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宮本章光/宮本陽の視点「開闢」And EM Official Blog

みやもとあきらのしてん AKIRA MIYAMOTO@And EM

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この「学校」最後の課題が訪れているようです

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今日は氣温も急上昇、一氣に春めいてきました。
学年や年度変わりのシーズンを迎え、わたしたちの「心と精神性の卒業試験」も、人それぞれの胸の内にさまざまに訪れているようです。

人それぞれ、更なる浄化の波に激しく洗われる方もあれば、もはや安定域に到達し、感謝と慈愛の精神に溢れる時間と空間に浸っている方もあるでしょう。
個人的感覚に過ぎませんが、
卒業試験の大きなハードルは「お金」と「口にする食べ物」だと感じています。
今日ここでは、個々に触れることはしませんが、機会があれば掘り下げてみても良いのかな、とも感じています。


自分はどこに居るのか。どの段階に居るのか。
こうした感覚さえ、もうどうでもよいところまで到達しました。
人と比べる必要はなく、自分の感覚・直感に敏感であろうとするセンサー感度だけは上げておく。
これさえ忘れなければ、すべて満ち足りていることを感じられるはずです。

美しいこの地・地球の数多くの仲間と、心の中から会話を続け、より望ましく、より心地よい近未来を、自分自身で創り出す。
この境地に到達なさった方々と、ともに同じエネルギーを束ねて行きたいと願っています。

貴重なご縁、貴重なコミュニケーション。
そして、心通じる素敵な時間。
素晴らしい場での接点をありがとうございます。

恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

長大な輪廻をここで打ち切るために

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わたしたちは、いったいどれほど多くの回数、輪廻転生を繰り返してきたのでしょうか。
それを覚えていなくても、どことなく感じる感覚によってその長大で深遠な時間を認識できるのかもしれません。


時間がない。忙しい。
じっくり考えごとをする暇なんてないんだよ。
自分に向き合うことなんてとてもできないんだよ。

はい、確かに自分自身も経験をしてきました。
もう昔の話ではあります。
連日、会社へ戻るのは23時を回ってから。それから事務処理・稟議書。
山のように積まれた書類の処理で、氣がつけば朝の5時。
それでもキャリーオーバー。
大晦日も深夜まで机に向かい正月も出勤。休日なんて言葉は存在していません。

メールは毎日、数百通超え。しかもフィーチャーフォン(ガラケー)なので、時間がかかり返信すらできません。
その間に、その問い合わせどうなってんねん!とお叱りの電話着信。
留守着信も、毎日毎日、数百通を超えて着信先の確認すらできない始末。
もう目を通すことさえもできません。履歴を確認している間に、また着信。
携帯を手にすれば、また着信。そしてバッテリー切れ。
電源が切れると嬉しくなった感覚を思い出します。

氣が狂いそう。ではなく、実際に氣が狂いました。
満足に食事も摂ることができません。口にする時間がないのです。
事故も多発。山道の道路から転落しそうになったこと数知れず。
そして体は壊れました。
いえ、苦労自慢をする意図はありません。

時間がない。
現在でも、このように実際に体験している方もあるでしょう。
でも、その環境を脱出すれば「時間は作れる」のです。
言い換えれば、その会社を辞めてしまえば。

制限を自分で作ってしまうから。
限界を自分で設定してしまうから。
だから、時間がないのでしょう。
失敗をしたから言えます。


同じことだと思うのです。
目に見えないもの・コト。それを認識しようと意図して取り組まない限り。
webの情報を追っかけていても何も進歩は得られません。
頭でっかちの、情報過多な思考が膨らむだけ。
自分が制限を、自分が限界をキープしたままだからでしょう。

自然に接してみませんか。
自然や植物と会話してみたいでしょう。
それを意図的に取り組んでみようとしない限り、絶対に会話なんてできっこないのです。言葉を話すことはないのですから。
でも、
そこにある生命としてのエネルギーを感じてみようと、心を合わせるのです。

すると、何かしら感じるものがあるはずです。
それが、目に見えない生命のエネルギーだと思うのです。
わたしたちはすべての仲間とともにこの地で生きながらえることができています。

このような体験こそが、物質社会という支配者に仕組まれた枠組みの中で、本来の自分を取り戻すプロセスではないでしょうか。
そしてそこから脱出する手段ではないでしょうか。


いつになったらUBIが配られるんだ。
いつになったら緊急放送が流れるんだ。
そうやって意識をそこに合わせている限り、永遠に現実にはならないはずです。
なぜなら、
いつまでも待ち続けなければならない「現実として具現化しないエネルギー」にフォーカスが合ったままだから。
そして、自分自身がそのエネルギーを増幅し続けるから。

仕組みが理解できさえすれば、何を・どうすれば良いのか、いとも簡単に答えが出てきます。
だからこそ、すべてに感謝し、すべてを感じようと心を合わせてみる。
そのプロセスが必須だと判るはずです。

なのに、いつまでも、
幸せを引き寄せましょう、だとか、ワクワクして待とうだとか。
果ては、奴隷化の道具であったお金に感謝し続ける。
いえ、
その仕組みに対して感謝すればよいのです。そんな支配者の悪巧みに洗脳される体験をさせてくれてありがとう。勉強させてくれてありがとう。と。
苦しい体験をさせてくれてありがとう。と。
携帯のバッテリーが切れてありがとうも、心地よさという観点からは、同じエネルギーだったかもしれません。

悪の仕組みの道具に過ぎなかったお金そのものに感謝し続ける限り、そのエネルギーの火に油を注ぎ続ける。
そんな役回りをするのが今世の役目だったのでしょう。
人それぞれ。
わたしは早く脱出します。そう心から願いそれを現実化させたいと思います。


どれほど多くの輪廻を繰り返してきたことでしょう。
いま、舞台最後のクライマックスシーンを迎えているとされています。
え?セリフを忘れた?でしょうか。
それなら、アドリブで主旨にそって立ち回ろうじゃないですか。
いつまでも、誰かが台本を持って来てくれるのを待ちますか。
いつまで、救世主や白馬の王子様が現れ、その幕引きをしてくれるのを待ち続けますか。

恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

さまざまな道

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山に登りますと、その登山道は何通りもの道筋があることが判ります。
地図に記載がないもの、現地で初めて目にする道。
そして、けもの道も。

