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宮本章光/宮本陽の視点「開闢」And EM Official Blog

みやもとあきらのしてん AKIRA MIYAMOTO@And EM

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学び体得したこと・この先へ

飯舘村あいの浮き橋にて photo 宮本章光

多くのことを学びました。
多くの体験を重ねてきました。

まもなく2024年を終えるにあたって、この一年間だけではない、まさしく10年単位での学びのプロセスがあったことに理解が及びます。
この過程を、写真撮影という切り口から振り返り辿ってみます。


スマートフォンのカメラが高性能・高機能化するとともに、あるいは搭載されるチップや周辺プロセッサの能力を持て余すようになってきますと、撮影時点での画像処理にその余力が使われるようになってきます。

後処理でパソコン画面に向かい、自分の望む結果を得るために試行錯誤する。
そんな楽しさまでも、スマートフォンのカメラは「シャッタータップの瞬間(あるいはそれまでの間)に」処理し、望ましいとされる結果にまで仕上げて保存するようになったのです。

こうして「何も考えずにシャッター押すだけでキレイに撮れる」と言われるスマホ写真の出来上がり。
時代はここにまで一氣に到達してしまいました。
並行して、
Instagramに見られるような、故意に階調や色調を破壊して遊ぶ、といった成熟した時代の落とし子のような道も作られました。

成熟し切ったカメラと画像処理のセット性能・プロセスにより、撮影者は、もはや「やることがない」状態になったとも言えます。
撮って・フィルター・秒速でSNSアップロード。
そして、
どれだけ短時間でどれだけ多くの「いいね!」を集めるか。人々の関心は、そんなところに落ちぶれて(個人的感覚)行きます。

---もうやることがない撮影者。
—だれが撮っても似た様な写真ばかりのSNS。

ところが!です。
ここでブレイクスルーが起きます。


同じ空を撮っても、全然パワーが違う。
同じ花を撮っても、まったくエネルギーが異なる。
そんな写真に巡り合う機会。間違いなく増えてきました。

答えを急ぎます。

それは、
撮影者が「撮影時点で心を込めている」からではありませんか。
撮影者が「撮影時点で被写体のエネルギーを閉じ込めている」ことが判りますでしょう。
そして、
鑑賞者が、その心やエネルギーを「感じよう」とすると、その瞬間にシンクロし強力な力となって語りはじめます。


そんなバカな!
そんなことあるわけない!

果たしてそうでしょうか?
もう実体験している方も多いはずです。

この世には、目に見えることや形として触れることができないエネルギーが数多く存在しています。
—- 新年に神社に参って手を合わせるのはなぜですか?
—- お盆にご先祖にお参りするのはなぜですか?
そこに、目に見えて形として触れることができるものはありますか?


こういうことなのですね。
もう、世の中は、
「この目に見えないけれども強力なパワーを秘めた何か」
について、朧げながらでも理解しようとし、それを本心から信じ・感じることによって、その力を味方にする人たちが急激に増えています。
いえ、もう分岐した片側一方の道を歩むひとたちすべてが、この感覚を自分のものとして感じられるはずです。


こうした精神世界に通じる感覚をバカにし、古い枠組みの中でしか思考できない人たち。
そうした人たちは、まず「写真」というアート・芸術から、そしてクリエイティビティの分野から「接点を失って」行きます。
そして、
自らの感性がまったく役に立たないレベルに腐っていると知ることになります。
しかし、それを真に知り理解できるのは「この地にお借りした体をお返しした後」でなければ判らないのです。
そして、25,800年サイクルや果ては50億年サイクルの「学び直し」を、石ころになって踏みつけられるところから学習し直す。
(こういう話さえも、いまだに君のアタマは狂ってる!スピってるバカな輩!としか受け入れられない。ある意味では可哀想な人たちかもしれません。)
それが彼らの選択であり自ら望んだ道だったのですから仕方ありません。
ともにこの地で同じ時代を生きたことに感謝いたします。ありがとう、そしてさようなら。


もう「心で撮る時代」になったことを感じますでしょう。
食わず嫌いをせず、まずそのパワーを感じてみませんか?
食わず嫌いをせず、まずその力を受け止めてみませんか?

