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宮本章光/宮本陽の視点「開闢」And EM Official Blog

みやもとあきらのしてん AKIRA MIYAMOTO@And EM

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自分の心は自分で世話をする

ひっそりと美しく photo 宮本章光

当たり前のことができない地球人。

自分から毒を体に入れる。
自分から毒を口にする。
そして、
そのバランスを崩すと、待ってました!とばかりにそれを故意に作り上げた仕組みに世話になる。

2022年7月に、音声配信番組でお話しをさせていただきました。
(アーカイブも公開しています。お聞きになってみてはいかがでしょう?人生あるがまま23回の番組の方で、その終わり近くです。)
【https://and-em.com/RADIO/radio.html】[Link]


50年以上前に、わたしが妹と話した当時の会話を振り返っての言葉。
「食べ物屋さんはどうすればもっと儲かるかな」
「お店(販売)屋さんはどうしたらもっとお客さんが来るかな」
それぞれの答えは、
より魅力的な料理メニューを作る、だとか味に磨きをかける、だとか。あるいは品揃えを流動的に変更する、だとか。

そして、
お医者さんはどうすればもっと儲かるかな?と。
え?それって儲ける仕事?という部分。ここが盲点なのです。
慈善事業ではないわけで、彼らも儲ける必要がある。残念ながらこの地においては。

その答えは「もっと病気になる人が増えること」です。
だから、氣づかないように病気になるようになるように仕組まれてきたのでした。
何を今更。だと思われた方ばかりでしょう。少なくともこの場でご縁をいただいている皆さまにとっては。


いつまでもこの部分に氣がつかない。
いえ、氣づこうとしない。とりも直さず「氣づくことさえできない幼稚な意識レベル」だと自分で示しています。
薬を飲み続け医者にかかり続け、自分が自分を管理できていない、という結果を生んでいることに対し恥ずかしいという感覚さえもない。

しかしながら現在は、そんなレベルをとっくの昔に学び終え、
そのためには口にするものを自ら変えること。そこから体調が激変してゆくプロセスを実体験し学びを得ます。
けれど、
それだけではまだまだ不足であって、口にするもの「ふたつめ」が必須でした。
そのもう一つは「口にする言葉」だと。言霊そのもの。この国の言葉には特別な力が内包されていると語られる通りです。


そしてこの次のフェーズが、少しずつ手探りで見えはじめています。
口にする=言葉になる、その前段階である「思考の段階でその波長に等しいエネルギー」を自ら生み出していること。
この国の先人が使いこなしてきた、想念という感覚そのものです。

言葉になる前の段階で、心に抱く心に描く・意識する目に見えない力。
これを自分の能力として自在にコントロールする時代が目の前まで来ていることが分かります。
だからこそ、余計なノイズに触れないことが大切だと。

その負のエネルギーに意識が合った瞬間に合致してしまうのは物理法則そのものです。
通信エリアに入れば、ネゴシエーション完了の瞬間にアンテナピクトが立ちますでしょう。まったく同じかと。大原則・物理法則。
スマホを振ったら電波を掴みやすい...?だとか、同じく恥ずかしい行動かと。

だから、故意に恐怖を煽り不安や不足に焦点が行くように・合うように、仕向けられてきました。今もなお。
そうすることで、個々人レベルで意識の拡大が実現せず、魂レベル・精神レベルでの成長が故意に停止させられる。
それが支配のため、隷属化のための特定層の目論見だったから。
そこに乗っかって自分を痛めつけるのも自分の選択ではあります。但ししかるべき因果を背負うことは承知の上でです。


幸いなことに、ここまで氣がついた人が激増している様子を感じます。
しかし、です。
そこにフォーカスし続ければ、自分はその負のエネルギー増幅装置に成り下がったままだという、極めて重要なポイントにまでは及ばない。
だから叫び続け、踊り続けてしまう。
この段階を早く卒業したいものです。


騙されるのは騙されるだけの幼稚な魂である証明。
そしてこの次は、ともに享受できる望ましい風景を生み出すことに力を注ぐ。
そのためには、自分の心を自分で世話する必要があります。
それが、自分に責任を持つということではないでしょうか。




穏やかに過ごす・それが役目

静かに穏やかに過ごす photo 宮本章光

静かに。
穏やかに。
平穏な心を維持できれば、平穏な目の前が現実となってゆきます。


いつまでも踊らされない。
いつまでも騙され続けない。

ここまで実践できたなら、
次は、
望ましい風景を描き出す。
望ましい風景を創り出す。


早起きした人が果たす役割は、
この先に必要とされる道を生み出し現実として結実結晶化させることです。

具現化・顕現化には「タイムラグ」があるため、先手先手で仕掛ける必要があります。
足を引っ張って旧いタイムラインに引き留める仕掛けがあるのなら、それにバランスする望ましいタイムラインを創造する仕掛けは、容易いはず。
なぜなら、ともに大きければ大きいほど、エネルギー的にバランスするからです。

これを困難にしてしまうのは、他でもない「人と同じであることが美徳」という洗脳、その強烈な垢をまだ洗い流せず握りしめているから。


恵みの雨とともに洗い流すことです。
浄化の雨とともに一切合切、流し去ることです。
雌雄同体のごとく善と悪・正と負がともに共存するこの地だからこそ。
負の力が大きければ大きいほど、望ましい道を創造する力も大きくなります。

穏やかに過ごします。
それが早起きした者の役目だからです。




ゆく河の流れは絶えずして

ゆく川の流れは絶えずして photo 宮本章光

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。
世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。

たましきの都のうちに、棟を並べ、甍を争へる、高き、卑しき、人の住まひは、世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。あるいは去年焼けて今年作れり。あるいは大家滅びて小家となる。住む人もこれに同じ。所も変はらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二、三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。朝に死に、夕べに生まるるならひ、ただ水のあわにぞ似たりける。

知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来たりて、いづかたへか去る。また知らず、仮の宿り、たがためにか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その、あるじとすみかと、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。あるいは露落ちて花残れり。残るといへども朝日に枯れぬ。あるいは花しぼみて露なほ消えず。消えずといへども夕べを待つことなし。





見て見ぬふりをするのではなくて

御神木へ photo 宮本章光

人工的に作りだされ自在に方向制御される渦を巻く気象状態。
それを「見て見ぬふり」をせよ、というのではないのです。

備えは万全に。
それも必要なアクションでしょう。少なくとも、この地が物理・物質次元である限りは。

ところが、
公共交通機関の計画運休に関する情報を漁り、それをいち早く自分のアカウントでSNSに流す、あるいはコメントや考察をつけてドヤ、と。
そして人の注目を浴びることを目的に、自己顕示欲を満たす。情報は鮮度が命。自分が一番。と悦に入る。
あるいは、
気象衛星画像を漁り、重箱の隅を突いて「これは悪の仕業だ」「こんなに綻び風も吹かんわ」「陰謀論でも何でもなかったやろ」と叫び踊る。
そして人の注意を引き、自己承認欲求を満たす。自分はここまで知り尽くしてるんだぞ。と、同じくSNSで胸を張る。

こうした行動が、負のエネルギーにシンクロし「結果として甚大な被害を生み出す元」を自分が作り、そこに燃料を注ぎ続けているのではありませんか。ということを伝えたく思っています。
先日の記事で例えたところの、自分で自分の指を切り落とすまで「愚を重ね続けて」いることに氣がつかない地球人。


