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宮本章光/宮本陽の視点「開闢」And EM Official Blog

みやもとあきらのしてん AKIRA MIYAMOTO@And EM

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時には薄味の奥深さを感じてみたい

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濃い味付け。
それは、パンチの効いた刺激を得ることができるでしょう。
人目を引き、そこに接点を生み出す原動力になり得たでしょう。
これまでの世では。これまでの社会では。

インパクトを永遠に与え続けること。
バリエーションを無限に生み出すこと。
その「右肩上がりカーブありき」な思想には、もう触れることはありません。
いえ、正確には「もう二度と触れたくもありません」。

人は、こう言います。
「時には無駄も必要だ。」
「多くの人を纏めるには苦味(にがみ)も要るものだ。」と。
ええ、確かに。
でも、これからは必要とされなくなりつつあるように見えます。


もう、濃い味付けを煮詰め切って、これ以上は炭になってしまうよ。というところまで来ているのに、当の本人たちには、それが判らない。
茹でガエル理論を地でやってしまっていることにさえ。
そして、時には苦味も必要だと。

わたしは、要らない。必要ない。味わいたくない。
そんな、黒焦げになったものを。

だから、自分が望むものを追求して行きます。
そのためには、
一度リセットしてから、薄味を選んでみます。
薄味には、その素材の持つ魅力を感じることができるはずです。


いま、そんな大転換期を過ごしています。
どの道を希望しますか。
どの道を歩みますか。

口にする言葉だけでなく、心に抱き・描くエネルギーが、人間の集合意識を形作ります。
これまでに十分学んだのなら、その教科書はもう処分してしまいな。
ここに到達するまでに存分に体験を重ねたのなら、その時々に得られた「感覚」は大切に自分の胸の内にしまっておきな。

ここの問題はなぁ、そうじゃないんだ。違うんだよ。
何度言ったら分かるんだ!
そんな教師役。もはや時代は必要としなくなっていることに氣がつかないのはその教師ばかりなり。


千里眼にも似たエネルギーを見分ける力を得られたことに、ひたすら感謝の氣持ちが溢れてきます。
薄味を選択したからこそ感じられるようになったものです。
本当にありがとうございます。
貴重な体験、そして貴重な能力を取り戻しつつあるこの瞬間に感謝申し上げます。

恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

類は友を呼ぶ

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類は友を呼ぶ。

同じ地下茎で繋がっていれば同じ仲間。
一つの同じ体という見方もあるかもしれません。
そもそも植物自体が、種族全体で一つの集合意識だとも。
生き物すべてそうした存在なのだと感じます。


同じ周波数はシンクロが起き、同じ仲間だけが合致した意識に収斂してゆく。
そんな時代に入ったことが判ります。

美しいものを美しいと言うのは自由。
そう感じないものを、無理に感じようとする必要はないでしょうし、どのように感じ、何を表現するのも自由だと考えます。


否定の接頭語や接尾語が、その方向のエネルギーを生み出し、時と場所を変え、自分自身に戻ってくる。
自分に戻るだけならまだしも、そこで生み出したものが、集合意識を汚し続ける。
もう、これまでに学び終えているために不要であるにも関わらず。

この部分を考慮せずして、「汚す体験をする必要」が、ほぼ皆無になった、洗い上がりの真っ白な生地に、真っ黒な雫を垂らす愚は避けたく。
だから「発言に氣をつける」。
だから、これから進む道では「心に抱く意識に氣をつける」なのでしょう。

まだ「リトマス試験紙」が残っていました。
この地では永遠に残り続けるでしょう。
わたしは、そこで居残り授業を受ける予定はありません。

恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

わたしは「直感で生きる」を地で通してきました

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直感で生きる。
さまざまな場面で、わたしはその言葉を記してきました。
文字のみならずラジオの音声でも何度も語ってきました。
そして嘘偽りなく、それを自ら人体実験してきました。

直感で生きるとは、直感を100パーセント信じること。
100パーセント信じる、とは、それ以外の「選択肢」は存在していません。

ところが、あぁ間違いだったのかもしれない…と感じる現実がやってきます。明らかにミスジャッジだった、とでも言うような結果がもたらされるのです。
ここで「やっぱり間違いだったんだ」と断定してしまうと、その後、間違いだと感じる現実を実現するための道へとルート変更してしまうのです。
心のナビが勝手にハンドルを切って自動運転されてしまう感覚でしょうか。

その瞬間に、間違いだったのかも?と思ったとしても「具現化に時間が必要な物質社会」に生存している以上、目先の結果に一喜一憂しないことです。
結局、遠回りをしながらも、望ましい結果が現実になってゆきます。
時間が要るのです。タイムラグがあることを忘れてはなりません。


大変重要なポイントは、
「やっぱり間違いだったんだ」と感じる心を一瞬でも持たないこと。
そして、
「遠回りしても必ず望ましい結果が手に入る」と、確信することです。

そのように頭で理解しておきながらも、ここで失敗する理由は、
1. そうは言っても、目の前には失敗とされる現実が広がっているし。と考え、
2. そうは言っても、そんな思考は単なる思慮不足で浮足立った人間だと思われるのが嫌だし。と感じ・考えるところに原因があります。

この2点目が、実は非常に大きな失敗原因になるのです。
ここ、赤線アンダーラインを二重線で引くところです。必ず試験に出ます^^。
---人の目を氣にする。
---人にどのように思われるかを意識する。

2023年春。
もう、この場でご縁の繋がる皆さまには釈迦に説法ですね。
100パーセント信頼していたはずの自分自身の直感が、人目にどのように映るのかが判断基準として置き換えられてしまいました。

人目など、どうでもいいのです。
人の判断など、自分には関係ないのです。
そして、
正しいか・誤りか、これも関係がありません。
間違いなのか。そうでないのか、どうでも良いわけです。
いつまでも、その論説は誤りだ。だとか、正統派はこうだ。真理はこうだ。歴史はこう学んできたからこれが正しいんだ。と。

はい、それをそのように思うのであれば、それがご自身の現実になります。
ご自身が強く確信するものがご自身の現実として、ご自身が創造してゆくからです。
だからこそ、自分が正しいと思えばそれが正解であり、正しいも正しくないも、どうでも良いのです。


