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宮本章光/宮本陽の視点「開闢」And EM Official Blog

みやもとあきらのしてん AKIRA MIYAMOTO@And EM

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「自分を忘れ去った」地球の大人たちへ

朽ちた樹木から伝わるもの photo 宮本章光

自分探し。
そんな言葉が一時注目されたこともあったように思われます。

探しても見つからないでしょう。
自分は自分で、ここに存在しているのですから。
探さなければ見つからない。と思い込んでいる自分がそのように作り上げているだけだと氣がついてないわけです。
ここに固着していると、まるで絡まった糸のように、もう解くのは無理かもしれません。


そもそも「よい子ちゃん」で居ることを強制された時点で、そこに染まり切ってしまった自分に氣がついていない。
幼児期から小学生頃までの7〜10年間。
親の言う通りに、そして先生の言うとおりに「よい子ちゃん」として生きることを強制した教育という洗脳。

(わたしは一旦これをやって突き詰め、次に過ちに氣づき、そして再び失敗を繰り返したこと。この場でも数多く綴ってきました。)
【参考】[Link]「生後21,916日めに思う」2023/05/28(Sun)

それが正しいこと、それが良いこと。
そのように何の疑いもなく大人になり、そして年老いてさえ、いつまでも「よい子ちゃん」で居続ける。
人の目を氣にし、人の評価に腐心して生きる。
それが良いことだと、一生涯信じ続ける。
自分はこれほどまでによい子ちゃんなんだぞ!とアピールすることが美徳だと信じきっている哀れな姿。

この5年間で学んだはずです。
人の言う通り、人に合わせることで、生命まで失う人たちが身を持って教材のごとく示してくれたことを。


自分を探すとは。
こうした「よい子ちゃん」で居続けることに疲れてしまった、本当の自分:魂レベルからのアラートだと理解をする必要があります。
他方、
その道のビジネス戦略にハマってしまいますと、嫌なことはやらない・人のことは聞かない、自分勝手に生きることが正しいのだと「大きな勘違い」をしてしまう人も多数。
これまた、その道こそ真実だと信じきっている、教祖様を崇める宗教と同じ惨めな姿。


人は、何か分類をしてラベルを貼りたがります。
イイものワルもの。まさにこの最たるものでしょう。
光だ影だ、あちら側だからけしからん!悪よ滅べ!と、いつまでもやっている人たちが減らないのを見てもよく判ります。


では、分類をやめてラベル貼りを止めれば、それで終了でしょうか?
ジャッジしない。それが正しい。と?
いえ、落とし穴はそんなに浅くないのです。もっと限りなく深く、一旦落ち込むとまさに底なしではないでしょうか。

この場で、ずっと継続してご縁を繋いでいただいている方にとっては、もはや耳タコでしょう。
この深い底なしの穴から這い上がり、V字回復するために必要なこと。

それは、
「自分で創ること」。
ここが抜け落ちたままです。


自分で創るとは、心からエネルギーを生み出すこと。
自分でフォーカスする周波数を厳選し責任を持つこと。
そのためには、
望ましいエネルギーを認識できることが大前提にあります。
よい子ちゃんでいることが完全に誤りであったと認識するレベルは、エントリーシート提出以前の朝飯前基本スキルでしょう。
そして、
そのためにはセンサーを磨き上げるプロセスが不可欠です。

磨き上げるには、ポリシングクロスでごしごしやるのと同じく、口にするもの二つ「言靈と食べ物」を劇的に変更して磨き上げねばなりません。
このプロセスなしにピカピカに光輝くことはあり得ません。当然時間もかかります。
過去の記事でも、嫌というほど綴ってきました。
いつまでも青牙イヤフォンを耳に挿し、スマホ片手にジャンクフードを口に放り込むような生き方を続けている限り、この初等プログラムを終えることは決して叶いません。

