地に足をつけるとは・行動するとは

もういいでしょう。満腹。
地に足をつける。とは、
浮ついた心を戒めるもの。
愛だ・光だ、と叫ぶのも、その中に含まれる一つの誤りでしょうか。
心の中に汚れた波長を抱いたまま「口先だけ」で語ってみたところで何の説得力もないように見えます。
言葉に表す前に、心から湧き上がりとめどなく溢れ出る状態になる。
その恍惚感にも通ずる感覚・エネルギーそのものが、愛であり光であると感じます。
日々満足に生かせていただけることこそ幸運の極みなのであって、貨幣資産増大のための幸せ引き寄せ...といったような下心に根ざした感謝なども同類かもしれません。
言葉に発せずとも、数限りない生命や仲間、大いなる自然、そしてその仕組みに対し心から注ぐ暖かい波長と感謝の氣持ち、その感覚。
人だけではなく、すべての生命・存在に対する感謝の心、その大きく暖かく輝くエネルギーこそが愛であり光であって、カネ儲けが裏に潜む「感謝も愛も光も」、そこには大きな違和感しか感じません。
地に足をつける。
とは、まさにこの部分の本質を突いているのであり、言葉面(づら)だけで愛だ光だ、と叫ぶことではないでしょう。
本心から溢れ、心の底から止めどなく湧き出すもの。感謝の心。
しっかりと地に足をつけてその感覚を追求しましょう。それが次の世で学び体験することですよ、と教えてくれています。
同じく、行動する。
とは、物理実体の体を酷使し走り回ることではないはず。
忙しい忙しい...と、「心を亡くして」いるから、本質を見失います。
借り物の体を極限まで痛めつけ、よくないものを食し、よくない言葉を発し、その結果さらに大切な体を痛め続ける。
挙げ句の果てには「苦あれば楽あり」自分はこんなにも苦しんだんだぞ、と、それを勲章にする社会。
その裏側で仕組まれた壮大な隷属化の歴史を知ろうともせず、何の疑いもなく受け入れるだけ。
行動するとは、
物質次元でモノを操ることではなく、心が描き上げるその類稀な巨大な力の使いこなしのことである、と理解したはずです。
生活のために。稼ぐために。
その言葉を免罪符にし、いつまでも変わろうとしない姿勢。忙しすぎる。を印籠にして考えることを拒否する態度。
その割には、SNSは鮮度がイノチ!などと、そのレイヤーに居続ける愚行を繰り返す。
あろうことか、
変わること・変わり続ける限り「無に至る境地を得ることはできない」などと、変化そのものを否定してしまう。
これも本質を取り違えてしまった一つの事例ではないかと。
地に足をつけ、行動する。
それは、うわべだけのワードを念仏のように唱えることではなく。
そして、コトの本質を知ろうとせず負の因果・業を重ね続けることでもなく。
よって、学び足りない人には再教育の道があるとされます。
もちろん、それらのプロセスを体験したからこそ学べることではあります。自分も同じ過ちを繰り返しました。
本質を追求し、本質を理解し、新たに学ぼうとする意欲と、ともに響き合える同じ波長を束ねる。
それがこれから先に求められる姿勢ではないかと感じます。
少なくともこの先は、ごちゃ混ぜでノイズの悪影響が盛大に生まれる土台そのものを作り替える必要があると判断され、いま大建て直しが行われているのだと。
しかしながら、
自らの心から望む道を描き出さない限り、何ら変化することはないのです。
それが仕組みだから。
そういう仕組みだから。
2024/03/01(Fri) 12:07:31 | New Age