御神木に参ります。雨が降り出す前に。
参道では、何度も「今日参る意図は?」とカラスに訊かれ、しっかり挨拶を忘れずに返答します。
境内では、虹色に輝き目の覚めるような青色の尾を持つトカゲがお出まし。こちらの足元に寄り付きます。
その美しく輝く姿に、美しい姿を見せてくれた感謝の意を捧げ、拝殿に参ります。
宗教は必要ありません。ここを勘違いすることのありませんよう。

森羅万象、すべての存在に感謝を捧げるための媒体。そしてこの地を守り育てていただける存在への御礼をする場所。
御神木の放つエネルギーを浴び、その波長に合わせてゆきます。
そこには、何ら強烈な感覚の力があるわけではなく、ひたすら「静かで心地よい」穏やかな感触の空間があります。

氣とは、アニメのように歯を食いしばってガァー、と投げ飛ばすような緊張感とは異なるはずです。
大変に穏やかで静かです。
何者にも変え難い「静けさ」こそが、暖かく穏やかな風景を創り上げる、そのエネルギーに響き合う感覚なのだと理解しています。

見て見ぬふりをするのではなく、
自分が何を生み出し、何を創り上げることで貢献できるのかを考えます。
それが行動する、ということではないでしょうか。





自分で自分を傷つける行動をやめる

夏を見送るひまわり photo 宮本章光

わたしたちは、自分が心に思い描くエネルギーが顕現化することを「まだ本当には」理解できていないのだろうと感じています。

目が覚めた、とされる人たちが、最も厄介で最も難しい課題を超えなければなりません。
それこそが「思い描くことで顕現化する」事実を認識することではないでしょうか。


--- 自分の右手に持った刃物で、自分の左手の指先を切り刻む。---
当たり前ですが、そんな危険なことを行うはずがありません。
ですが、それと同じことをやってしまっている。それが現在の状況でしょう。

人工気象操作されてんだよ、台風なんて故意に作り上げられ、意図的に地域を狙ってんだよ、はよ氣づけよ。
人工地震なんてテクノロジーは大昔からあったんだよ。昔は新聞記事にもなってんだよ。いい加減に氣づけよ。

このように叫ぶと何が起きるでしょうか?
その波長に同期したあなたの心が、そのネガな現実をさらにさらに強固に作り続けるのではないでしょうか。
自分がそれを顕現化し実際の被害を作り出してしまう可能性はゼロだと言い切れるでしょうか。
あるところでは、
そうやってみんなが騒げば実際には起きない都市伝説。だとか、観測問題よろしく量子力学的には観測することで結果が変わるのだから、みんなで意識をその災害に合わせましょう、などとやってしまいます。

わたしは、どれも間違いだと断定できるだけの材料は持ち合わせていません。
なので、否定はいたしません。
しかし、
そこにフォーカスすることで、その波長に「合致している」感覚を強く感じます。
いえ、はっきりと認識すればするほどに明確にそのシーンが見えてしまいます。
少なくともわたし自身にとっては、意識すればするほど、わたしがその現実を創ってしまうであろうこと。
これをかなり強く肌感覚に近いレベルで感じます。

思い過ごしさ。妄想だろうよ。あぁ君は夢想家だわ。
ええ何と言われても構いません。この5年ほどで随分と心は鍛えられましたので。


いま、何が正解なのか。
その答えは、もうそろそろ自分のスキルとしてコントロールできるところにまで辿り着いたはずです。
都市伝説が何であろうと、量子力学的に何が正解であろうと。
自分が描くものが自分の現実になること。これだけは否定しようがありません。しかも十分に体感・体験を重ねているわけでして。

冒頭のテーマに戻します。
目が覚めた。とされる人ほど、知らない人に知らせよう知らせようと叫び続けます。
でも、それは逆効果になっているリスクは無い、と言い切れるでしょうか。

左の指先を自分の右手で持っている刃物で切ったら、極めて危険で激しく痛く大量に出血するでしょう。
そんなことをするバカはいないだろうよ。でも扱いには十分に氣をつけるんだよ。指先を切ったら危険だから、危ないから氣をつけんだよ。刃物持ってんだからさぁ。十分すぎるほど氣をつけないと危ないんだよ。刃物だからさ... 。
氣をつけるんだぞ、氣をつけなければならんのだぞ...。

いつまでも、こうして叫び続けていると、それが無意識のうちに実際に切ってしまうこともあるかもしれないこと。
絶対にあり得ない。と言い切れるでしょうか。


同じこと・似たことをやっている可能性はないでしょうか。
悪事を働く支配者層に隷属化され、騙され、毒を喰わされ飲まされているんだよ。氣づけよ。
人工気象操作なんてあたりまえなんだよ。もうさっさと氣づけよ。と叫び続ける。

少なくとも、同じ波長がシンクロする大原則・物理法則の観点からは、
その負の力に対し、自分が燃料を注ぎ続け、具現化するエネルギーを補給し続けてしまっていることに違いはないでしょう。


精神性を拡大し霊的進化が曲がりなりにも進みつつある現在。
いわば目を覚ました人たちのレベルが底上げされるに従って、わたしたち自身が、負のエネルギーさえも増幅し現実化させてしまうことを理解する必要がありましょう。
心から生み出すエネルギーは、正の方向にも負の方向にも均等に作用します。

災害も天変地異も、きっかけはDS由来かもしれませんし、また地球そのものの浄化作用かもしれません。
しかし、大難を小難にすべきところ、わたしたちが「そこにフォーカスし続ける」ことによって、正反対に大々大難へと増幅してしまうリスクを学ぶ必要がありそうです。

ここに氣がつくまでは、自分で自分の左指先を「いつまでも切り刻み続け」ます。
そして、取り返しのつかないほどの災害を生み出してしまう可能性を否定できないように感じるわけでして。

最後に、指先を自分の反対側の手によって切り落としてしまってから、え?自分はなんて愚かなことをしたのか。
極限の痛み激しい出血・救急治療レベルに及ぶだけではなく、物質次元において取り返しのつかない一線・限界を超えたことに、激しく後悔するのは間違いありません。

こうして、失敗をしない限り学ぶことができない地球人は、いつまでも負の因果を重ね続ける。
痛みや限界を超えて愚かな体験をしない限り、その愚を認識できない。
そんなリスクは、事前に強く避けるべきだと感じています。

渦を巻いた気象現象に意識を合致させ、その被害を増大させるようなエネルギーを焚き続ける愚を重ねませんように。
責任を持つべきは、自分の心に抱く目に見えない力。そんな時代に入っています。








少しづつよくなる?ならないでしょう

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わくわくして待ちましょう。
ですか?

