筆舌に尽くしがたい

筆舌に尽くしがたい
甚大な状況・甚だしい惨状を伝えるだけの負の方向性で使われることが多い言葉でしょうか。
けれど、
正反対に、言葉にならないレベルの感動を伝える手段としても存在しています。
その昔は、言葉を書き連ねることはしていませんでした。
その画から発せられる力を伝えるために。
筆舌に尽くしがたい。
そんなに大袈裟か・それほどまでにオーバーなことか。
それは、
受け取る人次第。
それは、
感じ方次第。
筆舌に尽くしがたいレベルの波動。
雨上がりの朝に。
参道の花韮。
心清ければ姿整う

「心暗きときは、すなわち遇うところことごとく禍なり
眼明らかなれば、途に触れて皆宝なり。」
心が曇っていると、出会うものすべてが不幸に見える。
しかし心が明るく澄んでいれば、道で触れるすべてが宝のように感じられる。
過去、カルチャーの写真・カメラ講座のクラスで実際に受けた質問があります。
雨や曇りの日でも「晴天の青空に映える桜と同じイメージを残したい」。
その方法は?その画像処理の方法は?
というものでした。
その言葉を受けた瞬間、数秒間フリーズしてしまった感覚をはっきりと記憶しています。
雨の日に青空はありません。無理です。
と、回答しかけて喉元で止まりました。
いい方に配慮が必要でした。少なくとも数十人のクラスで講師であるかぎりは。
雨の日には、雨だからこそ撮れる水滴や、寒の戻りのような冷たさを表現してみてはどうでしょうか。と。
心が清らかであれば、行い・表情・生き方が自然と整う。
それは、
何が何でも、晴れた空に咲き誇る花を撮らなければならない!という思い込み。
その呪縛は自分自身で自分を縛っているのではなかったか?ということ。
心が清いかどうか、とは少々異なる観点ではありますが、
その執着や呪縛を「自分から解放する」だけの余裕を心の中に持たなければ。というところでつながるように感じます。
そして、
いまここ、の在り方を見事に体現しているその姿だからこそ感動があり、且つ感謝が溢れるのだと。
顔は、在り方そのもの。
顔は、穏やかで優しい波動を持つ生命はそのように。そうでない波動を維持する者はそのように。
心清ければ、姿は整うのだと。
心清ければ、顔は美しくなるのだと。
顔は、その生命の本質そのものを表現しています。
顔は、その人が生きてきた魂の靈性そのもの。徳そのもの。無条件に滲み出る氣品そのもの。