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宮本章光/宮本陽の視点「開闢」And EM Official Blog

みやもとあきらのしてん AKIRA MIYAMOTO@And EM

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何に触れるのかは自分で決める

森と会話を試みる photo 宮本章光

見る・聞く・触れる。
あと、五感で認識できるものを全部含めるなら、味わう・香る。となりましょうか。
それらすべてを包括して、わたしたちは「触れる」ものに多大な影響を受けます。


自分はテレビを見ようがSNSに行こうが、絶対にブレない!
そう豪語する人たちがありました。もう過去となりましたが。
すでにわたしの目の前から消滅したので消息不明、かつ探そうとも思わないのでこれで終わりですが、よほど強靭な精神力をお持ちだったのだなと思います。

わたしは、見るもの聞くものから多大な影響を受けます。
騒がしい人混みに触れるだけで、その混沌とした「カオス状態の氣」に入り込まれます。小さい頃からやかましいのは大嫌いでした。
ほとんどの方々は同じだと思うのです。
ところが、自分が大きな影響を受けていることを「認識できない」人たちもあるように感じます。

何も影響されない。
どこにも不調も不具合も感じない。
一見、上記のような強靭な精神力の持ち主のように見えますが、センサーが感知していない可能性もあるでしょうか。
周波数が異なるのだと。
違うキャリアのスマホ・ケイタイは、絶対に通信できないのと同じでしょう。
ある意味では、極めて狭い周波数しか受け付けないので、混乱の時代には大変「おトク」なスキルかもしれません。

しかしながら、
全体像として俯瞰した場合には、その人の存在に乱れを生じていることは伝わってきます。
幼少時期に見えていたオーラのようなもの。と言えば理解しやすいでしょうか。(現在は見えません)
整ったエネルギーを発している場合には、そこに平穏な波を感じます。
ところが、乱れている場合には、不整合とでもいうのでしょうか、何かギザギザの波を感じます。

これは言葉にするのは難しく、目には見えませんし音でもありません。
ギザギザの波?
と、数年前だったなら、精神科へ行けよ!と促されたかもしれません。
でも、いまこの2024年では、この感覚を理解できる方々が大幅に増えているはずです。

そして、それは、面と向かって接していなくても、文字や言葉や、極論すれば何の媒体がなくとも「なんとなく」伝わってきます。
もっと言えば、距離がどれだけ離れていようが、昼夜問わずなんとなく。です。
この国に「影が薄い」ということばがあります。
あまり意識に残らない、といった感覚で使われることが多いように思われます。
影が薄い、と感じる場合には、周波数が大きく外れているのかもしれません。


このように、わたしたちを含めこの地に存在するもの、それは生命も物質もすべてのものが固有のエネルギーを持ち、特定の周波数を発していることが知られているのですから、触れることにより双方ともに影響を及ぼし合うのは至極当然なのだと理解できます。
「触れるもの」次第で、自分のエネルギーフィールドが大きな影響を受けるのですから、「触れるもの・コト」には細心の注意を払いたいものだと感じます。
「ブレている人は判ります。ギザギザですから^^。」
SNS越しにブレまくっている人、いまだに稀にみることがありますが、もはやお笑いレベルのように見えます。

整えます。
ノイズから離れます。
静かに過ごします。
そして、この先に進む道を描き出してゆきます。

今日もこの場でのエネルギーをお受け取りいただきありがとうございます。




自分が接した通りに自分に返る

大自然に波長を合わせる photo 宮本章光

それは、原因と結果。
というのか、あるいは作用反作用の法則というのか。

大自然は、そしてそこに息づく仲間は、またすべての事項は、
わたしたちが「接した通り」にその結果を返します。


木を伐れば、そして山の土砂を根こそぎ切り取ってしまえば、大きな災害の遠因にもなるでしょう。
それを「山・海へゆく」と称し学校教材の中に織り込んだのも、洗脳の一つだったことに氣がつきます。

確かに、切り拓いた山の跡は宅地開発でき、その土を海へ埋め立てればそこにも新たな都市を生み出します。
一石二鳥で「なんと素晴らしい」と、賞賛する形で教えられたのでした。
しかしそれは、
そこに携わる「企業の利権とカネという名の富の移転」でしかなかったことまでは教わりません。


いま、そのような時代(カリユガのサイクル・土の時代)が終わったことを肌で感じませんか。
それならば、
過去に向かってけしからん!と叫ぶのではなく、いまこの瞬間から「どのような意識・どのような波長」を抱けばよいでしょうか。

この感覚は、この地に存在するもの・体験すること、あらゆるモノ・コトすべてに共通する事項だと思うのです。
狂った世の中、けしからん!
おかしな世の中、いい加減にせよ!
声をあげて自分たちで変えて行かなければならない!!それが行動すると言うことや!

はぁ、いつまでやりますか?
違うのです。


悪は、悪役として「わたしたちの精神性向上と成長のため」に立派に仕事をしてくれたこと。
こうした対(つい)になる存在を体験し自ら成長することを学ぶ場所、それがこの地球。
感謝こそすれ、撲滅させろ・滅びよ。などと叫んでいる限り、自分がそのエネルギーに油を注ぎ火を焚べ続けるばかりです。
故意にそのように仕組まれた世界で、見事に落とし穴にハマったままです。
搾取され、自分から苦しみを好み、この借り物の体を痛めつけ、負の因果を無限に蓄積し続ける。
それが自分が希望する道だと意思表示し続けています。
なんとアブノーマルな趣味なのでしょう、この惑星の人間という存在は。


同じ周波数は共鳴しそれを拡大し続けます。
この地に平和と繁栄が「いつまで経っても実現しない」のは、あなた自身が不要なノイズにフォーカスしそれを増幅し続ける「善の仮面を被った悪」に成り下がっているからでありませんか。

大自然は、そして自然のみならず、この地の大いなる仕組みは、
自分が接した通りに結果をもたらします。
それは、この地だけではなく、永遠に続く宇宙の摂理・因果の大法則。


物質観点からの、環境破壊が及ぼす災害だけでなく、心が生み出すエネルギーまでも。
いま、
わたしたちは、心から生み出す目に見えない力が、タイムラグを伴って結晶化し物質化し、この地の「現実」と言う名の風景を作り出していることを知り、それを「どのように活かし」てゆくのか。
この極めて重要なターニングポイントを生きています。

「自分が接した通りに自分に返る」
それならば、
自分が思い描くことにより望ましい風景と近未来を産み出してゆきたいと思うのです。
それが、これからの世における「行動する」ということではないでしょうか。

日々この波動を束ね、ともに拡大していただける皆さま、ありがとうございます。




この地には「期限」があります

飯舘村で感じる夕日 photo 宮本章光

ここ数日間の記事は、かなり重要度が高いはずです。
通常の感覚とは異なり「書かされている感」のようなものを受け取りながらのキーボード操作でした。
今日、現在も、押し出し溢れ出てくる感覚が大きいのでここに残します。

この感覚を「降りてくる感覚」と呼ぶと、横目でしか見ない人たちが多かったのはすでに過去の話になったと思っています。

【「科学という名の宗教」から脱出する】2024/01/25[Link]
【卒業したのなら次の段階へ】2024/01/26[Link]
【卒業したのなら次の段階へ:2】2024/01/27[Link]

