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宮本章光/宮本陽の視点「開闢」And EM Official Blog

みやもとあきらのしてん AKIRA MIYAMOTO@And EM

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ともに生きる世へ向かう感謝の心

ともに生きる姿 photo 宮本章光

崖と山道を隔てる朽ち果てた木。
そこに息づく数多くの生命存在。


多くの人たちは、目もくれず黙って通り過ぎて行きます。
手元のヤマレコやYAMAPアプリに注視するばかりで、先を急ぎ時間に支配されている姿がアリアリと伝わってきます。
規定ルートをトレースすれば、過去最長だとか過去最短時間、だとかSNSにあげて悦に入る。

何のために山に入ったのでしょう。
アプリに踏破記録を残すため?そしてSNSで注目を集めるため。でしょうか。
ここでも、結局は自己顕示欲と自己承認欲求を満たすばかりで、自然の波動と共鳴しあう体験が二の次になっている様子が非常に残念です。
ええ、まだ都会のど真ん中で、体によくない食べ物・飲み物を口にしながらSNS/webに釘付けになっているよりは、何倍も望ましい行動には違いありませんが。


物質物理実体の賞味期限を終えれば、お土に還り、新たな仲間へその抜け殻を提供してゆく。
この輪廻。この循環。
遠大、且つ深淵な時の刻みがこの足元で繰り広げられていることに、あらためて感激と驚きを感じます。
そして、ここに感謝の念が湧き出します。


このところ山道で出会う・すれ違う方々。
このようなアプリに支配されてしまっている姿とともに、この場の空氣感や自然(じねん)の波動に共鳴してみよう、といった感覚を持つ人たちが急激に減少しているように見えます。

市街地至近の場所であっても、千メートル近い高さまで自分の足で登ることであり、その高さから街を眺めるだけでも別世界の感覚を得られます。同時にその体験ができるのは、お借りしている体があるから、という点にも礼を忘れず。
何より、
自然の波動は強力でありながら、大変暖かく広く穏やかな懐を提供してくれていることを実感し、ここにも感謝が溢れます。


貨幣経済は、わたしたちが「終わらせる」必要があります。
そして、そのために「行動する」必要があります。
他国の大統領が行うのではありません。くるくる詐欺をやっている人たちは、いつまでそのループにハマったままでいるのでしょうか。自分はくるくる詐欺ではない!と叫んでいる時点で、まさに「善の仮面を被った悪」に落ちぶれていることに氣がついていない末期的症状。
すべてはエネルギー波動なのです。フォーカスするもの・対象に合致したエネルギーが、この世では時差を経て顕現化してゆきます。
これが仕組みであり例外はありません。


終わらせる、とは、悪しき旧い波動にフォーカスせずに、自然(じねん)と調和し共生するエネルギーを生み出してゆくことで、その周波数のエネルギーを束ね拡大し、臨界点・閾値を超えることによって望ましい世を顕現化させてゆくこと。
同じく、
行動する、とは、デモに参加することでも悪よ滅べ!と叫び踊ることでもなく、心からこうした波動を生み出してゆくことです。
結果として、穏やかでありながら強力で望ましい波動が生み出され、そこに感謝が満ち溢れます。

これを「何もしていない!」と批判するのは、物理実体を使い走り回ることだけを行動だと解釈している証であり、その唯物主義的で未熟な狭い精神性では、この世を脱し新たな世に入ることなど叶うわけがありません。


まして、
貨幣資産をもっと多く手に入れて幸せになろう、などと毎日感謝感謝と念仏を唱えることではありませんし、そうして「フォーカスしている先」のエネルギーにシンクロしている自分自身が、結果として「いつまでも古き悪しきエネルギー」を増幅し続けてしまうのです。
これを善の仮面を被った悪、というのではないでしょうか。


ともに生きる生命存在と、
そこに共鳴できる体験と。
そして、湧き出す感謝の波動を大きく拡大してゆきます。
この先に望ましい道を切り拓くのは、この方法しかありません。