また、不要なゴミを一切合切捨て去る必要があります。
それは物理的にモノを捨てるという意味ではありません。断捨離したから大丈夫、と思う氣持ちがそもそも誤っていることに氣がつかないのです。
心のゴミを捨てる。
ここが理解できなければ、もう先に進めません。


ここまで聞くと、キミは奇妙な宗教に犯されたアタマの狂った奴だ。
と感じることが大半であると思われ、それは、そう感じる心を維持している自分自身の未熟さを認識していない状態。
そんな低レベルで、くだらない洗脳に侵されていたんだな、と、自分の心を俯瞰できない時点で、同じくここで終了。先に進むことは不可能です。
すでに数多く語られているとおり、石ころからやり直してくだされば。どうぞお元氣で。


これらをすべてクリアしてきますと、明快に感覚が復活してきます。感じられるようになります。
自分を探す必要などまったくなくなります。
同時に、
唯物主義、物理物質次元的な、モノ至上の世の中が崩壊している状況が手に取るように理解できます。
この点だけは聖書の通りでしょうか。
大淫婦バビロンが滅ぶ、とは、まさにこの貨幣経済・資本主義社会の崩壊を示していることに異論はないでしょう。

この時点で宗教洗脳を卒業できない層は、
エゼキエル戦争が起き、続いて再臨、あるいは携挙、それに大患難時代が「発生しなけばならない」と、やってしまうのです。

それは、そう信じきっている人々の心が生み出すエネルギーが集合体になって、わたしたち自身が生み出すことに氣がついていません。
同じく、彼らもここで足踏み状態、一切この先に進むことができません。
聖書とは、その昔、この地に降り立った高次他星系存在が、二千年ののちに「地球人が自分たちの集合意識によって道を作り替える」ことができるんだ、と知るための教材として遺してくれたのかもしれません。
ですから、預言の通りになると思っている限りその通りになりますし、そうではない未来を自分で創ろうではないか!と一念発起する人たちが増えると現実が異なるタイムラインに変更できるんだと。自分たちが自分で創り上げることを学ぶための教科書だったのではないのかなと。
そう感じています。

7月大災害がやってくる...云々も同じ。
そう思う心が束ねられて、わたしたち自身がそれを現実にしてしまうのです。

甚大な災害はもうこの国においては発生しなくなっています。
それは、そういった負の力にフォーカスしない「どうでもいい・眼中にない」そういったポヨンな人たちのエネルギーが、それらを無いものとして上書きしてくれていること。何度も綴ってきました。
それなのに、
自己顕示欲・自己承認欲求のまま、話題性があるから、と、いつまでもその負のエネルギーを焚き続ける愚を繰り返す。
彼らも、この段階で終了。この先一切進むことができません。
アミの小説のように、山に逃げた人たちが救われない(自分たちだけが良ければそれでいいという感覚)のと同じです。ここに氣がついていないので終了です。


テストは永遠に続きます。
疲れてしまいました。でも取り組む以外に道がありません。
もういい、やめてほしい。
しかしそう思っていると卒業できないぞ。という教えもあります。けれどまたまた、これが教祖様の洗脳だと判ります。

もういい、と思うのはその時の感覚であって、それをストレートに正直に感じればいい。
これをやめるように、臭いものにフタをする癖が、結局自分を感じ取れなくしている、自分自身が掘った落とし穴。
そこに自分で落ちて苦しむのですから、これを観察している他星系の存在はため息も出ないでしょう。


いまどのような感情であるのか。
いまどのようなエネルギーにフォーカスしているのか。
これを正直に感じること。
ここまで長い旅を続け、ようやく辿りついた人たちが取り組むファーストステップでしょう。

ここにフタをしない。
けれど、それを長くキープしない。
続いて、望ましいものを生み出してゆく。

そんなこと分かりきってんだよ。そんな単純じゃないから苦しんでんだよ。
などと叫ぶ声が聞こえます。
しかし、それとて、自分が「ホラーハウス地球」をもっともっと楽しむために、勝手に生み出しているクセだったと氣づく必要があります。


