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宮本章光/宮本陽の視点「開闢」And EM Official Blog

みやもとあきらのしてん AKIRA MIYAMOTO@And EM

Archives [All Entries:2620]

選択しその流れに委ねる

流れを感じる photo 宮本章光

流れの早い場所、遅い場所。
明るい部分、暗い部分。光輝くところに沈み込むところ。

もはや語り尽くされ、もう言葉に落とし込む必要さえもありません。
対(つい)になる存在。
対(つい)でなければ存在できない、この地。


片方だけを望まず、
片方だけを欲せず。

そのように「片方だけにフタをして閉じ込める」ことによって、バランスを失った力が限界点を超え破裂します。
両方を認め、両方を尊重し、両方を受け止め受け入れる。
ここまで理解し体得したあとで。
ここまで到達したあとから、自らの望むレイヤーを選択してゆきます。


選択とは、心に描くもの。
選択とは、意識するもの。
同じ周波数であるならシンクロする大原則・法則により、自然に引き合い、自動的に響き合う。
但し、
その前段階で「選択」するレイヤー・フローは、自分で能動的に選ぶ必要があります。

ここを踏み違えない限り、自ずと流れが生まれ勢いを増してゆきます。
そして、
その流れに身を委ねます。

そこには、心地よさと平静・平穏な波動しか存在していません。
もしそうでないのなら、
もしそう感じられないのなら、
それは、自らが選択したレイヤーが「心地よくない負の力」に満ちたものであったという証明であると氣がつきます。

流れに身を委ねる photo 宮本章光

わたしが感じた心、
「その一枚の中に込めた心」を受け止めていただける方々と、肩を張らず、ともに心から響き合える感動を共有してゆきたいと思っています。
それが、望ましい未来を創り上げる方法だと思うからです。

数を追い、人と比べる必要性。
それらを捨てたときに、初めて見えてくる風景を。

わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

「心に思い描き抱くもの」に責任を持つ

息づく苔の世界 photo 宮本章光

目の前に出現するのは「過去に自分が創り出した心の成果物」。

だから、
何を想うのか。
何を心に描くのか。

発言に責任を持つ。
それはすでに過去の言葉となり久しく、その次の時代を迎えているからこそ「思い描き抱くもの」に責任を持つ。


すべての根源は、ここにあること。
万物は、すべて思いから創り出されていること。

ここまで学び終えた人たちは、自ら望む「結果」を生み出すために「いま心に描く」氣持ちを・感覚を・感触を大切にするようになります。
それは、思慮不足で能天氣で、行き当たりばったりな生き方などでは決してなく。

そのように「望ましい近未来」が創り出されては困る、臣民を支配する権力者層が悪意を持って仕組んだ世の中に翻弄される愚は、もう繰り返しません。
過ちを二度と繰り返さないと誓うのは、いまここでこそでしょう。

それを今世・今生で学び体得すれば、晴れて卒業。
そしてこれからは、望ましい道を自分の心の力によって創造してゆきます。
すべての生き物、すべての生命とともに。

息づく苔の世界 photo 宮本章光

わたしが感じた心、
「その一枚の中に込めた心」を受け止めていただける方々と、肩を張らず、ともに心から響き合える感動を共有してゆきたいと思っています。
それが、望ましい未来を創り上げる方法だと思うからです。

数を追い、人と比べる必要性。
それらを捨てたときに、初めて見えてくる風景を。

わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

夜の街に吸い込まれる人々

夜の街に吸い込まれる人々 photo 宮本章光

常夜灯に引き込まれる昆虫のように。
夜の街に吸い込まれるひとたち。


忙しすぎて〇〇できない。
暑すぎてXXない。

原因を前置きして、〇〇だからXXである式の論説。
これを体験する場所、地球。
これを学ぶ地、地球。

そのための教室でしたから、大いに学びたいと思います。
けれども、
もう存分に学び終えたのなら、そこから脱出しませんか。
そしてそれは、まず自分の心の中で生み出した上で行動に移すことが必要だと思うのです。


〇〇だからXX。
〇〇だからXXできない。

その言い訳を正当化するために、夜の街は存在しているのかもしれません。
でも、
その光り輝くネオンサインは、高電圧が流れる夜行性飛翔昆虫を引き寄せて駆除する機器と同じ危険物だと氣がつく時期は、もうとうの昔に終わっているでしょう。

口にする食べ物。
口にする、その場で語られる言葉の数々。
いずれも、必ずしも体によいものだとは限らないのであり、そこに放つ言葉としてのエネルギーは、いつかきっと自分に戻ってくるはずです。

いつまでも旧来の思考の中に居続ける限り、
永遠にこのネガティブループを繰り返し、魂の成長を「自分の意志によって拒否」していることになるのだと。


美しい夕空、美しい夕焼け色を披露してくれる、この大きな懐。
自然という大切な存在・仲間に、果たして意識はフォーカスできたでしょうか。
それとも、ネオンサインに夢中になりましたでしょうか。

まだ続けますか。
まだ学び足りませんか。

夜の街に吸い込まれる人々 photo 宮本章光

わたしが感じた心、
「その一枚の中に込めた心」を受け止めていただける方々と、肩を張らず、ともに心から響き合える感動を共有してゆきたいと思っています。
それが、望ましい未来を創り上げる方法だと思うからです。

数を追い、人と比べる必要性。
それらを捨てたときに、初めて見えてくる風景を。

わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

語りかけるからこそ

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会話をする。
そのように仰る方が増えてきました。


植物と会話をする。
そう思えば、そのようになる。
そう思えばこそ、その心が現実になる。

自分から能動的に語りかけるのです。
何もせず口をあけて待っていればベルトコンベアが何もかも運んできてくれる。
そんな洗脳を早く解いて、自らの意志で選択をする時代に入っています。

自分で意識すること。
それは、すなわち自分の選択であること。


語りかけるからこそ、応えてくれます。
そこに存在するすべての生命とともに。

語りかける photo 宮本章光

わたしが感じた心、
「その一枚の中に込めた心」を受け止めていただける方々と、肩を張らず、ともに心から響き合える感動を共有してゆきたいと思っています。
それが、望ましい未来を創り上げる方法だと思うからです。

数を追い、人と比べる必要性。
それらを捨てたときに、初めて見えてくる風景を。

わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

この国にある「水に流す」という言葉

水に流すというこの国の言葉 photo 宮本章光

流れる水を眺めます。
流れる水の速さを感じてみます。

多くのものを一氣に押し流す、その勢いと大きな力を受け取ってみます。


「水に流す」
そのことばから受けるイメージは、
不都合を白紙撤回して、初めからなかったことにする。といった意味合いが強い印象があります。
しかし、
大きな転換期には、一旦「すべてを壊して一から作り直す」必要があり、そのためにすべてを水に流す。
そういった感覚としても語られることが多いはずです。

まずは更地(さらち)にしてから、あらためて土台を作り上げる。
一旦、よくない膿(うみ)を出してから、治癒力を高めてゆく。
このプロセスでは、
見た目には「すべてを壊して」いるように見え、同時に大きな痛みをも伴うでしょう。

ですが、
水に流す。その言葉が持つ大きな力は、その痛みや苦しみをも包み込む。そんなあたたかささえも感じることはないでしょうか。

万物に宿る神。八百万(やおよろず)の神。
水の神、水の女神には、そうした包容力があることを、この国の言葉に込めて伝えているのだと感じます。

大きな力。
その力が放つ波長に心を合わせてゆきます。
この力を、たとえ僅少でも受け取ってゆきます。

水に流すというこの国の言葉 photo 宮本章光

わたしが感じた心、
「その一枚の中に込めた心」を受け止めていただける方々と、肩を張らず、ともに心から響き合える感動を共有してゆきたいと思っています。
それが、望ましい未来を創り上げる方法だと思うからです。

数を追い、人と比べる必要性。
それらを捨てたときに、初めて見えてくる風景を。

わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

そのまま

美しくそのままそこにある photo 宮本章光

そのままでいい。
そのまま。

無関心、というわけではなく。
無意識、でもなく。

興味を捨てたわけではなく。
興味の対象に変化が起きたわけでもなく。

自分の心に響かないものから離れます。
自分の心に響かないものが消えてゆきます。

「6度目だとか7度目の正直」と語られるモノの時代が終わったことを肌で感じています。

美しくそのままそこにある photo 宮本章光

わたしが感じた心、
「その一枚の中に込めた心」を受け止めていただける方々と、肩を張らず、ともに心から響き合える感動を共有してゆきたいと思っています。
それが、望ましい未来を創り上げる方法だと思うからです。

数を追い、人と比べる必要性。
それらを捨てたときに、初めて見えてくる風景を。

わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

光る・輝く・存在する

光る輝く草木たち photo 宮本章光

いまを生きる。

この地だけに存在するとされる「時間」。
それならば、
与えられたその時を、目一杯楽しみます。

数多くの仲間たち。
すべての生きとし生けるもの。
ともに時間を体験し、ともに学び成長してきました。
そして、
いずれ「その期限」は終了する時を迎えます。


その時まで、光り・輝き・存在の証を表現してゆきます。
その暁には、生きた証を「記憶」として両手に抱き、心に収めます。

「6度目だとか7度目の正直」と語られるモノの時代が終わったことを感じます。

光る輝く草木たち photo 宮本章光

わたしが感じた心、
「その一枚の中に込めた心」を受け止めていただける方々と、肩を張らず、ともに心から響き合える感動を共有してゆきたいと思っています。
それが、望ましい未来を創り上げる方法だと思うからです。

数を追い、人と比べる必要性。
それらを捨てたときに、初めて見えてくる風景を。

わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

大きな力・小さな力・ともに尊い

川の流れから受け取る大きな力 photo 宮本章光

大きな力、小さな力。

大きなものほど良い。
大きなものほど優れている。
そんな世の中でした。これまでは。

その昔、昭和の時代には「大きいことはいいことだ。」
といったキャッチが流行り、CMでも繰り返し流されたこと。ご存じの方もいらっしゃることでしょう。


大きいことだけではなく、小さいもの(こと・ところ)にも、同じように氣を配ってゆく時代に移行しています。
大きさや強さではなく、より共感できるもの・より響くもの。
ここに価値感を見出すフェーズに入ったこと。もう実体験を重ねていらっしゃるはずです。


右上の鏡のような水面には、対岸の木々が映り込んでいます。そして太陽も。
右下のシャドウ段差の部分は、冷たい影がその存在をアピールします。
そして、
生まれては瞬時に消滅する、夥しい数の氣泡。
この泡も、大・小、無限の組み合わせが存在していることに氣がつきます。
大きさや面積だけ、派手さや見た目の押し出し感だけでは語れないものがあるはずです。