自分ができる「得意」を積み上げる

草木と昆虫と photo 宮本章光

イヤイヤ働く。
金のために。
生きるために。

そんな時代が終わろうとしています。

それなのに、その無理矢理に強制された仕組みに、あろうことか「自分からしがみつく」。
怖いから...。
生きてゆけないから...。

果たしてそうでしょうか。
自分がそのように考えるから、自分で生み出しているだけでしょう。
必ず他の道があるはずです。


恐怖に基づいた世の中、そこに依存しなければならない世でした。
故意に作り上げられた仕組みでした。

恐怖から逃れるために、その恐怖を「取り除く」「軽減する」役務を作り出し、そこにカネを生み出し、上へ上へと蓄積されてゆく仕組み。ピラミッド構造の最上部だけがその恩恵に預かる。
その一つ、好例としては、
何も無いところに恐怖の種となる病を生み出して、そこから逃れるために治療という名の行為と薬という名の石油由来・魔法の粉/液体を提供する。
そんな仕組み。

そのベースになる貨幣経済。
それがないと生きてゆけないと教育段階から洗脳し、実際にそうならざるを得ない世を作り出す。
そんな仕組み。
もういいでしょう。


アタマでは理解できたことかと思います。
でも、それを「終わらせる」のは、わたしたち自身だと理解できていません。
終わらせるとはどういう意味でしょうか。

どこかの大統領が世の中を変えてくれる。と、流れが変わるのを待ち続ける。わくわくして。でしょうか。
ええ、
確かに世の中を変える「きっかけ」は強力に生み出しています。否定できません。けれど、そのあとに「望む風景」は、自分で描き出さねば、決して生まれてきません。

ここが抜け落ちています。


廃墟になった建物を撤去して更地にしてくれるところまでのお役目はあるでしょう。
ぶっ壊し役だから...、などと語るのも間違っていません。いかにも評論家氣取りで。もうそんな役目も要りませんから。
でも、
更地になったところへ、どのような建物を建てますか?あるいは畑として耕しましょうか?
その青写真・ロードマップ、シナリオは自分で描かねば、誰も書いてくれません。

もう、崩壊する旧来の世が行き着く先は確定しているわけです。
そこにいつまでも浸っていても、一緒に滅亡するだけ。
判っているはずなのに、このタイムラインから脱出しようとしないのはどうしてですか?

脱出する=その先を自分で作り出す。
ではないのでしょうか。


では、くるくる詐欺をやる人が叫ぶように、明日から世の中がガラッと変わったとしましょう。
で、自分はどうやって生きてゆきますか。
途端に恥ずかしいだけの存在に落ちぶれてゆくのが目に見えていますでしょう。
会社のバッジは役に立ちません。会社の看板も歴史も何もありません。

あるのは「自分」ひとり、その存在だけです。
その日を見据えて、自分を磨き・高めてきた成果がここで花開きます。
会社に忠誠を誓い心身ともに捧げてこられたのでしょう。しかしそれは、会社社長になり貨幣資産を築いたまでは良かったでしょう。そういった旧いレイヤーがあった時代には。
けれど、もうそのタイムラインは終了したのではありませんか。
そして、
この先に歩むタイムラインにおいては、膨大な負の因果を重ねただけだったことに腰を抜かして立ち上がれなくなります。


何ができますか。
何を・誰に提供できますか。
あるいは、
ひたすら「猫として生きる(例えです)」ような道もアリでしょう。
穏やかに、一切の負の波動を生み出さないという時点で、現在のどの人間よりも優れているのは確かです。


会社に在籍している時点で、最も高いハードルがここにありました。
わたしの場合は、病床で一週間の空白と思考の時間を与えられたのが幸いでした。けれど、忙しい忙しい、と走り回るだけの人たちには難しいかもしれません。
逆に言えば、その程度の課題さえも乗り越えられないのなら、やはり、初等教育から最低でも25,800年サイクルはやり直し学び直しをするのが良いとも感じます。
それも無理なら、なるほど50億年間イノシシに糞尿を掛けていただいて岩石からやり直すのが必要なのだと頷けます。


自分は何ができますか。
自分は何を・誰に提供できますか。
単に、忙しい忙しいを口癖にして、そんな超ベーシック課題にさえ取り組もうとしない。
なるほど、身魂相応とはよく言ったものです。