何も強制されず。
何も強要されず。
されど、
自らの下した判断とその行動には「必ず結果が生じる」という大法則。「必ず自分に戻る」という因果の法則。
そして同時に、
この地で学ぶには「期限が設けられている」という決まりごと。


ユガの思想を過去記事(4年前)を引っ張って記したのが、
【「科学という名の宗教」から脱出する】2024/01/25[Link]
でした。
このサイクルは、いまここに体を持って生きている人は誰一人として、今生・今世で体験し認識することができるような短い年月・期間ではないため、実感として感じられないことでしょう。
しかし、決められた宇宙のカレンダーは極めて正確に、そして間違いなく必ずそのスケジュールを果たします。

期限内に「与えられた課題=精神性の成長と学び」を達成できなかった者は、その課題を次の生(それは体をお借りできるのかどうかさえ不明)で必ず履行せねばならず、課題そのものさえも「自分が生み出し自分が課した」ものであることを忘れてはなりません。

死んだら終わりや!だからテキトーにやってればええんや!
などと、いい加減に怠惰に時を過ごすなら、限りなく巨大化した負の蓄積を解消するために永遠に苦しみ続けるのはご自身です。
そして、
自分が苦行を重ねるのみならず、心の中から「目に見えない力」として創造したエネルギーは、集合意識としてこの地に無限に拡大し続ける。
その責任も、限りなく巨大化し永遠に果たし・解消し続けなければなりません。

いま一度、ここで認識したいのは、
自分が生み出したものは、因果の法則により必ず自分で受け取り・解消しなければならない。
目に見えないフィールドに生み出した力は、この地の人間の意識として拡大し続ける。その責任さえも自らが負い続ける。
ということ。


だからこそ、
くだらないノイズに触れて踊るのをやめましょう。
旧い思想に基づく意識(それが科学的思考という名の宗教洗脳だったことまで)を卒業しましょう。
と、やかましいほどに「頭の上から突かれて降りてくる」のです。

こうして書いていること自体が、わたし自身の自己顕示欲や自己承認欲求なのかもしれない、と感じています。
しかし、それを上回る「強い何か」が、キーボードを通して叩き出されてゆきます。
自動書記だとか、そんな高尚なものではありません。けれども、まさに取り憑かれている感覚のポジティブ版とでも言えばよいような何か。です。

三部作の締めに加えた4記事めは、この地には「期限」があるという事項。
期限が切れたらどうなるのか。
それは、個々人が創り出すエネルギー次第。だと。
過去5回だとか6回は、地軸をひっくり返す地球とともに大海に沈んだことを、もはや認めざるを得ないはず。

いま、わたしたちは「自分の心によって現実という名の目の前」を創り出す練習と実験である、次のステップに入ったことを感じています。
折しも、
カタカムナ数歌暦(28日周期13ヶ月)とグレゴリオ暦(ピラミッド物質社会・支配構造構築のための現行暦)がシンクロし並走するのは、この2024年1月1日から今日28日まで(過去に一度もなく今後もないとされる)だったと言われ、その締め日に、押して押して押しまくる何かを感じながら4記事をまとめたことに、波長のシンクロを感じずにはいられません。

日々お付き合いいただく皆さま、ありがとうございます。


◆参考:参照記事
【「科学という名の宗教」から脱出する】2024/01/25[Link]
【卒業したのなら次の段階へ】2024/01/26[Link]
【卒業したのなら次の段階へ:2】2024/01/27[Link]




卒業したのなら次の段階へ:2

光の芸術を受け取る photo 宮本章光

昨日の記事、【卒業したのなら次の段階へ】2024/01/26[Link]
で記しました。

この先に向かうところを見定め、それを顕現化させたい。

そう思うのであればノイズから離れる。散々書いてきました。
ノイズとは、その瞬間瞬間に「必要とされないものすべて」。

そして、
これまでのこの物質社会の「クセ」から離れる。
クセとは、科学という名の宗教を頑なに信仰すること、そして、正しいか正しくないかという旧社会の論点にとどまり自ら進歩を拒否する態度。

最重要ポイントは、
「人はみな同じ:お手てつないでみんな一等賞洗脳」から完全に卒業すること。


知らない人には伝えてあげなければ。
知らない人に教えなければ。
これこそが、最も強力に刷り込まれた教育洗脳でした。

わたしの小学生時代の姿は、ここでも何度か記事にしていますのでご記憶されている方も多いと思われます。
「放課後に宮本君に教えてもらいないさい」
そんな言葉が、担任教諭から特定の生徒に対して投げられていたのでした。

わたし自身は、今日は本屋に行ってみたい...。と思っていても、その「わたしの側の都合はお構いなしに」教える側の立場に自動的に据えられてしまうことも少なくありませんでした。

おそらく「面倒やな、今日は本屋行きたいんやけどな。」というのが表情に思いっきり出ていたことでしょう。
卒業後も、その彼(教えてもらいなさいと声をかけられた生徒)からは毎年のように年賀状が届いていました。
こちらからご返事を差し上げなかったので、まさに解消すべき負の因果を積み重ねることになったでしょう。
申し訳ありません。不義理をお許し願いたく48年後のいま、この場にてお詫び申し上げます。


外れてしまったので戻します。
もう「一人ひとりのオーダーメイドの地球」に住む時代を迎えているのですから、他の人に「自分を揺さぶられる」クセから早く離れたいと思うのです。
他の人が知らないから教えてあげる。この発想こそが教育洗脳によって埋め込まれたクセだったと。

みんな自分自身で「氣がつくタイミングで氣がつく」。
そのタイミングは個々に差がある。
必ず・本人にとって最適かつ間違いのない機会で。ということ。
今生でそれを希望しない方とは、これでさようなら。ということ。


「身と心」の両輪を使いこなし「自分から望む現実を創り出す」。
いま、このフェーズに突入しています。

何が写った?え?これは地球外から?
そんなくだらない論議はさっさと止めることです。
そんな旧い低次元の思考にとどまるのは早晩卒業することです。

来ていただいたのなら、それを歓迎し、地球人として恥じない精神性を持って快く受け入れることではないでしょうか。
ネガ存在だと思えば、そう思うあなたご自身がその現実を顕現化させてゆくのですから。
何を心に抱き何を心に描きましょうか。

ともに築きあげてゆきたく思います。望ましい近未来を。
ありがとうございます。



卒業したのなら次の段階へ

夕日を臨む photo 宮本章光

卒業されたのでしょう?
もう次の段階へ進む意思表示をなさっているのでしょう?
それなら、
いつまでも「旧式の思考の枠の中」にとどまり続け、その舞台で踊り続けるのは止めにしませんか。


昨2023年12月17日の記事でも少し触れました。
【五感以外のセンサーを磨く】[Link]

五感以外のセンサーを磨くヘッダー

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--神々しい!
--龍神さまが現れた!
こういった写真が撮れると、騒ぎ・踊る事例。極端に増えてきました。(2023/12/17記事)
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それは、何らかの力が作用したことには違いありません。
昨日の記事ではありませんが「科学」で検証し「科学」で証明できないものはすべてウソだと決めつけてきた歴史があったのですから、もうこれからは、それを(そのレベル自体を)超越してゆきましょうということなのです。

