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宮本章光/宮本陽の視点「開闢」And EM Official Blog

みやもとあきらのしてん AKIRA MIYAMOTO@And EM

Archives [All Entries:2620]

何も心配は要らない

美しい仲間とともに photo 宮本章光

何の不安もありません。
何の心配も要りません。
自分の想念で心配に満ちた世界を作り出さない限り。

明るく暖かく、そして心地よい感触を持ち続ける。
それが自分の望みであり選択である。と宣言し、明確に描き続ける。

そこには、何の心配も要りません。
静かに。
穏やかに。
ともに生き、ともに伸び・拡大する仲間とともに。




自分で試してみればよい・それだけのこと

さつまいもの力を受取る photo 宮本章光

情報過多。
何でもwebにある。
だから迷い、惑わされる。

「美食は身を滅ぼす」
いや違う、
「粗食は身を助く」
似たような意味合いではありますが、どちらが正しいのか。


朝食抜きは老化の原因なのか。
食事と食事の間の時間は14時間以上空けるのが良いのか、それとも6時間以上空けると機能が低下するから詰めるのが良いのか。
まさに百花繚乱。もうなんでもあり。言ったもん勝ち。

なるほど健康疲れするとはこういうことかと。


自分で試してみればよいのです。
自分の体がどう反応するのか。

これさえできない思考停止した人たち多数。
インフルエンサーの言うことだけを追い求め彷徨う、まさに魂のないAndroid(bot)たちよ。
もし間違ったことをすれば体を壊すから???
クエスチョンマーク3つ、驚き。久々です。

おかしな毒を盛られた食べ物を口にし、狂った言葉を口にし続けておきながら、体を壊したら困る?
あぁ、この先には必要とされない人たちだな、と。
存分に負の因果を重ねて、永遠に初等教育を受け続けてください。


わたしの祖母、大正生まれで96歳まで生きた人。
その昔わたしが幼稚園児時代には、このように教えてくれました。

「おいしいと思えばその食べ物は自分のために役に立っている」と。
「刺激ばかり強くてテレビで宣伝しているようなメーカーのものは食べではいけません」とも。
何が正しく、何が正しくないのか。
自分で試してみればいい。

結果は自分が享受する。
その結果によって行動を変えればよい。
と言いますか、
口にする以前に、その食材・食べ物・料理が「発しているエネルギー」を感じてみれば答えが判ります。

キレイに飾り立てただけ、美辞麗句を纏っただけの、その中身から力をまったく感じない食べ物。
そんな「食べ物の姿をした物体」が溢れかえっています。

自分で試すだけ。
食べる前から、その料理が発するエネルギーを受け取れるか(そもそも存在するのか)どうか。ということ。





五感を総動員したその次を感じてみる

飯舘の夏 photo 宮本章光

鳥の囀り。蝉の合唱。
心地よいそよ風。
土の香りに樹々の匂い。
踏みしめる柔らかい大地。
味覚はこの瞬間にはありませんが、風の香がその役目を果たすでしょう。

五感を総動員して「感じて」みます。
すると、
それ以外のエネルギー、その次にも大きな力が存在していることに氣がつきます。

目に見えない力に響き合います。
目に見えない氣を受け取ります。
それは、
すべての生命存在が生きる姿。そこに生み出された生命力の波動。





物質化する前に起点となるあの世

源流を辿る photo 宮本章光

そこに抱いた感覚。
そこで描いた感触。

それを自分自身が創り出していることを知ります。


創り出したのは自らの心。
心とは、
この世に「物質化する前に起点となるあの世」に存在する波動エネルギー。
目に見えない世界にある、目に見えない力。

すべての根源はここから。
だから、何を想い何を描くのかに責任を持つ。
それが、この地で物理実体をお借りして学ぶ人間が果たす役割。

物質次元に顕現化させる「元」を生み出す責任。
この地にモノを生み出すのは、工場でもプラントでもなく、一人ひとりの心のエネルギーが集合体となり時間差を経て物質化するという壮大な仕組み。

何を生み出しますか。
何を創り上げますか。





視覚的・エネルギー的に視る

エネルギーを視る photo 宮本章光

どうやら「感じる」という感覚は、この国の人たちにとっては苦手なようにみえます。

いかにも物質社会・唯物主義に染まった感覚かと。
見事に、モノだけを崇める社会に麻痺した姿でしょう。
そして、
極め付けは、物質的感覚以外のものを「感じることができない」。
物理的な触覚以外の部分で「感じる」能力を根こそぎ奪われてしまった教育洗脳の完成品とでもいうべき群れ。

あまりに放つと無用のリターンが返るので、ここで終えます。


感じるとは、触覚(しょっかく)ではないように思われます。
感じるとは、むしろ視覚に近い感覚ではないでしょうか(個人的見解:一応但し書きを添えます)。

目で見た感覚は、物理的な感触がありませんでしょう?
目で見た感覚は、美しい・明るい...など、言葉に置き換えることはできても、触覚はありません。
わたしは、この感覚が「感じる」感覚と似ているのでは、と思っています。

完全に腐り切って麻痺した心のセンサーを取り戻すには、
いきなり因数分解のような高度な工程に取り組んでも無理なのだと判ってきました。
特に、あらゆる手段により故意にその能力を根絶するよう導かれているこの国では。
まずは、
足し算とはこんな理屈ですからね。とスタートしなければ、いつまでも腐ったままのセンサーは復活しないのだと。
口にするもの二つ(食べ物と言霊)を劇的に変更しても、まだ取り戻せないのは、それは「取り戻す意志」がない点もあるように見えます。
いきなり因数分解なんてやるつもりないからね〜、と門前払いしているからでしょう。


目で見ると「感じ」ますでしょう?
同じように、
心で「感じて」みる。

視覚と、どのように違うのか?は、目を閉じてその対象を感じてみるだけでいい。
すると、
突然、暖かい不思議な言葉にできない力や、涼しい風が吹き抜けるような感覚を受け取ることがあるはずです。

これが「氣」の正体。
物理学的には、磁場の変化と言えばよいのかもしれませんし、量子場の変位というのが正しいのかもしれません。
とにかく、
フワってる・スピってる、だとかの言葉に絡め、隷属化洗脳に凝り固まったよい子ちゃん意識で、その目に見えないものを否定する姿勢を改めることがまず必要ではないでしょうか。

黙って待ち続けていても何も起きません。
それに、自ら「磨き上げる」努力をしなければ成長は一切叶いません。
ここを、苦しむ必要などもうないんだから努力なんていらねぇ〜!と、その道のビジネス戦略にハマることのありませんように。
あくまでも、まだ物理次元で体をお借りしている立場であることを忘れずに。


数年前、左手と右手で、受け取るエネルギーの向きが反対になっていますよね。という話をしたことがあります。
みかんを食べる(口に運ぶ)手(指)を、左手から食べるのか右手から食べるのか。
この違いによって味が微妙に違いますよね。エネルギーフィールドと循環の方向が異なるからでしょうか。と。

すると、10人中10人が小馬鹿にし「へぇそうかぁ、こんど試してみるわ。」と。
それっきり音沙汰なし。
あぁ、難しすぎる「因数分館レベル」だったのでしょう。
次からは「足し算レベル」から話してみることにしたのでした。

わたしの場合は、
左手が受け取り。と感じることが多いようです。
孫のうちの一人は、右手のようにも見えるので、人それぞれでしょうか。


「氣」は、視覚的・エネルギー的に視ることで、感じられるようになるのではと、今日もここに降りてきた感覚を文字として記します。





物質社会的感覚から離れてみる

森のもみじ道 photo 宮本章光

すべてを切り離すことはできません。
物理実体をお借りしてこの地に生存している限りは。

しかし、昨日の記事のように「逆方向」から感じてみる、といった感覚はこの先には必須のスキルになるはずです。


こうした物理次元的感覚から離れてみます。
それは、
これまでの世では、浮ついている、だとか、地に足が着いていない。なとどいった言葉で表現され、よろしくない感覚だと刷り込まれてきました。
すべては、隷属化し支配する世にするために「従順な奴隷たちには不要・邪魔な感覚」だったからです。

けれど、フワッてるとかスピってる、などと否定しその「よい子ちゃんで居たい」意識に追従している限り「自分はこの先も奴隷として生きてゆきたい」と自ら意志表示をしてしまっているのです。
もうこれ以上重ねて綴る必要はないはずです。


数千年とも数万年とも語られる期間、これらの心の感覚を無いものとして生きてきたわたしたちには、練習を重ねなければその能力を取り戻すのは難しいように見えます。
ここで足踏みをしてしまい、せっかく超重要なステップを上がれたにもかかわらず、この段階で成長が止まったままなのです。