最も大切なこと。それは、
結果は「自分が失敗だと感じ判断しない限り失敗とはなり得ない。」ということ。

-----
もともと失敗なんて存在していないのです。
そこには体験があるだけです。
-----

この極めて重要な点を理解していれば、
失敗という観点が消滅、といいますか、存在していませんので、先ほどの心の自動運転が「成功」にしか向かわなくなります。
そして、
貴重な体験を積むことができた現実に、感謝の氣持ちしか生まれてこなくなります。


直感をより満足度の高い結果に向かうよう磨いてゆくことも怠ってはならないでしょう。そのためには、「口にする言葉・口にする食べ物」この二つを忘れてはなりません。
いつまでジャンクフードを食べ続け、いつまでSNSに流し、そしていつまで「人目を意識して」いいね!やスキを集めることを続けますか。
あるいは、
いつまで、それは間違いだ!それはこうだ!と言い続けますか。

そこには「体験」があるのみ。
大切な体をお借りし、このうえない貴重な体験を積むことができた現実に、感謝の氣持ちが溢れ出てきます。
本当にありがとうございます。

恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

恵まれています・満ち足りています

2023年のさくら photo 宮本章光

標題のようなワードを並べますと「横目で見るクセ」が抜けきらない。自分自身にそうした癖が、まだ残っていることを感じます。

その裏側には、
伝えたい意識とは反対に「否定的」感覚で捉える人がいるに違いない。
伝えたい意識と裏腹に「浮ついた」者と思われると嫌だ。
こんな感覚が映し出されているのだと氣がつきます。

でも、
それも、もうどうでもよいレベルまで小さくなりました。

取るに足りない、どうでもよいこと。
その昔に比べると、意識の外に置くことは難なく実現するようになりました。
そして、
執着する考え・意識そのものが消滅したように感じます。


昨日の記事【ゆるりと生きる】にて触れていましたように、
-----
この感覚。
いつか来た道。
幼少の頃に味わったはずです。
わたし自身いつも思い出すのが、おそらく一歳前後の「お座り」ができた時期の感覚だと感じています。
ゆるりと生きる:2023.03.27
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その幼少の時期に、
単に「おすわり」をしているだけで、満ち足りていたこと。
単に「おすわり」しているだけで、十分に恵まれていたことに理解が及びます。

その後、成長とともに言葉を学び、知識を得て、さまざまな体験を積む。
それが目的だったのですから否定はしません。けれども、そのプロセスを重ねるうちに、どんどん思考が巨大化し、本来の姿を忘れてしまいました。

だからこそ、
当時の肌感覚を思い出し、もう一度同じ感覚に戻るために、この言葉を記します。
「恵まれています・満ち足りています」と。

その言霊が持つエネルギーと響きとが、渦を巻いてさらに強固な現実になります。
数えきれない素晴らしい体験をさせていただきありがとうございます。

恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

ゆるりと生きる

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多くを語る必要性が消えつつあります。
多くの言葉を綴る必要性を感じなくなってきました。

人目を氣にする必要がなくなりました。
人の言動に左右されることが皆無になりました。


この感覚。
いつか来た道。
幼少の頃に味わったはずです。

わたし自身いつも思い出すのが、おそらく一歳前後の「お座り」ができた時期の感覚だと感じています。

少し暑い感覚で、ちょっと丸みを帯びた独特なフォルムを持つ、ベージュ色をした古い扇風機がカラカラと周期的に音を立てゆっくりと回りながら首を振っている。
その横で、乳幼児用布団の上に、ちょこんと座っている風景。
そこでは、
わたしは、何もしていませんし、何も考えていません。
ただ、その場の空気を吸い、その場の音を聞きいているだけ。

この感覚に近づいてきていること。
この感覚を思い出していること。
間違いありません。同じ感覚です。

何も考えていない瞬間。
何も雑念が存在していない空間。

ああ、これがわたし自身だったのだと。
それから十干十二支ひと巡り。
数えきれない体験をさせていただくことができました。
貴重な学びに感謝申し上げます。ありがとうございます。

これからは、ゆるりと生きてゆきたいと感じています。

恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

疲れたら休んでゆきな

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疲れたら休む。
疲れたら元氣のもとを補給する。

それは、今までの社会では、飲み物かもしれませんし、食べ物だったかもしれません。
でもこれからは、
チャージする「元氣のもと」は、目に見えないエネルギーに違いありません。

物質社会に永く長く、そして固く硬く、固まり切ったのは、この借り物の体だけではなく、意識そのものまでも固着してしまったのでした。


エネルギーをチャージする。
そのお手伝いをしてくれるのは、このとてつもなく大きな、そして暖かい振幅のパワーを放つ植物たちです。

広大な沼地に限りなく広がる原生水芭蕉。
これほどの規模の原生地にはお目にかかったことがありません。
ここには、背筋が震えるほどのパワーが存在していたのです。

バッテリー残量が「僅か2%」とでもいうような感覚に陥っても、このエネルギーをもって急速充電すれば、50%ほどまでは一氣に回復できるように感じます。


「疲れたら休んでゆきな」
「はい、お言葉に甘えます。」
ありがとうございます。

恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

お金に感謝ではなく「その学びのための仕組み」に対してでしょう

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何度も繰り返し綴っているような氣もしますが、飽きずにお付き合いいただく皆さま、重ねて御礼申し上げます。

穏やかです。
暖かい気候に暖かい心持ち。
幸せは探すものではなく、
まして、引き寄せるものでもなく。


「最後の砦(とりで)=お金」も同じ。
引き寄せるものなどではなく、
まして、その奴隷化の道具に感謝し続けるものでもなく。

はい、すべてのものに対して分け隔てなく感謝すること。
とても大切でしょう。そしてこれからの世では最も重要な意識に違いありません。
但しそれは、そこまで学び切って悟った後で語る言葉でしょう。

まずは、支配と被支配の立場・関係を認識することは避けて通れませんでした。
そのために、苦しみ・浄化し、卒業試験に取り組んできたこの最後の数年でした。
この期間には、
この直近の数千年間の歴史と、この地の、隠され騙され続けた歴史を学んだはず。
(学んでこなかった方々は、ここではご縁は繋がっていないはず。)
ところが、
現時点でも、まだまだ洗脳が深く、世界各国の中央銀行がどのように支配されていたかを知らぬ人が大半である現在の状況に唖然とします。
無理もありません。学校で教えてもらっていないのですから。