どちらの立場に立つ必要もありません。
どちらが正しいか正しくないかをガタガタ論じる必要がない世に向かうのです。
もう一度書きます。
それは科学的に証明されようとされまいと関係ありませんでしょう。
精神的世界オンリーで述べようと述べまいと一切その論点は必要ありません。


未確認飛行物体の目撃が急増している様子です。
世界規模では、こうした情報がここ数年で激しく増加しています。英語で(あるいはVPN経由で)検索してみれば明らかです。
極端に多いのです。変わってこの国では「極端に少ない」。
そして、
この国の人々は、いまだに「ホンモノか偽物か」という、くだらない論議を重ねるレベルにとどまり続けている現状。

日本というこの国では、明らかに情報操作(統制)されている(ここさえも理解できないのなら「さようなら」ということ)のですから、その「牢屋の中で飼われている存在」に甘んじている限り、地球規模の流れを肌で感じ・掴むのは困難でしょう。


明確に室内照明が映り込んでおり、間違いなく太陽の影響を受けた画像。
それは、わたし自身が撮影時点で認識しています。
よってこれは単なる写り込みの一枚にすぎません。
しかし仮にです。仮に本当に未知のものが記録されたとしても、それに対し鬼の首を取ったかのごとく騒ぐ必要などまったくないのです。

これは明らかにホンモノだ。絶対だ。
などと騒げば騒ぐほど、その人自身の品格も信用も堕ちてゆきます。
なぜなら、
その「正か誤か」「黒か白か」のレベルの討論は、もうとっくの昔に卒業しているはずだからです。

未知の生命体が存在するかしないか。
そんな論点も同様。もう卒業済みでしょう。
存在すると思えば、それがあなたの現実になりますし、しないと思えばその現実を「自分が創り出し」ます。


もうフェーズが変わっているのです。
わたしたちは、
「自分で心に描き出すことで現実を創り上げることができる」という次元の学びを履修すべき段階に来ています。
一人ひとりが異なる地球に住む時代(過去からそうだった)になったのです。
ですから、
そんな旧来の論議を繰り返している限り、その旧いレイヤー上で踊っているだけ。自ら進化・進歩を拒絶しているに等しいのだと。
それを自分の意思表示と選択。というのではありませんか。

そして、物理次元地球の歩き方を逸脱しない範囲において、どうすればそのタイムラグを短くし、より精度を高められるのか。どうすればさらに満足度を高められるのか。

こういった「科学と心」というわたしたちの存在が備える両輪のうち、片側で台無しにされてきた極めて重要な「精神性」を取り戻し磨き上げる。
これこそがいま必要な行動だと思うのです。

ホンモノか偽物か。
そんな論議は即刻終了し、自らの心の中から暖かく望ましく無限に広がり続ける力を描き出す。
これが喫緊の課題であると感じています。


知らないひとに知らせてあげる...、などと仰るのなら、それは単なる自己顕示欲の塊だと感じます。
知ろうとしないのはその人の意思表示であり選択です。この期に至ってその選択をされている時点で、これから先、同じこの地で共に生きる存在ではない人だ。とはっきり認識すべきところにまで達したのですから。
これからの世は、ごちゃ混ぜで悪平等を蔓延らせ、そこに生きるものがどのような進化をするか?といった実験場ではなくなるのです。

卒業したのなら、卒業生として次の段階に相応しい行動と思考を体現するのがその役目でしょう。
ご一緒いただけるみなさま、ともに創り上げましょう。ともに歩みましょう。

ありがとうございます。



「科学という名の宗教」から脱出する

風化した木版から受け取る photo 宮本章光

わたしがここに記す記事は、ある方から届いた言葉を借りるなら、
「早すぎる・少なくとも4,5年は時期尚早」だとか。
よって、4〜5年前のアーカイブを読めば大多数の方々には最適だとも。
あながち間違いでもないように感じます。

ま、2020年の5〜6月以降の記事しか、いまでも役に立つであろう内容は存在していないと思われるので、ご興味のある方がいらっしゃいましたら。
間違いである事項もそのまま残してありますし、個人的に非常に恥ずかしい誤りの道に迷いこんだ記録もそのまま放置されていますので、この点は免責事項としてご了解ご容赦願います。

◆アーカイブ記事(年月別)[Link]
(このページ下段にも同Link項目があります)


で、今日の本題。
膨大な文字数になることが予想されるため、触りのみサラッと流します。

ソース(source)はどこや!
エビ(evidence)はあるんか!
と騒ぐ人たち。まだまだ多いように見えます。いつまで踊るのか。いつまで集合意識の足を引っ張るのか。
ま、それはわたしがその道を選ばなければよいので。
早速、寄り道になりそうなので戻します。


大前提として、物質次元たる「物理次元地球の歩き方」を逸脱したは生き方はできません。
けれども、
その両輪として存在している極めて重要な「もう一方の車輪=心:精神性」を蔑ろにしてきたもの・考え方。
それが「科学という名の宗教」だったのだと。
結構な頻度で、そう語る方々が増えてきました。よい傾向だと感じます。

まずここの段階で理解しようとしない方々は、もうこの地で生き残ることはできないはずなので予選落ちでした。もう確定済みでしょう。
「科学と精神」
だとかの言葉が重すぎるのなら
「身と心」
でもよいでしょうか。

両輪ですから、ともに必須項目です。
ところが、精神性を磨いてしまいますと、個々人がどんどん望ましい世界を顕現化させてしまい、支配者がこの世を支配できなくなるために、その一つの片側を蔑ろにして無きものとした歴史。もう重ねて記す必要はないはずです。
そのために、
科学的でない思想や意識は「誤りである」と決めつけ、唯一無二の教祖さま(科学)だけを信じるように教育段階から刷り込まれてきたのでした。

その宗教を頑なに信仰する人たちは、未だに上記のようにソースだエビだ!と騒ぎ立てます。
彼らはすでに恥ずかしい状態になっています。まさに裸の王様。
科学「以外」を信じるなどというキミは狂っている...、君は裸の王様だ。ツボを買わされるなよ!と、高い所から叫んていたご本人自身が、なんと裸の王様であったのだとバレてしまった地点へ到達しました。

はい。精神性を拡大する。それは、ご自身が一旦その部分の窓を開けることが叶ったのなら、加速がついて勢いを増して拡大し続けます。
もう止まりません。

そして、わたしたち自身が「望むものを顕現化させる能力を持っていた事実」を知るところとなり、その人たちの数も指数関数的に爆発的に増大している様子が肌でわかります。
ええ、科学を否定しているのではありません。両輪ですから必ず必要です。
ともに必要とされる、もう一方の要素を磨きましょう。ということなのです。

大宇宙のカレンダーは、そのサイクルに突入しているとされます。
[参考:過去記事]
【歳差とユガそして輪廻の大舞台】2020/09/29 [Link]

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あぁ、確かに2020年の記事でした。
4〜5年早すぎましたか。