---イベントがあれば能力は戻ってくる。
---救世主が現れ高次元存在から助けがある・携挙が起きる。その先に明るい未来が開かれる。
そのために、
わくわくして待ちましょう...。ではないのです。
この部分、しっかり認識したいもの。

その姿が間違い。という意味ではありません。
それらは、旧い社会で強制されたような「苦しんでこそ一人前」的な学びのためのエネルギーとは「異なる=正反対」のものを自分から能動的に選びましょう。といった要旨を伝えています。
いつまでも旧来の負のエネルギーにシンクロしていては、成るものも成りませんよ、との、同じ波長・周波数だけが響き合う、その法則を教えているということ。

もちろん、携挙が起きるかもしれませんし、瞬時にDNAは書き変わるのかもしれません。誰にも判りませんし流動的な集合意識たるこの地のエネルギー状況次第です。
でもそれをひたすら待ち続け、自分から精神性を磨こうとする姿勢を怠っていては、それこそ成るものも成り得ません。


何度も何度も繰り返し出現する「高いハードル」は、自分から超えてゆく必要があります。
これを、練習を重ねてスポイルされた能力を取り戻しましょう。といった表現で記しています。

cloudyな空であっても、常に自分の最善の姿そのものを披露する生き物存在。
暑過ぎるやろ、異常気象・温暖化を防ぐために努力せよ(まだそんな洗脳に浸ってるの?)!
と叫ぶのではなくて、
彼らの姿を見習う姿勢を持ちたいものです。

物質社会的感覚。頭を先に使う感覚。
そこから意図的に・能動的に離れて、心の感覚を磨きましょう、と、わたしはこの場に記しています。
伝わる方々には伝わるはずです。





役目を果たすとは

椿の葉から感じ取る photo 宮本章光

先に頭で考える。
先に知識の中から探し出す。

役目とは何なのか?
役目とは体を酷使することなのか?

順序が「常に逆」だと氣づいていますか。


ここに居る意味は何でしょう。
ここに生かせていただいている目的は何でしょう。

同じく、常に「頭で考える」ことをやってしまいます。


それそのものが「逆」だと。
逆、というその意味は。

考えるより先に「感じ」なさい、ということだと氣づいた人から、先の世に繋がってゆきます。


ここに「在る」。
いま存在している。
その感覚・感触を。

役目を果たす。
とは、
ここに生きて、この地に求められる望ましい波長のエネルギーを発すること。

真逆のことばかりしかできない人間は、地球の厄介者として地球によって退治されるでしょう。まるで人間がVirusを忌避するかのように。
こうして淘汰されてゆきます。
過去に滅んだ文明と同じように。

役目が果たせる生命存在は、ともにこれからの世を創り上げる要員として伸び続けるでしょう。
こうして道は分岐し、新たな文明へとシフトしてゆきます。


隕石が降るのではなく、大津波が来るのでもなく。
それは、
そのように騒ぎ・踊る人、その人たち自身が、自分の想念によって作ってしまう負の力に飲み込まれ滅亡する世界線。

こうして道は分岐し、それぞれ自分の意志で選択した世界線を歩みます。
いま、輪をかけて混乱と混沌の世界を体験している人たち。
いま、もはや望ましい空間と波動のみしか感じない人たち。

このようにして道は分岐し、自分の意志で選択した世界線を創造するのです。
心(あの世)を起点に、この世(目の前の現実)は、自分自身によって創り上げられてゆきます。





見えないものを見る

森に佇む東家 photo 宮本章光

まず大前提。
見えないものは見えない。

それは、物質観点オンリーの状態では「見えるわけがない」のであって、可視光線帯域にある波長でなければ視覚として認識できません。
至極当然。この論点はもう満腹です。
このタイムラインをこの先もずっと体験したいとの希望を持つ人たちだけが選択なさればよいかと。


この先に展開する精神性の成長と成熟を望むのであれば、心の感覚を取り戻す必要があるでしょう。
もはやこの時点で、相入れない齟齬を生みます。
立ち位置がそもそもまったく異なります。

心の感覚など存在しない、物質至上・物質社会と経済発展というモノとカネの増大と右肩上がりの成長を基盤とした経済学は、モノを土台にしている以上、いずれ崩壊し消滅します。
ここ数日の記事のように、形をとったものは必ずお土に還るという大原則・摂理には逆らえないからです。

そして、普遍的なカレンダーは「もう次のフェーズへと」ページがめくられた、とされます。
この大河の流れのように、個々人の考えや物理実体で変えることなど絶対に不可能な巨大な力の変化、然ればこそその流れに乗ってゆくのが「進化」ではないかと考えるのです。
そもそも逆らうことなど不可能ですから。

よって、その旧い体験を望む人は、それが体験できる地で「初等教育をやり直す」ために転生するのだと語られてきました。しかし、その語りさえも届きません。まさに「聞く耳を持たない」状態。
それが自分の意志表示であり選択だから。


ここで多くの方々は、ハッと氣がつくはずなのです。
「どこかのタイミングで、自分から方向を変え選択を変えなければ、永久に同じことを繰り返すだけなんだ。」と。
いえ、氣がつかないから、何度も何度も氣が遠くなるような2万5800年のサイクルを走り続けます。
これをさらに何度も何度も重ねて50億年でしょうか。

けれども、いまのこの大転換機に氣がついた人たち。
自分の意志表示によって選択を変えてきました。
そして、
そのキーポイントは、物質世界と対になった精神性の向上という部分にフォーカスすることである、と理解できるようになりました。

それなのに、再び「ここで足踏み状態」で停止しているように見えます。
それは、
「待ちの姿勢」を変えないからだと判ります。


昨日の記事のように「よい子ちゃん」を大量生産する世の仕組みが長く続いたのも大きな要因でしょう。
しかし、
ここでも「自分から方向転換し選択を変える」ことで道が拓けます。
言葉を変えるなら「自分で選択を変更する」こと以外に、自分の現実を変えることはできない。との結論が導かれます。

物理次元・物質世界から次の段階へステップアップするための行動とは、こういうことではないでしょうか。


支配者層が仕組んだ貨幣経済の奴隷として、その増大こそが幸福への道だ。なとど体を酷使して走り叫び回るのも、その学びの当事者、その学びのレベルでは必要だったでしょう。
けれど、
これをやっている限り成長は叶わないわけです。

ではどうするのか?
今日の標題「見えないものを見る」ように取り組んでゆきます。


こうして、精神性の向上を希望すると宣言し実践することで、麻痺した心のセンサーを取り戻します。
これを「行動する」と呼ぶのではありませんか。

もう、汗水垂らして走り回るのが美徳などと思わないことです。
もう、大声で自己アピールするのが偉いだとか、力のある者の証などと思わないことです。
もはや、数を追い数を誇るのは、恥ずかしいとさえ感じる世になりつつあります。

それも自分の選択ではあります。


見えないものを見ようとする意志はありますか。
自分の現実にブレイクスルーを作り出そうという氣概はありますか。

それは浮ついた思想や妄想などではなく、真の成長を見極め・望む者だけが選ぶ道。





将来は何になりたい?という愚問

形あるものいずれ消滅 photo 宮本章光

小学生時代には必ず経験する教育過程かと思われます。

「わたしの夢」
「将来になりたい姿」
「大人になったわたしの仕事」。

これらを求め・書かせる。
そういった教育。

意味がない、というのではありません。全否定するのではなくて。
成長過程は人ぞれぞれなのです。
その時点で「なりたい仕事」なんて決まっていない人は多いでしょう。
まして、世の中の無数に存在する仕事をすべて網羅し理解しているとは決して言えない年代に、画一的な枠組みに押し込むのは危険です。どこに・誰がそんな制限を課す権利があるのでしょう。


わたしの小学生時代は、この場でもかなり数多く綴ってきました。
ひとことで言うなら、相当変わった子ども。いえ、もうぶっ飛んだ普通ではない小学生。
そんなわたしが、当時感じた感覚を記憶の端から呼び戻しここに記します。

---なりたい仕事?
---そんなものはない。
---やりたく「ない」仕事なら、三つある。そう発言し続けた小学生でした。

その「やりたくない・なりたくない仕事」三つ。
1.学校教師
2.医者・医師・医療機関従事者
3.警察官・公的機関従事者

あれから50年以上経ちました。
あぁ、あの時の勘・確かに間違っていなかった。と、いまになって確信を持つ状況になりました。


やりたくない仕事ならある。
と発言するわたしに対し、担任教諭はこう答えたのです。
「やりたくない」ではなくて「やりたい」でしょ?質問の意味は理解できていますか?と。

内心、馬鹿にするなよ!わかってるわ! と、怒りが込み上げた瞬間の感情をはっきりと覚えています。
ここから、わたしは大きく道を乗り換えたのです。
ええ、それが大間違いだったわけですが、世の中・世間体の観点からは「大正解」でした。

それは、
「よい子ちゃんとして生きる道」。
言われたことを寸分違わず忠実にトレースする。言われたことだけを満額回答する。
試験はほぼ100点満点以外はないレベルの結果を出す。
学級委員長・代表委員会。すべて頭の席を任される。
地元の有力者からは、頭なでなで。すごいね・えらいね!しか言われない。そんな小学生。


そして、さらに一年の学年が上がった頃だったでしょうか。
創立記念(歴史の長い学校でした)の記念文集?に、将来の夢・将来なりたい仕事を描きました。
まさに「模範的な・100点満点になるような回答」として、無理に「本心では違和感を残したまま」で。

こうして「よい子ちゃん」として生きる道を歩み、6年間を終えたのでした。
通知簿(通信票)には、争いをせず誰とでも仲良く過ごす真面目な生徒。だと「ごじゅうまる=高評価」を多く重ねていました。
(しかし、これ大間違いですから!)