ますます楽しく、ますます深いところに進化してゆく世界。
写真だけではなく、新たな世の中がもうその方向に進んでいるのですから。


ところが、進化・深化・学びは止まるところを知りません。
魂の成長は永遠だと語られる所以でしょうか。
このようにして、心の重要さを認識しながら撮影を続けているにもかかわらず、ある時点で限界に到達します。

これは、いわゆるスランプとは、また違った現象だと思われますが、
「感じることができない」
という天井を見てしまうケースです。

「感じることができない」

それは、心の目を開いておらず、物理面だけの処理をどんどん進めていった結果だと感じています。

レンズに投資し、
望ましい性能を実現するボディを入手し、
後工程での画像処理のスキルも高めてきました。
並行して、スマートフォンカメラによるお任せ処理の恩恵にも預かりながら撮影を楽しんできたはずです。


ここで、大きな階段を一つ上がる必要がある、ということです。
心を大切に。と、頭では理解していたはずなのに、うわべだけ・言葉づらだけしか判っていなかった、ということでしょう。

PCの世界で例えるなら、
CPUの性能は、ムーアの法則に則って間違いなく進化してきました。
メモリーやストレージの性能も、飛躍的に進歩を重ねてきました。
そして、
その法則は限界に達します。
その性能は「もう使う場所がない」状況にまで達してしまったということでしょう。
物質次元的な成長はすでにその先が頭打ちだと。
結局は、PCたるその道具を使って「なにをなし得るのか・何を成し遂げたか」が、完全に抜け落ちているのだと。


この状況を乗り越えるためには、
「心の目を開いて被写体と会話する」道を進みましょう。との天からの啓示を受けている証ではないでしょうか。


ようやく、この部分を前面に出して語れる時期がやってきたように思います。
2024年は、過去10年あるいは12年間の総決算だったことが理解できます。
望ましい風景を心から描き出してまいりましょう。
自分の望む道は、自分の心が生み出す波動から創られます。
その先に、2025年から拡大する輝かしい近未来が拓けてゆくはずです。






顔を見ればわかる

顔を見ればわかる photo 宮本章光

顔を見れば伝わる。
顔を見ればその存在が放つエネルギーを感じることができます。


植物は花だけが顔ではないのでしょうが、この地においては、美しくアピールする花こそがストレートに表情を伝えてきます。
いえ、表情という言葉は適切ではないのかもしれません。
それぞれの存在によって異なる波長を持っていることが理解できるように。

人間はさらにストレートでしょう。
例えがよくないとは感じますが、カネの亡者は完璧に顔に出ていることが伝わります。もちろん話し方もですが。
顔に出る...というよりは、その存在が放つエネルギーがピュアではない、と言えば理解できるでしょうか。
重い。自分だけ良ければいい。自らの利益のためには相手構わず強要するよろしくない感覚。同じく詐欺師の類の顔も、汚れたエネルギー。
(え?そんな存在など見たことも会ったこともない?ですか。メディアやwebに溢れ返っていますけれど。)

もっと言えば、自己顕示欲満々の波長もかなり汚い。オレが俺が...な波長は真っ黒、重すぎるエネルギー。胃につかえてしまった食べ物のように。戻しそうになる感覚。
口先・話し語る言葉だけは美辞麗句を纏い飾り立て。


これらの対極にある波長はどのように感じるでしょうか。
上記のように極めてピュア。非常に純粋な美しさを感じる力。
軽い。けれどもしっかりと存在感を放つ大きな波。それは言葉ではなく。
あるいは、
暖かい日差しのような包容力に似た安心感さえも。

