「許諾」という名の印籠(いんろう)

印籠(いんろう)というと水戸黄門のTV番組を思い出す。
「この紋所が目に入らぬか!」「ははぁ...っ」という、アレである。
すでにご存知ない方も多いかもしれない。
写真を撮るという仕事をしている限り、主たる被写体以外に結果として写ってしまう、必要としないものが存在する。
それは、スタジオのように不必要な要素を全て排除した空間以外では常について回る。
特に、屋外で撮るスポーツの場合には背景に観客や一般の方が写ってしまうケースがある。
望遠系レンズの場合、背景と被写体との相対距離によっては、大きなボケによりその頻度は下がるが、そうでない場合も結構ある。
こうした「望まないモノや人」についての大変厄介な事項。
「許諾」だとか「掲載に対する了解」という言葉に表される事柄である。
苦労して撮影しても、そこに写っている人の了解は得ているのか?
と聞かれると、No.である。
そもそも、意図せず写り込んでしまったもの(人)に対し、一つづつ了解をとることなど現実には不可能である。
また、その場の雰囲気を伝えるためにもっと違った絵が欲しい、と要望され撮影する被写体が「人」である場合には、撮影者自身が、被写体となった一人一人に、その都度了解を得るために走らなくてはならない。
「人の絵が要る、というご要望があったから撮ったんですけど...」ということになる。
こうなると、もう撮影者としての仕事の範疇を越えている。
結局は、当たり障りのない絵を撮ることになるのであろう...。
現実には、1,000カット撮影した中で990カットは没にする。
歩留まり、僅か1パーセント!(まぁこれはもっと上げることは可能だが)
目の疲労と足腰・腕の疲労、99パーセントを捨て選別する作業時間、そしてストレージへの投資...。
リスクは大きい。
このカットもあと一段半程度絞ると、向こう側の観客の表情まで見えるようになると思われる。
考えること、そして対応しなければならないこと、また操作にフィードバックしなければならないことは大量にある。
「好きなことやって稼ぎになるんやから結構やなぁ」
と、気楽に言葉をかけてくださる方が居る。
声をかけて戴くこと自体は有難い。それに楽しく機嫌よくやっているので問題はない。
が、そうそうラクでもないもの。
代わりに一日やってみますか?
そして「許諾は得てるのか?」と一言、言葉の印籠を差し出されたときの気持ちも味わってみて欲しい。
2008/05/13(Tue) 22:06:06 | others