違和感をスルーした結果を受け取っている

目に見えないもの。
その重要性に氣がついた人たちが、ある程度の数として増えている様子が伝わってきます。
先の記事で触れいますようなポジティブ側のエネルギーは「やんわり」とした雰囲気で「氣がする」といった感触にとどまるため「氣付かずにスルー」してしまうのかもしれません。
では、
その反対側、ネガ方向のエネルギーはどうでしょうか。
これは違和感として大きなフリクションを感じるのです。間違いなく。
ポジティブ方向の波長が柔らかく氣付かずにスルーしてしまうのなら、ネガティブ方向の大きな違和感を感じれば、それをしっかりと捉えて認識することが必要でしょう。
そうすればこそ、道を誤ることはないのでは?ということなのです。
---どうしてこんな目に遭うのか!
---どうして酷い体験ばかりが続くのか!
そう語る前に、自分が行った過去の因果をよく振り返ることが必要ではないかなと。
まずは、因果応報の仕組みに従って「自分の蒔いた種が実をつけた」ことを棚に上げ、クレームを叫ぶのは恥ずかしい限りです。
そして、分岐点・選択が必要な無数にあるそのタイミングにおいて、選択を誤った自分が下した判断、それを忘れ去って、なぜ苦しい現実ばかりが起きるんだ!と怒るのも、ビギナーすぎる行為に違いありません。
よく語られる例えがあります。
オフィスを契約する時に、実地に訪れたその部屋に「何か違和感を感じる」「どこか重い雰囲気がある」というような場合、それが「ここはやめておきなさい、との導きである。」とされます。
明確に感じるわけです。違和感の場合は。
また、何らかの障害が起き、乗車予定だった列車や飛行機に乗り遅れる。そんな事例もよく引き合いに上がってきます。
その直後、当初の乗車予定だった交通機関が事故に見舞われる、だとか激しくトラブルに巻き込まれる。
結果として、遅れたことが幸いだったという話もよく語られます。
この場合には、遅れたことに「激しく違和感」を感じないものです。
予定が乱れたことに関して苛立ちを感じたとしても、それは「違和感とは異なる」ものです。
このように、
違和感、これこそが「センサーが麻痺している人間であっても」明確に感じるものだと判ります。
ところが、強く押してくるこの違和感をスルーしてしまうのです。多くの人は。
何でもかんでも、氣のせい・氣のせい...と、物質至上の教育洗脳に染まった頭は、それを見極めることができないわけです。
--災害に遭う。
--事故に見舞われる。
--トラブルに巻き込まれる。
それは、
「違和感」をスルーし無視し続けた結果が、そこに「実をつけた」ということなのです。
その果実が生まれた原因は、自らがタネを蒔いたから。
そのタネを蒔くと事故を生みますよ。と「違和感」というエネルギーとして助言が降りてきているにもかかわらず。
どうして?
なぜ?
原因は、自分が蒔いたタネ。
立派に実を結びましたでしょう。
とりわけ、3年前の判断が、ここに来て見事にネガな果実となっている事例が溢れかえっています。
違和感をスルーし続けた結果を、いま、受け取っているのです。
それならば、
次は、どんなタネを蒔きどのように育ててゆきましょうか。
こういうことだと思うのです。
2024/07/02(Tue) 19:49:28 | New Age