何を待ちますか?
待っていても何も変わりません。
変えることが可能になるのは「自分の心から創り上げる」望ましい青写真としてのエネルギーによってのみです。


悪よ滅べ!戦争反対!と叫び、知らない人に隠された世の裏側の悪事を広めることで意識を変える。
人工気象操作や人工地震が故意に仕組まれ、我々は痛めつけられ搾取されてきたんだ!
と拡散する。
それが行動であり、それを続けることで世の中が変わるんだ。ですか。

果たしてそうでしょうか。
そんな聖人君子(せいじんくんし)のような存在ばかりでしょうか。
二元・二極化のこの地は、ともに対(つい)となるエネルギーが存在しているからこそバランスしているとされます。
みんなが努力して良い心を持つようにすれば世の中が変わる。
でもそれには時間がかかる。
変化は徐々に少しづつ起きてくる。

そうでしょうか?
大いなる躓きをしているのではありませんか。

確かに、認識を変えた人たちが増えると世の中のエネルギーは変化するに違いありません。
でも、この地から悪だけが綺麗さっぱりと消滅することはあり得ないわけです。エネルギー的にバランスできませんから、この地そのものが存続できません。


変化は「自分の心から生み出し」「自分自身のエネルギーを変化させる」ことで生み出すものです。
これ、もう卒業済みの教科書ではありませんか。

---幸せを探すんだ・幸せを掴むんだ。
この道。いつか来た道でしょう。
幸せは、どこかに存在しているのではありませんし、掴むものでもありません。
それは、
「そのように感じる心が生み出すエネルギー」に他なりません。
幸せだと感じる心そのものが幸せの本質であること。
もう学び終えた教材だったはずです。


両極で対になるエネルギーは、いつまでも存在し続ける。
それがこの地の約束ごと。

そこを変えることなどできません。
待っていても何も変わりません。
だからこそ、
「自分から大きく精神性・霊性を拡大」し「この地を自分から抜け・去る」ことでしか望ましい世は実現できないこと。
この初歩の初歩、最初の第一歩を踏み違えているように見える人たち多数。

確かに、騙され隷属化され搾取され続けてきた真の世界を「知ること」は、大変重要であるに違いありません。けれど、その周波数に合致して燻り続けている限り、その周波数の存在する世界(この地)から抜け出すことは叶いません。
周波数が異なる世界を自分で描き上げ、そこに合致する波長を自ら選択しなければ、決してその現実は顕現化しないのです。
そのために自分自身を極限まで磨き上げているのではなかったのでしょうか。
わたしたちにとって極めて難しい課題だからこそ時間が必要なのであって、待ちの姿勢で単に時間を流すことではないはずです。

大原則。物理法則そのもの。
何度も何度も語り尽くされているはずです。
よって、
裏側の悪事など知らなくても、心地よく穏やかに眠り続ける猫のほうが、よほど望ましいエネルギーを生み出していること。
美しく咲き誇る花々のほうが、よほど美しい世を顕現化させるエネルギーを生み出していること。
この大原則をいま一度、俯瞰してみる必要があります。

待っていれば少しづつよくなる?
ならないでしょう。
それは、努力して苦しみを耐えれば、いずれ世の中が変わる、という洗脳。
努力はその対になる至高の悦びを知るために必要だった学びのプロセスに過ぎません。
待ち続ける限り、待ち続ける現実を自ら作り続けるだけ。

望むもの・望む風景は自分で描き自分で創り上げる。
そのために望ましい周波数へと自分を切り替える。自分から。それが行動するということ。

早くここに氣づく人が増えればよいな、と感じています。


What do you wait for?
Waiting will not change anything.

You draw what you want and create the landscape you want.
To do so, switch yourself to the desired frequency. From yourself. That is what it means to take action.

I hope that more and more people will come to this realization soon.





いい加減に腹を括ったらどうや

美しき響き渡る photo 宮本章光

「いいかげんに、はらをくくったらどうや。」
この言葉に腹が立つなら、そこに浄化できていない垢が蓄積している証明でもありましょう。

枯渇・不足と恐れ・恐怖に占領された心。
その心・その波動が、枯渇と恐怖の現実を作り続ける。
永遠の負のスパイラル。


余命一年。
そう宣告されたらどうなさいますか?

何も変わらないはずです。
いまを精一杯生きているならば。
この一瞬一瞬を大切にしているならば。
いまの思考と行動に悔いのない選択をしているならば。


ここで、恐怖に押し潰される負の心境を抱くなら、あなたはその波長と等しい現実を「自分から作り上げる」のです。
自分で作った自分の人生。
納得できるなら、それが正しい道。
恐怖と枯渇の道を選ぶのも自分の道。それが正しいと信ずるならば。

災害は自らが生み出した過去の想念・負の因果を解消するために起きること。
それを生み出したからには生み出した当人が清算すべき課題だ。と知るなら、感謝こそすれ、まして排斥しようなどと意識を抱くのがいかに愚かであるかと。
それを人ごとのように、そして悪が故意に操作し作り出すから許せん、けしからん。と罵る。
けしからんのは、その負の因果を生み出した自分たち自身でしょう。


お借りしているこの貴重な体を使って果たせる役目。
目一杯、その役目を果たしているのなら、何も恐ることも枯渇に苛まれることもないはずです。

いい加減に腹を括ってはどうですか。
何ものにも動じない心を。
何ものにも揺るぎない心を。
そして、
余命宣告を受けようが受けまいが、残された時間を決して悔いのない・恥ずかしくない生き方をしてみてはどうですか。





災害さえもわたしたち自身で創り出しているのです

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もう次の段階、次のフェーズに入っています。

氣がついた人が増えるに従い、自分たちの想念が現実を創る。
その意味が本当に理解できているでしょうか?
想うことが集合意識としてこの地に顕現化する。
その怖さが本当に理解できているでしょうか?


人工台風だ。人工降雨帯だ。人工地震だ・熱波だ・寒波だ。
そんな悪事を働く支配者層に仕組まれ支配されていた世の中だったんだ!
と、そのように「意識を抱く」だけで、その現実を「さらに生み出し続けている」のは、わたしたち自身だと。

結局、
災害は、ほぼその影響力を失いつつある権力・支配者層がきっかけ・種まきをしていることには違いないかと思われます。
けれどもあろうことか、そこからご丁寧に「水やり・養分を与え・花が咲く」まで面倒を見ているのはわたしたち自身だということに。

想念とはそういうことでしょう。
と、理解するにはまだ時間がかかりそうな雲行きです。
そして、これまでの「失敗・痛い目」と同じように、自分で負のエネルギーを生み出し・育て続けていることで「痛手・取り返しのつかない災難」が降りかかるまで、その因果に氣がつかない。
そんなタイムラインが...。

いえ、わたしはそれを望みません。
悪よ滅べ、などと叫びません。
あるいは、
みんなが災害を話題にしたら実際には起きない都市伝説。それが量子論の真髄。などと語りません。

この地の人間は、痛い目に合わなければ学べなかった。それは過去のこと。
ここに至って、もう同じ失敗はいたしません。
この期を迎えて、もう同じ過ちは繰り返しません。
わたしたちは、もう学んだのですから。





負荷をかけた筋力トレーニングのように

空から見護る存在へ礼を伝える photo 宮本章光

以前にも何度かこうした表現をしたことがあります。

個人的には、積極的に筋力トレーニングに取り組んだといった経験はありません。体育会系の出身ではないので。
けれども、負荷をかけることによって筋力を鍛える。そのプロセスは理解できますし実際に経験しています。


これでもか!
と苦しく痛いほどに負荷を掛け続ける。
確かに、その工程があることで結果が得られるのは間違いないでしょう。

精神性の向上と成長にも同様の工程が必要だと。かつてこれほどまでに強く実感することはありませんでした。
もういい。もう沢山です。
と、音を上げる直前まで負荷を掛け続けるのです。

でも、筋肉繊維が破断しないように。
これは自分でコントロールするしかありません。
トレーニングの仕方を誤って筋を痛めるのはビギナーすぎる失敗だと。笑えない事例ではないかと感じます。


破断しそう、とさえ感じる昨今の末期的状況。
しかし、一時的にそこから離れればよい。
それだけだと氣がつきます。

筋力は無限に上昇することがありません。物理実体としてお借りしている体の能力には限界があります。これを傷めるのは本末転倒であり、且つその結果(因果)は自分自身に還ります。
しかし、心の拡大と上昇は無限・無制限だと理解できたならば、適切なインターバルを保持しながら、さらなる高みを目指したいものです。