詰まるところ、
お花畑...と、これまでは横目で蔑んで見下されてきたような、そんな心地よく暖かい氣持ち。そんな穏やかな心。
これを維持することが、最短で望む世を創り上げる方法だったのです。
人間の体をお借りしながら、心は猫として生きる道が最適解だったと頷きます。


あらためて極々ビギナーレベルからの道筋をトレースし、復習記事としてみました。
一人でも多くの方々がここに到達し、この先の世をともに創り上げる仲間として歩んでいただけますように。

「自分を忘れ去った」地球の大人たちへ。





森の息吹を取り込む・不協和音が新たな響きに

呼吸を整え森の息吹を取り込む photo 宮本章光

人混みで、不要な波動やノイズにまみれてしまいますと、自らの波動が乱れます。
頭痛や体調不良に陥ります。

異なる周波数は不協和音でしかなく、そこにシンクロは実現せずごちゃ混ぜのゴミ箱の様相を呈します。
すべては固有の周波数を持ったエネルギーだと体感する瞬間でもあります。

しかしながら、不協和音を新たな芸術の手法とする表現があるように、異なる周波数を取り入れてみる試みは無駄にはならないでしょう。
新たな感覚として受け入れてみますと、そこに味があるかどうか、瞬時に「何らかの感触」が得られるはずです。

他方、まったく味がない。そういった感触となるケースもあります。
これは、何の感触も感じない状態。
まさに、束ねることによって新しいエネルギーが生み出される可能性がゼロに近いのだと、こちらも瞬時に理解できるはずです。


いま、感覚的なもの、これこそが所謂精神性の拡大だとされていますが、こうした感触に対して多くの人たちが理解を示しつつあります。
これまでの世では、こうした感覚について話しますと、途端におかしな輩、狂ったアタマの奴、などとされてきました。
わたしの同世代は、そうした人たちが多かったように思われます。
けれども、唯物主義、物質一辺倒の世が終わりを迎えるとともに、こうした感覚の世界が飛躍的に拡大しています。


ここで氣がつくこと。
それは、
単に「異なる周波数だからNG」という単純な分類ではなく、上記のように不協和音であっても新たな芸術となり得るように、異なる周波数が「束ねられて美しく新たな響き」となる事例もあることです。

森に入りますと、さまざまな存在が独自の波長でエネルギーを放出している様子を感じられます。
不思議なことに、それぞれが異なる周波数なのにも関わらず、見事に響き合っている状態が伝わってくるのです。
なるほど、
不協和音は、受け入れられないノイズである場合と、新しい響きとして創り出される場合と、両方存在するのだなと。


人混みに紛れてしまいますと、この「受け入れられないノイズ」に苛まれます。
ものの数十秒で頭痛がやってきて体調不良を感じることさえあります。
しかし、
森には、異なる周波数が「新しい芸術を生み出す」ように、大きな可能性を齎すことを体感します。

フォーカスすべきは後者。
物質次元的な、そして二元的な、単に線引きだけしてOK・NGと分類するのではなく、新たな可能性を探るべく森の息吹に触れる必要があることを感じます。
そしてその体験こそ、この先の世に必要な感覚であることも。




ともに生きる世へ向かう感謝の心

ともに生きる姿 photo 宮本章光

崖と山道を隔てる朽ち果てた木。
そこに息づく数多くの生命存在。


多くの人たちは、目もくれず黙って通り過ぎて行きます。
手元のヤマレコやYAMAPアプリに注視するばかりで、先を急ぎ時間に支配されている姿がアリアリと伝わってきます。
規定ルートをトレースすれば、過去最長だとか過去最短時間、だとかSNSにあげて悦に入る。

何のために山に入ったのでしょう。
アプリに踏破記録を残すため?そしてSNSで注目を集めるため。でしょうか。
ここでも、結局は自己顕示欲と自己承認欲求を満たすばかりで、自然の波動と共鳴しあう体験が二の次になっている様子が非常に残念です。
ええ、まだ都会のど真ん中で、体によくない食べ物・飲み物を口にしながらSNS/webに釘付けになっているよりは、何倍も望ましい行動には違いありませんが。


