「心」も道具の一つに過ぎないと知る

二極化・二元化がよくない。
そんな声を聞く機会が増えてきました。
しかし、
それを体験するための地へ自分から希望しやってきた以上、その仕組みを知り・学ぶことが必要でした。
もちろん、すべて学び終えたから「二極化を卒業しましょう」という意味だと思われますが、どうやらそうではない感触を感じることも少なくありません。
良いかよくないか。
その観点で語られている限り、語りそのものが二元性から卒業できていないわけで、ここに違和感を激しく感じるのだと思われます。
そして行き着くところ。それは「無にならねばならない。それが悟りだ。」と叫びます。
ところが、
そうでなければならない、と語られ、現状はその境地に至っていないからまだまだダメだ。という論法。
これも同じく、良いかよくないかが大前提にあり、ねばならない論から脱却できていない部分に、大きな違和感を感じずにはいられません。
こうして頭の中で捏ねくり回して思いめぐらせる。
そのプロセス自体も学びであるわけですから、肯定も否定もしません(できません)し、それも一つの学びであり体験であるということまで理解が及びます。
ここまで到達して初めて、卒業が叶うのだと判ります。
ああだ、こうだ。それは違う...。とやっている限りは、やっている本人は氣がつきません。
みんな通る道。
誰もが辿る学びと体験の道。
まるで、
幼児を見守る老齢世代の感覚のようにも見えます。
(これも多くの体験を経てその年齢に達してこそ初めて感じられるものだと判ります)
この地では、学びと成長のために二つのツールが貸し出されます。
一つは「体という名の衣」。
もうひとつは「心という取り扱いが極めて難しい道具」。
精神性を拡大し成長を重ね階段を上がってきますと、ある段階に到達したところで「体は借り物・学びの道具」だと知ることができます。
けれども、ここでもう一段の成長が望まれます。
それは、
「体は借り物だけれど、自分の存在は意識体としての心・思考だ」と勘違いすることです。
確かに、自分の存在は「この体」ではないでしょう。
けれども「心としての意識体」でもないのです。
これがまたまた「対(つい)・ペア」でセットになったツールであることまで知り得ましたでしょうか。
体は借り物の教材ツール。
でも、心も同じく学びのためのツール。
では、
自分の存在は何?というところ。
この段階に至ってこそ初めて答えが見えてくるように思われます。
もちろん脳ではありませんし、意識体でもなく。
ここにこそ、すべてを一(いつ)にするエネルギー存在としての自分がある、ということなのですが。
まだまだ二元性や二極化が良いかよくないか。とやっているのも、一つの「授業風景」ではあります。
はい、
小学生の授業風景を微笑ましく眺める授業参観に居合わせた「お祖父さん」の感覚を、もうしばらく味わうことになりましょうか。
紆余曲折、茨の道を歩んでこそ到達できる場所へ、ようやく来れたことを喜んでいます。
多くの導きと護り・守り、御指導に感謝申し上げます。