そして、そのトレーニングは永遠に続きます。
それが大法則だからです。





形を持つことで得られるもの

朽ちた柱に合わせる photo 宮本章光

柱。
人間が人工的に造った山道に架かる橋とその柱。

もとはその樹木の生命存在。
人の手によって木としての生き方を終えたあとにも、このようにさまざまな生物・生命と共存し「ここに実体を持ち続け」ます。

形をとることで得られるもの。
その体験をする場所。この地この地球。

実体生命を持つことで体験できるもの。
劣化・変化、朽ちてゆく時間の流れ。
同じく物理実体を持つ生命との共創共存。

この物質的感覚・触覚と、この時間経過の感覚を体験するために。
形をとることで得られるものは、物理実体を持つものだけに許された膨大な経験値。
積み重ねてゆきます。
それを望み、ここへやって来た以上は。





そこにある波長が呼び寄せる

そこにある波動 photo 宮本章光

過去、カルチャーのクラスで写真・カメラの講座を6〜8件ほど抱えて並走していた時代があります。
ピーク時には3ヶ月待ちで入校していただく方もあった時期です。

その中で、「何をどう撮ったら良いのか分からない」
そんなお声を聞く機会が何度もありました。

いや、それは自動的に感じるものですよ。
とお伝えしても一向に理解いただくことがありませんでした。
今にして思えば、思考のアルゴリズムとでも言うべき発想の始点やプロセスが、完全に違っている人たちだったことが理解できます。
それが良いかよくないか。という観点ではなく。

そうした人たちに共通する「目に見える」行動やスタイルがありました。
それは、
わたしの話す内容・言葉を一字一句記録し尽くすのです。
あるいは、ビデオに撮って自宅で復習する。といったような姿です。

サラッと流してしまうレベルの発言でさえ、ノートに記録するのが間に合わないからゆっくり話して欲しい。とリクエストされることがありました。
いやそれ、どうでもいい言葉ですから。トークの流れで挟んでいる言葉だと思っていただければいいんですよ。
と回答してみても、今度は「これは重要ではない内容」などと記録されるのでした。

中級クラスでは、外へ出て撮影を行いました。
「構図がどうも分からん!」と仰います。
いえ、それは「分かるとか分からない...」ではなくって。
と回答してみても、回答の言葉そのものが理解されていない感覚がありありと伝わってきます。


いま、この期に至ってこそ、この言葉の意味が伝わると思います。
そこに存在する「モノ」や植物をはじめとする「生命」などのすべての存在。
その存在が「発する固有の波長」を感じ、それを受け取り、構図として切り取るわけです。
いまなら十分に伝わるでしょう。理解いただけるはず。

--あぁこの光線の具合がいいよね。
--あぁこの明暗差のバランスが絶妙だよね。
--あぁこの色彩感の対比が素晴らしいよね。

その存在とその場のシチュエーションによって醸し出されている「そこから発せられている波長」に感覚を合わせてゆけばこそ、その瞬間に「いいね」と感じる、その感覚そのエネルギーそのものを示しています。
「いいね」とは、そうしたエネルギーに対してシンクロした瞬間にポジティブな方向に感じる感覚であったはずなのです。

それをSNSのツールに落とし込んで、他者と自分を比較しネガなエネルギーを生み出す装置にしたのは、それはそれは上手い手法に違いありません。
が、そのたった一つのツールがあるだけで余計な思考と負の無限ループに嵌まり込み抜け出せなくなります。
わたしは、その大きな違和感とフリクションに嫌氣がさしたので離れました。


何もかも、反対をやる人たち。
いえ、でもそれはその人のキャラクターでその人独自の発想・思考のスタイルだ。と理解できる時期になりました。
両極どちらも必要なこの地のお約束でした。

「感じたものを切り取る」のが、わたしのスタイルだと。先に感じる感覚があるもの。
だからこそ、普通に道を歩いていても、その場の「波動=エネルギー」に同期した瞬間に一枚撮っている、という行動と結果が生まれます。

これとは異なる発想プロセスで進める人たち。
「光線の具合を見極めて・明暗差を意識して・色の対比について考えて」
これが良いかよくないか。ではなく、それがその人たちの思考のプロセスだと。

ええ、わたしには反対に難しく、とても疲れます。
もちろん、現在の業務上の思考プロセスではこうした脳の使い方が必要な作業工程があるので否定することはありません。特に映像の分野では、この工程が求められるケースが少なくない感覚です。
でも、そのプロセスだけだと撮っていて楽しくない。

楽しい感覚は、そこにある波長が呼び寄せるからこそ、そこに合致し響き合います。
だから楽しい。
エネルギーのシンクロがあるからポジティブ感覚に至る。
そうでないのは、シンクロしていないから繋がることはない。

こうして、大いなる大法則に則った答えが導き出されてゆきます。
そこにある波動に引き寄せられる感覚を知るとともに、その感覚こそが、この先の世界創造には必要だと知る時間を迎えています。





丁寧に

短い夏を過ごす photo 宮本章光

丁寧に聴いてみな。
丁寧に取り組んでみな。
丁寧に受け取ってみな。

丁寧に。
静かに、穏やかに。





対比を味わうために生きている

森の岩場を味わう photo 宮本章光

派手なキャッチを掲げなくても。
煌びやかな衣装を纏わなくても。


わたしたちは、
「対比」を体験し、その大きな落差を感じ、何を思うのか。
その体験をするために、この地に生きています。

味わい尽くします。
そのためにここに来たのですから。
体験し尽くしたでしょうか。
その機会を迎えたなら、感謝を捧げ深く礼を奉ります。

味とは、
味わってみないことには決して理解することができません。
味とは、
それを味わうからこそ、鮮明にそして克明に記憶に刻まれます。

わたしたちは、
対比を味わうためにこの地に生きています。





流れは永遠に

川の流れはいつまでも photo 宮本章光

流れは永遠に。

上流で堰き止められたら止まるでしょ。
途中にダムができたら止まるだろうが。
と、
何かにフォーカスすると、とにかく瞬間的に「否定」するクセ。
もう卒業する時期だと思われます。


台風が人工的に作られるわけがないやろ。
地震が人為的に起こされるわけがないやろ。
そうでしょうか。
なぜあなたはそのように否定するのでしょう。

宇宙人などいるわけがないやろ。
地球以外に生命が存在するはずがないと科学者が言うてるやないかい。
そうでしょうか。

それを洗脳と言うのではありませんか。

で、なんちゃらトラフはどうなりましたか。
結局、叫び踊ったのはメデイアに洗脳された「自分で考える力が弱い・あるいは皆無な」人たちだけ。
スーパーの棚から食品がなくなった?
思考能力の低い人間が、必要以上に買い漁るからでしょう。

自分だけが良ければいいのですか。
自分だけ食べ物を確保すればそれでよいのですか。
買い占めたものは、ご近所に分配してみんな心地よく生活するためだったのですよね?
違うのですか。


そうやっていつまでも自分勝手なことをやる人間が居る限り、この地があらたな心地よさと平穏さを備えた悠久の地になることはないのです。
--みんなで仲良く。だとか言う割に。
--みんなでお手てつないで一等賞だとか言う割には。

自分勝手。自分さえよければそれでいい人間。
今だけカネだけ自分だけ。
と、他人を批判する割には、自分も同じことをやっていませんか。


わくわくして待ちましょうという割には、救いはまだか!と、他力本願。
自分から「変えてゆく」ことと、自分からは「変えられない」ことと。
しっかり見極めて取り組みたいものです。