この教育の何が問題なのか。
自分ですべてトレースしたのですからここで論評してもいいでしょう。自分でやらずに言うな!と批判されることもありません。

「模範回答を出すこと」だけに意識が向いてしまうのです。
現在ならYoutuberだとか芸能人だとか書くような感覚でしょうか。
「大多数と同じであることが正解」という意識に固まってしまい、アウェィだけれどもクリエイティブな創造性は一切芽を摘まれてしまう。
こういうことでしょう。

中学進学以降には、この大きな過ちに氣づいて大きく方向転換したことも、過去記事には詳細に記しています。
しかし就職後に再び同じ過ちを繰り返したのでした。
お時間がありましたらどうぞ。
◆関連記事
【生後21,916日めに思う】2023/05/28[ Link ]


昨日の記事で、
「ご自身の役目とは何でしょうか。」と書きました。

この答えは、
「自分の勘・直感に正直に従う」
「穏やかに・静かに過ごす」
「負のエネルギーに燃料を注がない」
だと思っています。

そんなものどこに価値があるのか?と、反論する人はもう随分と減ったはず、いえ、もう決してシンクロしないでしょう。
その物理次元は、すでに崩壊し滅亡・消滅するのが決まっているのですから、そこにフォーカスはいたしません。

形をとったものはいずれ必ず消滅します。
最盛期に美しくその姿を披露した花たちも、いずれ枯れ・散り、お土に還ります。
だからこそ、
物理次元で物質実体をもっている期間に、目一杯その体を使わなければできない役目を果たします。
それは、やはり汗水垂らして走り回ることだったかもしれません。
物質社会、そして経済発展という工程ではそれが必要だったのですから。
そして、自分自身という魂存在を磨き成長させるために必要なプロセスだったことを学びます。
借り物の体を失う、その一歩手前まで痛めつけることさえも学びの一つだと。

けれども、宇宙のカレンダーはもうフェーズが変わったのです。
「ここに存在するだけで価値がある」
こういった時代に入ったのです。だからこそ、そこに負のエネルギー・想念を生み出さないこと。

いつまでも、将来の仕事だとか、くだらない論点で心を悩ませ負の因果を蓄積する行為は、早晩やめさせたいと感じています。





形を持ったものは必ずお土に還る

形あるものお土へ還る photo 宮本章光

自分の選択は自由です。
何を望もうと、何を選ぼうと、それが自由意思。

他方、
この世あの世に普遍的に存在する大法則・標準仕様といった仕組みがあります。
これを摂理と呼び、個々人の自由意思に関係なく永遠に維持されます。

物質・物理次元において「形を持ったもの」は、その物質物理実体は時間の経過とともに必ず消滅すると。
形をとった存在は、一つ残らず「お土に還る」のが標準仕様だということ。

よく語られる、過去に文明など絶対に存在していなかった、といった論説をみますと、
「物的証拠が残っていないから」という観点をその根拠に置いているものがあります。
この仕様を考慮するに、物質次元では物理実体はいずれ必ず消滅するのですから「残っていない=お土に還った」といった可能性を証明できず、それが過去に存在していないという否定材料になり得ないことが判ります。


いまここで原点に立ち返ってよく考えること。
それは、
お土に還った後も「永遠に続く成長のための学びがあること」ではないでしょうか。

大法則・摂理に反し、
「死んだら終わりや。何をやろうと自分の勝手や。」と、この地・今生でさらなる負の因果を重ね続ける。
「知れよ・学べよ」と叫ぶ割には、物理実体=体を痛めつけるばかりの食と言葉を口にし吐き続ける。

蓄積しどうにもならなくなった過去を浄化する稀有な機会(期間)であるにもかかわらず、負の要因をさらに積み重ねるばかり。
こうして山積みにした課題は、
部長席の未処理案件ボックスに眠る書類と同じく、いずれ必ず対応すべき時期が訪れます。
書類は「否決」の印鑑ひとつで無かったことにできても、自分の成長のための学校の教科書は消滅しないわけで。
人生という括りで見れば、それはこの体をお返しした後で、同じ「初歩の初歩」たる教材を永遠にやり直ししなければならない。ということに他なりません。

ところが、
次の機会にも物理実体を貸し出しされるかどうかは大変難しい、と語られます。
せっかく与えられた機会、そしてその貴重な実体を痛めつけるばかりだったのなら、誰も次はもう貸出したい、とは思わないのは当然のことでしょう。

恥ずかしくない生き方。
お土に還る瞬間に、後悔せず、迷惑をかけず、誇りを持って感謝が述べられるように。
日々精一杯生きる、とは、
与えられた環境と条件を最大限に活かし大切に使い、そこに感謝を忘れず、自分の役目を果たすことだと判ります。

ご自身の役目とは何でしょうか。
(わたしは、日々、こうした語りを目に見えない存在から受け取っていることを感じています。)





負の念はストレートに伝わる

みなとみらいの芸術 photo 宮本章光

念は伝わります。
かなりの数の人々が、この能力を取り戻しつつあるように感じます。


負の念は特に。違和感や不快感として極めてストレートに。
では、
その対にある正の念とは何でしょうか。

それこそが、心地よさと平穏な心持ち。
この感覚を受けるからこそ、そこに感謝が生まれる。
こういう循環だと思うのです。

幸せになるために、感謝を毎日10個書き連ねる...。
それは順序が逆だと感じます。

そもそも、幸せとは「心で感じる」感覚なのであって、貨幣資産や物質的豊かさを増大させるような意識とは似て非なるもの。
何を語っているかによって、その方々のシンクロしているレイヤーが見えるようです。


いま、負の念は、あからさまに、そしてダイレクトに判るようになってきました。
それは大きな違和感・不快感とともに。
だからこそ、
もう卒業した旧来のレイヤーに存在するエネルギーにはフォーカスしない。
そして、
心地よさと暖かさに根ざした感謝の波動を維持したいものです。

この非常に難しいハードルを超えることで、またひとつ階段を上がることが可能になるはずです。





「氣」とはエネルギー存在だから

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語り尽くされた、とは、まだまだ言い難い現状。
これから知り・学んでゆく必要があります。


そこにある「何か」。
それは、
物質・実体としてのモノではなくて。

感じることができる何らかのエネルギー。
なんとなく、でも目に見えないもの。
それが氣の正体。


人の意識も、同じようにエネルギーとして伝播します。
心に抱くだけで、その力が向けられた先へ伝わるのです。
人に向ければ、その人へ。
植物へ向ければ、その植物存在へ。


向けた先が「受け取らなければ」その力は自分に戻る。
それが仕組み。
負の念を特定人物に向けたなら、受け取られなかった負のエネルギーは自分に還る。
逆に、望ましく心地良く幸福感に満ちた力を手向ければ、その力も伝わること。
これが因果の仕組み。


先人は、これを「想念=物質界に顕現化させる方法」として知っており自ら実践していたのです。
だからこそ、望ましい風景を描き続けることで、望む世界を創り出すことに成功していた。とされます。

---望ましいことだけではダメだ。
---苦しんでこそ成長がある。
その論法は間違いではなかったわけですが、それを体験し対極にある価値の重要性を知ったのなら、その後は、もう選択する必要がありません。
もう重ねて語る必要はないでしょう。
抱くエネルギーを顕現化させるのは自分自身だから。
その学びは、ごくごく初歩の教育過程で、対極を知ることでその反対側の価値の意味を知り体験する目的でした。
学び終えたなら、もう負のエネルギーをいつまでも焚き続ける必要がなくなります。


