのまま」その存在の表現となっていることが理解できます。


もちろん、人間においては、立居振る舞いによって雰囲氣は大きく変わります。
また、言動によっても、受け取る感覚は相当影響を受けます。
けれども、
その一番外側に纏ったコートを脱いだ中身・中心部から、なんとなく感じる「感触」とでも言うような、言葉にできない「雰囲氣」。
そして、
それは、実際には目に見えていないものだったことが判ります。
目で見ているように思えて、実は、その内面から湧き出す力を見ているのだと。
それが「氣」。
それこそが、その存在が維持するエネルギー。その存在そのものだったことに。

そしてそれは、
大変穏やかで平穏な波動、しかし大きく力強く存在する感覚であることも。

目に見えていたのは、実は過去の結晶物。因果の成果物だったことを。
ようやくここまで辿り着きました。





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