物質物理実体の賞味期限を終えれば、お土に還り、新たな仲間へその抜け殻を提供してゆく。
この輪廻。この循環。
遠大、且つ深淵な時の刻みがこの足元で繰り広げられていることに、あらためて感激と驚きを感じます。
そして、ここに感謝の念が湧き出します。


このところ山道で出会う・すれ違う方々。
このようなアプリに支配されてしまっている姿とともに、この場の空氣感や自然(じねん)の波動に共鳴してみよう、といった感覚を持つ人たちが急激に減少しているように見えます。

市街地至近の場所であっても、千メートル近い高さまで自分の足で登ることであり、その高さから街を眺めるだけでも別世界の感覚を得られます。同時にその体験ができるのは、お借りしている体があるから、という点にも礼を忘れず。
何より、
自然の波動は強力でありながら、大変暖かく広く穏やかな懐を提供してくれていることを実感し、ここにも感謝が溢れます。


貨幣経済は、わたしたちが「終わらせる」必要があります。
そして、そのために「行動する」必要があります。
他国の大統領が行うのではありません。くるくる詐欺をやっている人たちは、いつまでそのループにハマったままでいるのでしょうか。自分はくるくる詐欺ではない!と叫んでいる時点で、まさに「善の仮面を被った悪」に落ちぶれていることに氣がついていない末期的症状。
すべてはエネルギー波動なのです。フォーカスするもの・対象に合致したエネルギーが、この世では時差を経て顕現化してゆきます。
これが仕組みであり例外はありません。


終わらせる、とは、悪しき旧い波動にフォーカスせずに、自然(じねん)と調和し共生するエネルギーを生み出してゆくことで、その周波数のエネルギーを束ね拡大し、臨界点・閾値を超えることによって望ましい世を顕現化させてゆくこと。
同じく、
行動する、とは、デモに参加することでも悪よ滅べ!と叫び踊ることでもなく、心からこうした波動を生み出してゆくことです。
結果として、穏やかでありながら強力で望ましい波動が生み出され、そこに感謝が満ち溢れます。

これを「何もしていない!」と批判するのは、物理実体を使い走り回ることだけを行動だと解釈している証であり、その唯物主義的で未熟な狭い精神性では、この世を脱し新たな世に入ることなど叶うわけがありません。


まして、
貨幣資産をもっと多く手に入れて幸せになろう、などと毎日感謝感謝と念仏を唱えることではありませんし、そうして「フォーカスしている先」のエネルギーにシンクロしている自分自身が、結果として「いつまでも古き悪しきエネルギー」を増幅し続けてしまうのです。
これを善の仮面を被った悪、というのではないでしょうか。


ともに生きる生命存在と、
そこに共鳴できる体験と。
そして、湧き出す感謝の波動を大きく拡大してゆきます。
この先に望ましい道を切り拓くのは、この方法しかありません。




自分ができる「得意」を積み上げる

草木と昆虫と photo 宮本章光

イヤイヤ働く。
金のために。
生きるために。

そんな時代が終わろうとしています。

それなのに、その無理矢理に強制された仕組みに、あろうことか「自分からしがみつく」。
怖いから...。
生きてゆけないから...。

果たしてそうでしょうか。
自分がそのように考えるから、自分で生み出しているだけでしょう。
必ず他の道があるはずです。


恐怖に基づいた世の中、そこに依存しなければならない世でした。
故意に作り上げられた仕組みでした。

恐怖から逃れるために、その恐怖を「取り除く」「軽減する」役務を作り出し、そこにカネを生み出し、上へ上へと蓄積されてゆく仕組み。ピラミッド構造の最上部だけがその恩恵に預かる。
その一つ、好例としては、
何も無いところに恐怖の種となる病を生み出して、そこから逃れるために治療という名の行為と薬という名の石油由来・魔法の粉/液体を提供する。
そんな仕組み。