大きいことだけを選択したい。その意思表示をする方はその世界が現実になるでしょう。
但し、この地はそのための場所ではなくなるとされ、永遠のお別れ。

大きいことだけにポイントを置かず、共感の度合い、響き愛の具合。
ここにこそ重要性を見出したいとの意思表示をする方々は、それが目の前の風景になってゆくことでしょう。

何にフォーカスしますか。
何を創り上げてゆきますか。

川の流れから受け取る大きな力 photo 宮本章光

わたしが感じた心、
「その一枚の中に込めた心」を受け止めていただける方々と、肩を張らず、ともに心から響き合える感動を共有してゆきたいと思っています。
それが、望ましい未来を創り上げる方法だと思うからです。

数を追い、人と比べる必要性。
それらを捨てたときに、初めて見えてくる風景を。

わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

「なんとなく」の積み重ねが答えとなる

茂る photo 宮本章光

なんとなく。

このような白黒はっきりしない感覚は「良くないもの」として教育されてきました。
だから、
答えは一つだけ。

そんな刷り込み。
そんな思い込み。


旧い教育洗脳から逃れ、また、しがらみを手放す人が加速度的に増え、ついにメインストリームから「外れた」ように見えます。
だから、
答えは「人それぞれ」。

そして、
なんとなく良いと感じるもの。
なんとなく心地よいと思うもの。
この選択を続けることによって、その選択の積み重ねが「結果」として目の前の風景を具現化してゆきます。


なんとなく。
それでいい。
なんとなく響くもの・感じるもの。
これからも選んでゆきます。

違和感の対極に位置するもの。
何を心に描きますか。
何を実現させますか。

茂る photo 宮本章光

わたしが感じた心、
「その一枚の中に込めた心」を受け止めていただける方々と、肩を張らず、ともに心から響き合える感動を共有してゆきたいと思っています。
それが、望ましい未来を創り上げる方法だと思うからです。

数を追い、人と比べる必要性。
それらを捨てたときに、初めて見えてくる風景を。

わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

生きているという感覚

色鮮やかに咲き誇る photo 宮本章光

道すがら、出会う草花たち。
そこに意識を合わせない限り視界に入ることはなく、その存在さえも氣がつかないでしょう。

実際には、もっと鮮烈な印象があります。
その色彩感が放つエネルギーは、「色飽和」などという専門用語をここで持ち出すことなく、さらに強く強くアピールしてくるのです。

花によっては、ごくごく小さな虫たちが集まっている様子が観察できます。
風向きによっては、より優雅になびく姿を観察することができます。
しかし、
くるりと後を振り返ると、
そこには幹線道路を走る、多くの車、くるま、クルマ。

騒音も排ガスも振動も、彼らには何ら良い影響とはならないはずでありながら、精一杯そこに存在している姿。
まさに、いま存在していること、いま生きていることを体現しています。


歩き、場所を移動するという能力、そして言葉という媒体によって会話するという能力を捨てた代わりに、20種類もの感覚を持ち得たと言われる植物たち。
わたしたち人間は、たった5つの感覚(五感に加えて第六感)でさえも、十分に使いこなせていないこの現実。
ですが、
ようやく、スポイルされていた潜在能力を思い出しつつあるはずです。

少なくとも、彼ら植物たちがそこに存在し、「生きているという感覚」を受け取れるようになっただけでも、大きな飛躍だと感じています。
さらに、もっと、深く大きな能力を「思い出して」ゆきたく思います。

ともに創り上げてまいりましょう。
本来、わたしたちが持っていた力強い心のエネルギーを使いこなしながら。

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わたしが感じた心、
「その一枚の中に込めた心」を受け止めていただける方々と、肩を張らず、ともに心から響き合える感動を共有してゆきたいと思っています。
それが、望ましい未来を創り上げる方法だと思うからです。

数を追い、人と比べる必要性。
それらを捨てたときに、初めて見えてくる風景を。

わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。


●関連投稿
[Link]【動かない選択で手に入れた20種の感覚】2022/10/09(Sun)

10円玉を差し出してくれたおばあちゃま

夏の空ヘッダー photo 宮本章光

わたしの幼稚園時代の出来ごとです。

当時、市バスを利用して通園していました。
親子連れではなく一人での乗車だったからでしょうか。小人料金が必要でした。
あまり記憶は定かではありません。

その料金、おそらく15円だったか、その前後の金額でした。
要は「硬貨を2枚使う」運賃だったと記憶しています。

降車時支払いか、乗車時支払いか。
これも曖昧な記憶ながら、わたしは、支払いの段階で「一枚の硬貨を落としてしまう」という失敗をしたのでした。
代金15円だとして、10円玉と5円玉の2枚を料金箱へ投入する直前に、10円を落としたのです。
当時は、ICカードやIC定期券など存在していませんので、すべて現金のみです。

慌てて床を見回しても、パッと見の範囲には見当たらない状態です。
財布は鞄の中。
通園バッグですから再びその中から財布を出して...という作業になります。
相当慌てたことだけが記憶に残っています。

バス運転席のすぐ後には、ある程度年配のお婆さまが乗車されていました。
この方、年齢はまったく不明ながら、幼稚園児の視点では60〜65歳程度に見えました。
現在、自分がその年齢に到達してみますと、実際はもっと上の世代かもしれない、とは感じていますが。

その直後、
慌てて不足分の10円を財布から出そうとしているわたしの目の前に「黙って20円」が差し出されたのです。
座席に座ってらした、そのお婆さまの手の上に10円玉が2枚。

「おつりはいらないからね」
そんな発言が、そのすぐあとに添えられたように記憶しています。
とにかく、お金を落とし無くしてしまったことで頭が真っ白だった幼稚園児のわたし。
御礼の言葉も満足に言えたのかどうか。
そこにまで意識が及ばなかったかもしれない、と、55、56年もの年月が経ってから反省しきり。

そして、運転士さんは10円玉1枚だけを受け取って、あと1枚の10円玉は、後に座るお婆さまへ戻されたのではなかったかな、と。
この風景もあまり鮮明な記憶としては残っていません。なんとなく、そんな展開だったように。


よき時代でした。
心温まる経験。
これらもすべて、自分の感謝の氣持ちと御礼を伝えるという学びのプロセスだったと、思い返しています。

そのお婆さま、もうご存命ではないかもしれません。
一度、心の中からしっかりと御礼を伝えておきたく、文字に落とし込みました。
ありがとうございます。
この心の温かさを、これからの世を創り出す源として大きく拡大してゆきたく感じています。

阪急六甲駅と夏の空 photo 宮本章光

わたしが感じた心、
「その一枚の中に込めた心」を受け止めていただける方々と、肩を張らず、ともに心から響き合える感動を共有してゆきたいと思っています。
それが、望ましい未来を創り上げる方法だと思うからです。

数を追い、人と比べる必要性。
それらを捨てたときに、初めて見えてくる風景を。

わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

初期表示数を「3」に変更

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投稿の初期表示数を「3」へ変更しています。

過去、サーバーレスポンスが著しく低下し高い負荷となっていた時期がありました。
画像表示の影響もあるかと考え、1記事のみの初期表示として運用を続けました。

この数ヶ月で、イメージファイルをjpegからwebpへ変更したことにより、ファイル容量を軽減することが可能になったため、表示を「2」として数週間のテストを行っていました。

「2」でもまったく問題ない感覚を得られましたので、続いて「3」表示にて稼働を続けます。
これまで同様、
単一記事直リンクの場合は1投稿のみの表示で変更はありません。

変わらずお付き合いのほどよろしくお願い申し上げます。

流れる川に意識を馳せる photo 宮本章光

SNSとしてのnoteを終了

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SNSとして捉えた[note.com]を卒業することとしました。
過去から、このようにして袖丈の合わなくなったものから離れてきましたので、同じ感覚だと思っています。

以下、
最終投稿記事を、こちらOfficialにてアーカイブしておきます。
該当アカウントは削除予定。

-----◇◇◇-----

2014年4月のスタート時から、ことあるごとに何度もインターバルを作り休眠期間を置いては、記事内容をガラリと変更して取り組んできました。
そのたびにキャラクターを激しく変更し、テーマも極端に軸足を変えてきたものです。

ここしばらく、ログイン頻度の急減とともに「心に響く感覚」の大きな低下を感じていました。
先月7月末には、投稿頻度やサイクルの見直しによって、力を抜いて取り組んでみたい。と記載しました。
しかしながらこの半月を過ごし、自分の心に変化がないことを確認・確信しました。

思えば、数多くのSNSを楽しんできたこと。
わたしにとっては、GREE、mixiから始まって、CMSベースの雨後の筍のように出現したローカル(ニッチな趣味SNS)SNSを、両手に余るほどの数のサイトに登録参加しながら、事業創業後、ともに走ってきたことを思い出しています。
そして当時のメインストリームはfacebook。
激しくリソースを投下した時期でもありました。
ですが、
その裏側に見えるグローバリズムの行く末を危惧し、そしてそれを恐れ、すべてのコンテンツを捨てました。
(ま、実際には彼らはシャドウストレージに持ち続けているのでしょうが…。)

twitter(新生「X」)も役目を終えたと感じ、放置したままなので、いずれ清算する日がくるでしょう。
(DMオンリーで使っている方々がいらっしゃるので、勝手に削除すると音信不通になるリスクが残ります。)

また、Instagramに至っては、業務上の効果測定の目的を検証しながら、3回の新規登録・アカウント削除を繰り返しました。
しかし、その都度「袖丈が合わない感覚」とでも言いましょうか。自分には大きな違和感しか感じないプラットフォームであり、3度目の正直で退会し、その後の復活は二度とない。と感じ現在に至ります。


そしてここ、note.com(スタートアップ時は"note.mu")。
ご縁を繋いでいただける方々は、文章表現能力に長け、且つ大人の雰囲気とでも言いましょうか、とてもジェントルな方々ばかりです。
加えて、
共感できる。響き合える。そんな感覚を、数多くのSNSを食べてみたあとに感じることができた唯一の場所でした。


自分の感覚が「一時的に」合わなくなっているだけなのか?
と自問してみました。
しかし、ここで氣がついたこと。
それは、
この時代の大変革時期を過ごしているからこそ目が覚めたことでもありますが、結局は「人と繋がってその人たちと自分を比較する」という、プラットフォームとしての決定的かつ致命的な構造。
そもそも、SNS自体がそれを狙った臣民支配のためのツールだったのですが。

別に比較する意識など持たなくても。なのですが、
それは「よりわかり易く伝えよう」「より共感を得られるようにするにはどうしたら良いか」という視点。
これこそが、もはや旧い社会の仕組みであったのでは、と感じるようになったことです。

いえ、もちろん、
「より理解を深めていただくように努力する」のは当たり前です。
それはとても大切であり、この地で生きる限り必要であることに違いはありません。
いつもここに記しています、わたし流の言葉「物理次元の地球の歩きかた」を逸脱することはできないわけです。
しかしながら、そこに前述の「袖丈が合わない」「肩幅が合わない」ような激しい違和感が「同時に発生してしまう」こと。
ここにも両極の具現化があることを体感するわけです。