どこをどのように歩くのかは、人それぞれの自由です。
但し、誰も・どこにも生命の保障をしてくれることはありません。
大袈裟な例えではなく。
決して甘く見ず、決して軽率な行動をせず。


人生という道も、どのように歩むのかは、人それぞれの自由に違いありません。
そして、山道と同じように、その全責任は自分にあるということ。
借り物の体をどのように使うのか。
限られた寿命の中で、何を学び何を得るのか。

それなのに、
口にする食べ物に十分な意識を巡らせることなく、知らず知らずのうちにその「大切な借り物」を蝕んでいることさえ理解せず。
口にする言葉に十分な配慮をすることなく、知らず知らずのうちにその「大切な意識というエネルギー」を汚染させていることにも氣づかず。

挙げ句の果てには、
その「大切な借り物」を痛め、病という名の結果を具現化させてしまいます。
その因果を考えることなく、運が悪かった、と自身の責任を顧みることさえせずに。
その「大切な借り物」をよくない言葉という波動で汚し、望ましい意識状態を維持することさえもできずに。


わたしたちは、
自分自身が「体験をして初めて」理解ができるとされます。
だからこそ、その体験を重ねているのだということです。

どの道を選択するのかは、個々人の自由。
どの道を歩むのかは、その瞬間瞬間の選択の積み重ね。
すべての責任は、自分にあることを忘れ去り呟く一言。
「どうしてこんな目に遭うのか。」
「どうしてわたしだけ不運なのか。」

原因の「因」があるから結果の「果」が生じてくる。
すべては自分の責任ということなのですね。

それならば、
「これほどまでに満ち足りている今に感謝」し、
「ここまで素晴らしいこの瞬間を生かせていただいていることに感謝」する。
「因」があるから「果」が生じるという法則をいま一度思い出す機会ではないでしょうか。

決して大袈裟ではなく。
大切な体験の瞬間瞬間を、甘く見ず、決して軽率な行動をせず。
すべては自分に返る因果の法則。
すべては自分が生み出していることを知り、望ましい近未来を創造してまいりましょう。


恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

自分で選んだ階段を登り続ける

山道の階段を登り続ける photo 宮本章光

そこに階段があるから登り続ける。
そんな、格好つけた言葉を掲げなくても、確かにそこにある階段を登り続けます。

なぜなら、もう引き返すことはできず、引き返すところもないからです。
仮に引き返すことができるとしても、これまでの歩みと同じだけのスケールを巻き戻せねばなりません。
そして、
その先に何があるのかも知らずとも、でも、その先には自分が望む世界があると信じるからです。
さらに、
100パーセントそのように信じることで、その世界が現実となってゆきます。


わたしたちは、まさにこの山中の階段のごとく、ひたすら登り続ける道を自分から選択し、この地での学びを続けています。
山の頂に到着したのなら、きっとそこには絶景が待ち受けているはずです。
そう信じるからこそ、そこに絶景が具現化してゆきます。

心臓が張り裂けそうになる厳しい道もあるでしょう。
しかし、それは自分がそのように感じなければ、痛くも痒くもないはずです。

苦しいんだぞ。
心臓が割れそうになるんだぞ。
人生は苦労しなければ、ゴール地点の喜びは味わえないんだぞ。と。
過去に手にした「苦しみ勲章」など、いつまでも握りしめずに捨ててしまいな。

もうやめましょう。
現実に厳しい山道であっても、実際に心臓は張り裂けませんし、苦しい苦しいと考えずに歩みを進めれば、そこには喜びしか存在しないはずなのです。


そこに階段があるから。
そして、自分でその道を歩むと決めた以上、道中をどのように楽しむのか。
そこに喜びを見出せればこそ喜びが現実になるはずです。
ここは、自分で選んだ道であり自分が選んだ階段ですから。


何も望む必要などなく、何も求めることもなく。
ただ、恵まれていること・満ち足りていることを感じます。
ようやく、その感覚を文字にすることが可能になったような氣がします。

恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

ありがとうの先に自動的に自分の道が拓ける

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なんやらここ数日、どこからともなく流れてくる負の力に、心の中が乱雑に掻き回されているような感覚です。
でも、少々のことなら、そこから離れる方法や大きな影響を受けない「術」を身につけましたのでもう大丈夫です。

そして、受けた負のエネルギーの対極=対(つい:反対側)にあるのだろうな、と感じるお言葉などもいただきつつ、過ごしています。
なるほど、常に正・負は天秤ばかりのように必ずバランスするものだと頷きます。
この地では、片方だけのエネルギーでは存在し得ず、必ず対になることを。
ありがたいお声をかけていただき感謝しております。


世の中の、いわゆるニュース系の情報からは完全に隔離したと言っても過言ではない状況を作り意図的に離れましたので、世間では、何がどうなっているのか。
もう、ほぼ浦島太郎状態に等しいかもしれません。
これこそ、わたしが過去から取り組んできた「人体実験」。
自分でやってみる。その結果を得て「感じてみる」。

そしていま、ようやく到達した地点。
それは、感謝の氣持ちを忘れない限り、自分の道は自動的に切り拓かれること。
方向を定めることさえも含め、その先に「勝手に道が描かれてゆきます」。
はい、それはまさにRPG(特に詳しいわけでも親しんでいるわけでもないのですが)のような、と例えられるそのものだと。
ええ、この地は「うまくゆかない現実ゲーム」だったことを実感しています。

何度も繰り返し綴っていますが、
無理にワクワクなんてしなくていいですし、ポジティブで居なくてはならない、などと必死に考える必要もありません。
まして、
支配者が作り上げた貨幣経済の枠組み、自身の感覚が麻痺してしまったことで、いつまでもそこに「居残りを続け」コンフォートゾーンから出ることを自ら拒み、豊かさをお金に換算することでしか「幸せ」を感じられない姿勢。そしてお金に祈り、お金に感謝を捧げる姿勢。

万物に分け隔てなく感謝すること。
それはとても大切ではありましょう。
でも、その支配ための道具であったお金に感謝を捧げ、それを増やすことでしか幸福を得られないと考えるのは、わたしにとってはまったく違う道だと感じます。
いえ、それは極めて強く異なる道だ、と勘が指し示しています。


ありがとう。食べ物としていただく命に。
ありがとう。お借りしてさまざまな勉強をさせていただいているこの体に。
ありがとう。貴重なご縁を繋いでいただける皆様に。

そのように心の中に描き続けるだけで、方向が勝手にバシッと決まるのです。
そのような心を忘れない限り、自動的に道が創られてゆきます。
こういうことなのだと、人体実験の結果が出ています。
「自分の道は自分で創り出す」その本当の意味を、です。