(じゃ、自分で学ぼうよ。ってことなのですけれど。
わたしは、過去、会計学に財務諸表論、と、まさにそのど真ん中を学業で専攻したのです。ご丁寧に、大学以外にさらに専門学校まで含めて。
言うなれば熱狂的な信者^^とでもいうべき感覚でした。
有難いことに、現在も帳面/帳簿に関する作業には不自由しませんが。
でも、それがこの世に対してどのように作用しているのか。どういった仕組みだったのか。このとんでもない奴隷化の仕組みを後に知ったからこそ、こうした場にその間違いを記し続けているのです。)


そして一見、精神性を高めたかのように見える方々。(失礼な意味はありません)
穏やかに、暖かく愛を語る。
美しいと思います。
でも、
すべてに愛を、すべてに感謝を。
と、やってしまい、奴隷化のツールたる「お金にも感謝」し続けてしまうのです。

ええ、その「仕組み」に対しては感謝する必要があるでしょう。
プラスもマイナスも、どちらも体験させていただけたのです。その貴重な体験に感謝するのはとても大切でしょう。
けれど、その道具にしか過ぎない・単なるツールであった媒体をいつまでも握りしめ、感謝、感謝、とやってしまうのはどうなのでしょう。
まして、幸せのために引き寄せようなどと。


これは、平和について考える思考回路と似ていると(私見に過ぎません)感じています。
平和も、そうでない対極にある紛争・流血の世も、その「仕組み自体」を体験し「どちら側も共に存在するこの地の仕組み」を勉強させていただけたことに対しては、十分に感謝すべきでしょう。
でも、
その道具たる武器や凶器、そのものに対して崇めて感謝しますか。
これは違うでしょう。
人を殺める道具に感謝、感謝ですか。
両極が存在するというその仕組みや体験に対してでしょう。感謝するのは。
ともに体験させていただき学ぶことができた、この地の貴重な仕組みと体験に対してでしょう。

感謝の行為、感謝の氣持ちはとても大切で崇高なもの。
でもその対象は、やはりこの「学びの地」においては、どちらも共に必要な仕組みだったのだと知った後、分別をもって認識することに意味があり、それこそが学びなのではないかな、と思うのです。

何でも無闇に、感謝・感謝。
すべてに愛を注いで。ではないはず。
なぜなら、この地は「そのどちらも認識し体験し、そしてどちらを選択し、これからどちらにフォーカスして行くのかを学ぶ」ところだから。

ここまでたどり着いてから、ようやく自分の望む道に、すべての愛を注ぎ・すべての事象に対して感謝するのではないでしょうか。


すべてに感謝。
わたしも良くそうしたフレーズを使います。
でも、漫然と単にすべてではないのですね。
これからの望ましい道を共に歩む仲間、同じ道に進む生命、それらすべてに対して。です。
これまでの歴史の中に存在した支配と被支配との関係という、学びのために用意されていた道具まで、ごちゃ混ぜにしてしまって、何でもかんでも感謝ではないと思っています。

恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

ひとつだけの存在

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同じ幹・枝から数多く咲く花の中には、二つとして同じものがありません。
形や大きさ、微妙な色合いまで。

そして、その花を眺めるわたしたち自身も、同じ人間は誰一人として存在していません。
(この世は、Android/botが大多数という論説もかなり目にするようになってきましたが、ここではあまりにも論点が飛躍・乖離しすぎるため触れません。)

何より、人と自分は違う。
人それぞれ、誰一人として同じではありません。
その分離状態を体験するためにこの地に生存しているのですから。


ひとつだけの存在。
それは、
もともとが一つであった。と思い出しましょう。の意とは正反対に、
誰ひとりとして同じではない、唯一無二の存在である。の意味もあるはずなのです。
いえ、むしろその感覚こそが実感できる肌感覚ではないでしょうか。

もっともっと、この地での学びを味わい尽くしませんか。
さらに大きく深く。
違いを感じ、違いを楽しむ。
それを可能にするのが、この地であり、そのための場所ですから。

恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

失敗なんてないのです。そこには体験があるだけ。

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失敗?
昔からよく言われていますね。
「自分が失敗だと断定しなければ、どこにも失敗など存在していない。」と。

でも、望ましい結果を期待していながら、その期待値を得られなかったとしたら、それは失敗ではないのか?という考え方も当然あるでしょう。

ここで、期待値を得られなかったのは現実の結果として認めます。
しかし、期待値を得ることだけではなく「得られなかった」体験をする必要があったのだと考えます。
望んだ結果を得ることだけではなく「得られなかった」体験をする。
この部分、大変貴重であると知る必要があるのではないでしょうか。

学校の試験で、常に100点だけしか取れないとしたら?
いかがでしょう?
とても退屈ではありませんか。
何をやっても、何度受けても、必ず100点満点。
期待値を実現したことには違いありません。けれども「期待値を得られない」体験は、その時点で永遠にできないのです。
(自慢する意図は皆無です、初めにそうお断りした上で続けます。過去、そうした時期があり自分自身が体験していました。非常に退屈なのです。100点以外が取れないので「それ以外の結果を得る」という体験ができなかったわけです。)


そして、ここで氣がつきます。
期待値を間違いなく得る・実現するといった、望んだ結果を導くことだけが成功の証だと考えてきた、そのこと自体が「片方だけの体験」しかできていなかったことに。もっと言えば、これこそが支配者の仕組んだ洗脳の一部であったことも。
(そのためには努力しなければならない。苦しみがあるから成功できるんだ、などと貨幣資産を築き上げることだけに血眼になる、いまだにその呪縛から逃れられない方々も多数…。いつか理解できる日が訪れますように。)

この地は、成功も失敗も両方セットで体験するための場所。
十干十二支が一巡りする長い期間を費やして、ようやくここに至ることができたと感じています。

もともと失敗なんて存在していないのです。
そこには体験があるだけです。

素晴らしい体という衣をお借りし、
素晴らしい体験をさせていただき、
素晴らしい氣づきに至ることができた、この現実に感謝しかありません。
これ以上に、何を引き寄せる必要がありましょうか。
これ以上に、何を望む必要がありましょうか。

ありがとうございます。
感謝申し上げます。

恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

何を見て何を感じますか

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よい空気に触れると、その感覚が心に響き渡ります。
心地よい感覚を抱き続けると、周囲の環境が心地よく変化してゆきます。

