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宮本章光/宮本陽の視点「開闢」And EM Official Blog

みやもとあきらのしてん AKIRA MIYAMOTO@And EM

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御神木に礼を奉る

御神木に礼を捧げ photo 宮本章光

そこは、我欲の塊たる願いをする場所ではなく。
そこは、礼を奉り感謝を手向ける場所です。

そこには、人の姿に似た白髪で杖を持った神という存在は居らず。
そこには、この国の先人が奉った八百万の神のエネルギーが在ります。
社殿ではなく、その御神木に。


足元に配慮を忘れず。
それは、地上の勇姿と均衡するだけの地下の存在(根)があるため。不用意に踏み込まないことを意識して。

その前に、境内に入らせていただいてよいのかを確かめた後で、こちらから礼を捧げ、そこにある周波数に合わせてゆきます。
まずは、そこに「違和感」があるかないか。
違和感があれば、自分自身の周波数が異なっている証明であり、即座に離れ日を改めることです。

カラスや猫、トカゲなどの生命が、そのシグナルを送る場合も少なくないように感じます。
今回は、拒否されることはなく、この姿に会うことが叶いました。


くだらない都市伝説だとか心奪われ騒ぎ続け、フォロワー数やLike数を追いかけるヒマがあるなら、自然に触れ、そしてそこに感謝を捧げます。
その場に畏敬の念を忘れない限り、そのエネルギーと共鳴する現実が顕現化してゆきます。ただし時差を伴って。

みんなで騒ぎ、みんなで意識するからこそ災害は起きない。それが量子力学だ。
などと語るのも間違いだとは言いませんが、意識し結果として一旦生み出してしまったエネルギーは決して消えることがありません。
それは、いずれ長いタイムラグを経てこの世に顕現化します。

現在、目の前に負の力に満ちた風景が展開しているのはその証でしょう。
ワルものが支配したからこうなった...のは結果であって、ワルものを生み出しその成長拡大を許可・助長した、わたしたち自身の因果とその巨大な責任を忘れてはならないはずです。


役目を終えた人たちが、次から次へとこの地から退場してゆきます。
これまでに必要だったから、そのお役をしっかりと果たしたことが判ります。

では、この先、これからの道を創り出す役目とは具体的に何でしょうか。
いま、ここに体をお借りし生存している限り、負のエネルギーも「共に両極のエネルギーとして」認め尊敬し受け入れることは避けられません。
ここを勘違いして片側だけ目を閉じてわくわく、ってなビジネスはもう終わったことが判ります。
そして、隷属化のツールであった貨幣経済のアイテムたる金銭的豊かさにフォーカスするのも、その次のステップではありながら、もはや終了すべきエネルギーであることを認識できているでしょうか。
幸せ掴もう、そのためにもっともっと多くのお金を手に入れよう、感謝感謝を捧げて。なんて恥ずかしい失敗はもうなさいませんよう。大丈夫でしょうか。


どの段階・どのフェーズに入っても、常に過ちを繰り返します。

--ほな、わくわくせず苦しみ続けるのがエエんかい。
--ほなら、カネなしで生きられるんかい。
と、いつまでも幼稚な失敗を繰り返す。意識の波動に責任を持つ。その責任を放棄しないこと。

--せやけど天災は自然のもんやろがぁ。
ってのも大いなるなる過ち。
--みんなでフォーカスすれば量子論的に災いから離れられる。
ってのは、大きな落とし穴。
生み出してしまった負のエネルギーの後始末は誰が行うのでしょう。

回転寿司チェーン店の机の下を廃棄物で汚染しまくる。
新幹線の座席下に食べ物を撒き散らす。
同じでしょう。酷似しているように見えます。
生み出すのも・避けるのも、どれもこれもそのエネルギーを自分が生み出していることを忘れてはならないと感じます。生み出したエネルギーは絶対に消滅しません。


いつまでもオールドメディアに触れるのをやめたのは立派だと思われます。
でも、SNSに置き換えられただけで、自分自身が「負のエネルギー増幅装置」に成り下がった人間をやっている限り、望ましい未来は絶対に実現しないはず。

この試験にパスしない限り、永遠のループから脱出することはできません。
超難関試験にヒントを与えてくれるのは、
それこそが自然(じねん)の多くの生命存在であり、森羅万象・八百万の神として言霊とともに生きてきた、この国の先人が遺した財産であることを忘れてはなりません。





選択とはいまこの瞬間の意識

送電線展望台にて photo 宮本章光

「選択」とは、いまこの瞬間に意識している周波数を持つエネルギーに合わせること。

送電線邪魔や〜と思えば、その風景に合致するエネルギーを自ら生み出しています。
で、送電線消えろ!と思ってみても消えることはありません。
物質・物理次元に結晶化した「モノ」として存在している限りは。