何も望む必要などなく、何も求めることもなく。
ただ、恵まれていること・満ち足りていることを感じます。
ようやく、その感覚を文字にすることが可能になったような氣がします。

恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

自分で自分自身を創り出す

苔に覆われた樹皮 photo 宮本章光

自分で自分自身を創り出す。
そう聞くと、
な〜にを当たり前のことを。
と、このようなレスポンスを返される風景が目に浮かびます。
あるいは、もう耳にタコが数えきれないほど出来たのかもしれません。


待ち続けても、何も起きないでしょう。
探し求めても、何も見つからないでしょう。
わたし自身も含めて、まだ心の奥底には完全に捨てきれない「クセという名の過去の垢」が頑固な汚れとしてこびりついているようです。

それなのに、webを漁る。
webを通して手に入る情報など知れていますでしょう。最大限に譲ったとしても、海外の懇意にしている人からの話でしょうか。

自分で創り出す。
自分が望む世界は自分で創る。
その心の最深部から沸き立つエネルギーが、その振幅を拡大し、池に投げ入れられた小石が生み出す波紋のように、四方八方へ広がってゆきます。

いま、目の前に広がる風景、身の回りの現象は、過去のわたしたちが生み出した結晶。それが良いと感じるものでも、よくないと感じるものであっても。
それならば、これから先に「望むモノ・コト」を生み出したいと思いませんか。
だからこそ、これから先に「望む姿」を創り出したいと考えるはずです。


どうでもよいこと。右か左か、上か下か。味方か敵か。
そんな発想自体が、もうどうでもよくなりました。それが学びなのだと、そこまで理解が到達したはずです。

自分で創り上げましょう。
過去にしがみつかないで。
過去の勲章など、これからは誰も見向きもしないでしょう。
すでに感じているはずです。だ〜れも人の勲章など氣にもかけていませんから。

自分で自分自身、わたしたち自身そのものを創り上げましょう。
過去はキレイさっぱり流し去って。
ガンコな汚れ、いますぐに。

この言葉の意味が十分に通じる方々と、この場でのご縁が繋がっているものと感じています。昨日の記事を借りるなら「みんな、ひとりじゃない。」のですから。
ええ、とても楽しみです。これからともに創り上げること自体を楽しみながら。

恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

みんな、ひとりじゃない。

飯舘村飯樋の丘を臨む photo 宮本章光

小高い丘に、ぽつんと孤高の木。
こういった切り取り方をすると、その一本の存在だけに意識が集中します。
しかし、
実際には、この左側にも、もっと向こう側にも。
意識を外れたところに仲間が数多く存在しています。


わたしたちの本来の存在は、意識・魂としてのエネルギー体。
だからこそ、心に描くものが現実となるのだと。
もう語り尽くされてきました。
そして、
この2023年の声を聞いてからは、そうしたワードに接する機会が飛躍的に増加してきました。
同じ周波数はシンクロする、という原理原則に則って。

本当は違うんだけれど、人と同じ意見に合わせなくてはならない。
本心では違和感があるんだけれど、人と同じ行動をしなくてはならない。
そんな時代は過ぎ去りました。

自分で感じるもの、自分の直感に響くもの。
それを突き詰めて行けば、必ず、自分の望む世界・風景が目の前を満たして行きます。それが同じ周波数というエネルギーの具現化でしょう。

自分だけ、感じ方が人と違うのでは?
自分だけ、勘に響く感覚が違うんだけれど?
もう大丈夫ですね。

同じ周波数の人たちが、同じ考え方を持つ人たちが、集まりはじめました。
それは思いもよらぬところで、シンクロするという形によって。
そして、この場のようなwebを介した形態においても。


同じエネルギーを携え、同じ方向に進みましょう。
大丈夫。
みんな、ひとりじゃない。

恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

口にするもの(言葉・食べ物)に注意しなさい

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おばあちゃんの知恵袋シリーズ。
このところ意識から外れていたのですが、ふとした拍子に思い出したものがありますのでここに記します。

この場でも何度か触れてきましたが、大正生まれの祖母が50年以上も前に幼少のわたしに語った多くの言葉。
その中の一つから。


「口にすることに注意しなさい」
祖母が語ったのは、その瞬間には「言葉に対して」でした。

わたしの4歳年下の妹(一昨年2021年に、生まれ故郷の星に帰りました。)と、当時なんだかんだと言い合いをするのは日常茶飯事の風景でした。
小学生と就学前の子供の会話なので、取るに足りないことです。

この様子を横で見ていた祖母は、
「人のことを言わずに自分がどうしたいのかよく考えなさい」と。
そう、妹や兄が何をどう言おうと、自分は何を考え、何をしたいのか。
しっかりと自分の考えを持ちなさい、との意味だったとその時には理解したのでした。
ところが、その後すぐに続けて、
「口にする言葉には神様が宿る」(正確な言い回しはもう忘れてしまいましたが)
だから、汚い言葉や軽蔑するような内容の言葉を口にしないこと。と。

人のことを、とやかく言う以前に、言葉そのものに対して「言葉には言霊が宿るんだよ」だからもっともっと大切にしなさいよ。ということをわかりやすく教えてくれていたのでした。
よろしくない方向のエネルギーを言葉に込めると、それが作用するんだから氣をつけなさい。との指導だったのです。
この後にも、
そうやって言葉として放ったエネルギーは、形と時間を変えて自分に返ってくる。といったような、今でこそ十分に理解が可能な内容の発言もあったように記憶しています。
(機会があれば、これらもアーカイブしてゆきたいと思います。)

これが、「口にする言葉に氣をつける」という、とても大切な教えでした。
もう一つ。
「口にするものに氣をつける」は、食べ物に対しての内容についても、何度も何度も教えてくれていました。


口にするもの。
それは「発する言葉」だけではなく「自分の体に取り入れる食べ物」についても、しっかりと意識をしなさい。との教えでした。

上記記事のように、いわゆるTVCMで流れるような食品は避けるべきだよ。ということを伝えてくれました。
その理由は、こうした公の場では詳細には書き記すことが難しいので、上記記事内容から汲み取っていただけますと幸いです。