そして、ふと立ち止まってみます。
すると、
その両極の体験を、まだこれからも、
「わざわざ・これからも重ねて」
「自分から望んで」
やってゆく必要性を一切感じなくなるのです。
わたしにとっては。です。

そのリソースは、もっと別のものに投下したい。
この感覚。きっとご理解いただけると思っています。
折しも、人間として生かしていただける残り時間が視程に入るほどに、焦ることはなくとも、悔いなき使い方を心がけたい、とも思うようになりました。


「違和感」こそがコロンブスの卵であった、これまで過去の経験。
そして、直感や勘というものに、素直に従って生きてきたこれまでの歩みかた。

一時的に遠回りをしたと感じても、結局は、その直感に従った答えが正解であり続けました。
これこそが自分の人体実験でした。
そもそも現在2023年の8月まで、この借り物の体を維持し生かせていただいているのは、大きな節目節目で、間違いのない「直感に従った結果」であること。
これまでも多く綴ってきた通りだと思っています。
何度も訪れた大きな分岐点、その時々の判断を誤っていたのなら、すでにここに存在していなかったと思われます。


これまでのご厚情、さまざまな暖かい応援に、あらためて感謝申し上げます。
本当にありがとうございました。

月末を目処に、アカウントも削除する予定にしています。
膨大な時間を費やしたコンテンツに「もったいない」感覚がない、というと嘘になりますが。
お読みくださり、お付き合いいただきましたこと、重ねて御礼を申し上げます。

-----◇◇◇-----

当、Officialは、事業が継続する限り残してゆきます。
こちらでご縁を繋いでいただく皆さま、いつもありがとうございます。

わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

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美しくも哀しく

美しくも哀しく photo 宮本章光

時間が存在するこの地。
いつか期限が到来するこの地。

美しくも哀しく。
哀しくも美しく。

いまこの瞬間を可憐に彩る姿に。


わたしが感じた心、
「その一枚の中に込めた心」を受け止めていただける方々と、肩を張らず、ともに心から響き合える感動を共有してゆきたいと思っています。
それが、望ましい未来を創り上げる方法だと思うからです。

数を追い、人と比べる必要性。
それらを捨てたときに、初めて見えてくる風景を。

わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

おばあちゃんの知恵袋アーカイブ18本:転載


私の母方の祖母(大正生まれ:96歳で他界)が、今から約50年ほど前に私に語った言葉を、当時の記憶を辿りながら綴ります。
50余年も昔の言葉ながら今の時代にも十分に通用する内容であり、今こそ、その深い意味を日々の生活に活かすべき時、と考えています。
[宮本章光の視点/noteサテライトより2023年8月転載・移植]

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●「有限」を感じ楽しむこの地この生
Original=2023年6月19日 20:43

自分自身の残り時間がカウント可能な時期に入りつつあるからでしょうか。
「有限を楽しむ」
すべての事象・事項、あらゆるものに対する、その有限の感覚を大切にしたいと思っています。

残りが少ない。
と心に抱けば、残り少ない現実がクローズアップされるでしょう。
まだまだ残りは十分ある。
と意識を持てば、まだまだ如何様にも展開できる世界がライトアップされるはず。

どちらを選ぶのかは、その人自身、そしてその瞬間の感覚次第。


以前の記事【少しくらいキズがあってもいい】[Link]
で触れていましたように、
-----
負の力に蓋をするのではなく、見て見ぬふりをするのでもなく。
それをしっかり受け入れた上で、貴重な体験をさせてくれてありがとう。
と尊重し感謝へと昇華させます。
-----

このような、どちらの極みも味わい尽くせる。
そんな稀有な体験をさせていただけることに悦びの感覚が湧き上がります。


制限時間があるから、面白さや難易度が急上昇するゲームがあります。
まさしく、この地での「うまく行かない現実ゲーム」にも時間制限があるからこそ面白さが飛躍的に高められるのでしょう。
それは、このお借りしている体という物理実体を「使わせていただける期限」という意味において。


第3回目となる2023年の梅。
かなり色目も変化してきており、日々時間が流れていることを感じます。

いずれも、綺麗でなければならない。だとか、あるいはwebに出すのなら美しく撮影し、美味しそうに見えるように画像処理しなければならない。
そんな条件や制限を自分から設定せずに、「梅の神様」と会話してみたいと思うのです。
初めは、何も語らず・何も感じず、頑として固体のまま動じずコミュニケーションはできません。
ところが、
今回もウチに来ていただきありがとう。と感じながら眺めていますと、そこに熱量の変化とでも言うべき感覚でしょうか。暖かみが伝わってくることが判ります。
そして、ある瞬間を超えますと、突然、嗅覚に訴えてきます。
とてもいい香りとして、強い力が、ドンと送られてきます。
(それまでも周囲にはいい香りが満ちていましたが、さらにレベルを高めて突然強く押してくる感覚です。)

照明も満足には当たらず、薄暗い部屋の片隅に置かれています。
傷がある個体もそれなりに混ざっています。
でも、大変美しい「香り」のパワーを受け取りました。

おばあちゃんの知恵袋(マガジン)[Link] でも何度か触れてきていますように、すべてのモノ・生き物・対象には「神が宿る」という、日本古来の神道の心に通じるような教えの数々を、幼少時期に語ってくれた祖母。
いま、この世には存命していませんが、現在のわたしの横で、
「梅の神様に御礼を言いなさい。そうすればきっと美味しくいただけるようになるから。すべての食べ物には命があり神そのものなのだから。」
と、五十数年前と同じように語ってくれている氣がします。

そこには、
存命していないからこそ、その教えを心の中にリフレインできること。
有限であるからこそ、感謝の心を忘れずに過ごす生き方を大切にすること。
ここに意識が到達します。

有限を感じ、それを楽しむ。
素晴らしい体験をさせていただけるこの地の仕組みに感謝の氣持ちが溢れます。


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有名企業の食べ物を口にしない

●口にするものには十分すぎるほどに心配りを
Original=2023年6月9日 20:05

わたしの人生大失敗シリーズ(まさに連作になるほど繰り返しました)の、その根本の原因は「体を大切にしなかった」ことでした。
借り物の、この大切な体を痛めつけた因果は、大き過ぎたのでしょうか。
強制終了の合図が発令されたこと。この場でも繰り返し綴ってきました。

何を食べようと人の自由です。
何を口にするのも人それぞれ。

ですが、
口にするもので、且つ販売されているものに「体に悪いものがあるわけがない!」といった反論をする前に、ご自身で十分に調べ上げることです。
一旦、そこでキッカケを得たならば、決して元に戻ることはできないはず。
そこまで断言できるレベルかと思われます。

よく、webには誤った情報とノイズしかないから。
だとか、
国が許認可しているのだから。といった枕詞は要りません。

また、ここに来て「直感」を信じる!
といった言葉に共感できる方々が増えてきています。とても嬉しい時代になりました。
ところが、そう仰るわりには、まさに「体に悪い」とされるもの、あるいは化学合成により生成・構成される原材料が大半であるようなたべものを羅列されweb公開ている事例。少なくないように感じるのです。

直感・勘がどうも冴えない!
その言葉の裏側には、まさしく「食べ物」によって、その感覚や感情が著しく劣化してしまうこと。わたし自身、数多く体験してきたことも書き添えます。

季節を感じながら、その自然の恵みに感謝を捧げます。
その心こそ、このお借りしている体の「最高管理責任者」の責務と思っています。



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●言葉づかいには十分に氣をつける
Original=2023年4月18日 21:09

色々な考え方があり、さまざまな生き方があります。
人それぞれ。
すべて自由であり何ものにも束縛される必要はありません。

でも、
「口にするもの(言葉)」には、十分すぎるほどの心配りをしたいと思います。
それは「音」として口から発する段階に至らぬまでも、心に描くだけであっても。


「言葉になる前にその感情を心に描く状態」。その段階において、目に見えないフィールドには、既にエネルギーとして生成されていることを知るならば。
だからこそ、
心に抱く感情、心に描く意識に「責任を持つ」重要性、そうした部分が多く語られ、そして頻繁に目にするようになってきたこと。
ここに理解が追いつきます。


-- 一人くらい、何を考えようが、何を喋ろうが大したことないやろ。
-- 文句を言おうが愚痴ろうが、そんなもん人の勝手や!

こうして、個々人が心に描くものが集合体となり「大きな力」となってゆきます。
この重要ポイントを逆手に取って、この地を・この世の中を支配してきた少数の特定支配層が存在していることを、もうここで重ねて記す必要はないでしょう。
だから、世の中にはネガな情報が蔓延しているわけでして。
(この文言の意味が通じない方々とは、ここでのご縁は繋がっていないはず。)

まんまと、その策略に引っかかってしまうと「その負の力を増幅する」そんな立場、いわゆるワルもの側に、あろうことか自分がレギュラーメンバー入りしてしまいます。
(そして、氣づかぬうちにたっぷりとマイナスポイントを貯め込んでしまい、来世以降にもそのザクザク溜まったマイナスポイントを解消するための苦悩:因果が待ち受けています。)
あるいは、
自分の心の状態を感知するセンサーが「腐っている」と、ネガな力に憑依されていることさえ氣づくことができません。
(これは、口にする「食べ物」のほうが大きな影響を与えていることも判ってきました。)


みんなでより望ましい未来を描きましょう。と、過去からのすべての負の感情を浄化し、本当に苦しいプロセスを踏んで成長を重ねてきたはずです。
苦しみ・もがき・のたうち回る。
その苦しさを味わったからこそ、「もう二度とその力には意識を合わせない!」と誓い、クリアし、そこから離れた人だけが、階段を一段あがることができたはずです。

そうした体験を積んだからこそ、もうそのエネルギーには合わせないだけのこと。
ところが、
その苦しみを、肉体的にも精神的にも、本当に極限まで味わったことがない人には理解できないのでしょう。
「何を浮ついてんねん!フワって嬉しいか!バカなやつ!」
「お花畑は脳天気で結構なこった!」
としか見えないのですね。


大人になり、年齢とともに人生経験を重ね、人の厚みや重み、といった内面を熟成させて行くにつれ、そうした「負の力を込めた言葉」から離れてゆきます。
そこにに、何らメリットがないのみならず、何も望ましい現実を具現化するためのエネルギーが含まれていないことが判っているからでしょう。

おばあちゃん(わたしの祖母:大正生まれ96歳で他界)が、幼少期のわたしに対して、何度も何度も「口にするものに注意しなさい」と繰り返して語った理由。
その本当の意味。
同じ世代となる、十干十二支が一巡りしてくる歳回りを迎え、はじめて理解が到達したことを嬉しく思います。