ともあれ、心に抱き心に描くものを大切に。
そのために、静かに過ごす。
ノイズから離れる。

実践なさる方とともに新たな風景を創り上げてゆきたく思います。

ありがとうございます。



騒がず・踊らず

早朝の空から受け取る photo 宮本章光

踊らず、
騒がず、
叫ばず。

祓え給え
浄め給え
守り給え
導き給え
ひふみよい


静かに。
穏やかに。
厳かに。

ありがとうございます。



感情を大切に

飯舘の総合地区の冬 photo 宮本章光

心に描くもの。
心に抱くもの。

わたしたちは、類稀な「意識によって現実を創り出す」能力を持った存在であったこと。

それを使われては困る支配者層により、こうした一般臣民の潜在能力をスポイルしてきた長い歴史がありました。
いま、
その歴史が置き換わろうとしています。
その歴史を塗り替えようとしています。

感情を無きものにするのは美徳でも何でもなく、それを使いこなすことができてこそ一人前。
誰でも、一人のこらず。

美しいと感じる心を。
素晴らしいと感じる心を。
感情として感じられる心を大切に。

ありがとうございます。



「巻き込まれない」を最優先する

中庭を臨む photo 宮本章光

同じ周波数は共振します。
同じ波長は響き合います。
それがこの地の物理法則のみならず、すべてにおける普遍・不変の法則。


稲作がダメだと?
何が温室効果ガスやねん!
と、怒りを抱くなら、それは相手の思うツボ。
そうやって「負のエネルギー」を故意に発生させるやり方。

もう大丈夫でしょうか。

そこに意識を合わせた瞬間に「そのエネルギーにシンクロ」し「その負の波長を増大し拡大する役目」を自分がやってしまいます。
あの手この手、口にするもの・コト、身の回りの空間・息をする空気。気象操作に詐欺医療、挙げ句の果てには教育・宗教・貨幣経済...。
文字に落とし込むだけで、上記のようにその波長に合致してしまうので、ここで止めます。


SNSを続けるのは自由です。何を発信するのも勝手です。
ですが、
「おかしなコトを知らない人い対して自分が知らせてあげている」などと決して思わないことです。
それは、言葉を置き換えるならば、単なる思い上がり。
そして自己承認欲求を捨てきれず、且つ醜い自己顕示欲の塊となっている幼稚・未熟な自身を曝け出しているだけ。

自分が、そのおかしな負のエネルギーに火を焚き続けることで、今後必要とされない毒波動を撒き散らす。
これこそが、知らず知らず無意識のうちに成り下がってしまう「善の仮面を被った悪」ではないのかと。

そして、
それを見てしまうだけで、その波長に合致し合一し、目に見えないところに「不要なエネルギー」を生み出してしまう。
それが、自分自身が行ったこと。
それが、自分の責任。

難しいでしょう。
大変でしょう。
けれど、
これからの世に必要ではないエネルギーを生み出さない。

だから、
見ない・触れない・感じない。
この場で、同じようにそのテーマを語るだけで、わたし自身がそれをやってしまうので離れます。


描くべきは、
この先に望む風景と世界と歩む道。
心の中から創り出してゆく。とはこういうことだと思うのです。

必要ないエネルギーに「巻き込まれない」。
いま現在の最優先課題ではないでしょうか。
今日は超ビギナー編のようでした。

ともに歩みましょう。
ありがとうございます。



2024年の手前味噌

2024年の味噌作り photo 宮本章光

歳を重ねるごとに。
歴代の味噌が熟成されてゆきます。

昨年も一昨年も、毎年わたしは完全素人で写真2枚撮るだけで終わっていますが、素晴らしい命をこの体を維持するために使わせていただく。
その貴重な存在と体験に感謝を忘れず。


昨年2023年記事から以下、再度引用記載いたします。

【今年2023の味噌作りに思う:2023/01/16記事】[Link]
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体が作られているのは「口にする食べ物」。
だからこそ、そこを見れば「その人」のすべてが見えるのです。どういった食べ物について語っているか、その時点で推して知るべし。いわずもがな。

食べることは、その食べ物としての生き物の「いのち」をいただくこと。
おかげさまで、わたしは生きてゆけます。ありがとう。
だから、
「いただきます・ごちそうさま」。
だから、
口にする食べ物には十分に意識を巡らせ感謝を忘れてはならないと、おばあちゃんに教えてもらったのです。
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2024年のお豆たちへ。
今年もありがとうございます。

2024年の味噌作り photo 宮本章光



鯉から学ぶこの地の生き方

鯉から学ぶこの地の生き方 photo 宮本章光

激しいノイズに溢れ、
著しく低い波長に囲まれ、
厳しく苦しい体験を重ねます。

それがこの地で味わう必要があったもの・コト。
それを希望し、また因果解消の目的で、この地で生を重ねてきたこと。

存分に味わい尽くしたのなら、
十分に負の力を浄化・解消できたのなら、その波長から離れます。
そのノイズに意識を合わせ続けている限り、「わたしはまだ苦しみ足りません・もっと希望します」との意思表示をしていることに。

鯉たちも、生きづらい環境を体験するためにこの地に生を受けたのでしょうか。
学び終えたのなら、次のステップへと登ります。


鯉の滝登り。
登り続け、拡大し上昇し続けるのが標準仕様。
鯉の滝落ち、などという言葉は存在しないはずです。

あえてノイズに触れることで何を得られたでしょう。
糧として得たものだけを持って、滝を登り続けます。
それが永遠の課題であり役目だから。

優雅に泳ぐ姿から学びます。
学び終えたあとには、恵まれ・満たされた「いま」を体験させていただけることに感謝をわすれず。

ありがとうございます。



選択しないという「選択」

SkyTree photo 宮本章光

ここにも悪の巣が。これも悪の根源だった。
などと騒ぐのは、もうとうの昔に卒業しました。

それを知ったから拡散。という行動自体が「自分も悪になっている」こと。
まだSNSだとかの世界に触れ続けているのでしょうか。

ここを理解できた人から、この地の学習カリキュラムを終了してゆきます。


心に抱くもの、心に描くもの。
それが現実という名の目の前の物質を顕現化させてゆきます。
先人は、それを「念や想念」として、使いこなしていたことが想像できます。
そして、
どのような対象と、どのように響き合うのかを、自らコントロールできていたはずです。


両極があるのか無いのか。それがこの地の仕組みかどうか。
そういった論説自体さえも意味がないところまで到達できたのなら、自分の心を合わせる対象は自分でコントロールする。

悟りとは、とてつもなく崇高なレベルかもしれません。
一般的には容易に手が届くものではない、と思われているでしょうか。
しかし、
それさえも「自分にできるわけがない」と思わせ「自分は取るに足りない存在だ」と卑下するように刷り込まれてきただけだったこと。

このように一定の理解と心の手綱を操れる段階に達したのであれば、それを悟りとして、さらに・もっともっと上に向かって登り続けるのです。
それが目的。それが役目。それこそが魂の永遠の旅。


物質次元に脚を据えながらも、霊界とつながる感覚が肌で判る人が増えているはずです。
精神性の拡大と成長こそが目的であり、それが永遠の課題であると。

選択とは、元々存在している「白と黒」「善と悪」のどちらを選ぶかではないことを知ります。
見た目の形の上では、どちらかを選んでいるように見えるでしょう。
けれども、
選ぶのではなく、自分が望む波長を心に描き創り出すのだと。