近年、このように「口にするもの」が、いったい何もので作られているのか。そしてそれを摂取することにより何が体内で起きているのか。
ここに関心をお持ちになる方が一氣に増えた感覚があります。
それだけ、個々人の意識が高まった証でしょう。

それなのに、
いまだに、ジャンクフード(それは、ファーストフードやコンビニ系も含まれるように思います)を、食べ続け、それをSNSで流している人たちを見ていますと、とても残念な感覚になるとともに、早く氣がつくといいね!早く変わるといいね!
と、心から波動を送るようにしています。

重ねて、
食べ物として命を捧げていただいている生き物に対しても感謝の氣持ちを忘れないように。
こうした、とても重要なことについても、しっかりと教えてくれたのでした。


わたしのおばあちゃんが50年以上も前に伝えてくれていたこと。
多くの人たちに届きますように。

あらゆるモノ・コト、そして仲間としての生命に。
感謝を伝える。それがこれからの生きる道だと確信しています。

何も望む必要などなく、何も求めることもなく。
ただ、恵まれていること・満ち足りていることに感謝を伝えます。
ようやく、その感覚を文字にすることが可能になったような氣がします。

(もし存命であれば100歳超えの)祖母にも、目に見えない世界へ心から御礼を伝えたく思います。
本当にありがとう。

自分で創り出します

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自分で創り出します。
自分の道を。

幸せをつかもう、などと思わなくていいはずです。
幸せを引き寄せよう、なんて必死にポジティブごっこしなくて良いはずです。
幸せとは、モノではなく、そう感じる心が創り出す「そのように感じる感覚」のことでしょう。
自分が望む近未来は、自分の意識で創り出したいものです。

そして、その前に、
いまここに生かせていただき、学ばせていただけることに感謝を。
大切な体をお借りして、体験を積ませていただけるのですから。

自分の道は、自分の心が描くエネルギーによって創り出します。
それが、永らく隠されスポイルされてきた、この地の本当の仕組みだったのですから。


あらゆるモノ・コト、そして仲間としての生命に。
感謝を伝える。それがこれからの生きる道だと確信しています。

何も望む必要などなく、何も求めることもなく。
ただ、恵まれていること・満ち足りていることに感謝を伝えます。
ようやく、その感覚を文字にすることが可能になったような氣がします。


恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

身の回りの音を消してみませんか

飯舘村村民の森あいの沢 photo 宮本章光

いま、この瞬間に、必要のない音が大量に溢れている。
いま、聞く必要がない音・音楽が大量に流れている。

音楽、そしてその記録制作に携わる人間として感じること。
それは、どれだけ有名な音楽であっても、どれだけ心に響く音楽であっても、それを必要としていない人に・必要がないタイミングで鳴らし続けるのは単なるノイズにしかならないだろうと感じることです。

確かに、音楽は鑑賞スタイル以外にBGMとして有用な事例は数多く、心が休まる音楽・音。そうした存在があるのは、とてもありがたいことに違いありません。
でも、
BGMありきになってしまっているように感じるのです。
音は、そして音楽は「ここで流れていて当たり前」。
鳴っていない状況という選択肢そのものが存在していない。
そんな世の中になってしまったのではないでしょうか。
そういった感覚自体「音や音楽に対する感覚が麻痺」した状態かもしれません。

音楽を・音を消してみる。
そして、部屋に鳴り響く時計が刻む秒針の音だけに耳を傾けてみる。
あるいは、
自然の中に響く、植物や多くの生き物の語りに意識を合わせてみます。

そんなもの聞こえるわけがない!と仰いますか?
実際に森の中に入り、そのように「意識をして能動的に行動」したでしょうか。
いや、何度も森に行ったことがあるし、その時に特に氣になる音などしなかった!
そんな声が聞こえてきます。
では、
次の自由になる時間にお出かけになってみてはいかがでしょう。

そこには、「こんなにも多くの音」が響き渡り、「こんなにも生命感を感じる音」に満ちていたんだ!と、驚くはずです。


氣のせい。という言葉が誤認識されてきたのと似ているかもしれません。
それは思い込みにすぎない、取るに足りないことだ。と刷り込まれてきました。
これこそが支配者による洗脳であったこと。
氣のせい、とは、氣というエネルギーが目に見えないレイヤーで影響を与え「そのエネルギーが作用していますよ」と、感じている状況を示していたはずです。

わたしたちは、
「当たり前」という言葉で語られるすべての事項に対して、「当たり前ではない」事象を考え・その状況を意識することさえもできなくなってしまったようです。

音や音楽が満ち溢れている生活。
それは、当たり前であって、併せてとても恵まれた環境には違いありません。
でも、それが「ノイズ」になってしまい、極めて重要な心のセンサーを台無しにしている可能性について、いま一度考えてみてたいと思うのです。

恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

大自然と生き大自然に返る

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炭素ベースの有機物。
この地に存在する、すべてと言ってよいほどの多くの生命は、その寿命を全うしたあと、土に(大地・海、地球へ)返ります。
大自然は、炭素ベースの体を維持する時間を共に過ごし、いずれそれを土として受け入れます。

すべての生命の根源であるエネルギー体の存在は、こうした体という媒体を「お借りして」その生存期間に体験を積み、学びます。

わたしたちは、
その生存期間に何を体験したでしょう。
その生存期間に何を学んだでしょう。


塾に通って、いい学校を卒業し、大きな会社に勤めて、貨幣資産をより多く築き上げる。
webの世界で、より知名度を上げ、さらに多くのフォロワーを集めステイタスを誇る。
数を追い、数にこだわり、数こそがすべてという考え方を握りしめ、それを成功の証とする。

それが目的だ、と仰る方があってもよいはずです。
自己顕示欲と自己承認欲求を追求するのも一つの道でしょう。
人それぞれです。
他方、
どれだけの感動体験、感激経験を積み、どれだけ多くの感謝の心を重ねてきたでしょうか。


いま、ひとつだけはっきりしていること。
それは、
もう、今後この地・この地球では、従来のような物質的豊かさとされる世は消滅する、そしてそれは確定している。と語られていることです。
自らが心に描くエネルギーが具現化することも、量子論の世界で証明され実証されていることを知るならば、旧来のエネルギーにしがみつく限り、自らの近未来は「消滅」することが確定する、ということになります。



