自然:「じねん」とともに歩む

通行の障害になるから枝を切り落とす。
害虫の発生が問題になるから切り刻む。
そして今度は、
監視カメラの障害になるから、と根こそぎ切り倒す。
犯罪抑止とはいかにも方便であろうと思われ、一般臣民の監視化が目的だと。
そしてそのための費用は血税から賄われ、利権に群がりその汁を吸い尽くす寄生虫的企業の懐にカネが転がり込む仕組み。
(わたしも何社かの企業に在籍していた時期があり公的機関との接点も少なからずありましたので、裏側で行われていることは、嫌というほど見てきました。)
大なり小なり、そうした仕組みでこの世が成り立っていることを知ったなら、
それをけしからん!悪よ滅べ!と叫びデモすることではないはずなのです。
可能な限り多くの声を伝え届けることに意味がある。
多くの行動が少なからず世を変える原動力になったはずだ。
と、結局は自己満足と自己承認欲求の塊のまま。
そして、拡散せよ拡大せよ、我こそは有名インフルエンサーなり〜、というアピール。
この期に及んでさえも、まったく成長できなかった様子がありありと。
昨日の記事にも記しました「人が消える」という言葉。
これを会話の中に取り入れるや否や瞬間的に反応があります。「え?人が消えるの?どうやって、どこに行ったんや?」と。
あの〜、それは意識の中から外れると言う意味で、意識されなくなる状態が、実際に物理的に消えたと同じレベルで認識しなくなることを語っています。
この瞬間に、あぁこの人は「物質的観点の思考」から脱していないな、と判ります。
すべては、モノの発想。
すべてが、物質的観点と唯物主義の範疇にある思考。
そのためのこの地ですから、ここを否定するものではありません。
その体験をするためにやってたのですから、それが良いとかよくないとかを言うものではありません。
けれど、この先の世には、そうではない「もう片方の」重要な要素となる精神面での成長が望まれますよ。
ということを話しています。
実際、悪事をはたらく存在が消えることはないわけで。
善悪・表裏・両極は等しくバランスしなければ存在し得ないのがこの地です。
そこに意識をフォーカスするから、自分自身がその現実を作り出してしまうのですよ。という部分にまで学びを拡大し、そしてこの先には、望ましい風景・望ましい世を、自分たちの心が生み出す波動としてのエネルギーから、この地に顕現化させてゆきましょう。といったレベルにまで成長する必要があったのです。
(機を改めますが災害を生み出すのもしかり。わたしたち自身が創り出しているということを。)
もう時間切れですから、それを学ぼうとしない人からは離れるのみ。
では、
わたしは、そしてともに望ましい道を切り拓こうとなさる方々は、何を生み出せば良いのでしょうか。
それは、
自然とそこに生存する多くの生命に意識をフォーカスすることではないかと感じます。
それは「しぜん」ではなく「じねん」だったことを知ります。この国の言霊に包まれたエネルギーは。
自然(じねん)を蔑ろにしてきたから、その因果がいま降りかかる。
自然(じねん)とつながる心を切り離してしまったから、その結果が因果である負のエネルギーとして生み出されたのではないでしょうか。
至極当然。自業自得。
それを、悪よ滅べ!と責任転嫁し、自分が生み出した因果に抗う限り、望ましい世は絶対に実現することがありません。
学び、とはそういうことだと。
洗脳のための学校教育の試験で満点を取ることではありませんし、言われたことに忠実に従うことが美徳でもありません。
自分で考える。
自分で認識する。
だから自分で行動できるのでしょう?
切られても枝打ちされても、盛大にその美しい姿を、必要な時期になれば必ず披露する彼ら生命存在。
どれひとつ取ってみても真似できないでしょう。
人間という存在の驕りが、過去に激しく溜め込んだ負のポイントが、いま一氣に表出していることを知るならば、「自然=じねん」とともに歩む未来を、自らの心によって創り出す責任を感じないはずがないと思うわけです。
もはや言い飽きたレベル、「これからは発言に責任を持つのではなく、心に描き生み出すエネルギーに責任を持つ。」です。
ひとこと、
人間の勝手で数知れずの多くの仲間を切り倒してしまい申し訳ありません。
過ちは繰り返しません。
と、立派な樹々にお詫びのことばを伝えてから。
2025/04/08(Tue) 11:52:03 | photo blog