選択しないという選択。
これが、この先の課題であり役目だと考えます。

貴重なご縁に感謝申し上げます。
ありがとうございます。



そこにシンクロし響き合う

飯舘の冬に響きあう photo 宮本章光

同じ周波数は響き合う。
同じ波長はシンクロする。

それは、何ら無理することなく。
そこに、自動的に通じ合うもの。


すべての存在は、生命が宿るかどうかに関係なく、固有のエネルギーを有し固有の振動周波数を持っていること。
ここに意識が到達しますと、
「肩幅がビシッと馴染む感覚」あるいは「袖丈が合わず違和感が大きい感覚」の、いずれかがダイレクトに伝わってきます。

どちらが良い・よくない。というものではなく、合うか合わないか。
それが、波長があっているか、あっていないか。同じか異なるか。ということ。


そこにシンクロするかどうか。
それは、
自らの心を、まずそこに合わせてゆくことがスタート地点。
ベルトコンベアーに乗って「自動的にエサが運ばれてくる」のを待つのではなく、自らセンサーの波長をチューニングするところから。

わたしたちは、悪平等の下で「飼い慣らされている奴隷」ではありません。
自らの意思によって、自ら望む風景を創り上げるのが役目だと。
そのために、望ましい波長に合わせ響き合い、望む風景を顕現化してゆきます。

素晴らしい仲間と恵まれた環境に感謝申し上げます。
ありがとうございます。



もう「負の力を作り出す」のはやめること

飯舘村飯樋の丘から眺める photo 宮本章光

この意味がわからないですか。
理解できないでしょうか。

いつまでメディアに触れ続けるのですか。
見ないこと。触れないこと。感じないこと。
それは現実逃避でも何でもなく。


触れたものに意識を「合わせる」とは、その対象を認識している状態のこと。
そこに意識が行っている限り、そのエネルギーとシンクロしています。
だから認識できるのであって。

その波長に合わせしまった時点で、その波長が持つエネルギーを自分自身が増幅してしまうことに、まだ氣がつきませんか。
同じ波長を持つ「力」同士が指数関数的に増加するのですから当たり前でしょう。

いつまでこんな世の中が続くんだ!と、叫ぶあなたが自分でその現実をいつまでも作り続けていることに。
いつまで悪は滅びないんだ!と、叫ぶご自身が自分でその悪のエネルギーに火を焚べていることに。


責任感を持って生きる。
とは、
これから先の世に「必要とされないエネルギー・波長」を自ら作り出さない。ということ。

メディアが語るから。
だからご冥福をお祈りします。と祈る。
昨日までは何だったの?ということです。
そして、明日からは再び知らんふり。

そうして負の力を集めそれを悪事に利用する存在は、この地においては決して消えることはないのですから、それに同調して「自分が増幅器」として加担するような行動は慎む。
それが、これからの世を創るための必須条件だと思うのです。

自分が負の力の拡散をし続けるのなら、自分自身がその因果を背負うだけ。
そして、溜め込んだ負のポイントは、必ずどこかで解消しなければならないのです。そういう仕組みだから。


わかっている人はもう行動しています。
理解している人はすでに心から描き出しています。
それは、
単に思慮不足で現実逃避した、浮き足立ったヤワな奴ではなく、これからの望ましい世を本氣で創ろうとしている勇敢な人であることに。

望ましい風景と願う世を明確に描き、その力を拡大してゆきます。
それがいまこの瞬間に課せられた役目ではないかと感じます。

素晴らしい世を切り開くために。
ありがとうございます。



「いまの姿」は自分が考え行ってきた結果

飯舘で触れる冬の空気 photo 宮本章光

今・いま。
それは、過去に作り出した自分の成果物。

語り尽くされてきました。
自分の顔。
自分の体型。
自分の意識。

すべて、自分が「過去に」考え・行ってきたその結果が「今」となっていること。
そこに悲観するも誇るも、「いま」の意識次第。
それを受け入れるも、拒否するも、「いま」の自分次第。

自分が創ってきた過去に一喜一憂するヒマがあるのなら、この先、この1秒先の現実をどのように創ってゆくのか。
このように天から降りてきます。

守られています。導かれています。
そう思えばこそ、その現実が顕現化する。
そう思わなければ、それは現実とはならない。

そんな夢物語を...、そんな妄想を抱く余裕があるなら、もっと売り上げ上げてこい。もっと勉強しなさい。
そんな洗脳。

こうして自分が創ったものが「今という現実」。
責任を持つべきは、
心に抱き心に描く、いまこの一瞬一瞬の意識。

くだらないノイズに触れて踊り続ける限り、決してこの地での近未来は生み出せません。

静かに。
穏やかに。
もっともっと静かに。
そして厳かに。

ありがとうございます。





自信を持て!と叫び続けた同級生

飯舘村あいの沢で出会う冬 photo 宮本章光

その昔、幼稚園児時代。
発表会の舞台が定期的に開催されるのは、いまも昔も同じことでしょう。

乗り番ではない園児は客席側で観覧しますが、その中で舞台が変わるごとに「自信を持てっ!」と、叫び続ける。そんな園児の姿がありました。

確かに舞台に乗りますと少なからず緊張します。
普段みたこともないような数の保護者、それに観覧の園児も。
ほぼ全員がかたまってしまって、満足に演技を披露できない子どもたちも少なくなかったはずです。

その中で、ひたすら「自信を持て〜!」と、掛け声を発する。
そんな彼(S君:名前もしっかり覚えています)は、自分の舞台ではかなり緊張が高まり、ぎこちない姿だったようにも記憶しています。
けれども、その一声で場が和むのです。
それは確かでした。

自分の姿を棚に上げておいてなんやねん!的な感覚を少なからず感じてしまったのは事実です。
でも、五十数年経って、その叫び声とその瞬間の風景が鮮明に目の前に蘇ってきたのは、どういう理由でしょうか。


現在、混乱する目の前の出来事に一喜一憂しないよう。
そう伝えられています。
けれども、種々のできごとは、わたしたちが過去に積み重ねてしまった結果が見えているのだと。
それを見て見ぬふりはできないのであって、しっかり・はっきりと認識し、誤った方向への因果を詫び、これから先には「過ちを繰り返さない」ことが大切だと。
そして、
これから先に何を顕現化させたいのかを考えることで、答えが導かれるはずです。


自信を持て!と叫ぶ姿。
それは、いまこそ、その意識が必要な時期を迎えたからだ、と極めて明確に納得するのです。

ありがとうございます。



自分から合わせてみる

飯舘で味わう photo 宮本章光

波長が合う・合わない。
さまざななシチュエーションで語られる言葉だと思います。

すべての存在は、固有の周波数を持つエネルギー体である。
そのように語り続けられています。
ここで理解する必要があるのは、
対象となる事項に関わる「双方」の周波数が合致するときにのみ「合う」ということ。


わたしたちは、ただ口を開けて待っていれば「自動的にエサを与えられる」とさえ揶揄されるような、自ら「能動的に合わせてゆく」動作そのものを忘れ去ってしまったのではないかなと。
それは物理・物質的動作だけではなく。