大自然とともに生きることができ、大自然に「借りた体をお返しする」までに、その貴重な体験をさせていただけたことに、ひたすら感謝の氣持ちが溢れるばかりです。

あらゆるモノ・コト、そして仲間としての生命に。
感謝を伝える。それがこれからの生きる道だと確信しています。

何も望む必要などなく、何も求めることもなく。
ただ、恵まれていること・満ち足りていることに感謝を伝えます。

恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

それを共存と呼べるのか判らないけれど

名古屋駅前で出会う樹々 photo 宮本章光

大都会のど真ん中でも、植物の姿を目にすることができます。
それは、人工的に作られた植え込みであっても、その樹々は立派に生命を育んでいます。
ただ、
汚れた空気に触れ、よくない氣が満ちている環境で苦しんでいるかもしれません。

こうした仲間である樹々たちに意識を巡らせてみます。
最も辛いのは、根の周りをコンクリートやアスファルトで固めることでしょうか。そして、季節を問わず、イルミネーションの電飾で締め付けられ、その電流が起電する磁界により生命の波動を狂わされるリスクに晒されているのかもしれません。

都市部においても、植樹により自然環境を維持し拡大する。
とても大切なことだと思われます。ですが、本来そこに根付いていなかった樹々を、大都市圏の中心部に運び植え込むことが正しい道なのかどうか。もう一度、考えてみてもよいかもしれません。

彼ら、植物たちは、それでも、嫌な顔ひとつせず季節ごとに新芽を吹き花を咲かせ、わたしたちにその姿を披露してくれます。
都市計画に反対するわけではありませんので、そこで共存の意識を大切にするならば、せめてその美しい姿を維持している間に、感謝の氣持ちを心の中から伝えたいと思うのです。


この世、すべての生き物へ、感謝の心で接すること。
この世、すべてのモノにも固有の周波数による波動を保持するエネルギーがある限り、感謝の心を忘れたくないものだと。

あらゆるモノ・コト、そして仲間としての生命に。感謝を伝える。
それがこれからの生きる道だと確信しています。
何も望む必要などなく、何も求めることもなく。
ただ、恵まれていること・満ち足りていることに感謝を伝えます。
ようやく、その感覚を文字にすることが可能になったような氣がします。
ありがとうございます。

恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

頭脳思考と心のバランスを取る

葉の上で輝く水滴 photo 宮本章光

業務サイクルの思考に意識が切り替わって、植物をはじめとする自然環境から離れていることを感じています。

現在、
「業務思考や頭脳・聴覚/視覚を使う物理的感覚に関してはキレがある」
他方、
「心の満足度のような部分のエネルギーには枯渇感がある」
こうした感覚があります。

この片方だけに偏った状況を、ともに満足できる状況にまで、うまくバランスしてゆくことで、アウトプットの完成度が高まって行くと考えています。昨日の記事のように、両者のウエイトを調整する感覚が、最終納品物のクオリティを決める。そんな感覚でしょうか。(個人的感覚)


もちろん人それぞれ。如何なる環境においてもフルパワーを注いだアウトプットが可能な方もあるでしょう。わたしの場合は、このバランスが上手く取れないと結果がバラつく。そんな自覚があります。

雨上がりの水滴からエネルギーを感じてみます。
感じようとしなければ感じられない。
でも、確実にそれを受け取ることが可能でしょう。

この「水という極めて稀だ」とされる存在、そして数限りない多くの植物に、いとも簡単に触れることができるこの国、この地球。
ここに心の周波数が合致した瞬間に、エネルギーを受け取る感覚。
これこそが、感謝の氣持ちなのだと。
何も望む必要などなく、何も求めることもなく。
ただ、恵まれていること・満ち足りていることを感じます。

ようやく、その感覚を文字にすることが可能になったような氣がします。

恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

体を使わせていただいて学ぶもの

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今日は昨日とは異なり、ザルで流水を掬うかのような感覚は消滅しました。
代わって、会話をする向こう側の人が発する「色」のようなものを感じた日でした。
明るい色、あるいは別の人からは、どちらかと言えば重い感覚の色。
それは、色彩感としてのオレンジだとかグレイだとか、そういったイメージではなく、漠然とした何らかの印象として。

そして、ハッと氣がついたことがあります。
「色のようなもの」を感じるのですが、それは上記のような「色ではなく印象」にしか過ぎないもの。
あぁ、まさにこれが人の発するエネルギーなんだな。と。

重ねて理解が進みます。
色は「この世この地で、特定エネルギーの周波数帯域を可視光線として認識」しているという既知の事項。
他方、
「色のように感じるけれども色ではなく=感覚としてイメージする」ものは、可視光線帯域ではないエネルギー(これこそがオーラ?)を捉えたものではないだろうかと。

わたしたち人間が、この「お借りしている体」を使って体験しているもの。
その一つが、この物質次元に存在する「色」の認識なのではないかな、と極めてストレートに伝わってきます。
これをさらに拡大してゆきますと、まさに「体を借りているからこそ体験できる」ものばかりであると氣がつきます。

--可視光線帯域の振動として「色」を認識します。
--可聴帯域の振動として「音」を認識します。
もっともっと広げてゆきます。
--熱い・冷たい、という触覚。
--口にする食べ物から感じる味覚。
--美しい植物から香る嗅覚。

こうして、五感とされる感覚を通して、体験を積んでいるのだなと理解できます。
これらを土台として、複合的な体験が無限に存在していることが判ります。

皮膚が細胞組織を保てる範囲を超えた温度の物質に触れると「やけど」します。
この例をはじめとして、体が備える組織の限界を超えることによる「損傷」を学びます。
この次には、その生体維持の条件を超えたところで発生する「病」を体験してゆきます。

ここまで来て、さらに氣がつくこと。
これこそ、まさに幼少期の子供時代から成長を重ね、人生経験を積むことそのものだったことに。

そして、それは、体験をし学ぶ必要があったからこそ「目の前に出現しているのだと」いうこの世の仕組みに理解が至ります。いま、ここまで到達して、その具現化は「自分の意識・心の振動周波数」によって変化を生じ、因果の法則と絡み合って現実となる事実(自分の意識が自分の現実を創る)に、ようやく手が届いたのではないでしょうか。


素晴らしい仕組みだと、驚嘆することしかり。
素晴らしい仕組みを体験させていただけることに、感謝するばかりです。
卒業式は、もう目の前だと語られているその深い意味。
平伏して頭を下げ、礼を心から捧げざるを得ない素晴らしい現実に。
言葉がありません。