「そう思うから、そのようになる。」
それならば、
何を思い描きますか。
何を心に抱き現実化させますか。
ともに望ましい未来を具現化させるべく歩みましょう。

「口にするもの(言葉)には十分に氣をつけて」




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●そう思えばそうなる・エネルギーの仕組みが神そのもの
Original=023年4月13日 20:00

息切れしていませんか。
卯月13日。
学校は新学期をスタート。世の中、新年度。
日差しは一氣に春を迎えましたが、寒暖の差が大きく、体の弱いところから邪を取り込みがち。


何だか、微妙な花言葉だそうですが「オダマキ」さん。
そう思えば、そのようになるだけ。
自分の心に描くものが、目の前の現実として具現化する、この地の仕組みです。
その仕組みは、エネルギーの流れと向き・螺旋、その振動周波数により生成されていること。
そして、そのエネルギーの仕組みこそが「神」そのものであったこと。

日本人は、この極めて重要な仕組みを「習わない=故意に外され学ばぬようにされてきた」ために、肝心要(かんじんかなめ)の部分を知らぬまま過ごしています。

後世に伝えるために、物語として語ってみたり、擬人化してみたり。
先人は、あの手この手で、わたしたち後世の者へ、その仕組みを伝え残す努力をしてくださったのです。
それは、誰か・あるいは何か、救世主たる人格としての存在があったのではなく、この地のエネルギーの仕組みそのものである、と知る機会を迎えています。


それは、教科書に載っていないから知らなかったのかもしれません。
それは、親から教わらなかったから知らなかったのですね。
昨日まで、いえ、この瞬間まではそれでもよいでしょう。
でも、今日からは「自分の心に響くもの」を選択する道を歩み始めたのです。
そして、
「おばあちゃんの教え」の中には、このような大変貴重で重要な仕組みが盛り込まれていたこと、この場でも何度か綴ってきました。

エネルギーの「仕組みこそが神そのもの」であったと。
僅か二世代前の、手取り足取り接することのできる肉親から指導を受けた、数々の教え。
いま一度、思い出す時を迎えています。

「そう思うから、そのようになる。」
では、
何を思い描きますか。
何を心に抱き現実化させますか。




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●言葉にトゲを生やさず・トゲを埋め込まず
Original=2023年4月10日 21:16

言葉にトゲ?
なかなか難しい感覚でしょうか。でも伝わる感覚だと思っています。
このところ、そうした感触を強く感じるケースが増えています。

それは「違和感」から派生した感覚と言えばよいかもしれません。
そして、その違和感が「良い方向への違和感ではなく」よくない方向へのムズムズ感を伝えるのです。
自分自身が、過去から大量にそうしたワードを放出してきたことに対する自覚もあります。
過去、その時点では、何の違和感も感じませんでした。
いえ、むしろ「ああ、スッキリした。」とでも言えば良いのでしょうか。文字に落とし込むことによって「ストレス発散」した。とも置き換えられる行為でした。


いま、そうした「トゲのある」言葉を放つことによって、目に見えないフィールドに「トゲのあるエネルギー」を生み出していることが理解できるようになりつつあります。
言葉をwebに記すだけではなく、心に描き・心に抱くだけで、そのトゲが目に見えない力として「何もなかったところに産まれている」ことを。
もっと正確に書くのなら、
「何もなかったところに負のエネルギーを自分が生じさせた」でしょうか。

そして、その力は、非常に強力に「心を突き刺す」ことが分かってきました。
トゲなので、痛い!と。
指先なら、痛っ!で済むでしょう。ところが、心が受けるダメージは非常に大きいようです。


言葉に込めた「心の状態」。
言葉に載せた「氣持ちの色合いや明暗差の感情」。
そうしたものが、一つひとつのワードに、まるでHTMLで言うところの「エンベッドタグ」に埋め込まれているかのように。
ブラウザで表側を見ている限り、HTMLソースは見えません。
でも、ここには動画をリンクしていますよ。だとか、ここに埋め込み記事が表示されるようにしていますよ。という指示があるのと同じように。
あるいは、
写真画像データに埋め込まれた、撮影時の機器設定や撮影時刻・位置情報までも含まれる「Exif情報データ」のように。


「言霊」と言われているものは、実はこのエンベッドタグのリンク先にあるエネルギーだったのかもしれない、と。ええ、もちろん例えですけれども。
だからこそ、
「口にする言葉には十分に氣をつけなさい」と、幼少時期のおばあちゃんの教育は口すっぱく伝えられてきたのだと、今になって理解したような次第です。


少なくとも、トゲを埋め込んでいる限り、そこで自分が生み出したトゲは自分に戻るわけで。
いえ、自分に戻るだけではなく、せっかく「真っ白に洗い上げた新生活を彩るための純白のドレス」に、ドス黒く汚れた負の力を含む液体をぶち撒けるような行為だけは避けたいと思うのです。

これから先に「何を望み何を願い」ますか?
言葉に「何をエンベッド」しますか?




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●もっともっと勘に委ねてみる
Original=2023年3月1日 20:29

もっともっと勘に委ねてみる。
何のこと?
といった感じですが、直感に響くものは、その内容もタイミングも意図せず降りてくるので、そこに任せてしまえば、答えが自動的に導かれます。
はい、わたしの人生、この連続です。

これに逆らえば、答えは出ないのでしょうか?
いや答えは出ます。必ず。
出るか・出ないか。ではなくて、望ましい結果になるか・ならないか。
この対(つい)だと思われます。

そして、これをもっともっと進めてみます。
進めるとは、さらに委ねるウエイトを高めるという感覚です。


「できる!と感じれば結果が出る。」
「できない!と感じたなら結果は望むものとは異なる。」
これだけです。

そうすれば、そのタイムラインが自分自身の意識によって創られてゆきます。
瞬間瞬間に描いている意識が、その結果を導いてゆきます。
一点の曇りもない、その心から願う意識が、その結果に書き換えて行きます。

もう多くの方々が経験しているはずです。
さっきまで腫れていた指先が、氣がつけば綺麗に治っている。
肩が上がらないほどひどい関節痛が、1日で消滅している。

これ、ご自身で体験・体感している人体実験ではないでしょうか。
その逆もあるでしょう。もう言葉には落とし込みませんが。


幼少の時期を思い出してみます。
その昔「痛いの痛いの飛んでいけ〜!」と、おばあちゃんに手を当ててもらった経験、ありませんか?きっとあるはずです。
手を当ててもらうとアラ不思議、その次の瞬間には「ホントに痛みが減少」したのではないでしょうか。
手を当てるから「手当てする」のですね。
この国の言葉と意識は綿密に結びついていること、あらためて素晴らしい国で生かせていただいていることに感謝するばかりです。

でも、痛みが飛んでいったはずなのに、その直後に「再び痛く」なりますよね。
「痛い痛い、怪我してる!」と、そこにフォーカスし続けるからでしょう。
ええ、実際にひどい怪我なら、その傷の度合いが、意識でレイヤーをひっくり返す力よりも激しいため、無理もありません。
もちろん、緊急を要する場合にはそんな悠長なことは言っていられませんので、それはそれで「物理次元の歩きかた」に基づいた処方は必要ですが。


委ねる。
結果が導かれる。
信用・信頼する。
さらに委ねる。
さらに任せる。

このループを無限に拡大し続けるなら、きっと本来備わっていた潜在能力を取り戻せるに違いありません。




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●口にするもの(言葉・食べ物)に注意しなさい
Original=2023年2月19日 21:42

おばあちゃんの知恵袋シリーズ。このところ意識から外れていたのですが、ふとした拍子に思い出したものがありますのでここに記します。

この場でも何度か触れてきましたが、大正生まれの祖母が50年以上も前に幼少のわたしに語った多くの言葉。
その中の一つから。

「口にすることに注意しなさい」
祖母が語ったのは、その瞬間には「言葉に対して」でした。

わたしの4歳年下の妹(一昨年2021年に、生まれ故郷の星に帰りました。)と、当時なんだかんだと言い合いをするのは日常茶飯事の風景でした。
小学生と就学前の子供の会話なので、取るに足りないことです。

この様子を横で見ていた祖母は、
「人のことを言わずに自分がどうしたいのかよく考えなさい」と。
そう、妹や兄が何をどう言おうと、自分は何を考え、何をしたいのか。
しっかりと自分の考えを持ちなさい、との意味だったとその時には理解したのでした。
ところが、その後すぐに続けて、
「口にする言葉には神様が宿る」(正確な言い回しはもう忘れてしまいましたが)
だから、汚い言葉や軽蔑するような内容の言葉を口にしないこと。と。

人のことを、とやかく言う以前に、言葉そのものに対して「言葉には言霊が宿るんだよ」だからもっともっと大切にしなさいよ。ということをわかりやすく教えてくれていたのでした。
よろしくない方向のエネルギーを言葉に込めると、それが作用するんだから氣をつけなさい。との指導だったのです。
この後にも、
そうやって言葉として放ったエネルギーは、形と時間を変えて自分に返ってくる。といったような、今でこそ十分に理解が可能な内容の発言もあったように記憶しています。
(機会があれば、これらもアーカイブしてゆきたいと思います。)


これが、「口にする言葉に氣をつける」という、とても大切な教えでした。
もう一つ。
「口にするものに氣をつける」は、食べ物に対しての内容についても、何度も何度も教えてくれていました。

過去記事「有名企業の食べ物を口にしない」[Link]

口にするもの。
それは「発する言葉」だけではなく「自分の体に取り入れる食べ物」についても、しっかりと意識をしなさい。との教えでした。

上記記事のように、いわゆるTVCMで流れるような食品は避けるべきだよ。ということを伝えてくれました。
その理由は、こうした公の場では詳細には書き記すことが難しいので、上記記事内容から汲み取っていただけますと幸いです。

近年、このように「口にするもの」が、いったい何もので作られているのか。そしてそれを摂取することにより何が体内で起きているのか。
ここに関心をお持ちになる方が一氣に増えた感覚があります。
それだけ、個々人の意識が高まった証でしょう。

それなのに、
いまだに、ジャンクフード(それは、ファーストフードやコンビニ系も含まれるように思います)を、食べ続け、それをSNSで流している人たちを見ていますと、とても残念な感覚になるとともに、早く氣がつくといいね!早く変わるといいね!
と、心から波動を送るようにしています。

重ねて、
食べ物として命を捧げていただいている生き物に対しても感謝の氣持ちを忘れないように。
こうした、とても重要なことについても、しっかりと教えてくれたのでした。

わたしのおばあちゃんが50年以上も前に伝えてくれていたこと。
多くの人たちに届きますように。




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味噌つくり2023

●今年2023の味噌作りに思う
Original=2023年1月16日 22:03

今年も味噌作り。
いえ、わたしは素人なので写真を2枚撮って終わり。

昨年2022年の味噌はすばらしい出来栄えで「現時点での一年もの」の熟成がさらに進んでいます。
(昨年2022年の味噌作りから派生しての記事)

