心清ければ姿整う

「心暗きときは、すなわち遇うところことごとく禍なり
眼明らかなれば、途に触れて皆宝なり。」
心が曇っていると、出会うものすべてが不幸に見える。
しかし心が明るく澄んでいれば、道で触れるすべてが宝のように感じられる。
過去、カルチャーの写真・カメラ講座のクラスで実際に受けた質問があります。
雨や曇りの日でも「晴天の青空に映える桜と同じイメージを残したい」。
その方法は?その画像処理の方法は?
というものでした。
その言葉を受けた瞬間、数秒間フリーズしてしまった感覚をはっきりと記憶しています。
雨の日に青空はありません。無理です。
と、回答しかけて喉元で止まりました。
いい方に配慮が必要でした。少なくとも数十人のクラスで講師であるかぎりは。
雨の日には、雨だからこそ撮れる水滴や、寒の戻りのような冷たさを表現してみてはどうでしょうか。と。
心が清らかであれば、行い・表情・生き方が自然と整う。
それは、
何が何でも、晴れた空に咲き誇る花を撮らなければならない!という思い込み。
その呪縛は自分自身で自分を縛っているのではなかったか?ということ。
心が清いかどうか、とは少々異なる観点ではありますが、
その執着や呪縛を「自分から解放する」だけの余裕を心の中に持たなければ。というところでつながるように感じます。
そして、
いまここ、の在り方を見事に体現しているその姿だからこそ感動があり、且つ感謝が溢れるのだと。
顔は、在り方そのもの。
顔は、穏やかで優しい波動を持つ生命はそのように。そうでない波動を維持する者はそのように。
心清ければ、姿は整うのだと。
心清ければ、顔は美しくなるのだと。
顔は、その生命の本質そのものを表現しています。
顔は、その人が生きてきた魂の靈性そのもの。徳そのもの。無条件に滲み出る氣品そのもの。