自分にできることを、同じ波長で共鳴する人たち・仲間の生命とともに取り組んでゆく。
そうやって伸びてゆこうとする「氣概」そのものが、シンクロし束ねられて、新しいエネルギーとしてこの地を具現化してゆくのです。

繰り返します。
自分は何ができますか。
自分は何を・誰に提供できますか。

自分ができることを知り、それを積み上げるからこそ、その周波数のエネルギーが成就します。
ここにも因果の法則が成り立ちます。




犠牲を必要としない世を創り上げる

輝くラベンダーと photo 宮本章光

先を走る者を追い、追いつき、追い越し、そしてさらに引き離してゆく。

この文言だけを聞けば、ある意味では「耳触りが良い」のかもしれません。
ところが、このように言い換えてみるとどうでしょうか。
先に走っていた人を土足で踏み倒し、踏み台にし、その上に自分の地位を築き上げる。

すると途端に違和感に襲われます。
多くの人々が感じるのではないでしょうか。

こうした旧来のタイムラインが終焉を迎えました。


売上は高く大きく。
コストは低く。
費やす時間は短く。

この論法も終わりが近いことを感じます。
しかし、まだまだ多くの人々が、まるで神格化されたかのようなその論理を握りしめたままのように見えます。
古き悪しき仕組みを終わらせるのは、わたしたち自身なのですが、まだ氣づきませんか。


登り続ける、拡大し続ける。上昇し続ける。
これ自体は、成長の姿・雛形であって違和感は感じません。
しかし、
踏み台にしてその上で自分のステイタスを誇示する。ここに激しい違和感が生じていたことが判ります。
まさに、誰か・どこかに犠牲があり歪みを生じている状態。


この先には、誰かが踏み躙られる世が存続できないことは明らかです。
犠牲とは、その犠牲を上回るメリットがあるとして正当化されてきました。これまでの世では。
それが拡大一辺倒の仕組みを徹底するための言い訳であったからでしょう。極めて悪質です。
ええ、それを努力という言葉に置き換えて、努力をしなければ結果が出ない。と、教育段階から刷り込まれてきたのでした。

努力をするな、と言っているのではなく。
努力は必要でしょう。でも、犠牲という負のエネルギーに満ち、その犠牲が前提の上に築き上げられる成果は、そのエネルギーを必要とする者が正当化していただけでした。
そういう仕組みの世の中が「わざと・故意に」作り上げられていたからです。

そして、その仕組みが崩壊すれば、本来のポテンシャルを発揮できるフィールドが現実となってゆきます。
望ましく心地よい波動は、犠牲を前提にした努力が不要になります。
もちろん、その望ましい波動を拡大し上昇させるために「ポジティブな努力」は必要でしょう。これこそが「わくわく」の心持ち、と表現されているのではないでしょうか。

負の周波数に縛られたまま、まして隷属化ツールである貨幣経済の枠組みの中で、お金を手に入れるためにわくわくして...と、やっている馬鹿馬鹿しさと恥ずかしさが、ようやく理解されつつあることを感じます。
同様に、旧来の負の波動に満ちたまま、感謝・感謝と念仏を唱えるのも同じく。


ポジティブ方向のエネルギーとは、いずれも、耐えきれなくなって・堪らなくなって、抑えきれずに溢れ出すものだと思います。
それがホンモノだと判ります。
その周波数を体験したことがある以上、その悦びの感覚は理解できるはず。

心の底から溢れ出す感覚。
取り止めもなく湧き出す感覚。
これが、仕組まれ隷属化されてきた世の「対極・正反対」に位置するエネルギー。
これが、この先に維持すべきエネルギーかと思われます。

負の波動に憑依された犠牲を必要としない世を創り上げるために。





アンテナを張るのはwebじゃない

アマガエルに出会う川 photo 宮本章光

直前の記事
【和するこころが切り拓く未来】2025/05/13(Tue)[Link]
では、お声をお聞かせくださった一部の方がありました。ありがとうございます。


以前にも、そして何度も何度もこの言葉を記した記憶があります。

--アンテナを張る先はwebではない。
--フォーカスする先はSNSではない。
--フォローするのはインフルエンサーではない。

では、その対象は?