変えられること、とは、自分が抱く心のエネルギー。自分が描く未来地図。
変えられないこと、とは、大自然の仕組み・大いなる摂理。宇宙のカレンダー。
変えられることから「変えてゆきます」。
それが、望ましい近未来を創り上げるための土台となってゆきます。

洗脳装置が叫び続ける「くだらない声に騙される」のは、あなたの魂レベルがそこまでのもの。という証明でもあります。
騙されるのは騙されるだけの未熟な精神性、騙されるだけの幼稚な思考。そして騙されるだけの因果を産み続けているから。


ともに成長してゆきましょう。と、手を差し伸べる人たち・仲間たちは数多く存在しています。
心の「眼」で見ていますか。
心の「耳」で聞いていますか。
そうすればこそ、その波長に繋がってゆきます。
仲間はあらゆるところに居るのです。
自分から手を伸ばしてみませんか。
「...わけがない」「...はずがない」と否定から入らずに自分から手を伸ばし、頭を下げて詫び、そして感謝の心を忘れずに手をつないでゆきます。

否定するクセを手放さないから、「痛い傷」に触れられるといつまでも頭ごなしに否定する・反論する。
それを続ける限り、崩壊し消滅するこの地とともに消え去る運命を「自分で作り続けて」しまうことに氣づきたいものだと思います。

流れは永遠に続きます。
成長という名の上昇階段を登り続けます。
学びという名の負荷トレーニングに取り組み続けます。
それが仕組みだから。
それが、わたしたちの役目だから。





望む世は望む心の波動により生み出すもの

森の精霊に礼を述べる photo 宮本章光

浅い、薄い。
深みのない精神性の乏しさ、魂レベルの幼稚さが露呈してゆきます。
恥ずかしさが半端なく拡大し続けています。

全体が格上げされるこの大転換期だからこそ、自らもそれに合わせ(あるいはそれ以上に)伸びてゆきたいものです。
他者との比較など、どうでもよいわけで。
自分で自分を磨く。
その意識を忘れず。
恥ずかしい過去の思考・意識は、学び成長し続けるからこそ、変化し拡大し行動そのものを変えてゆきます。


---これほどまでに世の中は腐敗していたんだ。
---これほどまでに酷く騙され続けてきた世の裏側を知れよ!知ることが成長だ!知らせることで世の中を変えるんだ!
と、叫ぶ限り、自分がその負のエネルギーを焚き続けます。

上記のように「全体が底上げされている」いま、それを続けるのは「もはや、自分が悪・負の力そのもの」に成り下がっていることを知れば恥ずかしさの極みに至り、大きな顔をして人前を歩くことさえできないはず。
当然、自戒を込めて。
だからこそ、無限階段を登り続けるのです。


何もネガな裏側を無理に知らなくてもよいのです。
知る必要が出てきたのなら、その人のそれぞれのタイミングで必然的に知ることになるのですから。
知らせることで世の中を変える...などという発想こそ、悪平等に洗脳された恥ずかしい行動かと。

穏やかに風にそよぐ樹々は、悪事を知れ!と叫びますか?
静かに丸くなって眠るネコは、裏側をもっと多くの仲間に知らせる必要があるんだ!と行動しますか?
いつまでも教育洗脳や支配構造の中で隷属化されてきた「クセ」を握りしめたまま、旧いレイヤーの上で踊るのは終わりにしたいもの。
それを「強く握りしめた手を開き離す」のだから「手放す」というのではありませんか。

その姿、
それは、もはや恥ずかしさ以外の何ものでもなくなりつつあります。
それは、自ら輪を掛けて負の因果を増大させるばかりです。
そして、
この地・この世を「さらに痛めさらに苦しめさらに酷い現実」を作り出しているだけの存在となり落ちぶれてゆきます。

心静かに。
心穏やかに。
望む世は、望む心の波動により生み出すもの。
それを、先人は「想念」という言霊に託して使いこなしていたのですから。

この森の息吹を受け取り、それを拡大上昇させてゆきます。
それが望ましいこの先の世の風景であるからです。







「そのまま」でよい

苔の周波数 photo 宮本章光

そのまま。
この言葉の意味を「そのまま」捉えてゆきます。

そのまま?
怠惰に過ごすことではなく、やることはやらなければ...。
だとか考え過ぎない。
だから勘が働かなくなってしまいます。
いつになれば氣がつくでしょうか?

そんなこと心配せずとも、やらねばならないものは必然的に目の前に出現します。
少なくとも、この地・この国で生きている限りは。

生まれたばかりの乳児が、いま泣き叫んだら電車の中だから迷惑になる。などと考えませんでしょう。
砂防ダムにびっしりと根付くコケが、このまま増えてゆけばコンクリートが痛むかも。とも思わないでしょう。


なんちゃらトラフだ、備えよ常に。
などと恐怖を煽ってそのネガなエネルギーを欲しがる存在に「エサ」をやる必要はありません。
これまで散々吸い取られてきたのです。
ですから、
もう必要ありません。そして彼らは消滅してゆくのが定め。
但し、ここに至るまでに学びの教材として存在してくれたことへの感謝の心は手向けて。


そのまま。
力を抜けばよい。
もちろん、力を入れる必要がある瞬間には自然とそうなるものです。

そんなうまい話はないやろ。と心配するから、その心配が現実となりリスクを高め事故や障害に繋がる。
結局、自分が生み出しているんだということ。


そのままでよい。
そのために、勘を磨き、心のセンサーを磨いてきたのはなかったのですか。

そのまま。
心が、直感と違和感の感覚として、しっかりとシグナルを表示してくれます。
そのまま。とは、そういうことだと感じます。





経験することで成長が叶う?はずだが

流れる水のごとく photo 宮本章光

経験は学びとなり、
学びは糧となり、
糧として生かせる認識に至ってこそ成長が叶う。
それを体験した人自身が、そのように認識するという大前提の元に。

ところが、
体験を糧とするといった認識がなければ、永遠に同じ初等教育教材を学び続けます。
それが、個々人の判断と選択。
そして、その選択を行った判断そのものさえも認識できず、無限ループを彷徨い続けます。


転生するたびに、過去の記憶が消し去られる。とされる理由。
ここに違和感を感じていた以前の自分の思考があります。
しかし、
今となっては、大いに納得する段階に達したように感じます。

学びを糧として認識しない限り「それは学びではない」からだ。と。
学びを糧として認識できない限り「そこに成長が無い」ために、成長が実現するまで何度も繰り返すのだ。と。


なるほど、過去生の記憶があろうと・なかろうと、
今生・今世で「何をどのように学んだか・何を糧として得たのか。」
学びが得られてこそ次のステップへ進めることができる、極めて難しい最終ステージが設定されたゲームでした。


経験。
それは単に経験しただけでは成長とはならず、ただの「経験・体験」。
体験することに価値がある。というのはある意味では間違いではないでしょう。
但し、
魂の成長・精神性の拡大と成熟のためには、単に経験しただけでは、成長として認められるだけの価値がないのかもしれません。

勉強時間、10時間も取り組んだぜ。
連絡帳に「10時間」と書けば、ごじゅうまるをもらえる。
でも、
「ごじゅうまる」をもらっても、その10時間に得られたものが「何であるのか」。