心に描くものが現実になる。
このようにして、わたしたちは学び、成長を重ねてきました。


発言・言葉に注意し責任を持つ。
口にする食べ物を意識し命を捧げてくれる生命に感謝する。
多くの体験をさせていただける借り物の体に感謝する。
そして、いま。
心に抱く感覚を、心に描く感情を、
最も注視し、その感覚を望む近未来の青写真として創り出してゆきます。

このサイクルをさらに拡大し続けます。
これほどまでに満ち足りて、これほどまでに恵まれていることに氣がつきます。
感謝の氣持ちが溢れます。

これほど嬉しいことはありません。
ありがとうございます。
すべての生き物・仲間とともに。

恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

何ごとも目一杯に詰め込まない

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目一杯に詰める。
それが良いことだと。
そのように無意識に感じてきたのかもしれません。

目一杯にスケジュールを埋める。
そうすることで安心する。
目一杯に時間を使い切る。
そうすることで充実感が感じられる。

果ては、
移動中の列車内で、スマホ片手に駅弁を口に掻き込む。まともに噛むことさえもせずに。
「俺は鉄の胃袋の持ち主さ!」と、豪語する人たち。平成初期のバブル期には、そうした人たちが溢れていました。
彼らの多くは、その後病院のベッドに横たわり、それを勲章にしてきました。

それを学びとして得たのであれば貴重な体験でした。
わたしも同じ過ちをトレースしたひとり。そして、あろうことか繰り返しました。

でも、いまも尚、同じことをずっと続け、
還暦過ぎたってさぁ。何を喰っても健康そのものさ!たとえ毒でもへっちゃらさ!と豪語する方々。
ええ、素晴らしいです。その恵みに感謝なさると尚よいかもしれませんね。
いつか氣がつく時がくるはず。と、暖かい心で見守ります。


同じだと思うのです。
目一杯に詰め込む。
余裕がないのは、何も胃袋だけではなく心の状態。です。
余白を作ってみると、そこには「新しいエネルギーが入って」きます。
そんな体験をしてみても良いのではないかな、と感じることが増えました。

捨てなければ入らないものがある。
でも、
それとともに、空白を作らなければ、その居場所がないのですね。

何ごとも目一杯に詰め込まないほうが良い結果が導かれる。
わたしは、失敗を繰り返したからこそ、その本当の意味を感じています。

その「隙間」に味わいがあると思いませんか。
詰め込まず。詰めすぎず。

恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

自分で立てたはずの高いハードルに怯む

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自分で立てた高いハードル。
自分で設定した困難な試練。

それを一切合切忘れ、白紙状態で超えて行きます。
その山が高いほど成長が見込めるから、という理由で、ギリギリの苦しさの限界点(あるいはその少し上)を設定したはずです。

ここまで「思い出した」のであれば、
その道中を楽しみましょう。
-- どうしてこんなに苦しいのか。
-- どうしてこんなに困難なのか。
いえ、
筋力トレーニングだと思えば、坂道ダッシュも苦にならないでしょう。
筋力を鍛えるためだと思えばこそ、割れるような心臓の痛みも苦しくないはず。

最終ステージは、最も困難で最高に難易度が高い設定にしてあるのです。
それだからこそ面白い展開になるはずだ。
だからこそ、大きな結果と喜びが手に入るはずだ。
そのように、自分自身で考えて、自分自身が組み込んだのでした。


息切れしてしまいましたか。
もう止めにしたいと感じていますか。
自分で立てた困難なハードルを目の前にし、怯んでしまってはいないでしょうか。
止めるのも自由。
離脱するのも自由。

道を変えれば、その先の展開も大きく変化します。
但し、そこに桃源郷はありません。
いままで取り組んできたこと、それらすべてがリセットされるだけ。
もう一度、一からやり直すだけのこと。


筋力トレーニングだと思えば、坂道ダッシュも苦にならないでしょう。
筋力を鍛えるためだと思えばこそ、割れるような心臓の痛みも苦しくないはず。
楽しむ。
とは、まさにいまこの期の自分自身のために用意されていたかのような言葉ではないでしょうか。

苦しい・止めたい。難しい、訳わからん!
そして逃げる。
そういったイメージを描くことで、自分の目の前には「さらに輪をかけて苦しさが現実化」してゆくのです。
そういう仕組みだから。
はい、学び直し!リセット。
やり直しです!

自分で立てたハードルに怯むことなく、その行程を楽しみませんか。
これから先に創り出す世界は、わたしたち自身が心に描くエネルギーによって創りだされること。
いま一度、その言葉を反芻しながら。

恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

さあ出番ですよ

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大切な本番の前に力尽きてしまう。
ここ一番の大舞台の前に疲れ果ててしまう。
そんな失敗をなさいませんよう。


いまから本番です。
さあ、出番です。

舞台で最高のパフォーマンスを発揮できてこそ一人前。
一世一代の大舞台で最高の結果を叩き出してこそプロフェッショナル。

25,800年ぶりでしょうか。
あるいは20万年待ちましたでしょうか。
それとも、50億年という氣の遠くなる時間を経たでしょうか。

いいですか。
本番の舞台は「一度限り」。
数えきれないオーディエンス、それは目に見えない観客。
数えきれない存在の前で披露する一発勝負。

そのために、この機を選び、この体をお借りし、そして披露するその機会。
100万人に一人の狭き門をくぐり抜け、この地・この期に臨みます。

ご一緒しましょう。
共に進みましょう。

舞台のクライマックスは、もう始まっています。
さあ、出番ですよ。

恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

自然の一員として恥ずかしくない生き方を

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わたしたちは大自然の一員。
今、まさにこの意識、この感覚が求められているはずです。


この記事でも触れたことがあります。

この国の魅力的な季節を感じ、
この国の美しい言葉に触れ、
この国の多くの息吹とともに歩む時、
その大自然とともに生きることができ、大地から「借りた体をその地へお返しする」までに、この地における大変貴重な体験をさせていただけること。
ここに、ひたすら感謝の氣持ちが溢れるばかりです。


素晴らしい大地に、
唯一無二の生命に。
ともに仲間として恥ずかしくない生き方を、
ともに仲間として恥ずかしくない今この瞬間の氣持ちを。

何を心に描きますか。
何を心にイメージしますか。

わたしたちの心に描くものが目の前の風景を現実化させてゆきます。
恥ずかしくない生き方とは、
この尊大な大地や仲間とともに望ましい未来を創り出す心を持つこと。
そして、
その心をさらに拡大し続けること。

恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

もうどうでもええやろ!