心で感じるもの、目に見えないものであっても、同じように能動的に合わせてみようとする。
その姿勢が「結果を得るための」プロセスであることを。


行動なくして結果なし。
とは、
この体を酷使して走り回ることではなく(それも旧来の世界では必要であり学びではありましたが)、心で感じるものも、同様に「自分からあわせてみる」「自分から感じてみる」というアクションが不可欠なのだと。
そんな当たり前のことに、あらためて氣づくのです。

なぜなら、それは物理法則そのものだから。
同じ周波数でなければシンクロしないのです。
だからこそ、自分から合わせてみる。
こうして「味見する」ことで「波長が合うのか合わないのか」が、初めて判るのです。

大切なプロセス、重要なアクションを思い出す時を迎えています。

貴重なご縁に感謝申し上げます。
ありがとうございます。





何を想い何を創りますか

あいの沢へ poto 宮本章光

何を感じ、
どのように受け止め、
どうやって作り出しますか。

何を抱き、
どのように描き、
何をつかって創り上げてゆきますか。


静かに。
穏やかに。
やかましい音だけでなく、必要ではない意識そのものから離れます。
そこに、自分が望み願う風景を描き出します。

静かに、静かに、ひたすら静かに。
人に見せるための欲、良く見せたいという欲。
くだらない古い世界の欲などさっさと捨ててしまいな。

取り組むこと、行うこと。
やること、ゆく先。
このようにして自動的に導かれてゆきます。
因果の大法則と、自分の選択。


一人ひとりが、この意識を拡大し続けることで、目の前の風景が変わってゆきます。
何を想い、何を創り上げてゆきますか。

ありがとうございます。



自分が描き生み出したものを味わい堪能する

春を心待ちに photo 宮本章光

曇り空を青空にする必要はありません。
まして、
固いつぼみを、満開の花に置き換える必要などありません。

いまを味わいます。
冷たい霧雨を受けながら、その感覚を堪能します。

それが自分の望んだ風景ですから。
それは自分が創った結果ですので。

そして、
暖かい日差しに包まれた満開の季節を心に描いてゆきます。
それが自分の望む風景である限り。

その波動が顕現化してゆく瞬間を楽しみます。
それが因果の法則。
それを自ら選択する限り。

ありがとうございます。


偶然か必然かさえ乗り越える

冬の樹々に鳥が彩を添える photo 宮本章光

その場の空気を感じてみます。
その場の音に耳を澄ませます。

沈む夕日に意識を合わせてみます。
陽の光を受ける樹々に意識を寄せてゆきます。

その波長に合った瞬間に鳥が現れる。
それを偶然と呼ぶのが、これまでの世。
それは必然であり、自らの周波数が呼び込んだ(生み出した)と考えるのがこれからの世。

心に抱き描く意識は、素粒子に影響を及ぼすことを。
すでに証明されてきています。それを科学と呼ぶのではなかったでしょうか。


偶然か必然か、その論議さえ超越してゆきます。

それが分相応・御霊(身霊)相応。
すべてが自らの選択と因果によって。

ありがとうございます。


数限りなく学んだことでしょう

強烈な印象の樹の根 photo 宮本章光

激しい雨も、灼熱の日差しも。
数限りなく体験し、学んだことでしょう。

枯れてこの地の物質体を離れるのも、何ら臆することなく。
すべて体験し尽くしたあとには、ある種の優しさのようなものが生まれるのだと教えてくれます。

ありがとうございます。


心の「自動運転」を実現するには

どちらかに振れてしまいます。

---わくわくして嫌なことなど見ず考えないようにしよう。
---努力して、そして苦を味わい苦しむから春が来るんだ。

その間はないのでしょうか。
悩み試行錯誤し、そして答えが導き出されます。


努力が不要なのではなくて。
努力しなくても良いタイムラインを自分で創る。
それは、
自動的に目の前が開けてゆく道。

そんなものあるわけない。でしょうか。
あるいは、
もうすでに実現しているかもしれません。
それは、無理して作るものではないことを知ったなら。

究極の答えは。
「選択」と「因果の仕組み」だったように見えます。

願い・抱き・描き出せば、それが原因として結果を導く。
そんなもの...。と思えば、それが原因として結果を導く。
そして、
さまざまな意識の、どれを選ぶのかによって、それが原因として結果を導いてゆきます。

心の自動運転は、究極の選択と因果の仕組みによって行われることがわかります。

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わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄ましませ。
弥栄ましませ弥栄ましませ。


蕎麦屋の出前をいつまで待つのか

蕎麦屋の出前。
この言葉を知らない人はいないでしょう。
(実際の蕎麦屋さんに失礼を申し上げる意図は皆無です)

待っても待ってもやってこない。
そりゃそうです。いつまで待っていても作っていないのですから...。
といった状況を語る例えと同じ現在の目の前の風景です。

作り出すのは、
創り上げるのは、
自分の心から生み出す力。

この、
「本当の意味」を知り、
「本当に体現し」、
「本当に具現化・顕現化できる」人たちの数が閾値(しきいち)を超えるまでは。

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凍てついた池の氷が溶けるのは、いつになるでしょう。
春になれば自然とそうなるはずですが、待つ時間はとても長いと感じるもの。

だから自分で描き出します。
だからこそ、自分から生み出し創り上げます。
ご一緒していただけませんか。


淀んだ空気を入れ替える

かなり空気が汚れてきた感覚があります。
淀んだ空気を入れ替えます。

空気を入れ替える photo 宮本章光

本日2投稿め。
新鮮な空気を取り入れます。


切られても切られても

切られても切られても伸び続ける桜 photo 宮本章光

次から次へと、枝が切り落とされます。
けれども、
それに怯むことなく新たな枝を伸ばし続け、春には満開の花を咲かせます。

長い冬があるから春がありがたい。
暗い夜があるから明るい夜明けがありがたい。
そのコントラストが存在するからこそ、体験に深みが生まれ学びへとつながります。


こうしたコントラストの体験をし尽くして、学び尽くして、そのあとになって初めて、すべては一つ...論に到達するのであって、初めから体験もせずに「負の方向の力」にフタをしてしまっては学びに至ることが叶いません。
分断はダメ、分離はダメ。すべては一つ。だと語る論説が溢れています。
いえ、それが間違いだとは誰も言いませんし、分離せよだとか分断が大正解だとか言うのでもないのです。
この先この地においては、その波長が存在し得なくなることを客観的に語っているのであって、それを見て見ぬふりをせよ、とは決して言われていないことを。

体験が必要だったこの地。その学びを目的にしていたはずです。
だからこそ、「もう、わたしは十分に学び尽くしました。もう存分に味わい尽くしました。」と、その境地に至って初めて「自動的に感謝の念とともにそれを尊重し受け入れる」感覚が訪れます。自動的に。です。

その感覚に至ることなくして、何ら学びも得ていない段階で蓋をしてしまうのが「見て見ぬふり」だと教えてくれます。
すべての教科書・カリキュラムを学び尽くしてから、初めてそのあとに、わたしは「この先にはもうその負の力を選びませんよ」「すべてに感謝と尊敬の念を捧げます=すべては一つ」ということではないかなと。
但し、すでにその授業がこの教室では終了してしまっているので、今後はすべて一つという波長しか残れませんよと伝えられているわけです。
この極めて大切な部分を誤らないようにしたいものだと感じます。