ブルースクリーンに、無限再起動ループ。まいクソそふと野郎め。
と、騒げば騒ぐほど、その現実を自分で強化し維持します。自分がそのエネルギーを補充し続けているのですから。
そして、それを望んでいるとの意思表示をし続けているのですから。

学んだはずだったのでしょ。
いえ、なんにも体得しなかったのですね。
それに何年も前から、そうした状況が発生するリスクが語られてきたのです。
いつまでも学ばない地球人。
いつまでもその現実を作り続ける地球人。
まだやりますか。いつまでやりますか。


心が現実を創ります。
抱く想念が物質を顕現化させます。
氣とは、エネルギー存在だからこそ、その力が大きな影響を及ぼすのです。


(ここ半年ほどは、海外IPアドレスからのアクセスが膨大な数に増えています。
Spamクローラと思われるものは随時ブロック設定していますが、web翻訳を含めてお読みいただいているのであれば、それはそれは嬉しいことです。あらためて御礼申し上げます。<-- このニュアンス、自動翻訳でもうまく伝わればよいのですが。)






森の精霊に会いにゆく

森の精霊に会いにゆく photo 宮本章光

いまから55,56年ほど前です。
父に連れられて、近場の山へ登る機会が多くありました。
そうした環境が身近にあったこと以外に、専門的な登山趣味を持つ父の影響も大きかったように思われます。
わたしは幼稚園児あたりの時代ですので、短いハイキングコースをトレースするだけではありました。

こうした機会に教えられたこと。
それは、
「森の生きもの」を意識してみるといった感覚でした。

目の前に見える「植物・樹々」。
周囲に響く小鳥たちの囀り。
見えないほどに小さい「昆虫や土中の微生物」。
これらに加えて、
「そこに存在する氣」を感じることを教えてもらったのでした。
(父は氣という言葉は使わず、空氣を感じる、という表現だったように記憶しています。)


氣とは何なのか?
深呼吸をしてみますと、森にある独特の香りを感じます。
その嗅覚だけではない、心地よさがあります。もちろん目に見えません。
これこそが、森の氣の正体だと容易に理解しました。

幼稚園児であっても...、といいますか、その世代の子どもだったからこそ感じることができたのだと思います。
過去に何度も綴りましたが、わたしは幼稚園時代には、人のオーラを「色」として認識していました。
残念ながら、その後この能力を失ってしまったことさえ認識から消滅してしまいました。
現在も、まだ復活は果たせずのまま。


曇り鈍ってしまった感覚を取り戻します。
そのための、わたしのNew Version、氣の感じ方です。

--深呼吸します
--周囲の音に注意を向けます(この部分が現在の最新版)

これで、一瞬にして「森の氣」にフォーカスが合います。
香りとともに「言葉にできないエネルギー」を感じます。
加えて、
「鳥の囀りや葉の揺らぐ音」に意識が合います。

おまけとして、市街地の喧騒・近隣に位置する学校から響く楽器の音が聞こえることもあります。けれども、それらを無理に消そうとする必要はありません。
これらをトータルで「感じる」こと。
この「浸る感覚」を感じるだけでよいのです。


森の精霊...などと文字に落としますと、いわゆる苔むした、数千年間の永きにわたり前人未踏であるような神秘的な風景がイメージされるでしょうか。
メルヘン的。ケルティックな世界なのでしょうか。
でもこれは、人の意識がそのように創り出したもの。人の想念が、ある閾値(しきいち)を超えて、具現化したもの。


身近にある森にも精霊は存在していることが理解できます。
そこに浸り・感じるだけで。
但し、自ら「感じようと」しなければ感じることはありません。
この部分、とても大切だと思われます。

わたしたちは、口を開けて待っていればベルトコンベアで運ばれてくるスタイルに麻痺しているのです。
---重要なことは、先生が教えてくれる。
---プライオリティの高い情報は、メディアが声高に伝えてくれる。
この感覚こそが、故意に仕組まれ作り上げられた隷属化のための洗脳結果でした。まったく逆方向に!です。


森の精霊に会いにゆきます。
そして自分からセンサーをOnにしてそのエネルギーにシンクロします。





セミたちは知っている

御神木に手を合わせる photo 宮本章光

しっかりと鳴き始めました。
数日前から、遠くのほうでは鳴き声(羽音)が聞こえていましたが、身近な場所でも盛大に響き渡るようになりました。


セミたちは知っています。
梅雨明けのタイミングを。
羽化のプロセスを経る以上、見極めを誤ると命に関わります。

この地を人工気象操作により人民を痛めつけることを目的として存在するような組織が発表する宣言など、彼らには一切関係ないことを証明してみせる。
そんな立派な宣言にみえる大合唱が鳴り響きます。


過去アーカイブをぜひご覧いただきたく思います。
一度お読みいただいた方も、いまこの2024年の夏にもう一度。

【「梅雨明け宣言」って何だろうね】2023/07/19 [ Link ]
【もうそろそろ次のステップへ】2023/07/18 [ Link ]
【暑いね〜と言うから熱くなる】2022/07/03 [ Link ]


昨日の記事にも記しました。
「この体をお借りしている期限内」に、やるべきこと・役目は山のように数多くあります。

使用期限があること。
魂そのものの存在には期限はありません。が、体をお借りして「この地で目的と役目を果たす」には、使用期限が設けられているのです。ここを否定する人はひとりも存在しないでしょう。

くだらん自己顕示欲や自己承認欲求など捨ててしまいな。
隷属化のために故意にスポイルされた潜在能力を取り戻す意識はありますか?
あるのなら、それを宣言し「自分で復活させる」意図を持って生きることです。

絶妙なタイミングを知っているセミたちから学びを得ます。
ありがとうございます。





体があるからこそ成し遂げられること

体があるからこそ成し遂げられること photo 宮本章光

【体があるからこそ成し遂げられること】

しっかりと考えておきたいと思うのです。
人間は、何ごとにおいても「失ってからその価値を知る」悪いクセがあるように見えます。
まさに「たら・れば」の世界。

--あの時にこうしてたら...。
--その時にこうなっていれば...。

後悔先に立たず。
誰でも知る名言ではあります。しかし、その本当の部分をまったく理解していない。と感じます。


この地においては、いずれ使用期限が到来する、この借り物の体。
死んだら終わりや。あと少しやから、もうどうでもええねん。
そんな意識の年配者が多いようにも見えるこの世の中。
ええ、確かにどうでもええわ、人のことやし。ということではあります。

しかし、
はっきりしていること。極めて大切なふたつのこと。
それは、
「死んだら終わり」ではないということ。
そして、
「そのようにいい加減に生きた因果は次の世で償う必要」があること。


この体があるからこそ「こうした文字を綴る」ことができます。
この体をお借りしているからこそ「こうした画像に感じた心を乗せて伝える」ことが可能になります。

当然、体を持たずともエネルギーによるコミュニケーションは可能でしょう。
けれども、そのエネルギーの波長を「受け取れる」だけの精神的成長を果たした人のみへ、「同じ波長のみ」しか伝えることはできません。
こうした種々制限を考えるに、
この体があるうち(お借りできる期限=寿命)に、やっておくことは山のように数多く存在していることに氣がつきます。


メディア(テレビ・新聞)の洗脳から卒業できた人は多いでしょう。
ところが、webやSNSの中毒性にどっぷりとハマり足元を捉えられその自覚さえない人が多数。
さらには、
医療の闇を一切否定し、まるで神のごとく信奉する姿は(他人のこととは言え)痛々しすぎます。

わたしは、父を、そしてあろうことか妹までも、この医療の闇で亡くしているので心底腹立たしい。
食から生活環境から、その仕組まれた枠組みがあまりにも巧妙すぎて、彼ら二人ともその洗脳スパイラルから抜け出せなかったのです。(いま残る身内までも...)
そして自分自身さえ、間一髪のところで体を失ってしまうかもしれない瀬戸際へ追い込んだことも。
自分自身に、いつまでも浄化できない頑固なアカが、この部分に残っていることを常に感じています。
この文字で手放し離れます。

極め付けは、
ある程度の精神世界を学び成長したはずの人たちが、感謝を10個数えれば幸せになる...式の、これまた再びその道の洗脳にハマる。
トドメは、
お金に感謝、幸せを実現するために貨幣資産の増大をするんだ!そのためにお金に感謝を捧げて。
などとやってしまうのです。
支配者層により作られた隷属化のツールにすぎないものを最重要アイテムに祀りあげる巧妙な仕組みに足を掬われてしまう。


何をやろうと人の自由ではあります。
しかし、
この体を貸与されている「期限のある時間内」に、もっと他にやることがありますでしょう?
みんなで幸せになりたいと思いますでしょう。

