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宮本章光/宮本陽の視点「開闢」And EM Official Blog

みやもとあきらのしてん AKIRA MIYAMOTO@And EM

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終末の時期に生きる者の役目

美しく飾り付け photo 宮本章光

あれは向こう側、これはワルモノ。
それは悪魔崇拝、これは悪。

それらが溢れる場所、この地球。
そうしたエネルギーに支配されていた(現在もまだ継続)のですから当然でしょう。


そんな裏側の負の力に意識を操られている限り、その世界からは脱出できないのではないでしょうか。
自らの意識に対しては、完全無防備。
そんな地球人。
思考は操られ、憑依され、いつまでも恐怖の力に貪られる。

ですから、
裏側がどうであれ「この先に望む」エネルギーを自分から描き出さない限り、目の前の風景は変わらないわけでして。

それならば、何を描きましょうか。
では、何を顕現化させてゆきましょうか。

それはワルモノ、これは悪...。
とやるのではなく、美しく飾り付けしていただいた方々に労いの意識を送り、そこに盛り付けられた作品に立派な姿を披露してくれた感謝を伝える。

その意識と心の波動が、少しづつシフトしてゆき、願い望む世界を形作ってゆきます。
その大いなる仕組みを知り、体現してゆくこと。
それが、終末の時期に生きる者の役目だと。






モノを捨てるのも確かにひとつの方法ではありますが

in front of Muza photo 宮本章光

「浄化。」
この言葉を、多くの方々が語るようになりました。
その言葉の通り、多くの人たちが実践するようになりました。
よい方向に進んでいることがわかります。

台風を上陸させてしまうような力を自分から生み出したり、地震を自分自身で強大に増幅してしまう力を生み出してしまう、だとか。
もう、そんな負のエネルギーに同化し油を注ぐような行動(それは心に抱く恐怖に根ざした負の念を生み出す力)をする人たちが減少した証として、現実という風景がそれを証明するようになってきました。

負の念を溜め込んだモノを整理するのは一つの手段に違いありません。
断捨離はひとつの方法であることを否定するものではありません。
けれど、
それはまず取っ掛かりのステップであり、その先・その後に取り組む大切なことが残っているのだと再度確認したく。

モノを捨てたから。
不要物を手放したから。
それで終わり...ではないのです。


心の手綱(たずな)を自由自在に操ることができるように。
不要で望まない、故意に仕組まれたエネルギーにフォーカスし、強力な磁石に吸い寄せられたかの如くそのまま離れられなくなることのないように。

心の波動を上げる。
とは、どういう意味だったでしょうか?
わくわくすること?
ええ、それは客観視点では、高い波動を維持しましょうという意味で間違ってはいません。
けれど、イライラを溜め込んだまま、それを見て見ぬふりをし蓋をして、わくわくしましょう。ではないはずなのです。

ここ。間違った方向に進むと、そのエネルギーは他人にすぐ伝わります。
---嫌なことばかり起きるんだけど、わくわくして待ちましょう。
---嫌いなこと嫌なことが山積してるけど、わくわくして乗り越えましょう。
ってな波動は、見事にバレます。

ここが変だよ。というのです。盛大に違和感が伝わってきます。
モノの感覚から心の感覚への移行ができていません。
first stepを終えていないのに、second stepへゆくことはできません。

嫌なことばかりが起きるのは、それが起きるべくして起きるようなエネルギーを初めに自分が生み出したから。
あるいは、過去因果を解消するためにニュートラルに戻そうとして発生している。その仕組みを知ることが不可欠でしょう。
ここを理解したのなら、
「負のエネルギーを解消してくれてありがとう」という感謝に至るはずなのです。

嫌なことばかりあるけど、わくわく「しなければならない」から、と、蓋をしてしまい放置していては、いつまでも解消できないわけで。
心の世界を語っているかに見えて、実は、目の前に現実化、結晶化・物質化したモノに対しては放置したまま。
(物質化したモノは過去想念の生成物・結果だから放置しておけばよい、との論説もありますが、それは望ましくないエネルギーにフォーカスする愚を戒めたものであり、この地球をゴミの山にし取り返しのつかない状態に近いところまで追い込んでしまった責任はわたしたち人間にあり、わたしたち自身にしか浄化できないことを忘れてはなりません。少なくともゴミ屋敷にした限りは、その清掃の責任を取らなければなりません。)
まずは、そこから。
だから、断捨離はその第一歩であり、正しいスタートではあります。

この次には、
上記のように、負のエネルギーを解消してくれてありがとう、の感謝の心に到達できるかどうか。
そして、
幸せとは、そう感じる心の状態である。という大原則で語られるそのままに「心のありよう」を自ら高めてゆくこと。
高めてゆければ、自然とわくわくしますし、自動的に感謝が溢れ出します。

このようにして、負の念を、心の中から追い出してゆきます。
モノを捨てるだけでは次のステップへは進めないのです。
それが、浄化の本質ではないかなと感じるわけです。






誉め誉め称えよ

どうやってこの色を作り出したのだろう photo 宮本章光

どうやって「この色」を作り出したのでしょう?
どうやって「この色」を生み出すのでしょう?