この体は「借り物」。
もう語り尽くされてきました。

病は故意に作り出され、それに呼び名をつけて治療という名の「薬」に頼り続けざるを得なくする仕組み。
マッチポンプならぬネガティブ無限ループ。
薬という魔法の粉や液体に化けた石油利権・医療利権の仕組みに氣がついた人から、そのループを抜けて行きます。
はい、ループに浸り続け、さらに学び続けるのも自分の意志、ご自身の判断です。


このところ、あちらこちらで急激に増加してきた感があります。
余命宣告、自分は苦しんだんだ。というような。
(自分の意識がそこに向いているからシンクロしてきたのだと思います。もうそうしたエネルギーからは離れようと思っています。)


はい、大変なご経験なさったのですね。それは大変でしたでしょう。
大変なんてレベルではないのですね。苦しかったですね、痛かったですね。
その瞬間には、のたうち回る苦しみを味わうのですから。
わたし自身もあと少し遅ければ...と言われ、鮮血やドス黒い血塊に背筋が凍りつきました。
問診直後からストレッチャーに寝かされそのまま入院という体験は一生忘れません。
そして、
次に傷めたら「切って捨てる」とまで宣告されました。それ、両親に作っていただいた大切な体の一部。そして天と地からお借りしている大切な体なのに。
そう安易と捨てるだとか言うなよ。ってことです。


でもね、それは自分の食をはじめとする生活によって齎されたものです。
借り物の体の「最高管理責任者の責務」を果たさなかったから。
できなかった。のは、言い訳。できないのなら、できるように環境を変えるのが責任者の責務。

毎日満足に食事もできず、朝の5時半まで仕事し帰宅してシャワー浴びれば再び出勤。まともに眠ることさえできないので居眠り運転・事故多発。
そして体が悲鳴を上げました。
あるいは、そうでなくても過去因果の解消のために苦しんだ方もいらっしゃることは理解しています。
それを否定する意図はありませんし、大変な思いをされたことは理解しています。

だから、です。
もうそうした体験は要らないのです。そこにフォーカスするのはやめましょう、と。
学びのために必要な体験をしたのですから、学び終えたのなら、もう要らないのです。
やめるとは、体によくないことをしない。ということ。
そして、そこに周波数を合わせること自体から離れるということ。


体が作られているのは「口にする食べ物」。
だからこそ、そこを見れば「その人」のすべてが見えるのです。どういった食べ物について語っているか、その時点で推して知るべし。いわずもがな。

食べることは、その食べ物としての生き物の「いのち」をいただくこと。
おかげさまで、わたしは生きてゆけます。ありがとう。
だから
「いただきます・ごちそうさま」。
だから、
口にする食べ物には十分に意識を巡らせ感謝を忘れてはならないと、おばあちゃんに教えてもらったのです。

今年もすばらしい大豆さんに巡り会えてありがとう。
今年もすばらしいいのちに触れることができたことに感謝申し上げます。




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●感謝の心を忘れないようにしたい
Original=2022年12月13日 13:54

やはり師走。
一日おきに長距離移動と過密スケジュールが続きます。

さまざまなご縁と、さまざまなシチュエーションに感謝申し上げます。
ありがとうございます。

ひるの時間帯は、スマホ片手に弁当に喰らい付く。列車の隣席ではそんな姿も頻繁に目にします。(見ず知らずの方々…)
口にするものにも、感謝を忘れたくないものですね。

「おばあちゃんの知恵袋」の記事、いま一度かみしめ、その心づかいに胸が熱くなります。

行いは、必ず自分に返ってきます。
心に抱くものも、必ず戻ります。

感謝の心。
万物の元締めではないかな、そんなことを感じながら。

ありがとう。
感謝しています。



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●Harf minute Imaging16
Original=2022年12月4日 20:20

[Link]
https://youtu.be/FSs-48N0DwI

「足るを知る」
「感謝を忘れず」

わたしたちは、いつからこうした言葉を忘れてしまったのでしょう。
いえ、望むことが悪いのではありませんし、希望を抱くことを否定しているのではないのです。
「もうすでにある」ものに心を合わせず、そこに「感謝」を捧げず、自分はもっと別のものがいいんだ、もっと他のものが欲しいんだ。
そんな幼少期のワガママなわたしに「感謝の心」を教えてくれたのは大正生まれの祖母(96歳で他界)でした。

その昔3大産業とされた巨大企業の寮長(寮母)だったこともあり、多くの社員さんの世話もしていたはずです。
おばあちゃんの部屋には、おいしいおやつがない!
クッキーもビスケットも、何もない。食べたくない。
チョコレートやケーキは、なぜ無いの。もっと他のものが欲しい!

そんなわたしに、いつも与えてくれた「大学いも」や「粟おこし」、それに「蒸したさつまいも」。
何ひとつ切らしたことはなく、部屋には毎日必ずそうした食べ物がありました。

これは、戦時中でも畑で育てることができる栄養価の高い食べ物。おいしいね!おいもさんありがとう!
そう感謝して食べたなら絶対おいしいと感じるんだから。
おいもさんも生き物なんだから。命があるんだよ。
感謝する、とは、その命をいただいて自分の力として活かすことだよ。
だから「いただきます」って言うでしょ。

幼稚園に入る前の時期のわたしに、ひとつ一つ納得の行くように説明してくれたこと。
昨日のことのように目に浮かびます。

自分は「もっと別のものがいいんだ」「もっと別のものが欲しいんだ」。
その氣持ちの裏側には、
目の前にある満ち足りた環境に対する感謝を忘れてしまった自分がいるのではないでしょうか。

別のものを望むのが悪いのではなく、
すでに満ち足りていることへの感謝と、すでに恵まれていることに対する御礼と。
このとてつもなくありがたく、溢れんばかりに恵まれている現実に対する感謝を。

そこにフォーカスを合わせるのなら、他に何を望む必要がありましょう。
そこに感謝の意識を持つのなら、他にどれだけのものを得る必要がありましょうか。


カラスの安堵に満ちた呼び声、仲間との夕げのさえずりを交わす小鳥たち。
すべての仲間に心から感謝を伝えます。
今日もありがとう。
感謝しています。

足るを知り感謝を忘れず。
ともに新しい世界を創造して参りましょう。




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●実りの季節に感謝
Original=2022年10月6日 22:00

わたし自身の手では、米の一粒とて作り出すことができません。

その昔、祖母が、茶碗についたお米の一粒一粒まで綺麗に食べなさい。と教えてくれたことを思い出します。
それは、稲という生命に対しての感謝と、お米を作っていただく方々への感謝と。

ええ、その幼少時期の意識でも、お米が植物としての生き物であることは理解できましたし、農家さんが田植えをしてから長い長い工程を経て、ようやく食卓にまで届くこと。
そこまでの理解はできていたはずです。

ですが、
年月を経るとともに、じっくりとその事項について考える機会は減ってゆきます。
あらためて、生き物なんだぞ、作っていただく人がいるんだぞ。
そのように大上段に構えて意識しなくなってゆきます。

だからこそ、
こうした風景に出会ったならば、もう一度思い出してみても良いのかな、と感じます。そして、先般の投稿のように「感謝に、しすぎることなどない」はずだと再認識するのです。

面と向かって、こうした感覚を語り、こうした言葉を書くこと。
それは、ええカッコしいだとか、自意識過剰だとか、そんなレベルはとっくに卒業済みだからこそ口にできる言葉だと感じます。

その行為そのものが、心を通して目に見えない世界に繋がることを理解し始めますと、ことの重大さといいますか、その大切さを噛み締めるとともに、先人(それは大正生まれの祖母の世代でさえ)は、ここまで深い教えを伝えてくれていたのだ、と驚くとともに、あらためてその事実にも感謝をしなければ、と思うのです。

感謝に、しすぎることはないですし、ひたすら御礼を伝える氣持ちを大切に。
と、感じた神無月のひとコマです。




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有名企業の食べ物を口にしない

●有名企業の食べ物を口にしない
Original=2022年8月1日 10:42

この場でも何度か触れてきましたが、大正生まれの祖母が50年以上も前に幼少のわたしに語った多くの言葉。
その中の一つから。

「食べ物は有名企業のものを食べない・電化製品は有名企業の品を買う」


多くの説明は不要でしょう。
まず、その後ろの言葉から。

時代は1967年から68年頃。日本の高度成長期と呼ばれた時代。電化製品は次々と新製品ラッシュが続き、新機能も続々と搭載された製品が世に送り出された頃でした。

昔から故障は当たり前。そんな製品を修理して大切に使ってきた大正から昭和の前半を生きてきた人にとっては、故障そのものが「無い」電化製品は驚愕のレベルだったに違いありません。
だからこそ、技術の粋を集めた有名メーカー品は羨望の的だったと想像できます。

「有名企業の製品」は故障しないという驚きの完成度と品質を誇る。
これを入手するのが間違いない。という教えでした。
(この記事投稿時点である2021年10月の時点:転載2022年8月時点--では、また異なっていると思われますが。)


続く前側の言葉について。
「食べ物は有名企業のものを食べない。」

この混乱の時代になってあらためてその助言の確かさに驚いています。
webという公の場にあまり生々しいことを書くことができませんが、食品添加物という名の毒。
いえ、毒になるのかどうかは受け手側の問題も大きいと思われるので断言はいたしません。しかし、人間本来の生き方に歩調を合わせた物質ではないことは確かでしょう。


もしかすると、その意味が伝わらない方々も多いかもしれない可能性を感じます。

「口にするものに体に悪いものが入っているわけがない!」
「国が国民に対して害になるようなものを許可するわけがない!」
と、真顔で抗議してきた事例もありますので。

これ以上は触れませんが、真意は十分に伝わるはずです。
この反論の展開。どこかで聞いたことがありませんか。いえ、現在も聞こえていますでしょう?