それならば、もっともっと大切なこと。
心に触れ心で感じる体験を重ねてゆくこと、そしてその積み重ねが望ましい現実として顕現化すること。

体をお返ししたあとには「決してできないこと」を、いまこの瞬間にどうしてやらないのでしょう。
体があるからこそ成し遂げられることに、もっと真剣に取り組みたいものです。
その答えは、個々人の心の中にしか存在していないのです。

戦争反対!と叫び、自分からその負のエネルギーを強力に焚き続け、
世の中狂ってるやろ!おかしいやろ!氣づけや!と踊りまくってさらに負のエネルギーを自分で増大する。
お金に感謝して、と善行のつもりが、故意に仕組まれた隷属化の枠組からいつまでも卒業できないエネルギーを、これまた自分が増幅してしまいます。

「心を起点」にして、物質界に具現化させてゆく仕組みを実地で行い、この地を作り上げてゆくのが、この地に生かせていただいている者の役目ではないでしょうか。




同じ周波数のみが響きあう大法則

受け取る photo 宮本章光

感じることができる人だけが感じればよい。
受け取ることができる人だけが受け取ればよい。

何もかもごちゃ混ぜにして、平等だ・ひとつだ・一になれ。おてて繋いでみんな一等賞。
などとのたまう洗脳教育の世は終わったのです。


それは、究極の悟りを表面上に纏っただけの偽りの平等を企てる支配構造の姿。
それは、精神性の向上を表ヅラに被った、ただの偽善者の言動。
まさに、
「あかずきんを被ったオオカミ」と同じ。


大原則・大法則を忘れないことです。
同じ周波数「だけしか」響き合わないことを。
同じ波長「のみがシンクロ」することを。

異なる波動を同じるつぼに投入し、そこから何を得るのか。
異なる波動を同一フィールドに放ち、そこから何が生み出されるのか。
その実験の結果がここに表出したのです。
混沌とした統一性のない泥沼からは、何も出現しなかったと証明されたこと。
ただし、
そのさまざまな周波数と異なる対極のエネルギーを体験した者が、より望ましい「選択」を行う「体験」が得られ、それが魂の成長と精神性の拡大に寄与したことは大いなる成果であったと。

感じることができる人だけが、同じ波長で響き合う世を創造してゆきます。
同じ波長以外は、決して響き合わないのです。
それが法則・摂理というもの。

そして、その仕組みこそが大いなる神であることを知る期を迎えています。





護られているからこそ今がある

大くすのきに感謝を奉る photo 宮本章光

この地で永年生存し、
この場で永年護りを固める。

威厳と尊厳ある生命に感謝を捧げます。


何でも自分でできると思うな。(自分ひとりで何かを成し遂げたと錯覚するな)
そういった教えの言葉がありました。

同じでしょう。
何でも自分の手柄だと言うな。です。
多くの支えがあり、数々の目に見えない導きがあることを忘れてはならない、ということ。

その傲慢な思考と姿勢が、因果としていずれ「異なった形で自分に戻る」のです。

支配しようとするもの、最後の一厘で叶わず。
だからこそ、支配から逃れられたことへ感謝を忘れず、明るく穏やかな道を選択するのが筋ではないでしょうか。
それなのに、
支配者と同じことを今度は自らやってしまう。

道を誤らないことです。
仕返しよろしく自分が権力者・支配者になることなく。


護られているからこそ、この日・この時が過ごせることを。
そこに大きな力が存在するからこそ、生存し学び続けられることを。





それが氣で繋がる目に見えない力

そのままあるがまま photo 宮本章光

無理に力を入れるのではなくて。
力んで緊張感を高めるのではなくて。

緩めた瞬間に繋がるもの。
離した途端に見えてくるもの。

それが氣で繋がる目に見えない力。
そして氣で繋がる目に見えないフィールド。


わたしたちは、唯物主義・物質世界の「モノという存在」に、あまりにも傾倒し過ぎました。
物ごとは、モノと心の両輪で成り立っています。
過去、片方に偏りすぎることにより、その文明は崩壊し滅んできたとされます。

いったい何回同じ失敗を繰り返せば学ぶのでしょう?
いったい、いつになれば目の前のVR世界を俯瞰し客観視できるのでしょう?
いったい、いつまで仕組まれた「負のエネルギー増大装置」に自分自身が成り下がるのでしょう?


緩めた瞬間に繋がるもの。
離した途端に見えてくるもの。

それが氣で繋がる目に見えない力。
望ましい世界は、望ましい心の状態から生み出すことにより顕現化してゆきます。





それぞれの姿を

切り株定点観測 photo 宮本章光

さまざまな生命。
さまざまな生き方。

それぞれの道を、それぞれに歩む。

故意に仕組まれた負の力・ノイズに触れず。
望む世界を明確に描き、いまを生きる。





思考がモノとして顕現化する

美しい波動に響き合う photo 宮本章光

多くを語る必要はなくなりました。

思考は顕現化すること。
想念が時差を経てモノとなること。

想い描くエネルギーが現実となります。
大いなる法則。
素晴らしい仕組み。

仕組みそのもの・森羅万象すべてを「神」として共に生き・歩んだ先人の世界が戻りつつあります。
ありがとうございます。





輝き続ける

輝き続ける photo 宮本章光

ノイズから離れ、
負の力から外れ、
望む道を描きます。

いつまでも輝き続ける美しさを得るために。




もう十分でしょう

七変化の姿 photo 宮本章光

実には毒があるから。触らないように。
え?まだ実になっていませんでしょう。


動物に噛み砕かれると毒が滲み出る(=だから動物には食べられない存在として生きられる)。
でも、
鳥ならば噛み砕かないから、種子の中心部は鳥たちとともに遠くへ移動できる。

「ランタナ/七変化」。彼らはここを狙って氣の遠くなるような進化をしてきたのでしょう。
いえ、あるいはそれさえもDNA操作により、この地「地球」における実験だったのかもしれません。


人間は、騙されて「自分の意志で自分の体に毒を入れる」そんなレベルをいまだにやっています。
それは針を通しての話ではなく、口にする食べ物・飲み物。そして口にする言葉。ことの葉・言霊。

騙されるのは、騙されるだけの精神性レベルであると証明するための大実験。
その壮大な「精神性の成熟度チェック」がいまだに繰り広げられています。

もう十分です。
いつまでも同じ幼児クラスで、同じ教材を学んでも学んでも、何度学んでも学んでも一切成長が見込めない。
もう沢山です。


そこにフォーカスしなければ良いのだと学習しました。
集合意識がどうであれ、そこに自分がシンクロしなければいいのだと体得しました。
自分で歩めばよいのだと。

美しい仲間と新たな世を創り上げる心算はできていますか。
毒だって持っていますよ。それがこの地においては進化と成長のためだったですから。
けれど、
自分からわざわざ毒を選ぶ必要はありませんね。という時代に入ったのです。

それが選択。
それが自分の意志表示。
そして、
それがこの先に展開する自分自身の現実創造。





自分が作った過去の想念に縛られている

空を見上げて photo 宮本章光

自分が創り出した「目に見えない」エネルギー。
その実体に自分自身が縛られてしまう。

こうした体験の仕組みが少しづづ認識できるようになってきました。


教育という名の洗脳の落とし物。
仕事という名の隷属化の牢獄。
これらは、
「...でなければならない」
「...しなければならない」
といった、自分の意識状態とは関係なく、その場その環境において否応なく強制される感覚であることです。

これらを否定する意図はここにはありません。
嘗て、こうした仕組みにより経済発展が実現し技術革新が生まれたことは事実です。
ただし、時代も環境も目まぐるしく移り変わります。そして今、大きく工程表のページがめくられたのは疑いないものと思われます。


ようやく精神性の重要性と、物ごとの両輪、物質面とペアとして存在する意味が理解されはじめました。
この過渡期には、誤解と間違った認識に陥るリスクがあることを知る必要がありそうです。

目に見えないエネルギーを感じてみよう。
言葉を話さない存在と心で繋がってみよう。
いわゆる、氣を感じる感覚を磨く体験を能動的に重ねてゆきます。
ところが、
ここで、意図した対象とは異なる力に繋がってしまいます。
そして、それらは「自分が勝手に作り上げていた」上記のような強制体験による過去の想念の塊であると。


美しい花に波長を合わせてみたい。と試みたとします。
しかし、
そこから受け取るものが(例えばの話ですが)「美しい花を披露してあげたんだからしっかりと宿題をやりなさい」などとは送ってこないでしょう。恐らく。

素晴らしい料理を食する機会に、その素材に波長を合わせてみたい。と試行したとします。
そこから放たれるエネルギーには「命を捧げてんだからもっと感謝をしろよ」などとは決して送られてこないはずです。