土中にそんな色素が存在するとは思えませんし。
まして、雨にも水道水にも同様に。


彼らに聞いてみたら、きっとこう答えるでしょう。
「自分で生み出すんです・創り出すのですよ」と。

残念ながら、いまのわたしには、彼らとコミュニケーションを図ることは難しいようで、データパケットのようにドーンとメッセージが一瞬で送り込まれてくるような感覚はありません。
現在、波長が異なるのだろうという証明でもあります。


自分で生み出す。
それができることを知っていれば、如何様にも作り出すことができるはずです。
彼らは能動的に動くことはありません。ですが、特定波長のエネルギーによって互いがコミュニケーションをとっていることは種々研究からも明らかでしょう。
そして、互いにその美しさを誉め称えているはずです。


現在、ちょうど時期的には"Joy to the World(もろびとこぞりて)"が聞こえてくるタイミングかもしれません。
歌詞中では「ほめたたえよ」が繰り返されます。
立派さやすばらしさをほめること。いかに素晴らしいかを言葉を尽くして述べること。と訳されますが、そのイベント自体は、決して望ましくない裏側があったことを知った上で、この年には預言(予言:当てモンではない)が現実・顕現化する可能性を強く感じます。
但し、
その顕現化は、わたしたちの集合意識が実現させていることを忘れずに。

はい、自分たち人間がその通りに生み出している。と知ること。これこそがこの地で学ぶべき最後の教材ではないかと思うのです。
---美しい色彩感を顕現化させる(できる)ことを自分自身で知っている植物たち。
---預言の通りに「間違いなく現実になる」などと、わたしたち自身が意識できない(学んでいない)まま「顕現化・現実化」させている人間と。

後者は、自分たちでそれを行っていることを認識していない時点で、この世の最終教材を学び終えていないアラートが点滅しているはず。
学び終えてアラートをOffにするのは、これもまた自分たちの心からなのです。わたしたち人間の集合意識として生み出すエネルギーによって。
植物も人間も、
ともに素晴らしいクリエイターであること、褒め称えるのは、いまこのタイミングこそ。







通じる人に届けばそれでよい

ひとつの仲間存在として photo 宮本章光

みかんを口にする「手・指」が、右手なのか左手なのかによって、味が違うように感じる。
以前に、そういった感覚を記したことがあります。

当時連携していたSNS上では「へぇ!今度試してみます。」
とコメントはいただきましたが、その言葉からは、返信することやいいね!を押すことそのものだけにしか意識がないSNS的心の波動がしっかり伝わってきました。
実際、試されることはなかっただろうと容易に想像でき、その後はなしのつぶて。
そして、別の記事でいいね!返し...だとかやってる姿。
それが良いかよくないか、ではなくて、自分にとってはもう必要ない世界だと。

これらの反応が、如何にも物質次元的といいますか、物質至上の世の落とし物だと感じてしまいます。
人の反応を氣にする。数を氣にする。
それらは、もはや過去のものとなったはずです。
いまだによい子ちゃんアピールや数を追いかける姿には嫌悪感さえ感じる。これが正直なところ。

少し視点を変えてみても同じでしょう。
みかんには豊富な栄養素が含まれている。だとか、一日に必要な何々の栄養分としては何々ミリグラムだ、だとか。
これらの感覚こそ、物質至上な世の中の最たるもの。
但し書き。それらに意味がないということではありません。その感覚の属するフィールドの違いを語っています。


わたしが伝えたかったのは、エネルギーを感じる感覚についてその感触を共有できる人が自分以外に存在していれば嬉しい。ともにその感覚を感じられれば楽しい。という単純なもの。
これからの世は、そのように響き合う感覚を楽しむ世界ではないかと思われます。

実際、果実のトーラス構造にはエネルギーの流れが存在することは間違いないでしょう。
そしてその流れが反対になれば、その感触は変わってしかるべきだと思われます。
枝の根元側を上にしているのか、花の咲いた側を上にしているのか。その差があるに違いないのです。

まずは、果実側にそうした真逆のフローがあることを感じてみる。
そして、
右手右指なのか左手左指なのかの違いは、自らの体そのものが持つエネルギーの流れもあるでしょう。
このような感覚・感触を「感じてみようとしてみれば」実際に感じられる。そんな時代に突入していることがわかります。


過去、これを「氣のせい=思い過ごし」といった言葉によって、その感覚をスポイルされてきました。
耳タコで失礼申します。
「氣のせい」とは、氣というエネルギー存在による影響や変化がそこにありますよ。ということを示している、この国の貴重な言霊。

そして、この果実たちが持つ力(エネルギー波動)に合わせてみようと試行してみますと...。
すると、太陽から齎される膨大な力の流れを「感じられるようにする」あなたの体にアドオンするプラグインのような働きをしますよ。というメッセージさえ受け取る瞬間が出てきます(個人的感覚:明確な言葉ではありません=感じるものです)。

果実(植物)は、食べてもらって出世(魂の成長を実現)するのだと語られています。
その対価として、人にはエネルギーを与える。そして、受け取り側(食する人間側)が望めば、こうした膨大なエネルギーにさえ触れることが可能になる。そんな世界が「すでに」ここにあります。


こうした目に見えない世界を無きものとし、そのフィールドにつながることによる覚醒を阻止されてきた歴史。
ばかばかしい!と思うでしょうか。
そんなことあるわけない!と仰るでしょうか。
そう捉えること、それ自体がご自身の選択した道ですから、良いもよくないもありません。それがあなたの感覚。
もう判断は必要ない。という感覚。
これをジャッジしない、と呼ぶはずなのです。両極で存在する、正と負の片側を見て見ぬふりをすることではありません。ここを間違えることのありませんよう。


同じ波長だけが合致する、同じ周波数だけがシンクロする法則。

嫌悪感さえ感じる旧いプラットフォームから離れ、こうした波動エネルギーに触れる体験を重ねてゆく。
その行為自体が自らのセンサーを磨き上げてゆきます。それが行動する、ということではないかと感じます。
そして、
拡大を続け精神性を高めてゆくことが、成長のプロセスであり間違いのない方向だと実感する瞬間です。
通じる人にだけ伝わればそれでよい。ともに歩むことができる方々へ。






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