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人を知る、自分を知る。その限界を知れば学習終了。
そんな感覚を昨日の記事に載せてみたのですが、いまひとつ練り込みが足りず不完全燃焼で終わってしまいました。

今日は、少々横からフォーカスを当てます。
「もう、どうでもエエやろ!」です。


何のために。
どうして。
なぜ。

答えを探す、答えを求める。
それ自体が「答え」。
その体験をしたら、それが「答え」。

答えなんてないんだ。
答えなんて探している時点でまだ未熟なんだ。
そう言っていること自体が「答え」であり、
そう考えていること自体が「学び」でした。

そして、
すべては「一(いつ)でなければならない。」
と語っている時点で、一ではなく、
そう語っている段階で、永遠に一には至らない。

けれども、
そう語った時点で答えに到達し学びを終える。


そういう体験をする場所。
そういう体験をするために、自分から手をあげて「100万人に一人の狭き門」とも言われるこの地において、この貴重な体をお借りして体験を積んでいるわたしたちです。

もう、どでもエエやろ。ってことでしょう。
そのプロセスを楽しめれば。
その論議を楽しめたならば。


春になっても、落ち葉のまま芽を出さない木。
このまま枯れ木で終わるのかもしれません。
その敷地には、いまだにテレビの音が響き、おもてに出ても万年スマホゲーム。と、成る可くしてなったエネルギーフィールドがそこにあるように感じます。
(失礼を申し上げる意図はありません。それぞれ人の自由であり、客観的事象として感じることに過ぎません。)

でも、
こうして、その葉やその枝を、横から眺めてみます。
光とのコラボレーションは、見事な姿を披露してくれます。
「美しいと思えば美しいエネルギーを生み出す」
「残念な枝葉だと思えば残念なフィールドが生成される」

もうどうでもええやろ。
自分が「心地よく」過ごせるエネルギーを選択するだけのこと。
もうどうでもええやろ。
自分が「ありがたい」と感じ、「感謝する」心持ちになれるエネルギーを選択すれば良いのだと。

ありがとうございます。
素晴らしい学びに、素晴らしい環境、素晴らしい体をお借りして素晴らしい体験を積めることに感謝申し上げます。

恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

人は「自分が知っているその人」がすべてだと思ってしまう

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自分ではない、他の人のこと。
その人に対する認識は、「○○さんはこんな人・〇〇さんはこんな性格の人」という、自分自身の思い込みに過ぎない。

ええ、よく判っていますよ。
はい、そんなこと十分承知していますから。
でも、いちいち、
「この人は、もっと懐が広いはずだから。」
「この人には、もっと知らない世界があるはずだから。」
などと考えないでしょう。

日常のちょっとした会話の中でも、「その会話で交わされる言葉面だけで判断してしまう」ことが多いはず。


Aさんという人を、自分は「その人の100ある性格の中で90程度は知っているんだ。」長い付き合いだからね。
そんな誤解。
実際には、自分が知っていると思っている「その100」どころか、Aさんは「1,000も10,000も、いえ、1,000,000も10,000,000もの広がりを持っている。」に違いありません。

反対の立場でも同じことが言えるでしょう。
Bさんは、わたしという人間を「100ある性格の中で70くらいは知ってもらっているはずだ。」長い付き合いだからね。
そんな誤解。でもそれは、とんでもない誤解かもしれません。
実は「わたしの100のうちの0.1にも、あるいは0.0001に満たない部分しか」知ってもらっていない。


だから、もっとよく知りましょう。というのもひとつの学び。
けれども、
人の心を深く深く理解して…と、やっている限り、永遠に答えは出ないのです。
なぜなら、
その人と「わたし」とは別人だから。
少なくとも、わたしたちはいま、物理次元に体を持って存在していますから。
そして、この地この制限のある環境での学びを続けていますから。

人を「深く深く」知るために努力するパワーを惜しむ、ということではありません。ですが、その力を「自分に向ける」ようにしませんか。
リソースは限られているのです。
寿命という、この借り物の体を使わせていただける時間が。


努力を惜しむのではありませんし、苦労も必要です。学びのためには。
でも、
その方向とタイミング、そして「学びのどの段階において」必要とされるのか。
ここはやはりきっちりと認識したいと感じます。

人は「自分が知っているその人」がすべてだと思ってしまう。
だから、もっともっと知る努力をしましょう、というのか。
それとも、
限られたリソースは、自分を磨くためにももっと使いましょう。というのか。

ここは、やはり「物理次元・地球の歩き方」のメソッドに基づいて、制限のある中で成長と学びを重ねたいと思うのです。
理想郷や桃源郷にゆくのは、そのあとではないでしょうか。


恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

放置されたボールに宿る命

放置されたボールに宿る命 photo 宮本章光

もう何ヶ月間もこの場所に放置されたままのボール。
縫い目の糸が解け、傷んだ皮も痛々しい。
持ち主は、家を空けたまま数ヶ月が経ちました。どこかへ行かれたのか、はたまたどこかへ戻られたのでしょうか。

ボールは生き物ではないから感情なんて無いんだよ。
ボールは単なるモノだから痛みも苦しみも存在しないんだよ。
そんな声が聞こえてきます。

果たしてそうでしょうか?

この世(物質次元)に結晶化・物質化しているものは、すべてエネルギーの波動を持っているはずです。
例え、人間が感じるような五感と同じではないとしても、その元となった皮には、動物として存在し生存していた時期があったでしょう。
縫い糸にしても、その組成が天然素材であるなら、大地からの栄養分を吸収していた植物時代があったはずです。
そうしたすべての「履歴」は、宇宙のアカシックレコードにすべて記録されているとされます。


ボールは生き物ではないから感情なんて無いんだよ。
ボールは単なるモノだから痛みも苦しみも存在しないんだよ。

いま、このひとつの単なる放置されたボールから学ぶこと。そしてその課題は。
それは、
そのように「モノ」でしかないから、どうでもいいんだ。感情などあるわけがないから。と、自らの心の中に「描いてしまう」ところにあるように感じます。
すでに物質至上主義の時代は終わりました。
これからは、心と精神性・感性を磨く時代に入っています。