これらの感覚は、それぞれのタイミングで、必要なことではあるでしょう。
課題は逐一こなさなければなりませんし、命をいただく生命に感謝を捧げるのは必要なことに違いありません。
けれど、
それは「自分の中で勝手に作り出された強制観念」のエネルギーであろうと思われるのです。

何より、そこに「大きな違和感」がキリキリと音を立てるがごとく押して来る時点で、本来の対象から発せられているエネルギーではない。と確信するわけです。

これを妄想というのではありませんか。
勝手に自作自演している状況。


精神性や氣を語るときに必ず湧いてくるノイズ。
それは、思い過ごしだとか妄想だ。という語り。
もうこれで、本来の対象が発するエネルギーと自ら作り上げた負の想念の塊と。しっかり区別できるようになります。

キーワードは「違和感」。
ここでも、違和感が大きな役目を果たすことを知ります。
しかし、さらに理解を進める必要があること。
それは、
違和感とは、自分のその瞬間と「単に異なる周波数」にあわせようとしているだけの物理現象であると。
良いもよくない、も、そこには無いことを重ねて知ります。

すべては、
自分のいまの周波数と、過去に勝手作り出してしまった負の想念と。
波長を認識すればこそ、間違った対象に繋がることはないのだと理解が進みます。





コミュニケーションの本質とは

コミュニケーションの本質 photo 宮本章光

おかしいやろ!
狂ってるやろ!
と、叫んでいても何も良いことは起きません。

元からすべてが捏造された世を体験するため、洗脳された感覚を体験するために、この地の学校で学んでいるのですから。
しかも自分から希望したのです。誰一人として例外なく。

叫び踊り続けるのは、単に「おかしい・狂った世をこれほどまでに知ってるぜ!スゲーやろ!それ見たか!」な自己アピール、自己顕示欲と承認欲求の醜い塊にしかならない、と学んだのなら、もうやめることです。
百害あって一利なし。


コミュニケーションとは、旧いタイムライン上の、文字や言葉で表現する形だけではないこと。
いえ、むしろそれはイレギュラーなスタイルなのであって、心と心の波長を同期させることで相互理解に至る方法こそが標準仕様であったことに理解が届きます。

繰り返し何度も何度もこの場で綴ってきました。
言葉や文字という「物質次元的な感覚の延長線上」では、この先の世においては決してコミュニケーションは叶いません。

感じること。これ一択です。
そのためには、感じるためのセンサーを磨くこと。
磨くためには、口にするもの二つ(言霊と食べ物)を徹底的に入れ替えること。でした。

そして「感じる」ためには、これまた洗脳教育の強固なアカを取り除く必要があります。
冷たい水に触れたら、指先が「冷たい」と無意識に感じるのが「感じる感覚だ」と錯覚していることです。
空腹になれば、腹時計が鳴り「腹減った」と自動的に感じるものだ。と思い込んでいることです。

大切なこと・重要なことは、大きな声で先生が教えてくれる。だとか、メディアが大々的に取り上げるから重要度が高いんだ、と判断するような定規・規範となる考え方を徹底的に捨て去ることが必要です。


コミュニケーションとは、
「感じよう」と意識し、感じたいその先の周波数に合わせる「能動的なアクション」が必須だということ。
そうでなければ、自動的に「冷たい」とも「腹減ったグーグー」などとも絶対に与えられないものなのです。
そうでなければ、欲しい波長も欲しくないノイズも、何もかもごちゃ混ぜで「激しくやかましく耐え難い」エネルギーのるつぼに入ったような感覚になってしまうからです。
(はい、既にちょっと道を選び間違えるとその状態に陥ってしまいます。激しくやかましい、耐えがたくうるさいのです。
それは物理的な「音・音量」が大きいのではなく、エネルギー存在の波動が耐え難くやかましく邪魔なのです。)


もうすぐテレパシーが開眼するぞ!と、語る人が増えました。
良いことには違いありません。
しかし、
その使いこなしは、誰かが大きな声で教えてくれるものではありません。

その語りこそ、浮ついて聞こえます。
あぁその道のビジネスだな、と直感的に伝わるようになりましたでしょう?わかるようになってきましたでしょう?

自分から望む周波数にチューニングするのです。
だからこそ、その波長に合焦するのです。
そうでなければ、テレパシー能力を取り戻したなら、"サトラレ"のごとく、何もかもが筒抜けになってしまいますでしょう。


コミュニケーションの本質とは、
望む周波数同士がシンクロすることにより、その同期テーブルの上でエネルギーの交換が発生している現象であること。
この大いなる物理法則を学ぶ時期を迎えています。
これまでに教えられたウソの教科書など捨ててしまいな。もう不要だから。

いつまで叫びますか。いつまで踊り続けますか。





選んだ通りに・望む通りに

選んだ通りに・望む通りに

「選んだ通りに・望む通りに」顕現化してゆきます。
この地を含め、すべての大原則・大法則。

自分はそんなものを選んでいない。
のではなく、
想念として心に抱いた結果を自分で受け取ります。

自分はそんなことを望んでいない。
のではなく、
想念として心に描いた結果が自分に戻ります。


すべては因果の法則。

道端で、誰の目に触れることもなく、通行人に踏みつけられる。
彼らは「自分は選んでいない」と言うでしょうか。

種子が風に乗りそこに落ちたからでしょう。
それが自分の選択でした。

与えられた環境を目一杯楽しみ、
美しい花を披露し、
寿命を迎えれば枯れてゆきます。


選んだ通りに・望む通りに。
結果は、自分の選んだ通りに齎されます。
結果は、自分が望んだ通りのものを受け取ります。

いま、受け取るものは、自ら過去に望んだもの・選んだもの。
そして、
この先に受け取るのは、いま望むこと・いま選択すること。





巨大な氣を感じ響き合う体験を

御神木の神聖なる力に合わせる photo 宮本章光

言葉は不要でしょう。
御神木から発せられる巨大な力、膨大なエネルギーを。

神社巡りガール...(などという言葉があるかどうか不明ですが)的な女性が一人。
時間をかけて御神殿に参っている姿があります。
けれど、
その建物には何もエネルギーを感じません。
この御神木にのみ、大きな氣が宿っていることに氣がつなかいのかもしれません。


何も語りません。
小鳥の囀り以外には何の音もしません。

しかし、
ここにある氣を感じようと心を合わせてみますと、シンクロした瞬間に「膨大な力に圧倒される」感覚を受けます。
その瞬間、それまで見えなかった向こう側に太陽が光り輝く不思議な体験をします。

その力は、暴力的に押し倒すような負の力とは正反対。一切の押し付け感覚がありません。
穏やか。静かに。そして暖かく。

けれども、強烈な力であり恍惚感に通じる大きく「筆舌に尽くしがたい」力があります。
これが御神木たる所以。

この生命に深く感謝を捧げます。
そして、
「触媒・伝道者」として、その力を多くの方々へ伝える役目を果たしたく思います。
左手をこの画面にかざすだけでも感じることができるはず。
この膨大な力に共鳴し、ともに望ましい道を創り出すために。




年年歳歳花相似たり歳歳年年人同じからず

今年も会えたことに感謝 photo 宮本章光

「年年歳歳花相似 歳歳年年人不同(年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず)」

わたしがここで語る必要のない耳馴染みのある句です。
今年もまた、この色合い・立ち姿に会えるのは、大変に恵まれていることだと再認識しています。

上記の句では、
毎年、花は同じように咲くが、見ている人は年ごとに移り変わっていく。
との意があると語られます。
ここで思うのは、
毎年毎年、同じように咲き続ける「花」の姿こそ、とんでもなく凄いことではないのかと。

当然、大きさや形が寸分の狂いもなく同一で、色彩まで完全一致している、という意味ではありませんが、ほぼ同時期に同じ形質の姿を披露する彼らの「普遍性(ふへんせい)」は、特筆すべき能力だと感じるのです。

上記の句からは、
「人は年ごとに移り変わる」のであって、それが進化で進歩だ。といった、ある種の優越感に繋がるような感覚を得ることが多いと思われます。
しかし、
花のように「同じ」姿を同じ時期に同じように披露するのは、人間にはまず無理でしょう。
それこそがすごいことではないのか。と感じる感覚を大切にしたいのです。
それは元々異なる存在なのだから当たり前のことだ。と、切って捨てるのではなく。