人間の都合で枝を切るのがいいんだ、ではなくて。
こうして負荷がかかるから、より大きく広く伸びてゆくことにもなるでしょう、そして彼ら(桜)にとっても一つの体験と学びになるはずなのです。
人間の都合で枝を切るのがいいんだ、ではなくて。です。

自分が「学びつくしたかどうか」は、自分の心が一番よく知っています。

切られても切られても伸び続ける桜 photo 宮本章光

わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄ましませ。
弥栄ましませ弥栄ましませ。


「そのクジ」を引かなければよいだけ

美しく輝く仲間たち photo 宮本章光

ようやく底上げが叶いつつあるように感じます。
わたしたちの意識の底上げです。

二連発・三連発...さらに色々と、年初から仕込みがあった。と理解できる人たちが増えている様子です。
違和感は激しく、単なる自然現象ではなく、さらには事故でもなく。
「子供ダマシな赤子の手を捻る」レベルの稚拙なトリックは、すぐに論理破綻してしまいます。
(いえ、そこまで見越して、現実という名のMatrixに早く氣づきなさいよ。との天の啓示かもしれません。)

4年前ならば、きみは狂っている・頭大丈夫か。と本氣で返されたものです。
わずか4年前です。たったの4年前。
この期間に、わたしたちは極めて大きな進化をしたことが判ります。
尤も、現時点でもその思考から脱出しない意思表示をなさる人も多く、それはそれで絶滅危惧種として尊重するまでのことでして。
(実際に近いうちに絶滅することが確定でしょう)


で、肝心なのはここから。
そのエネルギーはどうして(なぜ)発生してくるのか。
そのエネルギーは誰が欲しているのか。
これも、もう語り尽くされていますでしょう。

だから、そこにフォーカスを合わせない。
それは「見て見ぬふり」をすることとはまったく異なります。
ここを勘違いしている人、まだまだ多数。


「善の仮面を被った悪」という言葉をよく目にするようになりました。
自分は、そんな裏側も知ってる。現実創造が心の中から生まれることも知っている。
そうした方々。そのように立派に成長されたはずの人たち。
それらの方々が、故意に仕組まれたその波長に「意識を合わせた途端」に、自分自身が「その負のエネルギーの増幅装置」になってしまいます。
瞬時に、自分自身がその仮面を被った存在になってしまうのだと。

結果として、自分はその負の波長に激しく燃焼効率の高い液体を注ぐかのごとく、燃料を焚べてしまいます。
こうした展開を表現している言葉であること。理解が及んでいるでしょうか。
ここ、極めて重要だと感じます。


もちろん、見る・意識する必要はあるかもしれません。初回だけは。
そして、その仕組みを理解したら離れます。
いつまでも握りしめるから、自分がその負の増幅装置になってしまう。
ええ、元々、すべての事象・現象はフォルダに入った並行現実として存在しているとされるのですから、どのフォルダを選ぶか。それだけだと。

台風の発生数も上陸数も激減しましたでしょう。なぜでしょう。
人々が、そのフォルダの事象を選ばなくなっただけ。ということが見事に証明されています。

水溶液の中に浸された脳が繋がっている先は、AIなのか、はたまた極めて進化した生命体なのかは判りませんが、
そのクジを引かなければいいだけ。
と氣がつきます。

心を合わせる先は、
心響き合う先は、
美しく輝く仲間たち。そこに、その波長に見合った現実が創造されてゆきます。

静かに。
穏やかに。
その顕現化・具現化を望むのであるならば。

美しく輝く仲間たち photo 宮本章光

わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄ましませ。
弥栄ましませ弥栄ましませ。


同じことを何度も繰り返す

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失敗は必要なものだと言われます。
成長のために。
それを糧とし、学びとして得られるからだと。

では、一切合切をすべて忘れ去って「白紙状態から何度もやり直す」のは、果たして本当に成長のためなのでしょうか。

学んだこと、得られたことが、まったく生かされず、同じことを何度も繰り返すリスクがあるように見えます。
ここに違和感を感じてしまうのです。
しかし、それは、あなたがまだ成長していないからだ。とも語られています。
さらに階段の上まで上がってみないと見えないものだと。
この声そのものには賛同しますが。

理屈を並べるのなら、その転生は支配者によって仕組まれた無限ループだったから。これからはもうその仕組みはないんだ。とも言われますが、では、そこから離れる・決別する。と意思表示し波長を変えてみたなら、答えが導き出されるのでしょうか。

数千回も数万回も転生を繰り返してきたとされます。
何度も何度も、白紙状態にリセットしてきたと。
同じ失敗を、何度も何度も繰り返す。
それが、成長とどのように結びつくのか。
あるいは、
成長だとかそういった低レベルの思考ではなく、もっと崇高な「何か」がそこにあり、それを成果として得られるのかもしれません。
階段を上がらない限り、その「成果物」は手に入らないのみならず、認識さえもできない。
なかなか微妙な論説ではあります。
唯一、
因果の仕組みこそ、繰り返し白紙からやり直す理由に直結しているようには見えます。


磨いて磨いてピカピカにしてきたはずの心のセンサーは、この部分(=白紙に戻すからこそ成長できる)にまったく共鳴しない2024年初頭です。
すべてはMatrixであって、水溶液に浸された「脳」だけが電極に結びつけられ、VRとしての目の前の現実が起きている。
なぜか、こちらのほうにこそ、心のセンサーが光ってしまうのは、わたしだけではないはずです。

久々に、袖丈が合わない・背幅が合わない上着を着た感覚・大きめの違和感を感じています。
こうして、再び無限ループへの旅に出かけるのかもしれません。

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わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄ましませ。
弥栄ましませ弥栄ましませ。


自分の足跡は雪解け後も消えない?

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わたしの足跡ではなく動物かもしれません。

雪の上に残した自分のあしあとは、自分で消すことが難しいでしょう。
そのために近づけば、近づいた道にそのあしあとが残ります。
後ずさりしながら消してゆけば、見た目はなかったことにできるのかもしれませんが。


あしあと、とは、
心に描いた・心に抱いたエネルギー。
それは決して消えることがなく、いずれ結晶化し顕現化し、物理事象として目の前に現れてきます。

一度生み出したのであれば、それが「因」となり「果」を刈り取るまで残り続けます。
因果の法則。
だから、心に抱く感覚に対しては、十二分に注意を払います。
だからこそ、余計なノイズに触れないようにするのです。


世の中、ノイズしかない。とさえ言える状況です。そもそもそれがこの地の「標準仕様」なのですから。
そこに意識を合わせたい、などと思っていないとしても、自動的に見え・聞こえてくる。
そう仰る人が大半でしょう。
けれど、
そこに「波長を合わせなければ」良いのです。
シャットアウトするのも、しないのも、それさえも自分の意思表示、そして自分の選択。
この超重要部分を勉強してきたはずでした。

そこに触れれば・そこに意識を持ってゆけば、
必ず同期し、そのエネルギーに「燃料を焚べる」役目を果たしてしまうでしょう。
望んでいなくても、あなたがその負のエネルギーを増強してしまうのです。
それがこの地の「標準仕様」ですから。


