「考える・感じる」をともに満たす

考えずに感じよ。
そのように語られて久しい昨今です。
ところが、何をどのように感じればいいのか。
この段階から、すでに躓いてしまいます。
習っていないから「そんなことはできない」と。
わたしたちは、「心で感じる」ことさえも忘れてしまった可能性があります。
そして、知らぬ間にメインストリームに躍り出てしまったワードだけが一人あるきしはじめます。
「考えることはダメで、感じなければならない。」と。
しかしながら、そのように偏った教えは、少々リスキーな香りがします。
この言葉によって伝えられている本筋・核心は、
思考で弄りまくるのではなく、直感や心に響く感覚を大切にする練習をしましょう。との意だったはずなのです。
それが、伝言ゲームのごとく劣化コピーされてしまったのかもしれません。
語り手により、独自の主義主張がアドオンされ、また手垢にまみれ、まさに「流派」が生まれ、知らぬまに経典になってしまったのでしょう。
ですが幸いなことに、芸術やアート、文学の世界からヒントを得ることができそうです。
絵画はその最有力候補かと感じます。
もちろん、文学も同じく。
そこに描かれているのは、作者の意図によって創り出された世界そのもの。
意識を寄せてゆくことで、その独自の世界に引き込まれます。
描かれているものが「文字」であれば、さらに鮮明に。
そして、写真であれば、よりストレートに明確に。
そこは、現実でもなく夢でもない、ある種の不思議な世界が展開されているのです。
そして、ハッと氣がつくのは…。
考える・感じる。
これを共に満たしているのではないのか?と。
な〜んだ、別々のものじゃなかったんだ。と。
多くの人たちの伝言ゲームに付き合っているうちに、
自分自身が、見えない鎖に繋がれ、自分から制約を課し、本末転倒な世界に囚われてしまっていたことに氣がつきます。
見て・観て・読んで・味わって。
そのプロセスには、頭で考えることと、心で感じる感覚的な感触と。
同時に、そして両刀使いできてるじゃないか。と。
無理に分離しなくてよかったのですね。
メインストリームに乗ったワードや名言的な響きに翻弄される必要がないこと。
まさに、ここでも学びと体験を得ることができたのでした。
感じる。考える。
ともに使いこなしてみませんか。
と言いますか、元々、それらは表裏一体だったのですね。
ともにセットで味わう、この地の約束ごと。あらためて目が覚めるとともに再認識する瞬間です。
わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。
2023/07/01(Sat) 20:31:04 | New Age