心に描くもの・コトは、それを自分自身がエネルギーとして発生させていることに氣がつくかどうか。
どうでもいいんだ、モノなんて。
そういった感覚を描けば、そのようにエネルギーが生まれます。
そして、どうでもいいと感じたエネルギーが、いずれ異なる時間と違った形で自分に戻るのです。
でも、
牛という動物として存在していた時代もあるでしょう、その材料である皮は。
大切なことは、動物だったから大切に。ではなく、すべてのモノを大切にする心。
ここに至ることができるかどうかが求められているはずなのです。


過去、この地に存在したとされる文明は、その地で生を営む人間の「精神性」が失われたために滅亡したと伝えられて(諸説あり)います。
いま、
この大転換機を過ごしているわたしたち。
過去文明崩壊・消滅の過ち、それは今度で6度目だとか7度目だと言われるその失敗と過ちを再び繰り返すことなく、心から共感できる精神性を高めた存在でありたい、と願うばかりです。


たかが一個のボール。
されどひとつの立派な存在としてのボール。

この地球における、いま最も重要な精神性の向上と高揚には、一人ひとりの「心」と「思いやり」が求めれています。

これこそが「愛」ではないのでしょうか。
キラキラと輝き、美しい言葉に包まれた愛も、もちろん素晴らしい。
でも、美麗な響きに抱かれなくとも、心を込めて伝え、そして祈ります。
それこそが「愛」そのものだと確信しています。

恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

自分から出る杭になって打たれてみな

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出る杭は打たれる。
才能があっても妬まれ潰される。

そんな歴史も、支配者による洗脳だったのでしょうか。
ともあれ、
長いものに巻かれていれば安心。
大多数に合わせていれば安心。
そんな感覚の人々が、どんどん旧いタイムラインから脱出している様子が手に取るように判ります。
大きな大きな、その流れがさらに激しくなっています。


世界で・この地球で、一番洗脳が深く一番長く眠り続けるお寝坊さんな国。
きっと、ある瞬間に一斉に流れが変わるに違いありません。
自分の心に感じるものを感じるままに体現できるようになれば。
そして、
きっと、ある瞬間に一斉に心をひとつに合わせることができるはず。

スロープではなく階段を上がるには、
その一段分の「段差」はデジタル的とでも言うべき段差を超えるための跳躍が必要です。一氣に力を込め、グイッと踏ん張ることで、その一段分を上がることができるのです。
ジワジワと、いえ、ちょっとイジワルな言い方をするならば、「ダラダラと」人の顔色を伺いながら、なんとなく大勢の中で目立たぬように生きる。
これも人それぞれに違いありません。
ただ、それでは階段は上がれないのではないでしょうか。


この場でご縁を繋いでいただいている方々は、もう釈迦に説法かもしれません。が、ここはひとつ「出る杭になって、自ら打たれてみては。」と思うのです。
いえ、心の中からその氣持ちを伝えてみるのです。

肉体を使って走り回る物理行動に比べ、心から願う・心から祈る、そのパワーは数万倍も力強い作用をもたらすとさえ言われます。
むしろそれは当然でしょう。わたしたち本来の姿は、唯一無二の魂たるエネルギーそのものなのですから。


この国の人々は、みんなこの美しい言葉を話し、この素晴らしい感覚を共有できる仲間であるはずです。
胸の奥から、とびっきりの暖かい心、とびっきりの優しい心でもって、一緒に新しい時代を創って参りませんか。と波動を送るのです。
急がなくてもいい早くなくてもいい。二度寝したい方はいつまでもどうぞ。
でも、
いつかきっと同じ心を持ってその力を合わせることができるはずだと祈ります。
必ず、この同じ言葉を通し、この同じ心が通じると願って。

これこそが「愛」ではないのでしょうか。
キラキラと輝き美しい言葉に包まれた愛も、もちろん素晴らしい。
でも、美麗な響きに抱かれなくとも、心を込めて伝え、そして祈ります。
それこそが「愛」ではないのでしょうか。

出る杭になってみませんか。
共に創り出す新しい世界に向けて。

植物たち。彼らは、自分だけ大きく成長してもそれを恥ずかしむことなどありません。
そして、同じ苗の仲間は、その成長を応援し、ともに美しくこの世を楽しんでいるはずです。

恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

「いのち」が表現する色彩感を感じてみる

おだまきの花が開く photo 宮本章光

何だか難しい標題になったかもしれません。
ですが、難しいと感じている時点で、古い洗脳が解けていない証でしょう。

わたしは、幼稚園児の時期に「人のオーラ(であろう)の色)」が見えていました。その時には、それが見えるか見えないか、という観点すら持っていなかったために、誰でも万人に備わった感覚だと思っていました。

赤い花を見れば「赤い色をしている」と感じ、
緑の葉を見れば「緑色なのだ」と。
そうやって色の名前を覚えてゆくのとまったく同一の感覚だったのです。
残念ながら、現在ではもう全く見ることができません。但し、何らかのエネルギーを感じようと努力してみれば、なんとなく感じることはできるようですが。


以前にもどこかで触れたように思います。
幼稚園の図書室にあるすべての幼児書を読み切った園児2名のうちの一人がわたしでした。
毎日、登園すればまず図書室に向かい、書棚に並んだ書籍の中から、それぞれが放つパワーの強いものから手に取ってゆきました。

背見出し(背表紙)の色使いや文字が一風変わったフォントで記載されている本は、記憶に残りやすいのでお氣に入りでもありました。
また、初期の頃は文字がほとんど読めなかったため、本編に記載されている図柄や絵、そしてその色彩感から感じるエネルギー=心地よさを感じる、目に見えない感覚を楽しんでいたことを思い出します。


この時間帯にもう一人、メガネをかけた園児がいつも同じようにそこに居ました。
記憶が相当薄れてしまっていますが、多分、女の子だったように思われます。
二年保育でしたから4〜6歳児でしょうか。それでも分厚いガラスのメガネは印象的でした。

その子供は、体の周囲にピンク色の「繭(まゆ)」のような光のベールがあったように記憶しています。
もちろん、他の子供たちを見ても、同じようなものが見えていたはずです。
けれども、それは服を着ているのとまったく同じ感覚だったので、この子は青い服をきているぞ、だとか、この子は赤系統の服を着ているんだな。などとひとつ一つ考えながら見ることはないのと同じように、意識さえしなかったのです。
そして、
小学校へ上がる頃には、もう感覚の外に消滅していたように思います。
いつの時点でそのような感覚が消えてしまったかさえも判りません。


