アンド・エム宮本陽/宮本章光ブログヘッダーイメージ

宮本章光/宮本陽の視点「開闢」And EM Official Blog

みやもとあきらのしてん AKIRA MIYAMOTO@And EM

Archives [All Entries:2620]

2018 Dog View

2018年ゆく年 photo 宮本章光
Dog's View というのだろうか、ごく低い位置に視点を置いてみる。
立ち位置からでは、あまり意識しなかったものが見えてくる。

落ち葉にも、長い時間が経過したもの、まだ落葉したばかりのものが入り混じる。
植物の種類は数多く、色もさまざま...。
引力に逆らわず地に伏し輪廻の中に組み込まれる。

戌年の締めはDog Viewで、いつもと異なった立ち位置で眺めてみる。

写真を使い捨てにした10年からの回帰

迎春準備の寄せ植え photo 宮本章光
光と影があるから印象的な結果が得られる。
だが、
明暗差が大きすぎる場合には、飛び・ツブれる、といったように、データ両端の記録ができないケースが出てくる。
少しでも広い範囲を収めるために、スマホのHDRモード(多重露光と合成)のような仕組みを利用し、狭い範囲に大きな明暗差を同居させる。
そして、ガンマやニースロープの調整による、肉眼で見た「記憶階調・希望階調(造語)」に近づけるべく望ましいと思われる明暗差の分布を創り出す。

来たる新たな年には、自分にしか作り出せない、とっておきの一枚を大切にする潮流が復活してほしいと願う。

明暗差を最大限に

ハイライトとシャドウの対比を意識 photo 宮本章光
明暗差を最大限に広げることで、迫ってくる力や押し出し感を高めることができる。

シャドウを持ち上げることばかりを意識してしまうと「黒浮き」に悩まされる。
ハイライトをどこに持ってくるか、といった部分にも注意を払うことで完成度がグッと高まる。

結局のところ、照明の作り込みやレフで調整をしているのと同じように、自然の中にある被写体にも明暗差のコントロールを施すところに、作品づくりの面白さと楽しさが隠されている。

階調破壊系フィルターで横道に逸れてしまった「失われた10年」。
長い休符は2018年の区切りとともに終わりを迎え、白い五線譜には新たな音符が刻まれることだろう。

広角系の構図は中央付近で水平垂直を

神戸総合運動公園 photo 宮本章光
広角系の焦点域、それはスマホのデフォルト(1x=24〜29mmあたり)のような画角で、仰角が大きくなる状況では、天に向かって画面の両端が中央に集まる。

なまじ「水平・垂直を意識...」などといった言葉を思い出すと、左右どちらかの端にある被写体を水平や垂直にしてしまう失敗を起こすケースが出てくる。
これでは、極端に傾いた絵になってしまう。
もちろん、そうした表現方法が自分の意図に合致していればそれはそれでOK。

で、いわゆる教科書的な事項ならば、
画面中央付近にある被写体で、その水平垂直を考えてみる。
こうすることで、構図に関する失敗のリスクを幾らかでも減らせるのではないだろうか。

この場合は、照明塔がその基準になっているが、これは構図的には中央に位置しないほうが良かったかもしれない。
アタマを使う...などといった大袈裟な言い方ではなく、このように段階を踏んで思考を巡らせるプロセスを楽しみたいものだと思う。
もう「撮って・フィルター・秒速SNS」を卒業した方も多いはずだから...。

AIと趣味の近未来

隅田川水上クルーズ「龍馬」Photo 宮本章光
階調に目覚めた人が次にハマる泥沼。
ハイライト部とシャドウ部とでは色温度が異なるために、暗部が青白く寒い印象となってしまうこと。
一枚の中に大きな明暗差を閉じ込めた、せっかくの力作なのに「色」の部分に納得が行かない...。

肉眼で見た印象に近づける処理、そのプロセス自体に楽しみが存在しているが、最新モデルのスマホカメラなら「何も考えずにシャッタータップ」だけで、これらすべてを最も望ましい結果となるよう処理した上で記録してしまう。

AIの発達は、不自由を楽しむところに新たな趣味を生み出す可能性を秘めているかもしれない。
面白い時代がやってきそうな予感...。

TOKYO CRUISE SHIP「龍馬」を眺める。

黒が浮いてしまうのは避けたい

「牛ヶ淵の年の瀬」photo 宮本章光
12日間の空白となったので、生きてるかい?メールをいただいた方には失礼いたしました。
おかげさまでスケジュール通りの年の瀬を過ごしています。ご連絡ありがとうございました。

このところの投稿は、HDR系の画像処理の面白さ・楽しさ...といった部分を書いていたのだが、シャドウ部分から中間に至るまでの部分(ヒストグラムの中央から左半分)を、スライダーなどで一気に持ち上げてしまうと「黒が浮いてしまう」現象に遭遇する。

階調を部分的に触ることによって、自然界の風景であるにも関わらず、まるでスタジオ照明を作り込んだかのような明暗差を作り出すことができる。
これこそが「肉眼で見た」感覚に近づける面白さなのだが、黒浮きには十分に注意し、一番下(ヒストグラムの一番左端)が、その風景のどこにあるかを忘れないようにしたい。

