そのままで芸術作品

わざとデータを破壊するようなフィルター・エフェクトを掛けてみたり。
故意に色や階調を転ばせ破壊し、人目を引くことを良しとしてみたり。
終わりました。
続けたい人はいつまでも続ければいい。もう要りません・もう沢山。
精神性拡大と成長のための次のステップに進む意識があるなら、
---○○がちょっと不本意だけど。
だとか、
---XXな環境だったからXXがこうなってしまったけど。
最たるものは、
---ちょっと太陽が雲に隠れてしまったので...。
などど「言い訳を付け加えるクセ」。
このレイヤーから脱出すること。
くだらんクレーマー対策だったのかもしれません、ことの始まりは。
重箱の隅を突ついて負の力を撒き散らす人たちに、あらかじめ自分で「ここはどうだ・これはこうだ」と至らぬ点を認識しており、それを知った上でwebに(SNSに)出してるんだぞ。と。
その昔、鉄道を被写体として追っていた時期がありました。
わたしの撮った図柄は、私鉄のプリペイドカードで何度か世に流通しました。ご存じの方もおありでしょう。
その後、一切その世界からは離れました。
そして、
SNSから完全に距離を取って離れたのも、その界隈で語られる上記のような「但し書き:もっと正確に言うのなら言い訳」を、自分自身の絵につける人たちが溢れ返ったこと。
純粋に好きな対象、として楽しむ人たちが傍に追いやられ、声と態度だけデカい輩が幅を利かせるようになったこと。
そして、何でもかんでも言い訳・但し書きをするような姿勢に辟易したこと。
そこに充満する負の力に触れたくない一心で、もう決して戻れないことを理解しました。
言い訳のクセから離れてはじめて、その後で見えてくるもの。
それは、
「何も語らずともそのままで芸術作品」だということ。
画像処理を行なったかどうか(触らずオリジナルであることが至上などどいう宗教さえありました:これももはや過去の遺物)などという、言い訳の延長線上にある旧来の物質次元的観点ではなく、その被写体が放つ、そこに内包され発せられるエネルギーを感じてみます。
この時点で、感謝が溢れる感覚に到達するはずです。
誰も言い訳しません。誰も褒めてくれることもありません。
けれど、その美しい姿を目一杯披露する生命存在。
美しいものを美しいと語れる世の中へ。
感謝が溢れる世の中へ。
わたしたちは、そのままで極めて美しい芸術作品に囲まれていることを知ります。
2024/12/14(Sat) 12:00:37 | New Age