挨拶のできる音楽家できない音楽家

12日の音楽祭が終了した。
手作り故の至らない点が多数...。
しかし、実現できたことは大きな評価に値すると考えている。
さて、翌日。
この挨拶状が届いた。
当日出演なさった演奏者のお一人。
礼儀を知り、体現できる素晴らしい方であると感じた。
このイベントの実現に関しては、ボランティアによる実行委員会の形をとり、とにかくまず一歩を踏み出そう。と開催したものである。
私は、事前のロゴデザインやテーマの設定、印刷物デザインやその製造。
そしてウェブサイトの作成・管理、web経由の予約受付。
当日には、会場でのビデオ収録からレコーディングに至るまで、実行委員会代表のS氏にご協力という形で、全てを奉仕として行った。
また、私のお手伝いには、遥々神奈川県から二人の学生さんまでお見えいただいた。
そして、この挨拶状。
苦労も報われるというものである。
他方、その背景を知ってか知らぬか、お高いところにとどまった奏者も...。
もちろん、当日終了後に、私のところまでわざわざ来ていただき丁寧にご挨拶をなさってから会場を後にされる奏者もあり、何の挨拶もない人は限られてはいるのだが...。
「挨拶」
音楽家に限らず、挨拶のできる人、できない人。
出演者は演奏の代価を得ている訳で、これは当然ではある。
しかしそうではない、裏方の存在にすら気づかない、あるいは知って知らぬふり。
受付やお手伝いを努める人たちの中にも、出演者と同じ優れた音楽家もいるのです。
その人たちは、自分は舞台に立たずともこの日は裏方に徹しているのです。
あんたは誰? たかが印刷屋、たかがビデオ屋。お手伝いの受付担当でしょう。
それがどうした?私は高貴な音楽家...。
という潜在意識の現われであると感じた。
どれだけ優れたスキルを持っていても、どれだけ高貴な地位や名誉がある人でも、イベントの裏方の人間に労いの一言がかけられるかどうか。
これこそ、その人の「器」を示している。
2007/08/16(Thu) 11:44:14 | others