嫌いはええんや、けど、苦手はあかん。

立葵の見事な花。
この大きさと大胆なさまは、確かに圧倒されます。
季節を、この瞬間を謳歌している感覚が伝わってきます。
言葉を変えると、ある意味では大味な感触も感じます。
ビッグマウス的な感覚さえも。
けれど、
それが「個性」であり個々のキャラクター。
みんなが同じでなくてはならない。
という全体主義へ向かうための教育洗脳が抜けたかどうか、そんなチェックシートの役目も担ってくれます。
過去、企業在籍・会社勤めの時代、机を並べた上司が常に口にした、ある言葉。
「嫌いはええんや、けど、苦手はあかん。」と。
なるほど。
今でも通用するとともに、いまこそ理解すべき含蓄のある発言です。
みんな違って当然。
もちろん、好き嫌いもあってしかるべき。
ところが、全体主義は、この段階をまずスポイルする。骨抜きにする。
そして、従順な金太郎アメの大量生産に着手してきたことが判ります。
他方、苦手意識が進化と成長を「自分でストップさせてしまう」。
その弊害を見事に語り、組織企業人としての心構えを伝えてくれていたことに氣がつきます。
好き嫌いを否定し、個性を否定し、お手てつないでみんなで一等賞...。
こうして全体主義に持ち込み、逆に苦手意識の克服が必要、と看板を掲げその波動を永久に維持し続ける方向に誘導する。それが旧いレイヤーの教育。
もう遠い過去になりました。
卒業できましたでしょうか。
立葵の花が語るそのエネルギーから、さまざまな想念創出に派生してゆきます。
その力を生み出した責任は「自分自身」。
行動に責任を持つ、といった物理次元の社会から、心に描くもの・心に抱くエネルギーに対して責任を持つ世界へと。
2024/05/21(Tue) 11:25:04 | New Age