この送電線。
50年ほど前には、この場所に居ますと、ブーンといったハム音が聞こえた記憶があります。
今2025年には、まったく聞こえません。
自分の耳がダメになったのか、はたまた別の目的(電磁波による臣民操作)で使われていたものが、すでに終了したのか。それはわかりません。

こうしてハム音が聞こえる・聞こえない。と、それぞれ意識するならば、その波動をわたし自身が生み出しそれを体験します。
だから聞こえない。その聞こえない状態をさらに強固に顕現化し続けます。


災害ガー...と思えば、災害の波長と合致するエネルギーを自分自身で生み出してしまいます。
騒げば起きない...などと幼稚な都市伝説で踊るのも、その周波数に合致した現実を自ら生み出し固定し続けます。
ところが、
以前にも記しましたように、その意識により「産み出してしまった」災害発生というエネルギーは、消えることなく燃え続けることを知りましょう。ということなのです。
そして、法則に則って「時差・タイムラグ」を経たあとでこの世に顕現化してゆきます。
だから忘れたころに現実になるのです。そんな幼稚園児レベル以前のこと。恥ずかしい限り。

生み出したのは誰でしょう。
自分が生み出した責任はどうやって取りますか。

いまホットな話題だから。
インフルエンサーが言うから。
そんな理由で、その対象にフォーカスすれば、その人たちがそのエネルギーを顕現化してゆきます。
数が多いほどにその力は巨大になり、より現実となる確率も規模も高まります。


この国ではもう甚大な災害は起きません。
どうして君がそんなことを言えるのか。と聞くのなら、懐疑的な周波数をその質問者が抱き生み出し続けます。
台風上陸のこと、地震のこと。
その裏側を知る人が閾値(しきいち)を超えたため、顕現化しないところに到達していること。これまでにも幾度となく記してきました。
60年以上、直感と勘と上から降りてくる感覚だけを頼りに生きてきた者が言います。
妄想だと思えば、その人には妄想にしか聞こえません。そういう法則・仕組みだからです。

もっと身近な言葉に置き換えてみますか。
「そう思ばそうなる。」「そう思うからその通りになる。」と言えば理解が容易でしょうか。

え?それって、スピってるダメな思考・意識でしょ。お花畑な頭のおかしい人の発想でしょ。
などと、そう思えば、ご自身がそうなります。
これが仕組み。
これが法則ですから。
自分の現実は自分が作り出す。
そういうことを知りましょう。というのが最大難関である、いま目の前にある試験だと感じています。


選択。とは。
いまこの瞬間の自分が抱く思考・意識、その周波数に合致している状態。
無数にある選択肢から、いま思い、いま感じ、意識していることが自分の選択であり続けます。
そして極めて重要なこと。
それは、
その選択によって自分自身が生み出したエネルギーは決して雲散霧消することはなく、その周波数を持つ波動として永久に燃え続けます。
その火は、時差を経てこの世に顕現化・現実化してゆきます。

くだらない話題(いえ、もっと正しく言うのなら害悪:この先の世には不要な負の波動)を撒き散らして人の目を引くようなスタイルは早晩卒業することです。
責任の重大さもさることながら、ご自身がその現実を享受するだけのことだと理解できて初めて、ようやく難しく高いハードルを超える準備ができるのだと思っています。
そして、それを超えるのは自分自身でしかあり得ません。





自然と生命

山道をゆく photo 宮本章光

答えは山にあり。
答えは大自然にあり。

求めるべきは多くの多様な生命との接点であり、貨幣経済の牢獄の中で右上がりの数字・数値を追い求めることではないはずです。
求めるべきは、多種多様な存在とのふれあいの中で、その時々・その瞬間瞬間に響き合う体験であるはずです。

周波数は、時々によって合致したりしなかったり。
それを認識し、必要なシンクロ体験を追うことにより、多様な存在・異なる存在の波動を知り、経験を積み上げてゆきます。
異なる波長であっても、次の瞬間には同期することもあるでしょう。
あるいはその逆も然り。

多様、多彩な周波数に触れるために、多種多様な生命に触れるよう行動します。
そして、片側に偏重したエネルギーをリセットしニュートラルへと戻します。




すかんぽが芽吹く春に思う

スカンポ(いたどり)が芽吹く photo 宮本章光

いたどりが芽吹く春。
別名「すかんぽ」と呼ばれるのはご存知の方も多いはず。

わたしの父は、まさにその「すかんぽ」のほうでした。
目を閉じてでも歩ける...ほどに馴染んだこの山で、道端に生えるいたどりを切り取っては、その酸っぱい茎を口にしていました。
わたしと、そして多くの場合同行していた妹と共に三人で、この春の味覚を堪能したものでした。