「体に入れるものに対し毒が入っているわけがない!」
「国が国民に対して害になるようなものを許可するわけがない!」
いま、そんな言葉がリアルに聞こえていませんでしょうか。


祖母は96歳まで寿命を全うしたようです。晩年は会うことができませんでした。
でも、わたしに対しこれほどまでに重要な言葉を残してくれていたのです。それも50年以上も前に。

いま、この場でご縁がつながる方々に、その真意と重要性を伝えたく記します。
少しでもシンクロを感じる部分がありましたら、ぜひ時間をとって調べていただきたく思います。わたしたちは何を口にしているのかを。
いえ、口に「させられている」が正しいでしょうか。

自分の命は自分で守る。
まして、授かり・預かりもののこの体です。ありがたく使わせていただくことで学ぶ機会を与えられているのです。
人生すべて「まなび」の連続です。
感謝してこの体を大切にしたいものです。




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●おつむの弱い子は放っておきなさい
Original=2022年6月24日 12:05

「おつむの弱い子は放っておきなさい」
今から五十数年前に、祖母がわたしに対して語った言葉です。

誤解のないように初めに但し書きを。
人を蔑むのが目的ではありませんし、分断を推奨する意図は皆無である点、まず初めにご理解ください。


大正生まれの祖母(96歳で他界)が、幼少時期のわたしに対して語った含蓄のある言葉。
それが、
「おつむの弱い子は放っておきなさい」でした。

祖母がこの言葉に込めたストレートな意図は、
「自分と異なる意見や環境・立場にある他人の言動に一喜一憂せず、自分の考え方、身のこなしをしっかりと確立しなさい。」との教えだったと思われます。

他人から自分とは異なる意見を強要され不快になっても、自分は「どうありたいのか」をしっかり持っていればその考えが揺らぐことはありませんよ。という意識を教えてくれたものです。
「他の人は、あなたよりも"おつむ"が弱いんだから」という、逆説的な言い方によって「あなたは自分に誇りを持ち俯瞰していればいいんですよ。」という、幼少期の人間にとってはかなり難しい伝え方だったと思います。

いわゆる、「あなたは偉いんだから」「あなたは優れているのだから」といった語り口によって、
他の人が放つネガティブなエネルギーに飲み込まれ、自分からその沼に落ち込んでゆくことなどありませんよ、と伝えてくれていたわけです。
アタマで考える必要のない、ストレートに心に響く伝え方でした。
(もちろん、優れているか優れていないか、あるいはそうした比較論が良いか良くないかという部分はありますが、不快な思いに覆われ自分軸を失っている瞬間に、一瞬にしてそのモヤをクリアにしてくれる魔法の言葉だったように思います。)


いま、この言葉に込められた深い意図を噛み締めながら、これほどまでに貴重な教えを五十数年前に、4歳・5歳児に指導してくれた存在があったことに驚きを隠せません。
そして、
いまこそ、この言葉の持つ深い意味を体現すべき機会を迎えています。

目の前の現実は、人類が過去に放った集合エネルギーの結果として物質化・具現化していること。
ここに理解が到達しているのなら、
その結晶化した過去の遺物を見て、踊り叫び続けるのではなく、いまこの瞬間からあとに希望する近未来を描くことに最大限の力を注ぐべきでしょう。

少なくとも、過去の結果に一喜一憂し、
「このままではアカン...」
「狂った世の中を変えるにはもっと多くの人に伝えなければならない」
と、
そのエネルギーに同化して叫び続けている限り、あなた自身もそのタイムラインから脱出できないことに氣づきたいものです。
おつむの弱い子は放っておけば良いのです。
すべての人が同じシナリオで生きているわけではありません。そしてその個々人の脚本を他の人間が書き換えることは不可能なのですから。

いえ、だからと言って精神論オンリーに偏ってもなりません。
肉体を保持し物質社会に存在している以上は、この物質と心との両方のバランス感覚を失わずにいたいものです。
これを「心のつかいこなし」というのだと思っています。

「おつむの弱い子は放っておきなさい。」
それは、単なる分断思考ではなく、自分軸を見失わないための魔法の言葉だったのです。




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味噌つくり2023

●ペチャクチャ喋らずに食べなさい
Original=2022年1月18日 14:38

「ペチャクチャ喋らずに食べなさい。」

いま、このワードを書きますと誤解が生じるリスクがありますので、まず初めに。
全体主義と監視化奴隷化の流れは、ついに黙食(モクショク)などという馬鹿げた洗脳を始めていますが、それについて語るものではありません。
当然、そうした狂った流れには同意できませんしその動きに追随するものではなく、食事という行為とその場の意識についての内容です。
この狂気の沙汰に触れるだけで著しく意識レベルが落ちますので、ここで前置きは終えます。


「ペチャクチャ喋らずに食べなさい。」
それは、
いまから50年以上前に、祖母(96歳で他界)が幼少期のわたしに対して語った言葉です。
その意味は、
「しゃべりながら食べると、食べ物として命を捧げてくれた生き物たちに感謝する気持ちを忘れてしまう。」
「だから、余計な・必要のない会話を慎み、口にする食べ物にお礼を伝えながら味わいなさい。」
ということでした。

テレビを見ながら食事をしない。という教育もここに通じるものだと思います。
余計な思考が入ってくることで、食事をする・食べ物をいただいている、そのような意識が消え失せてしまうからです。
もちろん、
食事という機会は、コミュニケーションの場としても役目を果たしているはずで、会話そのものを全否定するものではありません。


祖母の言葉は、以前から色々と(「おばあちゃんの知恵袋」〜先人の知恵を今日に活かす )と括り[Link]、この場に記してきました。
また、OfficialBlogのアーカイブでも、ご覧いただく機会の多い記事となっています。
すでに50年以上もの年月が経過してもなお、その真意が色褪せずに強力な波動を伝えてくれることに驚いています。

この期に及んで、その言葉の奥深さを噛み締め、食べ物としてその命を捧げてくれる動物たち、そして果実や野菜という形でエネルギーを与えてくれる植物たちに、御礼とともに感謝の氣持ちを忘れてはならないと思います。
また、
四つ足の生き物は本来は口にすべきではなく、必要最小限にとどめるとともに、一口ごとに感謝を忘れないようにしたいものです。
先人の言葉も話ずれずに。


今年、味噌を手作りしてくれています。
このあとの工程が大変なようですが、わたしは料理に関しては完全に素人で、むしろマイナスレベルのスキルなのでここで語れるだけの下地がありません。前段階の写真を撮って終わってしまいました。
が、健康第一と、本来の人間の生きる道を模索しながら色々と展開してもらえることに感謝しています。

(2022年1月18日)




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●冷やご飯は食べないで
Original=2020年3月31日 11:10

「冷やご飯は食べないで」の言葉をトレースしているだけでは、
炊いた後に時間が経ち、冷たくなったご飯は食べない、という意味しか伝わらない。

祖母が語ったその言葉の中には、
すべての食べ物に対し、常に感謝の心を忘れず、最高の味とコンディションでいただきなさいね。
と。

また、
食べ物を口にすることは、すべて何らかの命をいただいているのですよ。
冷たくなったご飯では、稲という植物の命を最高の状態でいただくことができないでしょう。
だから、冷えたのであれば温めて、稲の命であるお米に感謝していただきましょうね。
と。

実際、前日の冷やご飯は、毎日のように私の家に来てくれて、蒸し器で温めていた。(昭和40年はじめ頃は、電子レンジはまだ一般家庭に広く普及していなかった頃だと思う。)
蒸し器の底に敷いたさらし布の表面にこびりついた米粒、ひとつ一つを丁寧に取って、お米ひとつづつ、すべて命があるのですよ。
と話していた姿は忘れない。

大正生まれの祖母(96歳で他界)が、50年以上前に、このような意味が含まれている。と語ってくれた。


今の時代にこの意味を活かすなら...。

食料自給率が極めて低いこの国の現状、廃棄に対する意識も少しづつ改善されてきたのではないかと思う。
ところが国の政策は、さらに自給率を低下させるような法案や、遺伝子組み替え作物しか入れないような仕組みに意図的に向きを変え、グローバル企業が儲かるように仕向けている。
当然、裏で糸を引く勢力・権力があることはわかるが、一個人としてはどうにもならない。

少なくとも、国力の強化とは、武器を増備することや憲法改正することではなく、「命と切っても切れない食料自給率を高めることにある」と気づくことではないだろうか。
そして、このような流れを許しているヘッドに対して、無関心である国民一人ひとりの責任でもあるのではないだろうか。

無関心...それこそが、最大の原因であることに気づきたい。


祖母の言葉の中に含まれる深い意味と、50年以上前に優しく語りながら教えてくれた姿に、今の時代に活かせるものを見出している。
(2020年3月記す)




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●挨拶を大切に:挨拶次第で相手が変わる
Original=2020年3月22日 21:07

「挨拶で相手が変わる」とは、
挨拶をするかしないか、あるいはその仕方によって「相手の態度が変わる」の意だと思う。


祖母が語ったその言葉の中には、
挨拶は大切なものだから疎かにしないように。
と。

また、
人付き合いをうまく進めるには、まず自分から丁寧に挨拶をすれば、多くの場合、良い結果を導くことができるよ。
と。

大正生まれの祖母(96歳で他界)が、50年以上前に語った言葉には、そうした意味も含まれている。と教えられた。

今の時代にこの意味を活かすなら...。

リアルの人付き合いが希薄になっているかもしれない現在の世の中。

もちろん、webやその他の手段を有効活用することで、より早くより正確、あるいは、場合によってはより親密なコミュニケーションを図ることができる点も見逃せない。
また、
今般の世界規模での感染症における「リアルに人に接しない」施策も大変重要な対策に違いない。

リアルかバーチャルか、といった手段の差はあれど、コミュニケーションの入り口では必ず挨拶は必要とされるはず。
形だけかもしれないし、実際に挨拶を省いたところで何ら問題はないはずだ。
しかし、挨拶を疎かにすることで「本来スムーズに進むはずの用件」が、トラブルに巻き込まれるかもしれない。

挨拶ができることは当たり前である、という教育が徹底されてきたからこそ、こういった考察が可能になるのであり、やはり、どの時代においても挨拶は基本のキではないだろうか。

その言葉の中に含まれる深い意味と、50年以上前に優しく語りながら教えてくれた祖母の言葉の中に、今の時代に活かせるものを見出している。
(2020年3月記す:写真はイメージです)




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●行いは必ず返ってくる
Original=2020年3月18日 21:27

「行いは必ず返ってくる」とは、
言葉だけをトレースすると「自分の行いは再び自分に返ってくる」の意だと思う。


祖母が語ったその言葉の中には、
人に対して良くないことをすると、自分にも良くないことが返ってくるよ。
と。

また、
人だけではなく、物に対しても扱いを粗末にすると、その物から良くない反応や結果が返ってくるよ。
と。

大正生まれの祖母(96歳で他界)が、50年以上前に語った言葉には、そうした意味も含まれている。と教えられた。

今の時代にこの意味を活かすなら...。

使い捨てが当たり前の時代。
そうした時代だからこそ物を大切にしなさい。という意味もある。

ただ、使い捨てが前提のものもあり、何でもリサイクル・リユースを推奨するものではない点は、現代の社会情勢も考慮すべきものだと思う。
特に、現在大変な状況に陥っている感染症に絡むマスクなど、そうした対象物に該当するのではなかろうか。

今考える「行いは必ず返ってくる」の言葉。

「今だけ、カネだけ、自分だけ...。」などの言葉が当たり前のように流布される時代。自分だけではなく、相手の立場に立って考えることも必要だよね。
と教えてくれる。
今般の混沌とした状況から脱し、新たな経済社会・構造になってゆくためには、もう一度、人とともにモノに対しても愛着を持ち大切にしてゆく心が必要とされているのではないだろうか。

その言葉の中に含まれる深い意味と、50年以上前に優しく語りながら教えてくれた祖母の言葉の中に、今の時代に活かせるものを見出している。
(2020年3月記す:写真はイメージです)




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●「急がば回れ」に込められた思い?
Original=2020年3月13日 14:32

「急がば回れ」とは、
言葉をトレースしてみると「急ぐ時ほど遠回りしなさい。」の意だと思う。


祖母が語ったその言葉の中には、
ゆっくり、しっかりと考えて、間違いがないかどうか?を、きっちりと確認しなさい。との意味が含まれているよ。と。

また、
ゆっくり行動することにより、心に余裕を持ちなさい。とも。

そうすれば、
より良い結果が生まれる。と。

大正生まれの祖母(96歳で他界)が、50年以上前に語った言葉。

今の時代にこの意味を活かすなら...。

世の中スピード時代、と言われたのも、もはや過去のこと。
死語になっているかもしれないそのスピード優先の感覚。
むしろ、現在はスピード感が鈍ってしまって、個人レベルから企業に至るまで、判断のスピード感が「遅い」ことによる弊害も発生しているように感じる。

ここで「急がば回れ」を考えてみたい。

スピード感の欠如による判断遅延、判断誤認、といった弊害に対し、単にスピード感を上げよ!といった対症療法が叫ばれるだけにとどまっていないだろうか?

