「変わり続ける」が標準仕様

変わる。
それは違うと言われましたが、わたしは「変化し続ける」こそが標準仕様だと感じています。
--変わるのではなく無になる。
--そうでなければ永遠に変わり続けることになり答えが導き出せる状態に至らない。
--そうでなければ悟りに到達することはできない。
はい。その観点とその境地は理解できているつもりです。
しかし、
現時点では、その高い境地に到達する以前の状態であり、その低位を脱出するプロセスが必要だと考えます。
少なくとも「初級編・初等教育レベル」である以上、それらの段階から上を目指し階段を登り続ける。
その学びの行程を歩むことによって、より上位の意識に到達できるはずですから。
だから「変わる」必要があると考えます。無を語ることができるのは、そのあとです。
もうひとつ重要なファクターがあるように思われます。
それは、
何もかもごちゃ混ぜにしている状態では、そうした論点に達する以前の状態であり進化が叶わないことを。
そのためには、まずは「カテゴライズ」のようなプロセスを経る必要があるはずだと。
絵をお描きになる方は体感されているでしょう。
絵の具のパレットは、各色ごとに同じ色を保存する場所を決めているはずです。さもなければ「必要な色」を必要なタイミングで選択できないから。
この地は、遥か昔に「自然観察園」のような、あらゆる生命を共存させるテーマパーク的な場にしたかったのだと語られています。
ところが、その「ごちゃ混ぜの状態」では、いずれカオス化し滅亡に至ること。この期に至るまでに5度も6度も失敗が証明されたと伝えられています。
あらゆる存在が「共創し繁栄」する姿を狙ったはずなのに「競争し破滅」に向かう。
それが「ごちゃ混ぜ」にするという実験の行き着く先であると。
よって、もう6度目や7度目の失敗は繰り返すことはできない、とされます。
そのためには、
まず、棲み分けをする。
例えとして語られる言葉には「海のものと山のものは一緒に住むことはできない」という語りがあります。
水が必要な魚は山では生きることはできませんし、その逆も然り。
だからこそ、
今回の大転換期において、それぞれ相応の行き先へ「振り分けされて」いるとされます。
体をお返ししたあとは、自分が選択し自分が望んだ先へと。
こう言うと必ず返るワードがあります。
「君はその世界を見たことがあるのか」
「前世も来世も科学的に証明されていない」
「そんな戯言を語る者は頭と心を病んでいるのだから病院へ行け」と。
しかし、そろそろそうした旧社会・旧世界の洗脳から脱出する時間を迎えていることは確かでしょう。
前出のワードは、過去記事でも何度も何度も触れ、検証し、科学こそが洗脳だったことにも。
これも少し前に書きました。
「裸の王様になっている君、恥ずかしくないか。」と、上から叫んだ人自身が裸の王様であったこと。
さらには「ツボを買わされるなよ!」と、高いところから語っていた人自身が、後生大事にご自分が「科学という名のツボ」を両手で抱えた裸の王様だったことが白日にさらされている現在。
いまこそ、ごちゃ混ぜを卒業する機会だと感じます。
現在、わたしたちには「直感」という最強のツールが備わっていることに氣がつきはじめました。
且つ、自分が心に描くものが目の前の現実として顕現化してゆく仕組みにまで理解は到達しました。
であるならば、この先は自ずと見えてくるでしょう。
望むものを創り出す。
そのためには、必要な道を都度選択し続ける。元々存在していないのですから創り上げる。
間違っても、他人が作った道を見て「荒れてるぞ」だとか「曲がりくねりすぎやろ」などと、そこにフォーカスしないことです。
これが、取りも直さず「変わり続ける」ことではないのかと。
「変わり続ける」が標準仕様。進化と成長、拡大のために。
「種」の段階で無を語ってみても、芽さえ出ずに腐ってしまうだけです。
無からは何も生じない以上、そこに進化も進歩も生まれません。
わたしはそのように考えますし、今生、勘と直感を選択しなかった場合には大失敗を重ねたことが、逆説的に人体実験の結果として証明されてきたように思います。
本日も共鳴・共創できるエネルギーをありがとうございます。
2024/02/01(Thu) 11:53:55 | New Age