この借り物の体を使って学ばせていただけること。
体を使わせていただくからこそ、学べるもの。
だからこそ、
「口にする(食べ物)には十分すぎるほどに意識をし」、
「口にする(言葉)にも十分すぎることなどない配慮」が必要なことに。

そして、
すでに、満ち足りていることに理解が及びます。

恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

種を蒔くから芽が出てきます

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本日もお越しくださいましてありがとうございます。
エネルギーが漏れ出ているか、どこかに吸い取られているか。
今日は、かなり枯渇氣味です。
サラッと流していただければ。

よく語られる論議の例えです。
「種を蒔いたからと言って必ずしも芽が出るとは限らない。」

こうして、否定から入る事例。
昔、企業に在籍していた時には、嫌と言うほどその手の波動に晒されました。
人の話を頭ごなしに否定する。代替え案は存在しない。
そんな世界を、昭和から平成にかけての時代に体験しました。
結局、腸に穴が開きその世界から脱出できたので結果オーライでしたけれど。


いま考えてみたいのは、
「でも、種は蒔かなければ絶対に芽は出ない。」という事実です。
はて?では、種を蒔くにはどうすれば良いのか。
これこそが、心に力強さと明るさとをチャージすべく、これまで実地に体験してきた事例を基に、この場に言葉として綴ることだと感じています。

「種を蒔いたからと言って必ずしも芽が出るとは限らない。」
でも、
「でも、種は蒔かなければ絶対に芽は出ない。」
といったような、うまく言葉が降りてくるタイミングがあります。

これからも、こうした形でアーカイブを進めてまいります。
ともに同じ波長を感じていただける方々への感謝の心を込めまして。

恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝しています。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

自分で望む風景・世界を創り上げる

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もう耳タコでしょうか。
自分で自分の望む風景を創り上げる。
あるいは、漠然とし過ぎており、実感が伴わないかもしれません。

望む風景。「新緑の季節の息吹を感じる風景を!」とイメージしてみます。
ところが、現在、2023年2月。
春の兆しを感じるものの、まだまだ周囲の樹々は葉を落とした冬の出立ちを披露してくれるだけでしょう。
新緑はおろか、新芽さえもまだ硬い蕾のままだと思われます。

ここに「過去画」として、その時期に近い画像データを持ってきて貼り付けます。
すると、ここに若葉を目にすることができます。


ちょっと難しい展開になりそうなので、結論を急ぎます。
青々とした樹々のイメージが欲しい。
それなら、その季節の(画像)データを持ってきて見れば良い。
この単純明快な展開を、心の中でやってみます。心の中で描くのです。

わたしたちの存在そのものはエネルギー体だとされていますから、ここで心に描くものは「必ず何らかのエネルギーとして生まれ、必ずそのエネルギーが作用する。」ということになりましょうか。
これほどまでに明快な「原因と結果」という仕組みがありながら、それを「思い過ごし」だと刷り込み、目に見える物質社会だけに囚われるように仕向けられてきた歴史を知ったなら、これからは「目に見えない底知れぬ潜在能力」を使いこなしたいと思うのです。

原因=「因」があるから、結果=「果」が齎される。
力を生み出したから、その作用が現れる。
因果応報。因果の法則。

何やら怪しい世界か?などという感覚を持ったのなら、まだまだ洗脳から解けていない証拠でしょう。
ここには、目に見えるかどうかは関係がないことが判ります。
もっともっと、心で感じるもの・コトに敏感にならねば、これからの世は立ち行かなくなること、もう数々の現象が現れ、そしてそれが証明されているのですから。


今日のタイトルに掲げようとして取りやめたセンテンスがあります。
「どうしていつまでも苦しむのか?」
はい。
「原因があるから結果が生まれる。」
「原因を自分が作り出しているから結果が自分にもたらされる。」
それは、
自分自身でそのエネルギーを抱き続けているから、それが現実になっている。
そして、
今生・今世という括りを超越し、前世以前の「原因」が「結果」となっている「因果の法則」が作用している事例もあるかもしれません。
過去因果を解消するために、この期でもって、それを行っているとも。


わたしは、
【おばあちゃんの知恵袋】[LINK]
での主役、大正生まれの祖母が語った「前世で悪いことをしたから今世では苦しいこともある」という言葉が、まさにその通りであると実感することが多いのです。

これ以上、書き綴る必要はないでしょう。
自分が生み出したから、回り回って自分に返ってくる。
自分が心に描いたから、回り回ってそれが目の前に現実となる。

だからこそ、
何を心に描くのか。
何を思い抱くのか。
ここが極めて重要ですよ。と語られていることを再認識したいのです。
但し、
プラスとマイナスの力は、等しくバランスする「この地」です。
「ポジティブごっご遊び」の無限ループに留まり続け、負の力を「見て見ぬふり」して押さえ込んでいる限り、いずれプラスと同じだけ「成長」し、ある日突然にコントロール不能・爆発しますので、誤った道を歩まれませんよう。
釈迦に説法で失礼申します。(自分がこのワナに陥ったので自戒を込めて。)

恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝しています。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

考えるのを止めてみると蘇る感覚

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考えるのをやめる?
そんなことできるわけがない?

いかがでしょうか。


--この花の名前は何ですか?
--背景が「首切り」なので、もっと考えたほうが良かったよね?
--曇り空の様子なので、他の時間帯で撮ったほうがいいと思うよ。

コミュニケーションをスムーズにするために、
まず、こうした「言葉」を思考の中から捻り出してくるのではないでしょうか。
ええ、見ず知らずの方とwebを通して会話するのですから、当たり障りのない最も汎用的なワードを用いて、万人の共有事項であろうと思われる内容を取っ掛かりにするのは正しいに違いありません。

いま、それが正しいか正しくないか。
そういった観点で見ずに、その思考自体から離れてみます。
「考えるのをやめて」みます。


花の名前なんて所詮人間が勝手に付けたもの。
構図なんて、別にどのように撮ろうが、その時々の自由でしょう。
いま、この瞬間に「必要ではない思考」。もっと言えば「どうでもよい思考」に意識のパワーを配らない。
そんなところに「思考を回す」のをやめてみるのです。

この植物としての生命が持つエネルギーを感じてみます。
寒空の下、茎をこれだけの高さまで伸ばし、精一杯の花を咲かせています。
強い風に折れることなく、芯の通った強さを備えていることが、そこから見て取れます。
葉の表面にある粒状のものにも意味があると思われます。

