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宮本章光/宮本陽の視点「開闢」And EM Official Blog

みやもとあきらのしてん AKIRA MIYAMOTO@And EM

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センサーとは見えない氣を受け取る道具

モチツツジらしく光り photo 宮本章光

これはモチツツジではないかと。
漢字で書くと「黐躑躅」となるようです。これは手書きでは無理な感じです。

この植物に初めて出会ったのは小学校5年生の時。いわゆる自然学校の行事で、山中の植物観察の記録を記した記憶があります。
指で触れますと、確かに餅のように粘ります。


それぞれの存在は、自分らしさを目一杯披露していることが判ります。
他人の目を氣にすることなどあり得ません。見てみてよい子ちゃん!アピールもありません。
そんな淀み濁った波長が存在しないだけに、大変クリアで美しく伝わってくる力があります。

普段、指先に汚れが付くと、その汚れが保持している「濁った波動」が耐え難く、手洗いを繰り返すことになります。それは工業成分の油が最たるもの。
けれども、こうした大自然の中で力強く生きる存在から受け取る粘りには、そういった負のエネルギーがありません。
下山するまでに、いつの間にかその粘りも記憶から消えるとともに、実際に粘りが消滅してゆきます。


よく語られる言葉に、手には常在菌が住んでおり、それらは良い働きをするのだから過剰に洗い流すな。という言葉があります。
誤りではなく正しい教えに違いありません。しかしその働き以上に、何らかの力を受け取るための媒体・センサーとしての手/指を考えた場合に、その汚れによってセンサー感度が著しく低下させられることです。
上記の油など最たるもので、まるで目を塞がれ鼻を塞がれ、暗闇で息ができなくなったような恐怖に近い感覚に陥ります。個人的感覚にすぎませんが、理解できる人たちも少なからず存在しているはずです。

過去にも書いた記憶があります。
菌が洗い流されてしまうデメリットと、センサーが塞がれてしまうデメリットと。
どちらを取りますか。だと思うわけです。
ですが、だからこそ逆説的ながら個々人で違いがあって当然ですし、一律の論理で合わされるべきではないはずなのです。


これって、古い思想の延長線上にある発想だと氣がつきます。
何でも画一化した枠組みに押し込む。教育洗脳の最たるものでしょう。
みんな同じでなければならない。というその定規ですべてを測って、その数値で決めてしまう・ラベルを貼る。

同じ図式だと思うわけです。
目と鼻を塞がれたかのような恐怖感に陥る、その感覚は、まさに重要なセンサーとして手指が機能していることを証明しているものだと感じています。
そもそも、氣=エネルギーでありそれは目に見えません。よって、視覚以外の部位で感じ取ることができても、それが過去の事例にはそぐわなくて当たり前だと。

再び逆説的ではありますが、何よりモチツツジの粘りに不快感を感じない時点で、では逆に、不快感を感じる付着物の波動とは合致していない証でもあります。

エネルギーとしての周波数を感じるとは、
合わない波長である場合には、まさにこのような不快感や違和感が強く警告を発してくることをしっかりと知り理解する時期を迎えているように思います。
反対に、心地よさや穏やかさを求めることでその周波数に合致し、そのエネルギーが顕現化してゆくことも。





この先への道を創り上げるために

輝かしく純白に photo 宮本章光

2つの破片は4つに、そして8個へ16個へと。
分離の道は、さらに分解され続け、分離すればするほど個々の断片は縮小し、いずれは形質を維持できずに崩壊してゆきます。
いま、同じ図式で滅亡するタイムライン、その様子を目の当たりにしています。


過去の残像に踊らされることなく。
これまでに誤って生み出した負の波動を増幅することなく。

この先に必要な周波数のみにフォーカスし、その力を拡大してゆきます。
そのままで美しく、過去の残像に踊らされることのない存在とともに。

この先の道を創り上げるために。



肩書きとバッジの世の中を終える

黄菖蒲の世界 photo 宮本章光

キショウブ(黄菖蒲)。
水辺に生えているのでアヤメではない、と思ったものの杜若でもなさそう。
調べてみると外来種のようでした。

こうして、従来の知識が役に立たないことを知ります。
そして、旧来の発想の延長線上でしか思考していなかったことまで。


この数十年、何もかもが「肩書きの世」だったことを思い返しています。
多くのセミナーや講演会では、開催趣旨や概要には、必ずこのように「枕詞(まくらことば)」が掲げられていました。
「○○で有名な◇◇様を講師に迎えて...」
「XX著書が大ベストセラーとなり今注目の○○先生を講師として開催...」といった具合で。
これ、結局のところ◇◇先生や○○先生が目当てだったのかもしれません。
肝心の論旨は何だったのでしょう?


もう肩書きの時代は終わりました。
もう会社のバッジや看板にモノを言わせる商売も終わりました。
結局のところ、何がその会合でもたらされるのか。何が知識として得られるのか・体験できるのか。
ようやくここにフォーカスを合わせる人たちが増えてきたのは喜ばしいことだと感じます。

この流れはもう止まらないでしょう。
そして、枕詞ではなく論旨が何なのか。この部分に意識を合わせる人が増えるに従って、それに合致する周波数が拡大してゆくことは間違いありません。

旧来のフォーマットを書き換えてゆくのは、わたしたち自身だと。
役に立たなくなったモノを置き換えてゆくのも、わたしたち自身だと。
この発想さえ忘れなければ、明るい道が切り拓かれてゆくことを確信しています。





光と風と香と

光を受け風にそよぐ photo 宮本章光

穏やかな日差しを受けて。
そよ風に委ね。
樹々の香に浸る。

小鳥の囀りに、小川のせせらぎ。
四方に響き渡る葉の揺らぎ。

ノイズから離れ、その環境に身を置きます。
いつでも、望む時間に。

ここにアーカイブする風景から、その波長のエネルギーを伝え続けます。



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