手段と目的が入れ替わってしまい、「スピード感を上げる」ことだけに走っていないだろうか?

目的は、判断を迅速に行い、よりよい結果を手に入れることではなかっただろうか?

だからこそ今、「急がば回れ」。
その言葉の中に含まれる深い意味と、50年以上前に優しく語りながら教えてくれた祖母の言葉の中に、今の時代に活かせるものを見出している。

ご先祖に森羅万象にご挨拶

飯舘で出会うひまわり畑 photo 宮本章光り

ご先祖様へはご挨拶を終えられましたでしょうか。

この国に与えられた宝物。
こんにちの自分自身が存在できるのも、脈々と続くご先祖があってこそ。
姿形がここに無くとも、心が通じる感覚が理解できるはず。
それこそが、この国に生を受けた者すべてが備える潜在能力であり、いまこそ、その能力を最大限に発揮する時・使いこなす時なのだと感じています。

そして、
八百万(やおよろず)の神に対する感謝の祈りも忘れることなく。
森羅万象、すべての生きとし生けるものへ。

目に見える混乱は、大建て直しのために表出する単なる眺めであるとされます。
浄化の嵐のあとには、自ら選んだ道を歩みます。
ありがとうございます。

わたしが感じた心、
「その一枚の中に込めた心」を受け止めていただける方々と、肩を張らず、ともに心から響き合える感動を共有してゆきたいと思っています。
それが、望ましい未来を創り上げる方法だと思うからです。

数を追い、人と比べる必要性。
それらを捨てたときに、初めて見えてくる風景を。

わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

望ましい風景を・望む世界へ

夏の空を形作る photo 宮本章光

メディアの煽動に首を突っ込まず。
メディアの意識操作に惑わされず。

必要か不要かに関わらず、情報から離れるのは「逃げ」だ。
と、過去に語った人がありました。
もうその人は視界から消滅しました。
必要のないものに触れる「必要」などありません。
少なくとも、自分にとって学び終えたものである限り。


崩れた「麩(味噌汁の具)」のような形質に意識を同化させることなく。
傷んだ「鮒のエラ」のような象形を追い続けることなく。
乱れた「綿菓子」のような不器量な印象に意識を合わせることなく。

口にするもの(言葉)が、目の前を具現化してゆきます。
心に抱くものが、目の前の風景となってゆきます。
何を意識しますか。
何を心に描きますか。


永遠に明けない夜はありません。
永久に晴れない空はありません。

これからの道を、どのように創り上げてゆきましょうか。
明るく心穏やかに。
同じ心で響き合う方々とともに。
心から描き上げてまいりましょう。

わたしが感じた心、
「その一枚の中に込めた心」を受け止めていただける方々と、肩を張らず、ともに心から響き合える感動を共有してゆきたいと思っています。
それが、望ましい未来を創り上げる方法だと思うからです。

数を追い、人と比べる必要性。
それらを捨てたときに、初めて見えてくる風景を。

わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

夕立そして夕焼け

見事な夕焼け photo 宮本章光

この国には美しい自然と、それを表現する美しい言葉があります。

夕立ち。
ゆうだち。


夕方に「起こり立つ」。
見事な表現だと感じます。

夕焼け。
ゆうやけ。


夕暮れどきに「西の空が赤く染まっている様子が見事に」伝わります。
こちらも美しく鮮烈な印象を伝えます。


感じてみませんか。
そこへ心を合わせてみませんか。
美しい自然と美しい言葉へ。

メディアの煽動に翻弄されることなく心穏やかに。
昔から当たり前の現象であり状況だったのです。


大自然の偉大さを感じるとともに、畏敬の念を忘れず。
ご先祖様も、こうした八百万の神としてのこの国の自然とともに生きてきたのですから。
この日この瞬間を、自然とともに。


わたしが感じた心、
「その一枚の中に込めた心」を受け止めていただける方々と、肩を張らず、ともに心から響き合える感動を共有してゆきたいと思っています。
それが、望ましい未来を創り上げる方法だと思うからです。

数を追い、人と比べる必要性。
それらを捨てたときに、初めて見えてくる風景を。

わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

色々な捉え方・さまざまな感じ方

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「同じ」でなければならない。
その考え方は、もう終わったものと感じています。
何ごとにおいても。


いろいろな捉え方があります。
さまざまな感じ方があります。

青と緑の色の対比を感じる第一印象以外に、太陽の輝きに焦点が届くといった感覚もあるでしょう。
あるいは、意識が届いたのは、白いひとかたまりの雲かもしれません。
それとも、赤く枯れた三枚の葉でしょうか。
もしくは、向こう側にある建物の外縁部を照らす光でしょうか。
もっと続けますと、
上部に覆い被さる異なる木の茂みなのかもしれませんし、陽の光を通して透明感を誇示する手前の葉たちの存在もあるでしょう。

一つだけ共通していること。
それは、
ここに心に響く強い力が存在したこと。そして、それをわたしが受け取ったこと。


ありふれた街中の木々。
どこにでもある風景。

感じようとすればこそ、その瞬間にエネルギーの共演が行われること。
あらためて、心で感じ心で響き合うその仕組みに、そしてその素晴らしさに感動が生まれます。
これからの世において、最も大切にしたい瞬間だと感じています。


わたしが感じた心、
「その一枚の中に込めた心」を受け止めていただける方々と、肩を張らず、ともに心から響き合える感動を共有してゆきたいと思っています。
それが、望ましい未来を創り上げる方法だと思うからです。

数を追い、人と比べる必要性。
それらを捨てたときに、初めて見えてくる風景を。


わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

覚悟を決めるから見えてくる

見えてくる新しい力 photo 宮本章光

「自分の発言に責任を。」から、
「自分の意識に責任を。」へ。
そういった時代に入りました。


何が正しいか、正しくないか。
それすら論議の必要性が消え失せました。
何が正論で、何が正統派なのか。
その語りさえ意味を成さないフェーズに入りました。

どうでもいい。
この言葉に落とし込むと、とても無責任に聞こえます。
しかし、
どのようにでも対応しその流れと波に乗ってゆく。
これは、実は「とんでもなく大きな覚悟」が必要なはずです。

どうでもいい。
とは、
目の前がどれほど荒れようとも自分の心に響くものを選択し生きてゆく。
何が起きようとも自分を見失わず。
その覚悟の現れ。
その覚悟があるから、周りはどうでもいい。

まったく無責任などではないでしょう。


覚悟。
覚悟を決めたからこそ見えてくるもの。

それは違う。だとか、
あれは間違い。だとか。

終わりました。
もう過去のもの。

覚悟したからこそ感じられる、心に響く力。
目に見えない力。
自分の心でしか感じられない大きな力。

自らの心に「響く」ものだけを選んでゆきます。
それが新たな道を創り出す礎となるからです。


わたしが感じた心、
「その一枚の中に込めた心」を受け止めていただける方々と、肩を張らず、ともに心から響き合える感動を共有してゆきたいと思っています。
それが、望ましい未来を創り上げる方法だと思うからです。

数を追い、人と比べる必要性。
それらを捨てたときに、初めて見えてくる風景を。


わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

忘れてしまった大切な何か

川面に輝く光 photo 宮本章光

わたしたちは「とても大切なもの」を忘れてしまったのかもしれません。

いま。
「その大切なもの」を思い出すタイミングを迎えているにもかかわらず、永く続いた体験に基づく意識の枠組みから、飛び出すことができずにいます。
あるいは、
その思考の枠組みを超えることを、自ら拒否しているのでしょうか。


川面に美しく光り輝く日の光。
途切れることなく流れ続ける大いなる力。
光と影が織りなすコントラストの芸術。

そこに、すべてを包み込む壮大な仕組みを見出し、宇宙にまでも響き渡る感動の波を感じることはできないでしょうか。
それをストレートに美しいと感じる心。
その時その瞬間に、心に響くもの・感じるものを選択します。

この感覚、この感動こそが、わたしたちが忘れ去った「大切なもの」ではないかと思うのです。
これこそが「心の感覚」。
心とは、感じること。

ここを起点に次の世を創り出してゆきます。


わたしが感じた心、
「その一枚の中に込めた心」を受け止めていただける方々と、肩を張らず、ともに心から響き合える感動を共有してゆきたいと思っています。
それが、望ましい未来を創り上げる方法だと思うからです。

数を追い、人と比べる必要性。
それらを捨てたときに、初めて見えてくる風景を。


わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

必然を受け入れる

広がる青空に携帯基地アンテナ photo 宮本章光

必然。
その現実を創り出したのは、
その結果を生み出したのは、偶然ではなく必然だと。

諸説あろうかと思われます。
その中で、ひとつ大きく頷くことがあります。

今世・今生は「過去に溜め込んだ因果の解消」の目的で生きている。
という論説。
激しく同意せざるを得ません。
人間、マイナスポイントの方が多いはずなのです。
といいますか、前世までに「プラスのポイ活」ができていたならば、今世この地で「再教育」を受ける必要がないわけで、そもそもここに存在していないでしょう。


苦しみ。逃げ出したい・耐え難い苦。
それが「なぜ生じているか」を考えるならば、その体験をするための必然があるからこそ。

その瞬間、その「苦のタイムライン」に自分が同化している時点では、決して氣づくことがないと思われます。苦しみの中で、そこから逃れたい一心で。
そして、心に余裕が一切存在しないために、意識がそれ以上に及びません。
満足に睡眠もできず、食べ物も口にできずの日々を重ねると、どういう結果がもたらされたのかを、この体でトレースした故、ここに記しています。