訓練してきましたでしょう。
練習を重ねてきましたでしょう。
もうリハーサルはできず本番の幕が上がっています。
この超重要部分を訓練してきたはず。


雪解けとともに、その足跡も消滅するはずです。
しかし、雪が溶けた時には、ご自身の存在である「この地を体験し学ぶための体」も、もれなく消滅することでしょう。
そして、
そこには、望ましくない「因」を生み出し重ねた記録として「業」だけが、見えない世界に鮮明に「あしあと」として残ります。
雪解けとともに消滅したはずの「あしあと」は、自らの体を失ってしまった後も、延々と「因果」として自分に戻り、自分で解消しない限り、ブーメランは戻り続けます。

それが仕組み。
だから仕組みに感謝します。
なぜなら、
よき因を生み出せば、よき果が生み出され続けるからです。
どちらを選ぶのか、何を選択するのかは、あなた次第。わたし次第。

心引き締まる雪原に意識を馳せ、その自然と生命と仕組みに響き合い感謝を捧げます。

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わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄ましませ。
弥栄ましませ弥栄ましませ。


本番舞台は厳しくそして面白い

コンサートホールで披露する本番舞台 photo 宮本章光

長大な、そして苦しいゲネプロが終わったら、間髪を入れずに本番が始まります。
いま、本番の幕が上がったのですから、完全なるパフォーマンスを披露したいものです。

そう、楽器演奏をしていた学生時代。
ヘトヘトになったゲネのあと、もう一段のテンションアップを図るには、心の面からの「引き上げ」が必須でした。
楽屋前の掲示板(黒板)には、誰が書いたのか、いつの間にか気の利いたイラストや、モチベーションアップを呼び込むコメントが溢れ...。
そして、そこに自分も一筆書き込むのが本番前の儀式でした。

前プロでは、オペラカーテンが巻き上がります。そこから客席が左側(わたしは低音系なので上手側の位置)に出現するさまに、心臓の音がはっきりと聞き取れるほどに一氣に緊張感が高まるのでした。
指揮者が下手袖から現れ、静寂のあとに第一音が響きわたります。


現在位置、まさにここではないでしょうか。
そして、
いきなりやらかしてしまうパート・奏者もあったり無かったり。
ええ、予想もつかない場所で、想定外の音が鳴る。
けれど慌てず、何ごともなかったかのように演奏を進めます。
想定外どころか、空中分解寸前になることさえあります。自分自身も大なり小なりミスがあるのが本番。
どこまで踏ん張り、いかに持ち直すか。そのための団結力であり総合力でした。
それが学生の良さでもありました。


2024年の幕が上がり今日3日。
この目の前の風景には、もう何発の想定外が表出したことでしょう。
しかし、ゲネで目一杯ネジを巻いた上、楽屋前の黒板に記したように、ポーカーフェイスで本番を進める以外に道は存在していません。
そして、
自らの心が生み出す大法則・大原則に従って、かけがえのない一期一会のステージを大成功に導くしか道はないのです。

ひるまず、想定外な事項に足を掬われることなく。
フォーカス先を決して誤ることなく。

本番は「一度限り」。
厳しく、そして限りなく面白い。それが本番。
この本番をどう創り上げるかは、個々人の意識・心が創り出す目に見えない力、その果てしなく強力な現実創造能力にかかっています。

コンサートホールで披露する本番舞台 photo 宮本章光

わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄ましませ。
弥栄ましませ弥栄ましませ。


本番開幕・これまでの練習の成果を見せよ

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苦しい練習期間を終え、晴れ舞台でスポットを浴びる。
文字通り血の滲む練習を繰り返し、一期一会の本番を披露する。
本番舞台がその到達点となる芸術系に携わる人なら、必ずその感覚を味わうはずです。
いま、
まさにこのステージと同じように本番の舞台が開きました。
これまでに、長く苦しい練習期間を経て積み上げてきた、その成果・結果を披露する舞台です。


心の奥底に溜め込んだ負の因果。
激しく積み上げた負の力。
これらを流し去るための苦しかった練習期間を終えて、ようやくこのスタートラインを超えたことを感じています。

響き合う波長によって、見えるものが異なってくる。
響き合う周波数によって、具現化するものが変化する。
いよいよ現実となってきました。

新年早々...どうして?と、災害にフォーカスし、その負の力に翻弄される人々。ご自身の足元こそがグラついていることにも氣づかず。
他方、単に客観事象として捉え、自らの心が生み出す力をもって癒しと救いの波動を生み出す人たち。

自分に合ったもの。
自分の身の丈にふさわしいもの。
それが御霊(身霊)相応。
同じ周波数で響き合える人たちを「手繰り寄せ」、目に見えないフィールドに望ましい大きく暖かい力を拡大する役目を果たしたいと思うのです。


この地は、物質次元たる体・モノとともに、精神性エレメントたる心が生み出す力により顕現化する仕組みを知り、そしてそれを体現することを。
両輪をともに機能させることによって、新たな力を生み出せることを。
それこそが、この地で与えられた役目であると確信しています。

大きな流れに揺さぶられ・溺れ、そして大法則通りに自ら淘汰され消滅してゆくのか。
それとも、
大きな流れを見極めそれに乗ってゆくのか。
どちらも自分の選択次第。


激しく苦しい練習を積み重ねてきました。
練習の成果を披露する本番の舞台が開いたのですから、もう後戻りはできません。
これまではゲネだったと。
本番である以上、やり直しそのものが存在せず、流れに沿ってパフォーマンス披露・発揮するのみです。

力を感じてください。
この一枚に込められた「目に見えない力」を。
この瞬間に受け取った、そこにある大きく力強い大自然の力を。
そして、
その仕組みたる「神に」感謝を捧げ、新時代を切り拓くことを。

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わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄ましませ。
弥栄ましませ弥栄ましませ。


2024年-新年ご挨拶

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2024年、新春のお慶びを申し上げます。

いつものように。
普段と同じく。
穏やかに過ごします。
静かにその空間を感じてみます。

自分を大切にする。
とは、自分勝手に好き放題するという意味ではなく、他の存在に配慮せず欲に任せて生きるという意味でもなく。
それは、旧来の支配構造が存在する地だからこそ植え付けられた、誤った方向に向いた意識でした。

同じ波長で響き合う仲間とともによりよい世を創造するために、自らのコンディションを万全にすること。
その結果、多くの仲間と完全なシンクロ体験が生まれ、その響きが拡大・拡散し好循環が生まれること。
まして、
お借りして体験させていただける体という衣を、痛め・傷つけるのは、負の方向への因果を積み上げるばかり。
だからこそ大切にする。

ここまで学んだのならば、その感覚を維持し続けたいと思うのです。
それは、
昨日までとまったく同じ。
いつもの姿と何ら変わらず。


役に立つこと。
それは、役に立たねばならない...。といった方向への力を内包するのではなく、それを目的として・悦びとして掲げられること。
そして、それは、いつもと同じ。これまでと同じ心持ちであること。

叫ばず、踊らず。やかましいアピールなどせず。
静かに。
穏やかに。
心やすく。

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わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄ましませ。
弥栄ましませ弥栄ましませ。


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