顔を見ればわかります。
その存在が持つ周波数、その生命が放つその時点でのエネルギーを。
この延長線上に、言葉なくして意思疎通が叶う世があるのだと理解できます。
はい、それは自分がそのエネルギーに合致し増幅することを許可した証でもあります。

顔を見れば伝わる。
顔を見れば理解できる。
その世に相応しい生き方を選択する限り。





20年間の成長と学びと

20年前のテーブル装花を思い出す photo 宮本章光

まるで別人のよう。

わたしが20年前に撮影した、あるバンケットのテーブル装花。
さすがに若かった。時間が経ったからこそ感じる感覚。

光の「感じ方」が現在とはまるで違います。
だから他人の作品のように感じるのでしょう。


良いかよくないか。
そういった観点ではなく、その時どきの感覚・感性は違って当たり前だと。
20年も経てば、その間に数えきれない経験を重ねてきたでしょう。数えきれないショットを押してきたでしょう。

逆に言うのなら。
その瞬間・その一瞬は、決して同じものが存在しないことも。
だから一期一会。
かくして、いまを目一杯生きるのだと。

それが成長と学び。
膨大な体験と濃密な学びと。

卒業証書をいただくのが目的ではなく。
永遠に続く学びの旅の区切りにおいて。





波長を感じる・生み出すとは

波長を合わせる photo 宮本章光

波長を感じてみます。
周波数を合わせてみます。

同じこの地に生きる生命だから。

でも、繋がっている先は人間とは天と地ほどの違いがあるのでしょう。
その先にまで意識を拡大してみます。
必ずつながることができます。
感じるためのセンサーが、これまでは腐りきっていたのですから、少しづつ戻してゆきましょう。

色を感じることは多くの方にとって難しくはないはず。
「色」も可視光線帯域にその振幅が存在する、人の目に認識できる周波数。
色の違いは「波長の違い」そのもの。

このような「色の違い」を感じるのと同様に、波長の違いに自分の心をチューニングしてゆきます。
すべての生命・あるいは物質でさえも、固有の周波数を持ったエネルギー存在であること。もはや語る必要さえなくなりました。
その「違い」を「色の違いを見分ける」ように認識してゆきます。

難しくないことが容易に理解できるはずです。
緑色と黄色。
黒と白。
このように、個別・固有の波長があることを、当たり前すぎる感覚として感じるはずです。

暖かい力があるでしょう。
穏やかな力を感じるでしょうか。
あるいは、
多少荒っぽい波があるのかもしれません。

そして、自分の心の状態によって、また人によって千差万別。まったく異なる感覚を受けることさえあるでしょう。
それは「氣のせい(=思い過ごしとして誤って洗脳されてきました)」などではなく、自分の心が合致している周波数であることを学ぶ機会を迎えています。
そこに存在する「氣」とは、その特定周波数のエネルギーのことを指し示しています。


自分が心に描くこと。
それは「自分がその波長に合致・シンクロさせ、それを増幅し目に見えないフィールドにエネルギーとして生み出す」というアクションを行なっているのだと。
高次的な感覚では、それは「自分が許可証を出した波動」「自分が生み出すことを選択したエネルギー」といった感覚で伝えられることも多いでしょう。
物質次元的には、そして幼稚園児や小学生であった地球人にはこれらの語りは難しすぎたのです。
色の違いを感じるように、自分の心がシンクロするエネルギーを選ぶこと。
選んだ。とはまさしく自分がそのエネルギーを増幅すると許可したことなのだと。


何もないところに生み出すのは「自分の責任」。
その本質はここにあります。
発言と行動に責任を持つ...といった旧来の意識は、この先の世では「何を思い何を生み出すか」に非常に重要なポイントがあり、そこに責任を持つことが求められます。
そして、
地球人の集合意識が等しく同じ方向へのベクトルを持って拡大し、特定閾値(しきいち)を超えた瞬間に、世の中という目の前の風景は一転するはずです。






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