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宮本章光/宮本陽の視点「開闢」And EM Official Blog

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何を見、何を想う。

風雪に耐え抜いて地に還る photo 宮本章光

何を見、何を想う。
何にフォーカスし、何を生み出すのか。

意識は、対象の波動に瞬時にシンクロします。
意識は、対象が負の波動であっても望む望まないに関わらず瞬時に乗っ取られます。

想いは、描いた瞬間にエネルギーを生み出します。
想いは、抱いた瞬間に波動となります。

自分の思い描いたもの・コトが、エネルギーとなり時差を経てこの世に顕現化します。
何を見、何を想いますか。




貨幣経済の裏側に目が覚めた人が増えている

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経済社会という枠組みの中で拡大・上昇一辺倒の世の中は終わったこと、すでに明白かと思われます。

それは貨幣経済を正当化し、大多数臣民を隷属化するための隠された仕組みだったと確定してよい時期を迎えました。
そもそも、金利の考え方そのものが詐欺システムであったことは、もはやこの場で語る必要さえないでしょう。

「おとな銀行券」を発行する存在、そしてそれを貸し出す存在。
貸し出した者は、貸し出した総額に対し利子を要求します。それが当たり前だという発想自体が洗脳だったと理解できた人が増えているとは思われますが、過去数百年から千年間の強烈な刷り込みは、ここを恐怖という負のエネルギーに支配させてきました。
利子を余分に払うために馬車車のように死にものぐるいで働かなければならない。と。
そして、
それが当たり前だと心底思い込ませる世になっているため、自分で契約書に署名し捺印します。
結果、何の疑いものなく自分からそれを正当化してしまう。そんな世の中。
あろうことか、人生の成功者とは貨幣資産をどれだけ多く築き上げたか、それが経済を回す仕組みだ、と教育段階から深く深く刷り込んでゆきます。


冷静に考えれば小学生でも理解できます。
貸し出した者は、当たり前のように利子を要求しますが、その利子は「どこから湧いて」きますか?
その前に、
発行する存在が、利子に相当するだけの「おとな銀行券」を発行している前提がなければ、この地球上では、どこにもその紙切れは存在しません。

ここでピンとくるならばもう貨幣経済からの卒業が間近でしょう。
もしピンとこないならば、残念ながらトータル再教育プログラムご希望となりましょう。


ある人は、それは働いて働いて自分で手に入れるんだ!だから利子の分まで懸命に働いて獲得して返済するんだ。と語りました。
ええ、もっともらしい学校教育の模範回答的ではありますが、完全に論点がズレています。
この時点で、先述の恐怖に基づく負のエネルギーに乗っ取られています。

発行存在(中央銀行)が1,000枚の紙切れを印刷します。
貸し出し存在(市中金融機関)が1,000枚の紙切れを、さまざまなところに貸し出します。
2枚づつ500人に対して貸出した、としましょう。
ここまでは、数字の上では真っ当かと。

しかし、では500人の人たちは利子に相当する紙切れは、返済する2枚以外にどこから手に入れますか。

発行存在が、この地球上に1,000枚しか発行していないのです。
働いて手に入れる...にしても、その働いた代価としての一人あたり2枚の紙切れ以上のものが、この地に存在していません。
もちろん回り回って企業や個人、と広く拡散していたとしても。です。

ここに詐欺たる回答があります。
発行存在は、無限に印刷機を回して紙切れを世の中に増やすのです。そうでなければ利子としてのおとな銀行券としては返済できません。

ある人はここで再び反論なさいました。
無限に発行できないように法が整備されている。それが世の中を安定させているんだ。と。
それ以外にも、もっともっと多くの法や規制が敷かれていることを知らんのか!とも。

ですが、発行存在と貸し出し存在がグルで、この大枠を牛耳っていたとしたら?との質問には、
「世の中は性悪説では生きてゆけない」そんなことを考えるヒマがあれば、一円でも売上げをあげてこい!となります。
これ、
第一のバブル期・昭和から平成にかけて、わたしが商社に在籍していた時の、ある酒席での実際の会話です。


わたしは、この性悪説を例え話しとして机上にあげました。ですので自分自身が「たとえ話」以上のものとは認識していませんでした。
まして、学生時代の専攻は会計学に財務諸表論。卒論は企業財務諸表の分析を行い考察をするなどといった取り組みを行なってきた人間です。
けれど、
2020年の大混乱によって、その性悪説が仮の話しではなく真実だと確信することになります。
当時のアーカイブは、過去記事としてすべて残してあります。恥ずかしい無知な論説も多々ありますが。

そしていま、この世の経済社会が崩壊目前の危機に直面し、初めてこの裏の仕組みに氣づいた人たちも多いでしょう。
その仕組みをより強固にするために、故意に戦争を仕掛けてきた歴史、そして利権にまみれたカネの裏側の仕組みまでも。
残念なことに、いまだここに至らない人たちも存在します。
けれど、それは彼らの選択なので離れるのみ。

みんなで仲良く、だとか、みんなひとつだから。だとか。
それを「悪平等」と言うのです。

同じ周波数で響き合うもののみが、この先、本当に手を取り合って世を創り上げてゆきます。
そのためには、悪しき仕組みを正しく理解し、それを正しく終了(崩壊)させる必要があります。
ここを勘違いなさいませんよう。

ゴチャ混ぜで異なる周波数が混沌としている状態は、単にノイズが盛大に響いているだけ。そこからは新たな創造は生まれず、崩壊と滅亡に至ること。
これを実地に目の前で体験しているのですから。