こうした形態を創り上げるには、どれだけのパワーが必要だったでしょう?
この色彩感、花の中心部に表現されたイエローの彩りを実現するために、どうやってその色素を創り出したのでしょう?土の中には黄色いものは含まれていないはず。

こういったところを「考えずに感じてみる」のです。
こういった「生命としてのエネルギーを感じてみる」のです。


素晴らしい力がそこから伝わってくるはずです。
ともに生きる生命としての「存在意義のような力」を持っていることを感じてみるのです。
自分の体の一部に「黄色い色を染め上げる」ことさえ、わたしたち人間はできないのであり、この生命体が創り上げる深淵なる世界を垣間見る瞬間だと思います。

感じてみる。
それは、エネルギーの根源としての波動に周波数を合わせ、そこにシンクロする瞬間に感じることが可能になる、その「合一感覚・しっくり感」を体験すること。


物質社会に傾倒し過ぎ、思考回路が極端に「偏り過ぎた」わたしたちの意識。
いま、
この極端に偏ってしまったエネルギーの不均衡を拠り戻す必要があるはずです。
過去文明の栄枯盛衰を知るまでもなく、心の奥底から「このままでは崩壊する」というアラートが鳴り響いていることさえも感じられなくなったわたしたちの心。

喫緊の重要項目、心の振り子を反対側へ揺り戻してください。
そのためには、
勘を磨き、直感のセンサーを取り戻さねばなりません。
まずは「考えるのをやめ感じる」ところから。
その下地を作るためには、「口にする(食べる)もの」を変えるところから。


恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝しています。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

足るを知り、足るを知る。

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「足るを知る」
目にする機会が多くなりました。
そのように感じ、そのように実体験を重ねる方々が一氣に増えたのでしょう。

いま、ここにすでに満ち足りています。
いま、ここですべて恵まれています。
そして、
何も抗うことなく、平穏に平静に、心安く過ごすことができること。
足るを知り、言葉で語り尽くせない感謝を申し述べるばかりです。

どうして、混乱を目的とした「情報という名」の泥沼に足を突っ込む必要がありましょうか。
どうして、かき乱すことを目的とした「真実という名」の蜘蛛の巣に自ら囚われる必要がありましょうか。

どれもこれも、自己承認欲求を満たすためだけかもしれません。
どこもこれも、認めて欲しいという未熟な欲望に走っているだけかもしれません。


日本語には、本当に見事に語る言葉が数多くあります。
「浮世」から離れてみます。
「憂き世」から意識を外してみます。
すると、見事に完全な平衡状態に到達することが判るはずです。

苦しみさえも、自分が創り出していたことを知ります。
それが、学びのために必要であったからだと理解が及びます。

今も尚、それが続くのは、
自分にとって「まだ学びが必要であり学び足りない」との啓示であるかもしれず、未熟さを認識せよ、との教えが届いていると知ります。
あるいは、
過去の成功体験を握りしめたまま、その勲章が捨てられない未熟さを露呈しているだけであり、その周波数が合致しているための具現化かもしれません。


足るを知る。
いま、もうすでに足りていることを知ります。

何も求める必要はなく、何も引き寄せる必要などありません。
そこには、湧き上がる感謝の心しか存在しません。
ありがとうございます。

恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝しています。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

「あるがまま」に向き合う

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向き合う。すべてにあるがまま向き合います。
すべては自らが描き上げたシナリオ。
過酷であればあるほど、そこで磨き上げられる魂の成長度合いは大きく高くなる、とされます。

学ぶために、自分で手を上げ希望してやってきた「この地の学校」です。
しかし、いつまでも勘違いをしてしまいます。

「苦しんでこそ幸福を掴める。」
「苦しまなければ成長が叶わない。」
だから、
「いつまでも苦労し続けなければならない。」と美談にしてしまう。

確かに、学ぶためのプロセスとしては必要だったに違いありません。
しかしこれは、その成長過程においてのみ必要だったのではないでょうか。
負荷をかけて筋力を上げ鍛えるトレーニングのように、その時・その過程では負荷が必要でした。
でも、
学び終えたなら、もう離れれば良い。
学び終えたなら、もう無理矢理に苦労を買い、苦しみ続ける必要はないのです。
筋力と心の成長とで異なる点は、
一度、学びを得たならば、それを糧として生涯忘れないと思われることです。
放置していると筋肉がダブついてブヨブヨになるのとは違うのですね。

ここで、さらに勘違いをしてしまいます。
---じゃぁ、いつまでも苦労し続ける必要なんてないんだよね。
---それなのに、どうしていつまでも苦しく辛い現実が続くのか?
この段階で、選択する道を誤るために、無限ループに嵌って抜け出せなくなっているように見えます。
そこに「苦しみを呼び続けている」のは自分自身であることを忘れていませんか。
あるいは「苦しみがまだ経験不足だ」というサインかもしれないという状況を認めているでしょうか。

偶然は存在せず、すべてが必然であるとされます。
自ら「そのエネルギーにシンクロするように誘導している。」
自ら「その結果になるように導き寄せている。」
だから、そうした結果になることを。
エネルギーが同じ周波数であれば合致してしまうのです、必ず。
まさに物理現象、それこそ科学的に証明されている現象でしょう。


常に反対をやってしまうのです。
学び終えた後にも関わらず、いつまでも苦労しなければならない。と美談を語る。
そのエネルギーを握りしめたままなので、永遠のループを繰り返します。
あるいは反対に、
まだまだ学び足りないから、さらに勉強しなさいよ、と、目の前の現実として具現化しているのに、どうしてこうなるんだ!と否定し続ける。
自ら否定のエネルギーを抱き続けるから、そのネガループから抜けられない。

常に反対。いつも反対をやっているように見えます。
自分が事前に描いて携えてきた脚本に基づいて今世を体験している、その「あるがまま」に、もっともっと正直に向き合ってみたいと思うのです。


あるがままに任せると、何もかもがスムーズに流れはじめます。
実体験し、それを証明する人たちが急増しはじめました。
いつまで、流れに反対し、流れに争う行動を続けますか。

恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝しています。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

本当の意味での心の「使いこなし」を

飯舘で出会う里山の雪風景 photo 宮本章光

人々の心に疲れが見えはじめた印象。
「なんとなく」そうした感覚が伝わってくることが増えました。
いえ、
それは、昨日の記事のように「自分がそうした意識状態にある」から、タイムラグを伴って感じはじめたのだと。
そう理解しています。