あれから40年…ではなくて、あれから50余年60年近くの時間が流れました。
いま、この大転換期に、生命が放つエネルギーに色があることを思い出しつつあります。
いえ、
それは、花の色が「赤い」だとかそういった感覚ではなく、そこから滲み出している「目に見えない何らかのもの」を。

もしかして、
これは幼稚園児の頃よりも、もっと凄いことになってるんじゃないか!とも。
そう、そのように感じれば「そのように現実になる」。
本来備わっていた潜在能力を取り戻しつつあることを感じています。

ともに同じ感覚を共有できる皆さまとともに、新しい空間・時間を創造してゆきたく思います。ご一緒しましょう。

恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

いまこの瞬間を心地よく過ごすために

中庭の風景 photo 宮本章光

今この瞬間を心地よく過ごしたい。
そのために、もっともっと、心の状態と体の感覚を受信するセンサー感度をあげてゆきます。

喜びも苦しみも、どちらもセットで体験できる稀有な環境に、自ら希望してやってきたわたしたちです。
感情がどちらか片側にシフトしているのであれば、その状況を認識し、それを楽しみたいものです。

苦労は買ってでもせよ。と語られてきました。
さまざまな体験を積むからこそ、その対極にある感情・感覚が磨かれる。
これは間違いではないでしょう。
困難を避けて通る。問題やハードルに取り組まずに逃げてしまう。
こうした行動は、貴重な体験をせぬまま通り過ぎることにより、学びを得られない、という意味で伝えられてきたのだと思います。

ですが、繰り返し述べられているように、
すでに数多く学び終え、糧として得られたのであれば、それをしっかりと心に刻み込んだあと、大切な体験をさせてくれてありがとう。と感謝を伝え、そこから離れればよいのだと。


不快なら、不快であるその状態を俯瞰し認識できればよい。
疲れたのなら、疲れの原因から離れ体を休める行動をとればよい。
要は、
「現在地を正確に認識する」ことが求められているのでしょう。

大切な借り物のこの体。
クルマなら、ちょっと異音が聞こえただけで非常に氣がかりで、隅から隅まで点検するでしょう。
それなのに、自らの体に対しては「向かい酒療法だ!度胸で乗り切れ!」的な、もはや古すぎる精神論を語り続け、マイナスポイントたる負の因果を重ねるばかり。
はい、
そうした「自分の体の取説」は持っていないことに加え、学校でも誰からも習ったことがないため無理もありません。


疲れたよ。不快だぞ。腹立たしい。
それなら、その状態を俯瞰する。その感覚を認識する。
その時点で、
次の向きは「左斜め10時の方向…」と、自動的に解決の道が見えてきます。
この段階で、
無理にポジティブにならなければならない。だとか、無理にワクワクしなければならない。
といったように、その瞬間の感覚をねじ曲げる必要はどこにもないはず。

力技で「…ねばならない」と、肩を張り詰めて構えてしまうことこそ、心にも体にも無理が発生する原因になるのではないかなと。


俯瞰し、その瞬間の大枠を認識し、状況を眺める。
無理をしない、とは、感情をねじ曲げる行為を「しない」ことだったのではないでしょうか。
この瞬間を心穏やかに、心地よく過ごしたい。
そのためには、
「状況認識センサー」をさらに磨く必要があるように感じます。
そして、
借り物の体の使い方という教科書がどこにも存在していないのですから、自分から「自分の取説」をアーカイブしてゆきたいものです。

恵まれています。
満ち足りています。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

自分の色を知り、自分の色を広げる。

パンジービオラバイオレット photo 宮本章光

人それぞれ。
無理に人に合わせる必要がなかったことに目が覚めます。
しかし、
それは無駄ではなく、体験として、そして学びとして必要なプロセスでした。


「よい子ちゃん」で居る年月が長ければ長いほど、自分の色を知らない。
そんな感じかもしれません。
「よい子ちゃん」を選択することで、わたし自身は何度も失敗をしてきました。
その選択をすることで親の評価は高まるうえ、学校成績も常時トップクラス。
いえ、トップクラスどころではなくダントツのトップをキープしました。
ご近所の叔母さま方からも、顔を見るたびに「偉いね!すごいね!」といった言葉を掛けられ続けるのです。
世間は「それを良し」としたのですから、まさに「それが正しく・それが進むべき道」だと解釈したのでした。

ですが、
そうではない「道・選択肢」が見えた瞬間に、その愚かさに氣がつきます。
そして、
何をしたいのか。どこへ向いて進みたいのか。
この問いに対する回答が「まったく存在していないこと」に唖然とします。
自分の色をまったく知らない。
その過ちの重大さに恐怖さえ感じたのでした。

この段階で、ひとつの学びを達成します。
自分の色を知る。自分のキャラクターを認識する。
そして、それを発揮し披露し、自分の存在意義・存在価値を見いだしてゆく。
その自己実現こそがホンモノのワクワクの連続なのでした。
(いま流行りの、本当は全然そんな氣持ちではないのに無理にワクワクしましょう・引き寄せましょうなんて感覚とは根本的に違うのです。実体験があるからこそその差が明確に理解できます。)

そんな成長過程を歩んだからこそ学んだ、大変に貴重な経験でした。
このセットサイクルを3度も繰り返し、さらには体を壊滅的に壊すという失敗のオマケまで付いた、驚くべき折り紙付きのバ○野郎を地でやってしまった。それがわたしでした。


ここで植物に目を向けてみます。
バイオレットの色を自らのカラーとして備えている花が、突然、偉いね!すごいね!と褒められたなら「黄色い花」にチェンジするでしょうか。
あり得ないはずです。

人間は、「他人の評価」という名の甘い蜜に吸い寄せられるのでしょう。
もはやどうでもよい、そうした呪縛を自ら開放し、自分の色で周囲のエネルギーを満たしてゆく。
これこそが、いまから望む選択だと思っています。

まず自分の色を知り、そして、その色を拡大し続けてゆく。
そこに、自らの望ましい未来が創り出されるはずです。
「自分の色を知り、自分の色を広げる。」それは、いつかそのうちではなく今でしょう。