経験することで成長が叶う?はずでした。
でも、それは結果よりもプロセスに価値があるという、大切な言葉の「ことの本質」をすり替えてしまい、教育洗脳の道具にされてきたことに氣がつきます。
プロセスに価値がない。というのではなく、中身が勝負だ、ということを知ればこそ、新たなフェーズへとコマを進めることができるはずです。





衛星画像から受け取るエネルギー

夏を惜しむ蝉の合唱 photo 宮本章光

台風に美しさがあるのかどうか。
今日の記事はかなり難しいと思われます。そのまま受け取るだけでは意図は伝わらないこと、また特定の思想に偏った意見を述べるのではないことを初めに記した上で以下続けます。


不謹慎と言われるかもしれませんし、故意に被害を目論んだ気象操作のことを知らんのか。と罵声を浴びる(そんな裏側はよく存じています)リスクもあるため深入りはしません。
ただ、
この数日、衛星画像から受け取るエネルギーは、二つ見えるその存在のうち「先のもの」は、品格のようなものを感じる(感じた)のでした。その画像そのものが捏造されている可能性も承知の上です。
もちろん妄想に過ぎません。一応但し書きを。

品格などあるわけないやろ?と、これまた怒鳴り声が聞こえるので、サラッと流します。
そう思われる方は、その現実をご自身で作っているだけなので。大変失礼ながら次元が違いすぎます。


この「先の(前側の)台風」は、浄化目的だったのだろうな。と。
東北に永きにわたり意図的に蓄積された穢れを祓い負の結界を解消し清めるためのもの。
この国には「水に流す」という言葉があります。
また「浄めの水(きよめのみず)」との言霊が示す波長も特別のものがあります。
同じように、雨こそはこの地を洗い流すための最大の要素であるはずです。

両性具有といいますか雌雄同体、オスとメスが一つの物理実体に備わっている生命存在があります。
同じように、
善と悪・表と裏を、ともに備えた存在(組織)が人間社会(この国特有)にも存在しているとされます。
出雲・大和・伊勢、それらの勢力を3つ「統べる(すべる)」ため、我こそは唯一の支配者なり。とでもいうべき3本の脚を持つのでしょうか。

彼らは、まさに両性具有のごとく「正と負の両方」をバランスさせ長大な時間を裏側からこの地・この国に関与してきたはずです。
調べれば調べるほどに、その複雑怪奇・摩訶不思議な深い世界を感じます。
もちろん、そのほとんどはいくら調べてもwebで入手できることなどたかが知れており、門扉の前で母屋の外観を見ただけのような感覚であることを認識した上で。
再度重ねて記します。特定の思想に偏る意図は皆無です。

昨日の記事
【量子論とスピリチュアルのハイブリッド】2024/08/10[ Link ]

にて少し触れましたような、この国に蓄積した負の因果は、この国とこの国の人民で清算・解消・浄化せねばなりません。
この目的を果たすための「前側の台風」だったと考えれば納得が行きます。
何より、
前側と、それに続く後ろ側。まったく感じる感触が違っていること。
前側は品格のような感覚を放ちます。他方、後ろ側はDS由来なのでしょう。ガラの悪いエネルギーしか見えません。
これらの違いに氣づいた方はおそらく皆無ではないでしょうか。
はい、繰り返します。もちろんわたしの妄想に過ぎません。何ら強要せず同意を求めることもいたしません。


今日も今日とて、DSけしからん・もはや気象操作もまともにできん惨めな輩...と、いつまでも高いところから罵声を浴びせるだけの文字があちらこちらで数多く踊っている様子が見受けられます。
もうそんな時期はとっくに終わっていますよ、ということです。

いまは、激しく蓄積された膨大な負の因果を「如何に被害を最小限にとどめながら浄化するのか」のフェーズなのです。
ゼロ回答は不可でしょう。因果応報の大原則を変えることはできないわけで。
だからこそ、
過去の過ちに伏して詫び、学びのための教材を与えていただいたことに感謝こそすれ、いつまでも高いところから見下している姿勢は恥ずかしい。そんな時期に入っているのではありませんか。

被害を僅少にとどめながら、風・火・水・土といった、この地の先人が尊び、感謝の対象として共に生きてきた、その元の元。
ここを綺麗に大掃除する必要があるのです。

両性具有的・雌雄同体的な、プラスとマイナスをともに備える存在・組織は、どちら側でもその役を担っていることまでも理解が及びます。
いつまでも悪よ滅べ!だけでは、一切の成長が望めません。
こうして、人それぞれの魂レベル=精神性の成熟度合いそのものが、あからさまに露呈してゆきます。
恥ずかしくない成長を自ら重ねて行きたく感じた二つの台風衛星画像。
これからの世は、目に見えない世界と繋がる時代だと認識を新たにしています。

短い夏を惜しむかのごとく、セミの合唱はやや弱まりながらも響き渡ります。
いまを生きる。とはこういうことだと知り得る瞬間ではないでしょうか。





量子論とスピリチュアルのハイブリッド

流れに争わず photo 宮本章光

標題が大きすぎるので、触りだけで。
そもそもわたし自身が語れるだけのナレッジを備えていないこともあります。

「見ざる言わざる聞かざる」
この言葉が誤解を招いている事例があるように見えます。

それは、
都合の悪いことは見ず聞かず発言しない。
まさに「見て見ぬふり」をして、物ごとや事象の核心を認識しようとしない姿勢・態度だと。
これは、どうやらこの先に進むために求められる姿勢とは異なるように感じます。
ここを間違わないようにしたい、と思っています。


トラフがどうの、なんたら注意だ、進路が偏西風に逆らい西に向いたがどうだ、と喧しい。
けれど、これは量子論から説明するなら、「観測問題」に通じるところがあるように見えます。
--- ガスが充満した箱の中のネコが生きているかどうかは観測者次第。
--- 二重スリット実験の結果しかり。
意識することで「結果が変わる」:観測することで結果が変わる、とされます。

よって、
認識をすることで「大難を中難に小難に」という結果を導くことになる、という論説も真実味を帯びてきます。
言葉を変えるなら「みんなが騒げば災難は小さくなる、あるいは災害は起きない。」などという都市伝説的な現象さえも正しいのかもしれません。

ところが、
スピリチュアル系の語りを引っ張るのなら、「騒げばそのターゲットが具現化する」となり、意識したものが現実になる。のだと。
だからこそ望むものだけにフォーカスしましょう。と語られます。


果たしてどちらが正しいのか?
ええ、その答えは誰にもわかりません。
ただ一つ言えることは、勘・直感に響くもの、あるいは違和感を激しく感じること。これらのいずれの方向に向いている力なのかを感じとることでしか導き出せないように感じます。

ここでハッと氣がつくかどうか?
そう。自分の抱いた意識・心に描いた風景が、時間差を経て目の前になってゆく。
この語り尽くされた言葉が、まさに「その答え」だったことに。

わたしは、
ネガティブ事象に対して見て見ぬふりをするのではなく、その負の力を認識する必要はあると考えます。
それは、わたしたち地球人が過去に積み上げた負の因果が顕現化している姿だから。
だからこそ、そのエネルギーを清算し浄化するのは、地球人の責務だと。
現在、まさにその真っ只中。
この国で蓄積された負の因果は、この国で償う必要があるのです。
償うからには、当然のことながら「痛み」を伴うことが避けられないように思われます。
それはそうでしょう。
思いっきりこの地を痛めつけ・汚し・それだけでなく「言霊・意識レベルで激しく汚染・取り返しのつかない破壊」にまで至らしめたのは、この国のこのわたしたち自身なのですから。
百歩譲って、すべてが騙されたからという理由であっても、騙されたのはこの国のこの人民。
騙されるだけの魂レベルと、騙されてしかるべき因果を生んだのは、この国のこのわたしたち。