疲れたら休む。
単にそれだけのことが許されなかった。人生のど真ん中をそんな時代に生きてきました。
そして限界を超え病床に伏し、あろうことか、それを勲章にしてきました。
勤勉こそが美徳。苦しみもあるから楽しみが生まれる。だから歯を食いしばって頑張ろう。と。

そんなエネルギーから離れてみませんか。
但し、離れるだけ。
捨て去らなくて良いのですね。せっかくの学びでしたので。
そこで糧として得たものを、
そこで糧として学んだエネルギーを、
別の形で・別の機会に・別の人へ、心地よさや暖かい心というエネルギーに置き換えて、心の底から送ってゆきたいと思うのです。
片側に大きく振れた振り子を揺り戻すことで、絶対値としてバランスするものを生み出せるはずです。

わたしたちの本来の姿は、この肉体ではなく、心の存在そのものだとされます。
体は「学びのためにお借りしているもの」であり、使わせていただきありがとうございます。と感謝の心で労ったあとは、より大きく、より広く、より多くの方々へ届きますようにと、その対(つい)になるエネルギーを心に描きます。

この心地よく、暖かい感覚を抱くだけで、それが目には見えなくとも「なんとなく伝わる」波動を生み出すはずです。
これこそが、これから先に必要とされる「心の使いこなし」「本当の心の操縦術」ではないかと思っています。

自分の欲しい「モノ」を手に入れよう。
自分が欲しい「モノ」を引き寄せよう。
それは、とても大切なことだと思います。
でも、
力んで・肩を張って、それを緩和するために息を抜いて…。と、結局は旧い貨幣経済ベースの意識に留まり続け、永遠のスパイラルから抜け出せないのではないでしょうか。

「心の使いこなし」は、同じ意識で共感できる仲間である存在、それは人だけでなく、すべての生命に対して使い、描いてゆきたいものだと感じています。
結局は、そうして抱くものが自分に戻ってくるからです。
(いえ、そのリターンを期待するのが目的ではないので念のため。)

恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝しています。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

「人の顔」が変わってきました

飯舘の冬景色 photo 宮本章光

人の顔が変わる。
それはあくまでも主観的なものではあります。

わたしの事業主軸は「演奏会専門の映像記録制作」なので、演奏会のVideoを撮影し制作物として残します。
多くのアマチュアオーケストラをはじめ、プロの音楽家の先生方の演奏に触れます。これらの演奏会・定期演奏会の場で一定期間ごとに接する皆さまがいらっしぃます。定演を半年ごとに開催されるのならば、半年ごとにお会いする方々がある。という形です。

ここで、半年なり一年なりの時間が経過したのなら、当然「人の顔」は変わってゆきます。当たり前のことで、過去から感じていたことには違いありません。

いま感じています「顔が変わる」とは、
そうした時間の経過による変化ではないように感じられるものです。
ストレートに言葉に置き換えてみますと、
「まるで別人のように見えるほどに大きく違う」とでも言いましょうか。

「この人、こんな顔だった?」
「この人、こんな雰囲気じゃなかったよね?」
そんなケースが、一人二人ではないレベルで、どんどん続出しています。

ええ、顔だけではなく、上記のように時間とともに年輪が刻まれます。
(こちら側=わたしは、どんどん歳を重ねて老けてゆきますので、先方様は大いにお感じになっていることでしょう。)
でも、そうではないように感じるのです。

そして、ようやく答えが出ました。
これは、自分の感じ方のレベルが極端に大きく変化したからだと。


こちら側の「感じ方」が変わるから、違って見える。
それだけのことなのだと思っています。
その「感じ方が大きく変わった」から、より変化が大きく感じる。

な〜んだ、くだらない。と斬って捨てないでください。
ここ、非常に大切なところではないでしょうか。

本当は「何も変わっていない」。
従来の考え方・感じ方から卒業してくださいよ。そして、そこから大切なことを学んでくださいよ。というシグナルなのだと。
極めて重要なところです。
でも、なぜこれが重要なのでしょう?

人は何も変わらない。
ええ、変わらないんですね。
そして、過去からも変わっていなかった。
でも、
自分の感じ方が変わったから。

いま学ぶべきは、自分の感じ方そのものが「すべての目の前の風景を創り出している」というその言葉。
ここで目が覚めるかどうかなのだと思っています。

ええ、ずっとずっと昔から、何も変わっていなかった。
変わったと思っていた「自分の意識」が変わっていただけだったと。
これをさらに拡大し理解を進めます。
この世のマトリックスとされる目の前の風景。まさにこれこそが「自分の意識が創り出していただけだった」と。

そうなのですね。
だから、自分自身の心がこの世とされる現実を創っている。
だから、心に何を描くか。それこそが最重要なのだと。



昨夏の、人生あるがまま、のラジオでお話しさせていただいた、地下鉄車内で向かいに座る人の顔が「みるみる変化していった話」。
自分の感じ方次第で、目の前の風景は変わる事例です。

ようやく透明なフィルターが剥がれて目の前がクリアになってきたようです。
仕組みを知った段階で、学びは終了だといいます。
この貴重な体験をさせていただけたこの仕組み、そしてその体験そのものに感謝を伝えます。
本当にありがとうございます。

吹雪のあとに一氣に晴れ渡った空のように、鮮やかでクリアな氣持ちです。

恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝しています。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

如月を迎えました

めぐろパーシモン前の木々 photo 宮本章光

如月(きさらぎ:2月)に入りました。
この場において、日々ご縁をつないでいただいておりますこと、あらためまして御礼申し上げます。

健康で。
こうして文字や写真をご覧いただいて。
そして、
互いに心が触れ合う瞬間をともにできること。
これほどありがたいことはありません。

この地・この国で、大切なこの国の言葉を通して感じることができます。
さらに多くの「モノ」を手に入れる必要などないこと、あらためて意識する瞬間です。


寒空の下、まだ樹々は硬い蕾のままですが、ご近所の梅は、そろそろ紅い色彩感を表現し始めました。
樹々たちは、これからやってくる新しい舞台に向けて着々と準備を進めていることでしょう。
わたしたちも、望ましい近未来へ向け、望ましい心の環境を整えて参りましょう。

恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝しています。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。
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