他方、毎日通勤電車の同じ時刻の同じ場所に乗り、同じ時間に会社へ通い、同じようなことを繰り返す。
それは、単に「生活のために金銭的代価を得る」目的だ。とするのなら、いかにその人生は味氣ないものでしょうか。
(しかもその貨幣経済の仕組みそのものが支配者層によって故意に作られ、富をピラミッド上層へ集中する目的のある隷属化の枠組みだったことにさえ理解が及ばず、馬車馬のように身を粉にして走り続けることが美徳などと刷り込まれている人たちは...。)

何のために、貴重な体をお借りしてこの地の学校でまばせていただいているのでしょう。
この部分に目が覚めた人たちは、さっさとその環境を脱し、自ら望ましい生活を創り上げていることでしょう。


これこそが、まさに「振り分け」されている証でもあります。
御霊相応・身霊相応。
自分の選んだ周波数が、時差を伴って自分の現実となってゆく。とはこういうことだと理解できます。
すべて自分の選択と意志表示の結果であると。
学びが足りなかったならば、履修単位不足で留年するのと同じく、氣がつき学ぶまで永遠にその苦行を繰り返すだけなのです。

わたしたちは、教育という巨大な洗脳装置によって、感覚・感性を麻痺させられてきました。
「何か大きなこと」は、「何か大きなシグナルやメディアが大々的に語るものだ」。という思い込みが刷り込まれているのです。
いまの混乱の世など、まさにそのまま。良くわかりますでしょう?
大きな音・デカイ声に盲従する思考停止アンドロイドたち。

大きなこと・重要なこと、とは、
自らがどのレベルのプライオリティを持って認識するのか。によって如何様にも変化することを知ります。
これこそが「同じ波長・周波数は響き合う」という物理法則そのものだったと頷きます。

「年年歳歳花相似たり」これこそが、わたしは凄いことではないか、と感じたからこそ、その波長に同期した世が創造されてゆく仕組みです。
その仕組み、仕組みこそが「神」だと理解する期を迎えています。





自分で見極めないとダメ:何に繋がるのか

森の仲間から受け取る photo 宮本章光

標題の通りです。
何に繋がるのか。何にシンクロしているのか。

自分自身でそれを判断しなければ、道を誤ります。
争いや怒りなど、負の力を望む存在そのエネルギーに繋がってしまう人が多いように見えます。


自分の体験を基に、ここしばらくの記事を綴っています。
心地よさなのか、違和感なのか。
穏やかで静かなのか、激しくやかましいのか。

昨日の記事
【インチキ波動に繋がらないよう】2024/07/04(Thu) [ Link ]

のように、当人はまったく氣がつきません。(重ねて自らの体験に基づき記します)
そして、善行を重ねる我こそはヒーローだ・救世主だ!とでも言うような優越感に浸り、政治問題の裏側や知る人の少ない情報、あるいは知られざる宇宙の秘密を提供してやっているんだぞ...的な周波数のエネルギーを強烈に放っています。

心に響くエネルギーは、そのエネルギーが持つ固有の周波数によって決まります。
自分からやかましく自己顕示欲放出し騒ぎ叫ぶだけの人は、それが「趣味」なのでしょうから放っておきたいところですが、周囲にノイズ(注:個人的感覚)を撒き散らすので、その飛沫を受けないよう耳を塞ぐ努力も必要でしょう。

その波動が渦巻くSNSなど最たるもの。
触れない・離れる。これしかありません。
離れられないのであれば、それは中毒症状だと自分から認識することさえできない末期的症状に陥っている証でもあります。


負のエネルギーは、わたしたちの集合意識が「過去に作り出した負の想念」がエネルギー体となって存在している。とされます。
以前は、それは悪事を働く存在があり、それらが欲する力によって吸い上げられていた時期あったようですが、すでに現次元のひとつ上は掃除が完了したとも伝えられます。

となれば、負のエネルギーが消滅するはずなのに、消滅はおろか減少するどころか激しく急増している様子を感じます。
これこそが、この地に生きるわたしたち人間自身が、目の前の混乱によって「踊らされ」、そこに合致する負のエネルギーを増長し、いつまでも焚き続けている証明かと。
(まぁ両方の力をバランスするからこの地が存在できるという原理原則がありますが、それはそれとして横に置きます。)


過去、数年前。
テレビをはじめとするメディアに対しては「自分は覚醒者だし、節操をもって接しているから波動を下げられるような罠には落ちない。」などと高いところから豪語する人がありました。もう消滅しましたが。推して知るべし。
エネルギーのシンクロとは、そんな人間の思考ごときでコントロールされるものではないはずです。

大いなる物理法則。同じ周波数は必ず合致しシンクロするのです。
スマホの電波、今日はわたしは受けたくないから圏外にさせるんだ。などと意思でコントロールできるわけがありません。
(わたしたちは、思考によって目の前を創り上げる驚くべき能力は持ち合わせているはずですが、現時点では12条DNAはスポイルされたまま。この論点はここでは省きます。)


だからこそ、何に繋がるのか。どのような種類のエネルギーに繋がるのか。
自分の意識・意志とは一切関係ないところで、自動的に繋がって「しまう」のが波動エネルギーだと再確認が必要でしょう。
ですから、
望まない種類のエネルギーに触れないこと・離れること。

そうしなければ、いつまでも「自動的に意識を操られてしまう」世が続きます。
しかも、その燃料そのものも「自分が生み出している」のだと。自給自足のネガティブ永久機関を地でやってしまっています。

いま、期限(=崩壊と消滅の期)が到来していますよ。と伝えられているにもかかわらず、それをネタにまるで天変地異が起きて欲しいかのようなコンテンツを作り続ける。そして我こそは予言者なりインフルエンサーなり、でや!でや!と恥ずかしげもなく。
あるいは、それらを視聴し続け、自分自身が「そのエネルギーを焚き続ける」。


いつまでやっていますか。
再び、またこの期においても過去文明の滅亡と同じ過ちを繰り返すのですか?

自分で繋がる先の周波数を見極めななければ、自分の世界は永遠にこのまま負の力が生み出され続けます。
何に繋がるのか。
これが自分の選択ということ。
これが自分の意志表示だと。




インチキ波動に繋がらないよう

美しい光と影の芸術 photo 宮本章光

この風景に巡り会った時。
わたしの後ろから二名のハイカーが通り過ぎて行きました。

「何の珍しいものがあるんや?」
「大したモンどこにも無いやろ!」
そういったエネルギーを激しく放って通り過ぎてゆきました。

ええ、先を急ぐ目的があったのでしょう。それに時間も夕刻ですし。
けれど、
「放つ意識・エネルギー」は、しっかりと心の中に伝わるのです。
チクチクする感覚、あるいはズケズケと土足で入り込み押してきます。

この感覚こそが、目に見えないエネルギー。けれど、確実に伝わる「何らかの波動」だと理解できます。
この感覚をスポイルされてきたのです。隷属化させるために。
その行き着く先は世界統一政府:NewWorldOrder。
このところそのワードに触れる機会が完全に消滅しました。もう周波数が違いすぎるからでしょうか。


こういう話になりますと、必ず湧いてきます(いえ、湧いてきました=過去形)。
「それは思い過ごしだ」「自分がそのように感じた単なる妄想に過ぎない」と。
耳にタコが無数にできています。

何もないところにエネルギーは生まれないわけです。
大原則・大法則。
それなら、その「発生源」は、どこにあるでしょうか。ええ、わたしが妄想として生み出した。とも言えることは理解できています。


今日の本題はココ。
必ず発生源がある。
無からは何も生じない。とされます。だからこそ発生源がある。と考えます。

思考は「いとも簡単に操られる」という体験を数多く重ねてきたはずなのに、それを認識していません。
誰が操るのでしょう?
ここで再び、悪しき洗脳ループに嵌まり込みます。

そんなものあるわけがない。
そんな存在があるはずがない。と。
(わたしたちが過去に生み出した負の念、想念がエネルギー体としてその存在になっているのですが、今日の記事では触れません。)

ここで「違和感」を感じ取るセンサーを動員するのです。
大きな違和感を感じるなら、何らかの影響を受けているな、と体感から得たものが理解に及ぶわけです。


繋がった大元が、負のエネルギーを持つ・あるいはそれを目的としているなら「大きな違和感とともに激しく不快感」を感じます。
そうではなく、望ましい方向の力であるなら、そこに違和感は皆目存在せず、心地よさと恍惚感しかありません。
しかも、それは大変穏やかで静かです。

戦闘映画や戦いモノのゲームのように、威勢よく旗印を掲げ突撃...的なエネルギーは、その時点で負の方向=対立と怒りを生むことを目的としている、と瞬時に理解できるはずなのです。
けれど、
その戦いモノRPGのような世界に麻痺してしまった感覚は、突撃!悪よ滅べ!消えうせろ!とやってしまうのです。
あろうことか、口先だけは「戦争反対・平和な社会を」だとか語りながら。
極めつけは、「行動せよ!世の中を変えるには行動しかない!老害よこれまで放置した責任を取れ!」などと叫ぶのです。

これこそが、思考を操られている証。
対立し怒りを増幅するエネルギーに自分からマシマシな燃料を注いではなりません。
氣がつかないのはご本人だけ。という笑えない現実。裸の王様。
この惨状は、自らが氣づいて方向転換するしか救いはありません。今生はもうムリかもしれませんが。

このようにして、どうしようもなくなった文明の末期・最期は、過去5回も6回も地軸のシフトとともに大海に沈んだのだと。
よく判ります。
地球が、地軸をひっくり返すしかクリアする方法がないほどにまで、病み・痛めつけられ・腐敗した原因は、人間という愚かな存在(しかも当人は善行を重ねていると信じ込み、スーパーヒーローにでも昇り詰めたかのごとく錯覚した「善の仮面を被った悪」として負の念を撒き散らす邪悪な力の拡散者)により汚染され尽くしていたことを。

再び、またこの期においても同じ失敗を繰り返すのですか?