それを、いまだにDSけしからん。ロス茶・六フェラの悪の支配者構造を知れよ!悪よ滅べ!だとか罵って悦に入っている限り、一切の成長が望めないどころか、自ら地の底へまっしくらです。
いまやそのフェーズではなく、負の過去因果を如何に小さな被害で抑えて浄化・解消するか。
ここにこの地・この国の人民の「極めて高い精神性」が求められているのです。
そして、
綺麗さっぱりと清算できたのなら、そこにまで至って初めてその先はこれまでと異なる「望ましく心地よい」方向のエネルギーを選ぶ。
これは、自分自身の選択であり、それが顕現化してゆくことを望むからこその姿勢だと。


量子力学と精神世界の交点。
こんなところにも相互乗り入れしているタイムラインがあることを学びます。
行き着くところ、
自分が意識した瞬間に、目に見えないフィールドに生み出したエネルギーが時差をもって現実となる。
この世は、そうした意識の集合体で成り立っている。
それならば、
何を生み出しましょうか。というレベルに到達する必要があるはずです。


「1+1=?何ですか?勉強しましょう。」
はい「2です、勉強しました。」
と、口先だけは威勢がいいのです。

ところが、
もう一度...、
「1+1=?何ですか?勉強したはずでしたね。」
いえ「教えてもらってません!」
と、やってしまう。

これを永遠に繰り返すのです。

「1+1=?何ですか?勉強したはずでしたね。」
いえ「教えてもらってません!」
「1+1=?何ですか?勉強したはずでしたね。」
いえ「聞いてません!」
「1+1=?何ですか?勉強したはずでしたね。」
いえ「そんなもの知りません!」
「1+1=?何ですか?勉強したはずでしたね。」
いえ「知らないから教えてと言ってんだよ!」
「1+1=?何ですか?勉強したはずでしたね。」
いえ「教えるのが指導者の立場だろがコラ〜!」....

もうたくさんです。
高次元存在から見ると、これを地でやっているのが地球人ではないかなと感じます。

学びは永遠に続きます。
しかし、論点とフォーカス点は、そこではないわけでして。

未来永劫、1+1は何ですか?を繰り返しているだけで、それは「学びでも何でもない」ということに氣がつかなければなりません。
学びとは成長。
成長とは進化。
進化とは変化。

量子力学が唯一無二ではなく、精神論も万能膏薬でもなく。
学ぶべきは、
量子論とスピリチュアルのハイブリッドではないかと思うのです。





日本の原風景を維持し続ける

飯舘の夏 photo 宮本章光

わたしたち人間は、視覚と聴覚を占有されてしまいますと、いとも簡単に「その周波数」に同期します。
それが、この物理実体を通して体験していること、そのものです。

見たら、聞いたら、
この物理次元「その一つ外側にある目に見えないフィールド」に、認識したものと等しいエネルギーを生み出しているということ。
負の力にシンクロすれば、その負のエネルギーを。
望ましい力にシンクロしたならば、その望ましいエネルギーを創り出します。

それが、この地で体をお借りしているわたしたちの「責任」です。
わたしたちは、一つ外側にある「目に見えないレイヤーで生み出した力をこの地に顕現化する」役目があるのです。


心地よい風景。
心休まる風景。
そこにフォーカスすればこそ、その心地よいエネルギーがこの先に生み出されてゆきます。

日本の原風景。
大切にしたい、と望むのなら、その心の周波数を維持し拡大し、この先も顕現化し続けます。
それがわたしたちがこの地で行う役目なのですから。





ともに生きる

アリと photo 宮本章光

人間が作った柵。
そんな枠組みにとどまらず、自ら美しくその姿を披露する。
そして、
小さなアリとともに、ここに生存する価値と意義を自然体のまま表現し謳歌する。

ともに生きる。
とは、
ともに伸びること。ともに成長し進化すること。

人間は?
何をやっていますか。





そこに持ってゆくことで

川面に馳せる photo 宮本章光

川面に輝く波長に合わせることで見えてくるもの。





常に反対をやる天邪鬼

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常に反対をやる天邪鬼(あまのじゃく)。


思考は操られていることに氣がつきません。
他方、
望む風景は自らの想念から生み出されることを知ろうとしません。

それも選択。
この地の人間は、手の施しようがないレベルと判断されても仕方ないでしょう。
けれども、
耐えに耐えて成長を見守り、ともに伸びてゆこうと試みる地球という存在。
そして、物理実体を持たないエネルギー存在。

学び終えたなら、
知り得たなら、
その貴重な体験を糧としてさらに階段を登ります。
なぜなら、
成長・拡大し進化し続けるのが標準仕様だからです。

常にその真逆へと向かい、手がつけれらなくなった負の因果を解消できなくなる臨界点を超えた過去文明。
すべてフォーマットし直しOSレベルから再インストール構築した、6度目や7度目とされる現在のこの地。

そんなもの知らん?
そんなこと考えたことないから理解できん?
それなら、
いま、ここで考えではいかがですか?なぜその行動とらないのでしょう。


常に真逆ばかり。
いつも正反対しかやらない地球人。

救世主を待ち続けるその姿勢・態度から導き出されるのは、
再び繰り返す、同じ失敗・過ち。
そして、そこにオールクリア、オールフォーマットの現実が具現化するだけ。
しかもそれを待ち望むかのように、来月はこうなる・来年はこうなる...と、自己顕示欲と承認欲求を吐き出すばかり。

しかし、
再びここにOS再インストールされることはないのだと。
それは既に決定事項と語られている通りでしょう。

常に天邪鬼を続ける「消滅確定な古いレイヤー上の」地球人。
さようなら。
素晴らしい・美しい仲間たちとともに新たな地を創り上げる決意を新たに。





目の前の風景は自分が創り上げる

五鬼城山展望台 photo 宮本章光

いつまでも「隷属化のためのツール」を崇拝していても身包み剥がされるだけ。
そして、誰か・何処かのターゲットを批判し自己アピール・自己顕示欲と承認欲求の醜い塊をwebに吐いて、負の因果をさらに積み上げ続ける。

な〜んにも学ばない地球人。
永遠に同じ失敗を繰り返す幼稚な魂。

どうしてそんなことが判らない?
小学生の時から常にその言葉が先走る、そんな感覚を持ち続けていました。
しかし、
そう思っているから、周りは「学べない幼稚な魂存在」しか具現化してこなかった、ということを学びます。


目の前の風景は自分で創り上げない限り、自動的に変わることはありません。
その本質を本当に理解できているでしょうか。
風景とは、
単なる写真に写る景色のことではないのです。





ホンモノは桁違いに大きい

森にある大きな力 photo 宮本章光

そこにある膨大な力を。
ここにある巨大なエネルギーを。

感じようとし受け取ろうとすれば手に入れることができます。


無理に感じよう、などと意識する必要はありません。
自然と、そのように響きあうようスイッチが入るはずです。

入らないのであれば、
それは、その瞬間に「同じ周波数」にならなかったという単なる現象に過ぎないのだと。
無理に、努力して、合わせようなどとする必要がないことを知ります。

自動的に、そのようになる時にはなるものです。
感謝も同じ。
毎日10個書き連ねる。それは確かに形から入ることでそこにシフトしようとするアシストの力にはなるでしょう。
その効果は否定しません。
カメラも同じ。多くの生徒さんの事例も見てきました。
300万もかけて最高の機器を揃えた。だから...。という論法。
だから?何?
ではありますが、形から入ることでモチベーションアップの助けになることは否定いたしません。


