なぜ基本というものがあるのか考えてみる

表現はすべてが自由で、何をどう撮ろうがその人の感性である。
という考えに異論はない。
ただ、その表現や作品を「見た人がどのように捉え、何を感じるか?」ということを考えてみる必要はないだろうか。
過去から一般論として語られてきた大多数の人が感じる認識とでも言うべき模範的な基準や基本というものがある。
温かい料理は、食する人が「温かい状態だから美味しく」感じる、という基本的な条件があるはずだ。
暖かい料理として作られた蕎麦は、冷えて伸びきってしまうと多分美味しくない。だが、ある料理人が「自分は冷めて伸びたものが好きだから」と、客に対し「冷めて伸びた麺」を出すとどうだろう?
あるいは、アイスクリームなどの冷菓を、「ドロドロに溶けて温かくなったクリーム」が好きだと感じるショップオーナーが、「ドロドロのヌルいクリーム」を客に販売することができるだろうか?
写真表現の世界でも「基準となる見せ方」といった考え方が存在する。
明るく見せる方が、伝えたいことがより伝わりやすい、という被写体やシチュエーションがある。
そうした被写体や環境であるにも関わらず、自分は暗めのイメージが好きだから、と、単に露出不足の状態で撮ってしまう。
暗めのイメージが好きなら、暗めのイメージにマッチするような光や影を生かした環境において、暗めの方が良い結果を生む作品にしておく必要がある。
冷たい蕎麦が好きなら「ざるそば」にすれば良いし、温かいクリームが好きなら「スープ」という料理を作れば良い。最終アウトプットを変えておかなくてはならない、ということ。
暗く撮るだけなら単なる露出不足。
見る人にとって、冷めて伸びた蕎麦や、溶けてドロドロのヌルいアイスクリームを出しているのと似ているかもしれないということを忘れてはならないと思う。
自己満足の世界にとどめ、壁にプリントを掲示するだけなら何でも良い。しかし、少なくとも、見てください、というスタンスである限りは。
2013/03/30(Sat) 17:55:19 | others