「自然」ではないでしょうか。
しぜんではなく「じねん」と読むのがこの国の言靈につながる秘訣だと感じます。
発音する音そのものもエネルギー波動であり、それを無意識のうちに活用できていたのがこの国の先人の智慧。

何もかも台無しにされ、潜在能力に蓋をするように仕向けられてきた、この国特有の戦後の歴史があります。
ここを知るにつれ、けしからん!支配者たる悪よ滅べ!と、いつまでも叫ぶのは恥ずかしいのではありませんか。
と言いますか、そのレベルから成長できていないことを自ら露呈しているだけでしょう。
まさに裸の王様。知らぬは本人ばかりなり。


自然には、数多くの生命・生き物が存在しています。
彼らの世界にはワルものは存在しません。いえ、逆に生存のために対処するという、最大にして唯一無二の課題があるはずです。
時には、そのハードルが高すぎて命を落とすかもしれません。
彼らはその課題を受け止め・受け入れ、過酷な状況での体験を得ます。

その生きざまを見て、わたしたち人間は何を思いますか。

死は怖い、死んだら終わりや。
それが支配者による刷り込み・洗脳であったことを、いつになれば学ぶのでしょうか。
あるいは、
禁断の果実を口にしたから、子孫・未来永劫「三罪」を償い続けなければならない。と、ビジネス材料にされている時点で洗脳も甚だしいのではありませんか。
預言は先駆者たる他星系からこの地にやってきた存在が残し、その内容も正しいに違いないと思われます。否定はいたしません。けれど、その記述・語りが、人を隷属化するための材料として本来の意義とは異なった使われ方をしている現実に対しても、いつになれば学びを得るのでしょう。


確かに、痛みという課題、身体的・物理的な感覚は耐え難いものがあります。
動物を含め、昆虫、魚にも痛みや恐怖の感覚がある、という研究結果も容易に見つけることができます。
しかし、
恐怖や負のエネルギーに憑依されるまま、そこから逃げるだけの人間は、大自然の中で生きる彼らの足元にも及びません。


自己顕示欲と自己承認欲求の塊と化したSNSのインフルエンサー、そしてそこに群がるアリのようにその教祖が発する発言に一喜一憂する人間の姿。
それは、彼らがもし認識できると仮定するならば、きっと、
直前記事の主役「石ころ・岩石」[Link]のように、
人間なんて大したことないな、なんて幼稚な存在なんだろう。と感じるに違いありません。

だから何?・それがどうしたんや!ではなく。

わたしたちは、学び・精神性を拡大・成長するために、この地の体験を重ねているわけで、この極めて重要なポイントを理解できているのなら、大切な教材はwebには存在していないことを知るべきでしょう。
当然、学問にも、そしてこの地の科学においても。
まして、
ワルものは、二元性・二極化の両端を知り、それを体験するためのお役目として存在しているのですから、そこに感謝を捧げるというその意味・本質を見極める必要があります。


まもなく訪れるとされる千年王国(一応但し書き:自ら再教育を意志表示した人にはやってきません当たり前です)、そのあとには、一旦隔離された「ワルもの」が、一千年間の時を経て再び開放される、とも記されているようです。
一千年間の桃源郷体験で、今ここ・この現時点に至るまでに長らく苦しみ・痛み、それによって学んだ大切な体験と感覚を鈍らせ、忘れ去ってはなりません。

現時点と同じ過ちをしないよう、一千年前から警告をしなければならないほど、地球人はおこちゃまではないはずです。
その1/10でしかない100年ごとに「騙され続ける姿」を見るにつけ、危うい感覚を感じるのは、わたしだけではないでしょう。
学びと成長のカギは、webにもSNSにも存在していませんし、もちろんオールドメディアやオールドインフルエンサーからも齎されることはありません。

難しい表現ではありますが、それは自分の心のセンサーでしか感じ取ることはできません。そして自らの心からしかその波動は生み出せません。
同時に、学ぶべき教材・教師は、自然(じねん)の中にしか存在していないことも。
日本人(にほんじん:にっぽんじんではありません)なら必ず理解できると信じて。





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