瞬時に感じるはずでしょう。まともな意識・感覚を持っている人間・日本人ならば。
よく確かめることが必要ではないでしょうか。
どのような存在に繋がっているのか。何にシンクロしているのか。
それは過去のわたしたちが創り出してしまった負の想念が目に見えない状態で顕現化しているネガティブエネルギー存在であると。

くれぐれもインチキ波動に繋がることのありませんように。
思考はいとも簡単に操られてしまいます。そして当人はそれに氣がつきません。




結果をコントロールしようとしない

朽ちてゆく美 photo 宮本章光

「朽ちてゆく美」がここにあります。
形を持ったもの、物質化したものは、必ずその姿が崩壊し消滅します。
物理次元に例外は存在しません。

この地で体験する一つの項目として、
美しく朽ちて行くプロセスを学ぶ必要があるように感じます。


いま、わたしたちが「やっていること」は、
なぜ朽ちるのか、どうして痛むのか、誰が痛めているのか・誰が悪いのか!元に戻せよ!
と、物理法則・大原則に真正面から対抗し、
しかも、悪はけしからん!悪よ消えろ・悪を滅ぼせ、こんニャロメ〜!
と叫ぶばかり。
それを選択するのはその人の自由ではあります。


しかし、ただ一つはっきりしていること。
それは。

その波長に同期している限り、そのレイヤーを永遠に体験し続ける。ということ。
その波長を自分から選択している限り、そのレイヤーの負のエネルギーを自分自身が永遠に増幅し続ける。ということ。

悪よ滅べ!と叫ぶ限り、悪の「役割」のエネルギーを自分が創り出していることに氣づいていないのです。
自分が悪に成り下り、それを自ら希望すると意志表示をしていることにさえ。


もう語り尽くされています。
「結果」は、今よりも前の段階で「自分が創り出した」エネルギーが時差を伴って顕現化していることを。
だからこそ、
唯物主義・物質至上の意識から脱却し、物ごとの両輪であったもう片方となる精神面での浄化を心がけ、クリアにした心を維持した上で、この先に望む青写真を描く必要があるのです。

そして、もう一つ大切なこと。
それは、
必ず朽ちてゆくこの物質界のプロセスに感謝を捧げ、その美しさを讃えることです。
顕現化のプロセスで美しく物質化し、物質化したあとは、その美しさを披露し機能・役目を果たし、そしていずれ消滅する。
これは一つのサイクルであって、トータルで完成されたプロセスであることを忘れてはなりません。

幼児・子供の稚拙さをバカにするな。自分も通ってきた道。
老齢・年配者の劣化を蔑むな。自分も通る道。
というあの語りと同じ。


悪も同じ。まったく同じです。
両極をエネルギー的にバランスするために、善と悪・表と裏が等しく均衡状態にあるからこそ、いずれも体験できるという稀有な学校なのです。
それなのに、片側だけに対して「滅べ・消えろ、けしからん!」と、やっているのが如何に愚かで恥ずかしいことでしょうか。

朽ちてゆく物質と同様に、役目としての悪に対しては感謝こそすれ、滅べだとか消えろ、だとか罵る対象ではありません。
繰り返します。それを続ける限り、自分がその悪に同化し自分が悪を増幅し続けるのです。
幼稚な精神性・低い靈性を自ら選んでいる限り、高次の存在とはいつまでも繋がることはできません。その周波数で繋がっているのは「その周波数と等しく共鳴する」低次元の悪しき存在(それさえもわたしたち自身が過去に創り出した想念の顕現化)であり、思考そのものを操られ・憑依されている証明でもあります。

このように「善の仮面を被った悪」が、本人の氣がつかないまま、いつまでも蔓延っている。
問題は、本人がまったく氣づかず、善行を重ねていると思い込んでいるところにあります。
この段階で、大きな「違和感」を感じているはずなのに、それをスルーしてしまうのです。
これが、今のこの地の窮状かと。


結果をコントロールしようとせず、その結果に至った・生み出した自分の想念を見直すことです。
そして、この先に何を生み出し何を具現化させたいのか。
ここにこそ、一極集中の最大エネルギーを注ぐのです。

一旦物質化させてしまった結果に対しては、感謝を捧げ美しく朽ちてゆく姿に敬意を払う姿勢が望まれます。自分の発言と行動に責任を持つ、とはこういうことかと思われます。





違和感をスルーした結果を受け取っている

エネルギーを受け取ってみる photo 宮本章光

目に見えないもの。
その重要性に氣がついた人たちが、ある程度の数として増えている様子が伝わってきます。


先の記事で触れいますようなポジティブ側のエネルギーは「やんわり」とした雰囲気で「氣がする」といった感触にとどまるため「氣付かずにスルー」してしまうのかもしれません。
では、
その反対側、ネガ方向のエネルギーはどうでしょうか。
これは違和感として大きなフリクションを感じるのです。間違いなく。

ポジティブ方向の波長が柔らかく氣付かずにスルーしてしまうのなら、ネガティブ方向の大きな違和感を感じれば、それをしっかりと捉えて認識することが必要でしょう。
そうすればこそ、道を誤ることはないのでは?ということなのです。


---どうしてこんな目に遭うのか!
---どうして酷い体験ばかりが続くのか!
そう語る前に、自分が行った過去の因果をよく振り返ることが必要ではないかなと。

まずは、因果応報の仕組みに従って「自分の蒔いた種が実をつけた」ことを棚に上げ、クレームを叫ぶのは恥ずかしい限りです。
そして、分岐点・選択が必要な無数にあるそのタイミングにおいて、選択を誤った自分が下した判断、それを忘れ去って、なぜ苦しい現実ばかりが起きるんだ!と怒るのも、ビギナーすぎる行為に違いありません。


よく語られる例えがあります。
オフィスを契約する時に、実地に訪れたその部屋に「何か違和感を感じる」「どこか重い雰囲気がある」というような場合、それが「ここはやめておきなさい、との導きである。」とされます。
明確に感じるわけです。違和感の場合は。

また、何らかの障害が起き、乗車予定だった列車や飛行機に乗り遅れる。そんな事例もよく引き合いに上がってきます。
その直後、当初の乗車予定だった交通機関が事故に見舞われる、だとか激しくトラブルに巻き込まれる。
結果として、遅れたことが幸いだったという話もよく語られます。

この場合には、遅れたことに「激しく違和感」を感じないものです。
予定が乱れたことに関して苛立ちを感じたとしても、それは「違和感とは異なる」ものです。


このように、
違和感、これこそが「センサーが麻痺している人間であっても」明確に感じるものだと判ります。
ところが、強く押してくるこの違和感をスルーしてしまうのです。多くの人は。
何でもかんでも、氣のせい・氣のせい...と、物質至上の教育洗脳に染まった頭は、それを見極めることができないわけです。


--災害に遭う。
--事故に見舞われる。
--トラブルに巻き込まれる。
それは、
「違和感」をスルーし無視し続けた結果が、そこに「実をつけた」ということなのです。
その果実が生まれた原因は、自らがタネを蒔いたから。
そのタネを蒔くと事故を生みますよ。と「違和感」というエネルギーとして助言が降りてきているにもかかわらず。

どうして?
なぜ?
原因は、自分が蒔いたタネ。
立派に実を結びましたでしょう。
とりわけ、3年前の判断が、ここに来て見事にネガな果実となっている事例が溢れかえっています。

違和感をスルーし続けた結果を、いま、受け取っているのです。
それならば、
次は、どんなタネを蒔きどのように育ててゆきましょうか。
こういうことだと思うのです。




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