諸行無常

この地においては、万物は永遠の存在ではありません。
寿命があるから、いまここに生きることを大切にできるという感覚を大切に。
「明日死ぬかのように生きよ。永遠に生きるかのように学べ」
という名言があります。
これは、
「生きる」ことの限界(物理実体としての体は永遠ではない)を意識することで、今日という日を大切にすることを教えているはずです。
それなのに、
フワフワ系の世界・語りで必ず出現するワードがあります。
「魂の存在は永遠だ」
「学びは永遠に続く」
一見(一聴すると)、美しく響きます。
語られていることは正しいでしょう。どこにも間違いはありません。
けれど、
この世では、間違いなく100パーセントの存在がその個体としての物理実体を無くす(地へお返しする)機会がやってきます。
まさに、地に足をつけて。と言われる所以です。(いえ、だからふわふわ系なのかも?...。)
魂は永遠であることは正しい。学びも永遠です。いずれも正しい。
だからこそ、
「いまを精一杯生きる」
ここが抜け落ちていませんか。です。ここを抜きにしていては本末転倒です。
永遠であることを叫び続けていても、どこにも成長が叶わないかもしれません。
永遠だという真実を掲げているだけでは、一向に進化も成熟も実現できない可能性さえあるかもしれません。
いまを目一杯生きること。
いまここの瞬間を正しく認識すること。
諸行無常。
それは、単に安泰な状況(権力者が力を維持する)はいつまでも続かない。という内容が語られているだけでなく、変化するからこそ、私たちは新しくやり直せると捉える観点をも忘れてはならないこと。
それは、
負の波長に苛まれても立ち上がり前向きに生きよ、という励ましのエネルギーが含まれているとともに、
そのためには、
「いま・この瞬間を目一杯生きる」
「いま・ここに与えられている環境を精一杯活かし続ける」こと。
だからこそ「在り方」を「整える」必要があるのではないでしょうか。
芽吹くまで

もうまもなく芽吹く。
あと少しで花開く。
単なる待ち時間を流すのではなく。
単なる空白の時間を消費するのではなく。
流れに身を任せる。
それは、
旧いエネルギーに翻弄され流されてしまうことではなく。
現実とは、
描き出した心の波動が顕現化したもの。
現実とは、
抱いた心の波長に合致したものが結晶化したもの。
もうまもなく花開く。
あと少しで美しく謳歌する時を迎える。
エネルギーの転換点は「不安定になる」とされます。
「留」の状態。
その瞬間まで、静かに在り方を整えて。
ありがとうございます。
[やり方]ではなく[在り方]

先般、
Link[何が起きるか]ではなく[今どう在るか]でも触れていました。
「どう在るか。」
究極の心の使いこなしだと感じます。
そして、どうしても「やり方」に固執してしまう長年の教育洗脳による思考のクセ。
---それならどうすればいいのか?
---それなら何をやればいいのか?
やり方へフォーカスしてしまう。まさにクセそのもの。
モノが形をとって存在しているこの地だから当然と言えば当然ではあります。
何かを変える。
それはモノでなくても、意識でも。
でも、やっぱりそれは「やり方」に対して持っている意識なのだと。
「やり方」ではなくて「在り方」。
あり方とは、
どういった周波数の状態でいま自分が存在しているか。
どのような周波数に合致しているか。
冬至だから...春分だから...。
そして、何かあるごとに「やり方」を探し回る。
次には、夏至だから・秋分だから...。でしょうか。
まるで永遠のスパイラル。
やり方に腐心し、やり方を探し求め、やり方に対して試行錯誤している限り、永遠に答えが導き出せないはずです。
やり方を探す限り、
やり方に対して理解できていない「不足と欠乏」の周波数に合致しているからです。
そして、
その答えそのものさえも、導く必要がないことにまで理解が至った瞬間に、あり方の本質に到達できるはずです。
それがあり方。
[やり方]ではなく[在り方]。
伝わるでしょうか。この感覚。
同じ感覚を共有できる方々はいらっしゃるでしょうか。
追いかけず感性を磨く

春分のニュートラルポイントを超えました。
それは客観指標である宇宙カレンダーの重要な転換点でした。
明暗・善悪・表裏が完全に均衡した、プラスでもなくマイナスでもない「ゼロの状態=白紙の状態」を越えたことを示しています。
わかりやすい言葉で語るのなら、
昼と夜の長さが同じ瞬間(=完全均衡状態)を越えたこの先は、昼の長さが増えてゆく期間。
春分を超えたから、この先は昼の時間が長くなる状態へ移行する。
そういった方向性を持った「絵が描き始められた」ことを示しています。
その本質は、
自らの心が何を選んだかによって、その周波数に合致したものが顕現化する。とも言い換えることができるでしょう。
何を描くのか。どちらを選ぶのか。
まさに、選んだ通りに現実となってゆきます。
小学生の頃まで、実家には木瓜(ぼけ)の木が植えられていました。
このような白色が混ざった種ではなく、真紅一色の深い赤色の花を毎年披露してくれました。
植物の姿からは、常に何かを選択して結果を導くことを学び得ます。
最適な時期・瞬間(旬)を選び美しく花開く。それも選択の一つであることを。
花を咲かせない選択もあるはずですから。
情報という名のノイズを追いかけず、季節を感じ・美しさに共鳴できる感性を磨いてゆきます。
それがこの先の大きな流れの波長だからです。
まさに昼の長さが長くなるフェーズに移行したと同じように、その周波数に抗わずに。
待ち続けず。
流れに逆らわず。
自ら描き、生み出してゆきます。
そのために必要な感性を磨くことを忘れず。