「そこにある」ものを受け取る

生き物であるかどうかにかかわらず、すべての存在は固有の周波数とエネルギーを持っている。
そのように伝えられてきました。
こうした万物の仕組みを「教えられずに育った」のですから、知らずとも当然なのかもしれません。
しかしながら、
自分から「知ろう」としない限り、それは身につくことがありません。
何かを見る。どこかを観る。
あるいは、何かを感じてみる。
そうした瞬間に、そこに存在するさまざまな力に波長を合わせない限り、そこにあるものを受け取ることはできないのです。
同じキャリアのスマホでなければ通信できないでしょう。周波数が異なるからではないでしょうか。
同じチャネルに合わせなければラジオは聞こえないでしょう。周波数が異なるためでしょう。
この例え、どちらも「目に見えない」ものです。
ところが、
何かそこに存在する力を感じようとする・しないの重要な分岐点は、
「そこには何もない」
「目に見えないものなどあるはずがない」
といった、強固な教育洗脳の垢(アカ)を洗い流し済みなのか、頑固にこびりついたままなのか。
ここに極めて重要なポイントがあります。
ここに氣がつくかどうかによって、この先の世界が大きく変わってしまいます。
そこにある存在が持つ固有の周波数とそのエネルギーに心を合わせて(併せて)ゆきます。
一旦、味見をしてみるのです。
そして、それが「袖丈(そでたけ)が合わない」と感じれば離れるだけのこと。
心地よく波長が合うのなら、そこに新たなエネルギーが創り出される。といった展開があるはずです。
新たに創り出す。
とは、自分から能動的に波長を合わせてゆくことが、まずありきだと思い知ります。
そして、そこから望むものを選択し受け取ってゆきます。あるいは共同創造してゆきます。
これこそが「行動」であるはずなのです。この先の世を生きてゆくためには。
「行動なくして結果なし」
と、走り叫び続ける人に限って、この最重要ポイントが完全に抜け落ちていることがわかります。
精神性の拡大と成長は、物理次元の物質感覚と両輪であること。
蔑ろにされてきた、この「もう片方」の重要エレメントを思い出し、それを最大限に活用することは、この先の道標(みちしるべ)となるはずです。

わたしが感じた心、
「その一枚の中に込めた心」を受け止めていただける方々と、肩を張らず、ともに心から響き合える感動を共有してゆきたいと思っています。
それが、望ましい未来を創り上げる方法だと思うからです。
数を追い、人と比べる必要性。
それらを捨てたときに、初めて見えてくる風景を。
わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄ましませ。
弥栄ましませ弥栄ましませ。
2023/12/27(Wed) 12:26:35 | New Age