そのベースになる貨幣経済。
それがないと生きてゆけないと教育段階から洗脳し、実際にそうならざるを得ない世を作り出す。
そんな仕組み。
もういいでしょう。


アタマでは理解できたことかと思います。
でも、それを「終わらせる」のは、わたしたち自身だと理解できていません。
終わらせるとはどういう意味でしょうか。

どこかの大統領が世の中を変えてくれる。と、流れが変わるのを待ち続ける。わくわくして。でしょうか。
ええ、
確かに世の中を変える「きっかけ」は強力に生み出しています。否定できません。けれど、そのあとに「望む風景」は、自分で描き出さねば、決して生まれてきません。

ここが抜け落ちています。


廃墟になった建物を撤去して更地にしてくれるところまでのお役目はあるでしょう。
ぶっ壊し役だから...、などと語るのも間違っていません。いかにも評論家氣取りで。もうそんな役目も要りませんから。
でも、
更地になったところへ、どのような建物を建てますか?あるいは畑として耕しましょうか?
その青写真・ロードマップ、シナリオは自分で描かねば、誰も書いてくれません。

もう、崩壊する旧来の世が行き着く先は確定しているわけです。
そこにいつまでも浸っていても、一緒に滅亡するだけ。
判っているはずなのに、このタイムラインから脱出しようとしないのはどうしてですか?

脱出する=その先を自分で作り出す。
ではないのでしょうか。


では、くるくる詐欺をやる人が叫ぶように、明日から世の中がガラッと変わったとしましょう。
で、自分はどうやって生きてゆきますか。
途端に恥ずかしいだけの存在に落ちぶれてゆくのが目に見えていますでしょう。
会社のバッジは役に立ちません。会社の看板も歴史も何もありません。

あるのは「自分」ひとり、その存在だけです。
その日を見据えて、自分を磨き・高めてきた成果がここで花開きます。
会社に忠誠を誓い心身ともに捧げてこられたのでしょう。しかしそれは、会社社長になり貨幣資産を築いたまでは良かったでしょう。そういった旧いレイヤーがあった時代には。
けれど、もうそのタイムラインは終了したのではありませんか。
そして、
この先に歩むタイムラインにおいては、膨大な負の因果を重ねただけだったことに腰を抜かして立ち上がれなくなります。


何ができますか。
何を・誰に提供できますか。
あるいは、
ひたすら「猫として生きる(例えです)」ような道もアリでしょう。
穏やかに、一切の負の波動を生み出さないという時点で、現在のどの人間よりも優れているのは確かです。


会社に在籍している時点で、最も高いハードルがここにありました。
わたしの場合は、病床で一週間の空白と思考の時間を与えられたのが幸いでした。けれど、忙しい忙しい、と走り回るだけの人たちには難しいかもしれません。
逆に言えば、その程度の課題さえも乗り越えられないのなら、やはり、初等教育から最低でも25,800年サイクルはやり直し学び直しをするのが良いとも感じます。
それも無理なら、なるほど50億年間イノシシに糞尿を掛けていただいて岩石からやり直すのが必要なのだと頷けます。


自分は何ができますか。
自分は何を・誰に提供できますか。
単に、忙しい忙しいを口癖にして、そんな超ベーシック課題にさえ取り組もうとしない。
なるほど、身魂相応とはよく言ったものです。

自分にできることを、同じ波長で共鳴する人たち・仲間の生命とともに取り組んでゆく。
そうやって伸びてゆこうとする「氣概」そのものが、シンクロし束ねられて、新しいエネルギーとしてこの地を具現化してゆくのです。

繰り返します。
自分は何ができますか。
自分は何を・誰に提供できますか。

自分ができることを知り、それを積み上げるからこそ、その周波数のエネルギーが成就します。
ここにも因果の法則が成り立ちます。




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