恵まれています。
満ち足りています。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

咲いた・咲いた

クロッカスが開花 photo 宮本章光

歌を歌ってしまうような季節を迎えています。
心踊る空気が満たされています。

微笑ましい自然環境、梅や鳥たちに心和み一日のスタートダッシュ。
そして居心地のよい空間で貴重なご縁と一期一会の仕事を進めてきました。




そして、
戻ってきますと、一斉に開花した素晴らしい「仲間たち」が出迎えてくれます。

咲いた・咲いた。
みんな美しい。みんな素晴らしい。
ありがとうございます。

「これほどまでに満ち足りている今に感謝」し、
「ここまで素晴らしいこの瞬間を生かせていただいていることに感謝」するばかりです。
すべては、自分の心の中から生み出されていること。
あらためて感じる瞬間です。

いま、この瞬間が楽しくないとしても、その振り子を反対側に振り戻せばよいのだと。
誰でも、どちらにも振り子は振れるもの。
この地では、多くの仲間たちとともに学び成長してゆきます。
大丈夫、みんなひとりじゃない。

「これほどまでに満ち足りている今に感謝」し、
「ここまで素晴らしいこの瞬間を生かせていただいていることに感謝」したいと思います。

恵まれています。
満ち足りています。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

ひっそりと、でもしっかりと。

クロッカスが開花2023年 photo 宮本章光

背が低くとも。
目立たなくても。
自分自身の精一杯、その瞬間瞬間を生きてゆく。


植物は、
苦しみがあるからこそ人生だ。これからも苦労し続けなければならない。などと言いません。
植物は、
お金に感謝し、より多くを引き寄せ、もっと豊かな生活をしよう。などとも言わないでしょう。

いま、自分にできる最善の姿を披露し、そしてその体験を重ねてゆきます。
もちろん、苦しいことが「起きるかもしれません」。
それは、突然の豪雨かもしれませんし、激しい気温の変化や強風により折れてしまうことかもしれません。
しかし、
それを苦あれば楽あり。などど美談にせず、何も言わず、何も後悔せず、あるがまま受け入れます。

人間の立場は、植物とは当然異なるでしょう。
苦しみを体験するからこそ、喜びも認識できる。その図式を否定するものではありません。
でも、頭の中で捏ねくり回し、自我の支配に囚われていることに氣づかず一生を終える(そして無限ループの輪廻から脱出できない)よりは、彼らの生き方は、より清く美しく、より学びを得ているのかもしれません。


そして。

その後、
美しさを精一杯披露したあとは、散ってゆきます。
それが彼らにとっての学びなのだと。


ひっそりと、でもしっかりと。
自分にできる精一杯の言葉と、精一杯のイメージと。
心の中から描きそれを伝えて行きたいと思います。

「これほどまでに満ち足りている今に感謝」し、
「ここまで素晴らしいこの瞬間を生かせていただいていることに感謝」したいと思います。

恵まれています。
満ち足りています。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

そこに在るだけで・そこに居るだけで完成形

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そこに在るだけで。
そこに居るだけで。

こうした言葉とイメージが、日々随所に現れるようになってきました。
同じ周波数がうねりになって大きな振幅に拡大している感覚でしょうか。
共振現象が、至る所、あらゆる時間で起きているようです。

それは、もちろん植物だけではなく、さまざまな生き物すべてに対して。
そこに居るだけで。
そして、
そこに在るだけで。
生命ではないとされる「モノ」でも、物質形状を維持して存在している限り、内包されるエネルギーがあり固有の周波数を持っていること。
そこに存在感を感じる限り、エネルギーが発せられていると判ります。


そこに在るだけで。
そこに居るだけで。
すでに完全であり、すでに完成しています。

そこに存在するだけで。
そこに感じるだけで。
すべて満ち足りており、すべて恵まれています。

大きな振幅が大きな渦になり、それが時を形づくる。
その意味が、ようやく肌感覚に落とし込めるようになった氣がします。

ありがとうございます。
貴重な体をお借りして学ぶことができる素晴らしい体験に感謝申し上げます。

恵まれています。
満ち足りています。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

もっともっと勘に委ねてみる

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もっともっと勘に委ねてみる。
何のこと?
といった感じですが、直感に響くものは、その内容もタイミングも意図せず降りてくるので、そこに任せてしまえば、答えが自動的に導かれます。
はい、わたしの人生、この連続です。

これに逆らえば、答えは出ないのでしょうか?
いや答えは出ます。必ず。
出るか・出ないか。ではなくて、望ましい結果になるか・ならないか。
この対(つい)だと思われます。

そして、これをもっともっと進めてみます。
進めるとは、さらに委ねるウエイトを高めるという感覚です。


「できる!と感じれば結果が出る。」
「できない!と感じたなら結果は望むものとは異なる。」
これだけです。

そうすれば、そのタイムラインが自分自身の意識によって創られてゆきます。
瞬間瞬間に描いている意識が、その結果を導いてゆきます。
一点の曇りもない、その心から願う意識が、その結果に書き換えて行きます。


もう多くの方々が経験しているはずです。
さっきまで腫れていた指先が、氣がつけば綺麗に治っている。
肩が上がらないほどひどい関節痛が、1日で消滅している。

これ、ご自身で体験・体感している人体実験ではないでしょうか。
その逆もあるでしょう。もう言葉には落とし込みませんが。


幼少の時期を思い出してみます。
その昔「痛いの痛いの飛んでいけ〜!」と、おばあちゃんに手を当ててもらった経験、ありませんか?きっとあるはずです。
手を当ててもらうとアラ不思議、その次の瞬間には「ホントに痛みが減少」したのではないでしょうか。
手を当てるから「手当てする」のですね。
この国の言葉と意識は綿密に結びついていること、あらためて素晴らしい国で生かせていただいていることに感謝するばかりです。

でも、痛みが飛んでいったはずなのに、その直後に「再び痛く」なりますよね。
「痛い痛い、怪我してる!」と、そこにフォーカスし続けるからでしょう。
ええ、実際にひどい怪我なら、その傷の度合いが、意識でレイヤーをひっくり返す力よりも激しいため、無理もありません。
もちろん、緊急を要する場合にはそんな悠長なことは言っていられませんので、それはそれで「物理次元の歩きかた」に基づいた処方は必要ですが。


委ねる。
結果が導かれる。
信用・信頼する。
さらに委ねる。
さらに任せる。

このループを無限に拡大し続けるなら、きっと本来備わっていた潜在能力を取り戻せるに違いありません。

弥生の月を迎え、花々は喜びに溢れる表情を創りはじめています。
わたしたち人間も、さらに望ましい近未来を創造してまいりましょう。

恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。
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