初めに戻ります。
学び直しをするため、過去のマイナス点を挽回するために、生かしていただいている、という意識。

それなのに、
現状に不満を重ね続け、裕福になろう…、幸せになろう…?
すでに、
十分に恵まれていますでしょう。十分に幸せでしょう。
すでに、
ここに、立派な体をお借りして存在できることこそ幸福そのものでしょう。
感謝してもしきれないほど恵まれていますでしょう。
数十年間、無意識に呼吸ができ生かせていただける時点で、もはや奇跡でしょう。

だからこそ、必要なことは、
ここで起きてくるすべてに感謝を捧げ、尊重し、それを受け止め・受け入れる。

体験できること、経験させていただけること。
自分は、これが必要だったからこそ巡ってきたのだと。

不足や不満にフォーカスし、そこから逃れることや、不足しているものを引き寄せようとすることよりも、過去に溜め込んだ(であろう)マイナス点の挽回こそが、この今の存在の時点で必要とされていることに。
この今の体験こそが貴重で重要であることに。
そのために、心からの感謝が生まれ、滲み出る。
そういった展開だと感じるのです。

よって、その論説ではこのように締めくくります。
引き寄せよりも過去因果の解消こそが優先される。
過去因果が解消されない限り、いくら引き寄せようとしても実現せず、むしろ古い
意識状態に輪をかけて自分が増幅し、自分自身がそれを選択しその道を歩み続ける。
過去因果の解消のために最優先されるものは本心からの感謝の心。と。


必然を受け入れ感謝を忘れず。
いま最も大切な感覚ではないかなと感じています。


わたしが感じた心、
「その一枚の中に込めた心」を受け止めていただける方々と、肩を張らず、ともに心から響き合える感動を共有してゆきたいと思っています。
それが、望ましい未来を創り上げる方法だと思うからです。

数を追い、人と比べる必要性。
それらを捨てたときに、初めて見えてくる風景を。


わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

俯瞰してはじめて見えてくるもの

輝く水面 photo 宮本章光

離れてみます。
客観視してみます。

これまで見えなかったものが見えてきます。


細部から目を離して俯瞰してみます。
全体を見渡して大枠を感じてみます。

これまで感じなかったことが伝わってきます。


そこには、
光も影もあり、明るい・暗いが存在し、大きい・小さいも。
そして、輝くもの・沈むもの。
対岸の木々は、美しい影の姿を纏ったシルエット。
日の光は水の動きに呼応し、数多くの光の集合体としてその力を伝えてきます。
また、
意識の外れになるような思いもよらない場所、手前最下部に、頭をほんの少し水面に出している部分には、空気と水が対話を楽しみ泡となり、そこが光り輝いていることにまで。


自分は何にフォーカスしているのでしょう。
俯瞰してみることで見えてくるものがあるはずです。
その中から、
これからの道を創るために輝くものを選ぶ。
それが自分の心に響くものである限り。

わたしが感じた心、「その一枚の中に込めた心」を受け止めていただける方々と、肩を張らず、ともに心から響き合える感動を共有してゆきたいと思っています。それが、望ましい未来を創り上げる方法だと思うからです。

数を追い、人と比べる必要性を捨てたときに、初めて見えてくる風景を。


わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

何となく訳もなく呼ばれた感覚

輝く光の大きな力 photo 宮本章光

何となく。
どこからともなく、呼ばれたような氣がする。
そんな瞬間はありませんか。

ふと振り返ると、この大きな力が降り注ぐ風景に。
ふとその方向に意識を向けると、この美しい眺めに出会います。


もういいでしょう。制限を取り払って。
正直に。
ストレートに。
その感覚に従ってみます。

自分で自分を苦しめる必要などまったく無かったことに。
自分から枠を作って心を押さえ込む必要など一切無かったことに。
何度も、氣がつくのです。
何度も何度も何度でも。

でも、生きるため。だとか、人目があるから。だとか。
「でも。」
初めての社会人生活で、真っ先に禁句として叩き込まれたワードでした。


もういいでしょう。枠組みを取り払って。
正直に。
まっすぐに。
その力を受け止めてみます。

どこからともなく、呼ばれた氣がする瞬間。
その場所は、これほどまでに力強く、すべてを包み込む暖かく明るい力に満ちていることがわかります。
ありがとうございます。

わたしが感じた心、「その一枚の中に込めた心」を受け止めていただける方々と、肩を張らず、ともに心から響き合える感動を共有してゆきたいと思っています。それが、望ましい未来を創り上げる方法だと思うからです。

数を追い、人と比べる必要性を捨てたときに、初めて見えてくる風景を。


わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

この瞬間の力を受け取る

この地に広がる無限の力を受け取る photo 宮本章光

定点観測。
いま、この瞬間に、この地に拡がる限りない大きな力。
地の大神に、水の女神に、意識を合わせてゆきます。
森羅万象・八百万の神に思いを馳せる、この国が誇る心を。


自分が感じるものを、自分が創り上げたい風景として描き上げてゆきます。

やたら重い、念を込めたような空気感。ここに溜まった自分に必要ない力を解放します。
自分がそう感じることによって、その通りの現実が出現する仕組みゆえ、その思考から離れます。

軽く。
でも決して力強さを忘れることなく。
明るく。
しかし決して尊厳を忘れることなく。

わたしが感じた心、「その一枚の中に込めた心」を受け止めていただける方々と、肩を張らず、ともに心から響き合える感動を共有してゆきたいと思っています。それが、望ましい未来を創り上げる方法だと思うからです。

数を追い、人と比べる必要性を捨てたときに、初めて見えてくる風景を。

わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

「蝉時雨」の言葉を残したこの国の先人

アブラゼミの休息 photo 宮本章光

蝉時雨(せみしぐれ)。

わたしが陳腐な解説をする必要は皆無でしょう。

「しぐれ」という響きと。
「その五音」のリズム感と。

時雨のごとく降り注ぐその合唱と。


この国の先人が残した、偉大な遺産。
この国の言葉。

その言葉が齎す響きと心で感じる波長が響き合います。
ありがとうございます。

「ありがとう」と感謝の心を贈り届ける

各地で切り倒される樹々 photo 宮本章光

各地、本当に多くの場所で、樹木が切り倒されています。
ええ、もちろん理由はあるようです。
「周辺環境に悪影響があるから処分する」
と、お役所や公的機関の名で張り紙が掲出されていることが大半かと思われます。

それなら、その悪い影響を及ぼすとされる周辺に何があるのか?

それは、
結構な頻度で、近く(周辺)に「監視カメラ」の存在が確認できます。

もう多くを語る必要はないでしょう。
この国・この世界が向かう先は決まっています。
これ以上、この波長が持つエネルギーに触れる必要がありませんので、離れます。
旧いレイヤーには、わたし(たち)が望む近未来の姿は存在していません。


ここで「けしからん!」と叫んでも世の中は変わりません。
ここで「桜さん、辛かったろう、苦しかったろう。」と悲嘆に暮れても何ら状況が変わることはありません。

取り組むことは、ただひとつ。
「いままで毎年、素晴らしいお花を咲かせてくれてありがとう。」
「わたしの歳よりも長い期間、この地に美しい感動を披露してくれありがとう。」
「桜さん、またいつか・どこかでお会いしましょう。ありがとう。」

心から、その氣持ちを送り届ける。
心からの感謝と多くの感動をいただいた御礼の氣を贈る。

いま求められているのは、この心から送り届ける感謝のエネルギー。
わたしはそのように考えています。

わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

響き合う

朝顔と会話する photo 宮本章光

会話する。
それぞれ種類の異なる植物たち。

同じ波長で響き合う。
それが会話だったことを。

異なる周波数は、異なるもの、として認めればそれでいい。
思い出しています。
再会しています。
響き合います。

わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

昆虫の完全変態のように抜け出してみる

昆虫の完全変態のように photo 宮本章光

自分で自分を乗り越える。
そのためには、蛹から成虫への「完全変態」が必要かもしれません。

肩を張らず、必要以上の制限を設けず。
そして、そのプロセスを楽しむ感覚を忘れず。

この延長線上に、自分自身から抜け出す感触があるはずです。


抜け出す瞬間は、あっけなくやってきます。
それは「強制終了」の合図かもしれませんし、大きな転換を示唆する啓示であるかもしれません。
味わった方々には、容易に理解できるでしょう。

但し、
機会そのものがスルッとやってくる割には、スルッと成虫にはなれない。
そこには、大きな苦しみと激しい痛みが同居していることも多いはず。
しかも、それは短時間ではなく、人生の大半を捧げる必要がある長きに渡る試練かもしれません。

ここで多くを語ることは避けますが、
わたし自身13〜15歳時に、激しい家庭内の混乱・困惑の渦に翻弄されました。
連日連夜、一切の家財、食器、あらゆるものが宙を舞い、破壊と崩壊が続いたのです。併せて叫び声と悲鳴が耳をつんざき、その轟音から逃れることができなかった日々。最後は…。
その日以来、これら忌まわしい記憶を「玉手箱」と称した心の奥底の不可侵領域に、二度と解かないと誓った紐で、固く固く縛ったのでした。

そして、45年以上が経ち、氣がつけば「玉手箱」は消滅していました。
いえ、正確には「もう中身を詳細に思い出すことができない」レベルにまでエネルギー量が減少した。が正しいでしょうか。

思えばそれ以降、ずっと蛹の中でドロドロに溶けた人生を重ねていたことを。
そしていま、ようやく羽化しつつあることを感じています。
完全変態への激しく長期に及んだ道のりは「ようやく終了」へと向かっています。

紆余曲折、冷たい板の上に伏すだけではなく、あるいはこの借り物の体を失う瀬戸際まで、自分から迫って行ったことまで。
今世・今生大半に及ぶ長大な時間をかけて蛹から完全変態を実現させる。
あまりにも膨大な体験が必要であったことに驚きを隠せません。


いま、こうした蛹から成虫への大きな一歩を、多くの方々が、その兆しとして「自分の直感」へ訴える強力な力として感じているはず。

せっかく羽化しても、美しい羽は、その直後にボロボロに傷んでしまうかもしれません。
けれど、蛹の中で学んだことは、永遠に失われることがないとされます。
だからこそ、
これほど貴重な体験をさせていただけたことに感謝の氣持ちが溢れ出るのです。
感謝とは、物質次元の欲望や自我を満たすために引き寄せるツールではありません。


自分で自分を「抜け出して」みる。
取るに足りない「苦しみの勲章」を握りしめることなく。
信じること。
歩みを止めないこと。
そして、
この先に続く道を、自らの心から生み出してゆくことを忘れず。

わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。
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