年内の出張案件を終了。
牛ヶ淵をながめてみる。冷たい雨。

HDRモードOnで記録した画像を弄り倒すと、階調データ(ビット)深度が少ないゾーンにはバンディングが派手に出てしまうが、これらを自動でやってしまうAIの進化は凄いと言わざるを得ない。

HDR方向への流れは歓迎すべきだと思う

photo 宮本章光
「潰して・飛ばして・色を転ばせ」故意に階調データを破壊することで意表を突く、という手法が一気に終息に向かっている。
まさにパラダイムシフトとでもいうべき状態かと。

階調破壊系フィルターの代表選手だったInstagramにおいても、色カブリ/転び系は残るものの、ハイキー・ローキーに振っていながら階調を残したものが増加しているようにみえる。

こうした流れは、HDR系と呼んでみても良いのでは。と思う。
実際にはHDRではないものの、狭いダイナミックレンジの一枚の絵の中に階調を豊富に残している印象である。
何より、
肉眼で見たイメージのように「飛ばず・潰れず」の状態が再現されていることで、第一印象では情報量が多く押し出し感が強い。
「希望色」とは言うが「希望階調」の言葉も欲しい(2018/04/03記事) [ Link ]にも書いたが、
「仮に、人間の目がもっと狭いダイナミックレンジしか認識できなかったならば、明るいところを見れば眩しすぎて目がくらみ、暗いところを見えれば暗すぎて認識できず何も見えない。となり、通常の照度の中でも生命の危険にさらされる。」

このように、日常生活で目にする印象に近いものは、よりリアリティを持って伝えることができる。
映像の世界ではもう何年も前からこの方向で技術革新が重ねられ、今般の4k/8k商用放送開始に際しては、解像度が上がっただけではなく、こうした階調や再現色空間の拡大なども盛り込まれている。

階調に関し「逆噴射」して失われた10年となった写真の世界では、一気に挽回をして欲しいものである。
階調・階調...と叫び続けてはや10年。ようやくまともな流れに戻ってきた。

仮に、Originalの撮影「撮って出し」状態(以下画像)ならば、
左側の樹木の陰からカラスの糞が降ってきそうであったとしても、それを認識できないし、建物の低層階の窓際から、誰かが銃でこちらを狙っていてもそれを認識することもできない。
だから、肉眼ではHDR風に認識できる=生命の危険というリスクを遠ざける。
脳の認識能力の凄さを思い知る。
(上の写真:HDR風に処理したものと、下の写真:撮って出しに近い絵を比較してみて欲しい。)

photo 宮本章光

今度は階調重視の絵が自動的に手に入るように

HDR機能をOnにしたiPhone撮影 photo 宮本章光
先の記事、
【階調を意のままに仕上げる爽快感を】
【階調を意のままに仕上げる爽快感を:2】
で記載したような、肉眼で見た感覚に近いイメージに階調を残す「撮影時点と併せての一連の処理の楽しさ」を知る人がまだまだ少ないのではないだろうか。

何より、階調を故意に破壊し奇妙な色カブリに加工するフィルター遊びがSNSで氾濫したことにより、階調に対する意識が麻痺してしまっているケース(人たち)に遭遇する機会が多かった。

ところが、流れが変わってくると、今度はスマホカメラが「自動的に階調を残したHDR的な絵」を記録するようになってきた。
極端な例では、Google Pixel 3の夜景モード(Night Sight)に見られるような、極端に明暗差が激しい被写体を、より肉眼のイメージに近づける処理を行い、一枚の絵の中に共存させる。
(ちなみに同機は所有していない。webのサンプルを見る限り。)

こうなると、ベクトルは正反対ではあるものの、SNSの階調破壊系フィルターと同様に「自動的に」結果が手に入るので、またまた同じように今度は「階調が豊富な状態」に麻痺してしまうことが予想される。
なぜ、いつも振り子は両極端に振れるのだろう?
ま、だから振り子なんだろうけれども。

過去、カルチャースクールでお話しをさせていただいていた時代、「一眼レフよりiPhoneのほうが綺麗に撮れる!(当時はiPhone4s時代だったかと)」との声が出たことがある。
さまざまな、望ましい結果を得るための加工・調整まで行って保存されるから、スマホカメラの絵が綺麗に感じるのだ、ということを理解できない人たちが少なくなかった。
そして、
その度合いを自らの手で調整する部分に楽しみがあるのですよ。
立ち食い蕎麦でも、七味や薬味を自分の好みで入れられるようになっているでしょ? 自分らしさを加える部分に楽しみがあるのと同じように、道具を操作して結果を導くプロセスが楽しいのです。
という言葉にも不満そうな表情が溢れていたことを思い出す。

AIはこうした部分から既存の常識を破壊して行く。
だが、本来、楽しみというものは、(例えば今回の階調の例ならば)その再現性をどの程度行うのかを、自分の意思で決めるところに存在していたし、今、これからも残り続けるだろう。

たとえ完全無欠な栄養素と味覚を備えた食べ物が自動的に食卓に並んだとしても、自分の手で料理・調理をする楽しみは無くならないのと同じように...。
84671539
rss_logo

New Entries

Archives / Serch

Categories