父は、山に行く時には「ひごのかみ(肥後守)」と呼ばれる小刀を常に携行しており、こうした場面では必ず活躍していたことを思い出します。
肥後守:手のひらに収まるサイズの二つ折りナイフと言えばご記憶の方も多いはず。
黒い鞘の、なんでも最高級品だとか聞いた覚えがあります。
手に馴染んで、黒い鞘の部分は幽玄な渋い光を放っていた映像がはっきりと目に浮かびます。

いずれも、父・妹、二人ともにすでにこの世を去りましたが、その春の味と、切れ味抜群のその小刀の姿は、いまでも明確に思い出せます。


ここで氣づくのは、
記憶とは頭の中に保存されているのではないようだ。ということです。
ではどこにあるのでしょうか。

わたしたちが常日ごろ感じている「心」の感覚は、この体の頭の中でも心臓の中でもなく、靈界そのものであることを知る人たち(自分も含め)が一氣に増えています。
日常感覚・多くの人々の感覚では、自分という存在は「このお借りしている体」であって、心に描く・抱く、というエネルギーは、この体ではなくどこか別のところ=目に見えないフィールドで発生しているように感じているはずです。
しかし、それ自体が間違っていたことを知るようになります。

実は、自分の存在とは、靈界に存在するエネルギー体そのものであったこと。
この地の体とは、お借りして「この世」を体験し学ぶための道具/媒体であったことが、ようやく理解できるところに到達しました。
主・従がまったく正反対だったわけで。

・誤り=この世の体が自分で--->リモート先の目に見えないところに心で生み出す:これまでの認識
・正解=あの世のエネルギー自体が自分で--->リモート先にあるこの世の体で物質次元を体験する:これからの認識


よって、毎回書き続けている「発言に責任を持つ世から心に抱く波長に責任を」のその意味も容易にイメージできるはずです。
わたしたちの存在そのものが、靈界にあるわけですから。

そこで思い描いたものが自らのエネルギーとして共振・共鳴し、その後タイムラグを経て「この世」に顕現化してゆきます。
靈界で共振する存在=自分自身なのですから、そこに負の感情であるエネルギーを発生させてしまうと、そのものがこの世に顕現化すること、極めてよく判るはずです。


記憶。それは初めに書いていました「いたどり」の味や、「肥後守」の黒光りする姿も含め、すべてが靈界にある「特定周波数のエネルギーそのもの」とされます。
正確には、記憶やすべての思考の履歴はアカシックレコードにあると語られていますが、いずれにしましても、この世にある体に収められているのではないことは確かでしょう。


ここ数日の記事で触れましたように、
みんなで騒げば災害は起きない。だとか、みんなが意識したから量子論的に災害は発生しない。などという都市伝説で踊っている限り、真実に到達することはあり得ないでしょう。

後者は確かに当たっている部分もあるように見えます。量子力学の観測問題そのものですから。
けれど、フォーカスした対象・事象と同じエネルギーを「わたしたち自身が増幅」してしまうのは客観的事実であり、その「負の」エネルギーに油を注ぎ続けるような行動は、何があろうとも避けるべきだと感じます。


いたどり/すかんぽの姿と、その味、そして肥後守で切り取るイメージが、50年以上を経ても今この目の前にあるかの如く鮮明に視覚や味覚に落とし込めるのは、靈界において、そこに有る自分の存在とその対象エネルギーがシンクロしている証明に他ならないこと。
ここまで学んだ限りは、
不用意に「負のエネルギーを生み出さない」。
不用意に「負の周波数にシンクロさせない」。これらが如何に重要であるかが判るはずです。責任重大だと。

7月の何日に何がある。
いや何も起きない。
みんなで騒げば何もない...。

だとか、そこに意識が行っている限り、あなたが産んでしまったエネルギーは靈界でメラメラと炎として湧き上がっているわけで。
尚且つ、どゃ7桁インフルエンサーだぜ...な自己顕示欲の塊で、それらフォロワーの心の波動まで束ねて負の炎を焚き上げてしまう人たちの責任たるやどれほど極悪・醜態であることか。
ここにしっかりと責任を持ちましょう。これから切り拓く世の中では。
ということなのです。
いい加減にしなさい!とお叱りを受けるレベルのビギナー。幼稚な精神性。いつまで続けますか。





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