同じ波長だけが、美しく響きます。
誤った悪しき刷り込みから脱する勇気を忘れずに。
ようやく時期到来。まもなくその変化を具現化する閾値を超えることでしょう。




呼吸が足りていないかもしれない

山で出会う photo 宮本章光

語り尽くされた感があります。
深呼吸をして。と。
数多くの場面で伝えられてきました。

呼吸が浅く、足りていないかもしれない。
それを補うために深呼吸するんだ、と、語られます。

でもその前に。
わたしには、その間にある呼吸が存在しているように感じます。
深呼吸ではなく、でも呼吸に意図的に意識を合わせている状態です。


呼吸に意識をしていない状態から、意識している状態へ。
それだけ。
思いっきり深呼吸するのではなく、単にいま、呼吸をしています・という動作にフォーカスするだけ。
これだけで随分と感覚が変わります。


屋外へ出て太陽を浴びながら、街の音に耳を傾けます。そして呼吸にフォーカス。
それは何も大自然の中ではなくてもよいかもしれません。
ですが、
そこには多くの人が存在するため、必ず他人の波動を受けます。

挨拶だけで済ませればよいものを、暑いや寒いや、晴れてるや雨が続くや。余計な言葉が付いてくる。
それが会話だ、コミュニケーションだ。というのは理解しています。
しかし、いまそれが必要ですか。

その場の空気感を味わっている他人のフィールドに、土足で割り込むのは避けたい行動と感じることが多々。
余計なエネルギーで乱されてしまう相手の立場を理解できない人たちが多数存在するのが難点。
黙って相手の立場を理解できない人たちとは、この先はご一緒したくありません。

街はそのような場所だから仕方ない。
それも理解できています。
結局、山に入るしかないのか。と諦めるのも一つの必要な体験だったのでしょう。


いま、感じてみたいのは、
呼吸が足りてないかもしれないこと。そして、呼吸する動作に単に意識を持ってゆくだけの切り替え。
深呼吸しなければならない、と、強迫観念にも近いような義務感に囚われることなく。
何でもwebに情報が存在する時代です。けれども、情報価値としては意味のないような、ほんのわずか、ほんの少しの変化を自分で意識することを楽しみたいものだと感じます。


静かに。
穏やかに。
空気感を感じられるだけで、周波数が瞬時に切り替わることを体験してみます。
その手段としての呼吸という動作へのフォーカスを。

ただし逆の立場なら、少なくとも泥に汚れた靴で人の心に踏み込むような真似はしないことです。





幸せとはそのように感じる心の状態をいう

おおつるぼ(シラー・ぺルビアナ)に合わせる photo 宮本章光

おおつるぼ(シラー・ぺルビアナ)と呼ばれる種類のようです。
忙しく通り過ぎてしまえば決して注目されることのない道路脇に、ひっそりと。
そして、必ず昆虫たちと戯れる姿がそこにあります。


連休。そこに続く連休明けの勤務日を迎えようとしています。

人が作ったカレンダーに合わせ行動し、人混みにまみれ疲れ果て、人が作った会社で、人が作った仕事を繰り返す。
持って帰って取り組むはずだった業務課題は、一度も目を通すことなく翌日のデスクで再び対応を迫られる。

それを仕事と呼ぶのだそう。
それがご自身の選択ですか。
わたし自身もそんな生活を繰り返していた時期があります。
けれど何の役にも立ちませんでした。
強いて言うのなら、月次の給与を手に入れるため。そして、これは自分の人生をかけて取り組むことでは「ない」と確固たる認識を得るためのプロセスでした。


昭和と平成の大半を、そのように追われ続け、やがて病床に向かう。
わたしは、その瞬間から続く後の道を「乗り換える」ことが叶いましたが、そのまま「耐え抜いて・我慢して」生きてきた彼らは、今や軒並み大企業役員・傍系企業の社長職に名を連ねます。

彼らはそれを望んだから、望んだ通りに叶いました。
わたしは、それを望みませんでしたので、望まない通りに「いまこの時」を手に入れています。

どちらが良いかよくないか。
それは愚問でしょう。
それは必要のない質問です。
選択は誤りではなかったこと、ここに至って健康で、美しい生命存在とともに生きることができる。
選択は間違っていなかったことを、この期に及んで理解できる。


これを幸せと呼ぶのではありませんか。
幸せとは、わたしの立場においては貨幣資産を築き上げることではなく、美しい存在とともにこれから先に展開する新しい道を、共に切り拓くこと。その悦びを共有すること。

いずれの立場においても。
ですので、
我慢して・耐え抜いて、体を痛めつけ膨大な負の因果を溜め続け、引き換えに大企業のトップに名を連ねる、自分は裕福だと胸を張るのも、その一方の選択と希望が顕現化した証。


どちらも「望んだ通り」に結果を手にすることができます。それが仕組みだから。
ただひとつ異なることは、
「この先の世」では、どちらが求められているのでしょう?
これも愚問に違いありません。また、その答えはそれぞれの立場によって正反対かもしれません。


失われた平成30年間、その後半の20年と続く令和の数年で、何を蓄積し何を熟成してきましたか。
それが、この先の世で花開きます。
忙しく通り過ぎてしまえば、決して注目されることのない道路側に、ひっそりと花開く彼らの姿のように。

目立たず。けれども間違いなく自分らしく生きるその姿のように。
すべてにおいて満足感を感じられること、すなわち、それを幸せと呼ぶのではないでしょうか。
そして、
いまこの時に感じる、その心持ち・心に描くエネルギーが、時差を経てこの先の目の前の風景を形作ってゆきます。
これは大いなる仕組みなのです。





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