まず味見(あじみ)してみませんか

まず味見してみませんか。
まずは口に入れてどんな感覚になるでしょうか。
これ、
乳幼児が辿ってきた道ではないかと思うのです。
もちろん、毒を口にしてはなりませんし、体に害になるものも同様です。
(笑えない現実を目の前に突きつけられている現在の世の中ですが、そこにフォーカスしなければ、もう一切シンクロしませんので、別世界のお話になりました:現在そして近未来にはもはや創造されない世界となったことを実感しています。)
乳児の場合には、親が責任を持ってリスクを回避していると思われますし、成人の場合は、その分別は人生経験の中で培われてきたことでしょう。
ここまでは比喩表現なので、実際に「口にするかどうか」という感覚のお話ではなく、まず体験してはどうだろうか。という論旨です。
大人になり年齢を重ねるほど「頭でっかち」になり、まず考えるところから入る。
そして、理屈と理論に挟まれ身動きができなくなる事例、数多く見てきました。
その泥沼を回避する、あるいは抜け出すための教科書は、
-- 考えるよりまず動け
-- 悩むよりまず走れ
-- 意識するだけではなく行動せよ
このような感じでしょうか。
ただ、闇雲に動いてしまうと、それまで醸成したイメージのエネルギーが吹っ飛んでしまうのです。ですので、物理的な行動が伴う場合はそのイメージの延長線上において拡大できる行為に限る。という条件つきでしょうか。(個人的感覚・個人的体験)
わたし自身は、実際に肉体を使って行動してしまうと、まさに醸成・熟成しかかっていたパワーが瞬間に消滅するので、その前に「イメージの中でまず【味見】してみる」というプロセスをもう一段階経るように変えた途端に、受け取る感覚が激変しはじめました。
何も、実際に口に入れなくて良いですし、口に入れるものでなくて構わないのです。乳児期の口に入れて体験する感覚と同じだと感じています。
口に入れて味わってみたらどんな感じかな?(これ自体も食べ物ではなく比喩表現です)というところまでイメージを拡大するのです。
この味見そのものも「イメージの中」で、です。
この、もう一段階分、余分かもしれないとさえ感じる「心の中での味見」の工程を経ることによって、極めて現実的、且つ鮮明にそして鮮烈に感じることができるようになってきました。
要は、より明確にイメージをするプロセスを何段階も経ることにより、アウトプットの正確性向上を果たせるのではないかと思われるのです。
いま、心に描く・抱くものが目に見えないフィールドにエネルギーとして生じ、それがこの顕在界に影響を及ぼすということ。
続いて、時と形を変え、その力が戻ってくるという構造。
それこそが因果の仕組みに通ずるのだというところにまで理解が到達しますと、「まず心の中で味見をする」のは、そこに望ましいエネルギーを生み出す結果に繋がり、かなり重要性は高いはずだと感じるようになりました。
併せて、考えずに走れ…的な教科書は、決して間違いではなかったのでしょうが、物質次元特有の「物質社会地球の歩き方」だったのだな、とより理解が深まります。
そうして心の中に描くものが自分自身の現実となってゆきます。
より正確性を高めるためにも、まず、味見をする。
そう思えば、そのようになる。
当たり前の仕組み。
極めてシンプルな仕組み。
ここにさらに「味見して感じる」工程をプラスしてゆきます。
素晴らしい能力を与えていただきありがとうございます。
このうえないパワーを取り戻すことができたことに深く感謝いたします。
わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。
2023/04/25(Tue) 21:33:52 | New Age