けれど、上記のように「自動的に」「自然にそうなる」体験をしますと、そういったアシストに頼る場合の「達成感・到達レベル」とは桁違いに大きな結果を得られることに氣がつきます。
感謝に至っては、
溢れかえる恍惚感、とめどなく湧き上がる感覚。感謝を伝えずにはいられなくなります。
こうして生かせていただき学ぶ体験をさせていただけることに。
それがホンモノ。

イヤイヤ宿題をやっても時間が経つばかり。身につかないどころか何の役にも立ちません。
家庭教師がアシストすることにより回答欄に記入できたとしても、実力を磨き上げることにはならないのと同じでしょう。

本当に美味しい米を口にすると、格安だけをウリにした米はもう食べることはできないでしょう。
同じだと思います。
ホンモノは「桁違い」に巨大な力を持っています。

ホンモノの膨大なエネルギーに触れる体験をすることです。
どうすれば良いかわからない?
それは自分で考え、自分で行動することでしか体得できません。
ノイズにまみれ、体を痛めつける食べ物を口にし、よくない言葉を発し、走りまわり、早いこと安いこと・利益の最大化こそが美徳、貨幣資産の増大こそが幸せだ。などと、いまだにやっている限り永遠に無理でしょう。
カネは支配者層が仕組んだ隷属化のための道具だったのですから、それに対して感謝だとかやっている姿は恥ずかしさを通り越して見苦しい。
そんなツールは、早晩なくしてしまう世の中を、わたしたち一人ひとりの心の中から創り上げるのです。
勿論、一朝一夕にはゆきません。
けれど感謝に通づる大きな心は、その方向にこそ使うのです。間違った方向に束ねてはなりません。いいですか。

まして、いつまでも狂った世の裏側を知れ!人口削減されてんだよ!と叫ぶことが行動ではありません。いつまでビギナー編をやっていますか。
それは、その体験が「足りない」人が自ら示している「わたしは初等教育もっと受けますこの先もずっとやります」宣言なのであって、自分からその泥沼に「落ちてゆく」必要などまったくありません。
この国の教育は、「最低レベル」に合わせるという「出る杭を叩き潰し成長を妨げる」政策が採られてきたのですから、そんな珍奇で害悪にしかならない思想など捨ててしまえばいい。

自分から伸びるだけ伸びればよい。
自分から進めるだけ進めればいい。

そこにある膨大なエネルギーと響き合うことで、目に見えない世界からこの地に顕現化させてゆきます。
それが役目。
それがこの地に生きる人間の役割です。





それぞれの夏から学ぶ

それぞれの風景 photo 宮本章光

それぞれの道。
それぞれの空間。

一人ひとりが創り上げる風景。
一人ひとりが作り出す現実と近未来。

それぞれの夏は、
それぞれの「いま」によって「さまざまな現実」となってゆきます。

多様性は個性であり誰も否定できないはずです。
大いなる「一(いつ)」を語るための「言語」を、隷属化のための画一化という枠組みに押し込み論議する危うさを知ること。
その違いさえ理解できないのは、まだ時期尚早・学び足りない証明でもありましょう。





偶然は無い・あるのは必然のみ

偶然はない photo 宮本章光

すべては必然。
すべては因果。

ジャッジをしない。
と語るその前に、
目の前に「生み出された過去因果」を解消すべし。

生み出したのは、わたしたち自身。
人間の成果物。
人間の集合意識の産物。

それをすべて受け入れ詫びる。
すれをすべて受け入れニュートラルに戻す。
負の因果をゼロに戻す。


ここまで至ってから初めて、望むエネルギーを選択してゆきます。
この段階に至って初めて、
望むもの・望まないもの。同じ波長のものが統合されその波動が増幅されてゆきます。


見て見ぬ振りをする愚を繰り返すことなく。
なぜなら、
偶然に生まれた結果はないからです。

生み出した責任を取るべきはこの地の人間であり、その一員である限りは、美辞麗句に包んだビジネスワードにかまけて、負のエネルギーの清算と浄化を回避することはできず、生み出した負のエネルギーを「なかったこと」にはできないのです。

偶然の産物ではない過去因果。
必然の負の結果を生み出した以上、それを綺麗に清算する。
これがすべてに対し詫び、すべてを受け入れる。ということでしょう。

偶然は存在しないとされるその本質はここにあることに氣がつきます。





いまを夏を生きる

ひまわり2024

夏は短い。
いまを精一杯生きる。


暑いね暑いね。と叫んでも絶対に涼しくなりません。
それは挨拶やろ。と言うのも理解しています。
しかし、
その意識・その波動が、目に見えない世界からこの地に顕現化してゆきます。時間差を経て。
創り出したのは自分自身。
それが集合体となってこの地の現実という名の風景となってゆきます。
責任は、そのように叫び踊る人間にあります。

だから、叫ぶように踊るように、思考を操られているわけで。
いつまでも叫ぶ未熟さ。
いつまでも踊る稚拙さ。
成長できない恥ずかしさ。しようとしない恥ずかしさ。

他方、
我関せず、善悪判断から離れる。と、見て見ぬ振りをするワナに見事にハマる。
ここを間違えない。極めて重要です。

見て見ぬ振りするのではなく、すべてを理解しすべてを受け入れる。
ジャッジをしない、のではなくて、
叫び踊る人をすべて受け入れる。
やかましく迷惑にしかならない人をすべて受け入れる。

ここに激しく難しく高いハードルがあることを感じます。
いまだに超えられません。


短い夏に、その勇姿を披露し、すべてを受け取り・すべてを受け入れる。
学びは続きます。
大いなる生命からその真髄を得て。





役目を知る人が取り組むただ一つのこと

さくらの生きる姿 photo 宮本章光

誰がなんと言おうと。
前を走る人が果たす役目はひとつ。


おかしいやろ!狂ってるやろ!早よ気づけや!
と、やっと目が覚めた人が騒ぎ立てる。

先に早起きしていた人。
「せやろ、だから言うてんねん。」
「でしょ、わたしの言った通りなんだから。」
と、
自己承認欲求を満たし自己顕示欲の塊になって、同じ周波数を焚き続けるのは恥ずべきこと。

それは、
この地をオールリセット・オールクリアへと向かわせるタイムラインの実現を拒否し、負のエネルギーを維持し続けます。
精神性拡大と、新たな世の実現をいつまでも遅らせるだけ。
そして自分自身も、その渦の中で淘汰されることを希望していることだと。


キミはフワって地に足がつかずスピっている馬鹿な輩、と蔑まれても。
永遠に眠り続ける存在と同じレベルだと思われようとも。
自分が果たす役割は、ただ一つ。

心地よく。
静かに。穏やかに。
目に見えない世界から、この物理実体を通してこの地へ顕現化させてゆきます。


窓を開け放し近所迷惑なデカイ音でパリの狂ったイベントの放送を深夜に拡散されても。
夜明け前からやかましく大声でよい子ちゃんアピールする叫び声で安眠妨害されても。

望まないエネルギーからフォーカスを外してゆきます。
ボケた先は、いずれ意識の中から消えてゆくはずだと信じて。


八のつく月、八のつく日に心を配り。
静かに。
穏やかに。
それが望む近未来を実現する唯一の方法ゆえ。
牽引する役目を果たす車両・機関車がない限り、決して列車は動かないのです。






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