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宮本章光/宮本陽の視点「開闢」And EM Official Blog

みやもとあきらのしてん AKIRA MIYAMOTO@And EM

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いつでもどこでも変わらない

何を選び何を生み出す photo 宮本章光

何を選び
何を生み出し
何を受け取るのか。

何を生み出し
何を受け入れ
何を拡大するのか。

何を受け入れ
何を広げ
何を顕現化させるのか。


激しく乱高下する波動と
激しく乱高下する意識と。

いつでもどこでも変わらないもの。
それは、
常に穏やかに、常に静かに、常に心やすく。



初めから優劣など無かった

いまを生きる photo 宮本章光

揉めさせ争わせて優劣をつける。
比較させ恐れと怨みを生み出し優越感を求める。

これまでの世の中の仕組みでした。
それはそれで必要だったから存在し、その体験を通して「これは間違いだった」と氣づくために存在していたエネルギーでした。


それらこの先に不要なもの。
これらこの先に求められないもの。
そういったものを手放し、この先の道を創り上げます。

この時に「どうでもいい」「もうこだわらない」「関心も熱意も消え失せた」といった感覚を強烈に感じます。
それは無氣力ではありませんし、老害でもありません。
もう歳をとったから氣力がなくなり衰えた、などと勘違いをしないことです。

ここを間違っている人・取り違えている人。限りなく多数。
そして、間違うのは「旧い周波数をベース」にした思考の延長線上にある感覚を残している証明でもあるでしょう。


年寄りは、何もやる氣がなくなってお払い箱だ。
年配者は、世の中の害にしかならない厄介者・お荷物だ。
そんな風潮。
実際に役に立たないと感じるようなAndroid(スマホOSのことではなくこの世に存在する肉体を持ったbotのこと)も多数存在するので否定はしませんしできませんが。

ええ、ですがそれは「そう考える人自身」が、そのように生み出している自分のオーダーした視界の中で見えている姿にすぎないのだ、と氣づいていない。大変危ない状態かと感じています。


親子関係では、頻繁にそうした感情・感覚に囚われます。
実際のところ、
わたし自身の父親の例を思い返してみますと、最期の数年間はもはや寝たきりに近い状態でした。
季節の認識はおろか、自分の住んでいた場所も覚えておらず、もちろん満足に文字も書けず、しっかりと話すことさえ激しく苦労する状況。
そして、
その姿を見ている「わたし自身の感覚」は、もう終わりやな、よくもここまで劣化したもんだ。と、上から見下した感覚でしかなかったことです。
ただひたすら厄介者という本当に失礼な感覚ばかり。
それ以外の、過去に与えてもらったさまざまなことに対する感謝の氣持ちなど微塵も持っていなかったこと。

業務繁忙期に絡むように狙ったように問題が起き、そのたびに激しく負のエネルギーに囚われ続ける日々。
(まさしく、その周波数を自分が選択しているから、そのように顕現化したという大法則そのまま。)
その時・その瞬間には仕方なかった、という言い訳も、自分自身が体験したので肯定し擁護したい氣持ちはいまも残っています。


しかしながら、年月が流れ関係がスライドしてゆきます。
父と自分、から、自分と自分のこどもたち。という構図へと。

まさに、同じエネルギーがそこに渦巻いていることを強烈に感じます。
厄介者でしかない。面倒なことしか言わん。もう終わりやな。といったようなエネルギーが極めて強く発せられていることがありありと伝わってきます。


世の中・この地のエネルギー波動が大きく変化・上昇したからでしょう。
父親のときとは比較にならないレベルで、相手の感情やその瞬間の思考が「目に見えるかのように」感じられる時代に入りました。
ここで学ぶべきことは、

「自分がそう思うからこそ、そのように顕現化する。」という、ついに物理法則としても証明されたその仕組みです。
使い古された文言で言うのなら「思考は現実化する」です。
鬱陶しい、面倒しかない。そう思うからその現実を自分自身で創り上げしまっているのだと。


年齢とともに身体的機能は低下してしまいます。それは当然のこと。
(その時になれば、ご自身も必ず向き合い受け入れなければならない道です。)
ですが、
それ以外に「蓄積され経験から得た智慧や含蓄のある言葉・知識」は、決して価値がない、と切って捨て去るものではありません。
こうした蓄積、こうした先人からの積み重ねが、この国ならではの叡智としていまに生きていること。
ようやく氣づきはじめた人が増えているはずです。

そして、個々人の精神性を高め深めるに従って、優劣・上下といったような、比較することで「見下す」ようなエネルギーに囚われてはならないこと。
それは、よいかダメなのか、といったような次元の感覚ではなくて、
単純に、すべては同列ですべてが同一である、という究極の感覚に近づいてゆくことです。

行き着くところ、
初めから優劣など存在していなかった、と氣がつく状況に至ります。


氣力が失せる...のは、もはやどうでもよい優劣や比較によって上下を語る古き感覚から卒業したから。
どうでもよい...のは、そのレベルの感覚がこの先には必要とされないから。
そこに至ったからこそです。
そして、ここにいま存在するだけで価値がある、といった在り方に到達できたからです。

学びは永遠に。その本質を学び続けます。
何もかも入れ子になった構造で、時間とともにその構図がスライドしながら、さまざまに体験させていただけること。
その仕組みそのものに感謝を捧げるタイミングを迎えたことを感じています。




ええかっこしいの終焉

整えて春を待つ photo 宮本章光

ええかっこしい。
その存在価値が終わりを迎えたように感じます。

それは関西独特の言葉(表現)かと思われますが、人前で格好つけて自分をよく見せようとする態度のことを指しています。
ええかっこすんな。とか、
ええかっこしい、は恥ずかしいわな。
といった感じで使われるのはご存じのとおりです。


終わったように感じます。
それは、
伝わるから。伝わるようになってきたから。
ええかっこしているのは瞬時に伝わる世に変化してきたからでしょう。

見栄っ張り、という言葉でもわかりやすいかもしれません。
ハリボテの外見だけを取り繕っている姿が薄っぺらいのと同じで、内面が「磨かれていない」のに、立ち居振る舞いや発言に綺麗ごとだけを並べると、その瞬間に伝わります。
むしろ嫌悪感が強烈に生まれます。いえ、もう耐えられないレベル・瞬時に限界を超えます。


こうして、わたしたちは「伝わる」時代に移行してゆきます。
自らの精神性を自ら磨き続ける。より光り輝くように。
古い失敗も学びのためだったと感謝とともに。

ええかっこしいの終焉。
そんな大舞台に乗っている現在を体験しています。




目に見えないところで整える

見えないところを整える photo 宮本章光

「整える」。

土用期間に派手に走らず整えてきました。
そして立春を越えて新たな季節を迎えました。
しかし、
整えるといった所作が不要になったわけではありません。

整えるのは、目に見えないエネルギー波動を望む周波数と合致させるために。
整えるのは、目に見えない部分で熟成させ準備する目的でも。


なるほど、立春を越えたからどうだ・何だ!と叫ぶのはビギナーすぎるよね、という論調も納得できます。
まさに、目に見えない。とはそういった観点からも必要な感覚でしょう。

目に見えない、声にださない。
でも、そういった区切り・節はしっかりと理解し心得て日々を過ごすことの大切さを思い知ります。

土の中でも、硬い蕾の内側でも、しっかりと充電され熟成されていることを知ればこそ、日々継続して「整える」ことの大切さを再認識します。
そして、
区切りを越えながら、アナログ的変遷をたどり拡大してゆくさまを肌で感じとります。

目に見えないところで整える。
望む機会に望む結果を得るために。




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